MADSの研究船、メインラボラトリー。
清潔な白衣に身を包んだ科学者たちが、未来を語り、人類の進歩のために知恵を絞る。窓の外には極寒の海が広がっているというのに、この部屋だけはベガパンクさんが開発した暖房システムによって、春のような陽気に包まれていた。
「……〇〇、この回路のバイパス、君が考えたのかい? 素晴らしい。エネルギーのロスを最小限に抑えられる。」
ベガパンクさんが、私の手元の設計図を覗き込んで目を細めた。巨大な頭を揺らし、彼は心底嬉しそうに私の頭を撫でる。その手は分厚く、陽だまりのような暖かさがあった。
「ありがとう、ございます」
私は精一杯の微笑みを返す。
ベガパンクさんは、私の中に「創造」を見ている。
けれど、私の中にあるのは、積み上げられた積み木を、一番下から蹴り飛ばしてみたいというような、救いようのない破壊の衝動だった。
ここにいる誰もが、私をベガパンクさんの思想を継ぐものだと思っている。
『将来は立派な平和の科学者になるんだろう』
『君のような純粋な子が、これからの世界を救うんだ』
かけられる言葉の一つひとつが、まるで純白の真綿のように私の首をじわじわと絞めていく。
(……苦しい。ここは、明るすぎる)
私が本当に美しいと思ったのは、あのゴミ山で見つけた、消えゆく間際の禍々しい光だった。
ふと、ラボの入り口に人影が見えた。
スラリとした、長身のシルエット。白い煙を纏い、周囲の科学者たちを見下すような傲慢な足取りで入ってきたのは、シーザーさんだった。
彼はベガパンクさんに何か報告をするために近づいてきたようだが、すれ違いざま、私の机の横でほんの一瞬だけ足を止めた。
「…………」
目が合う。
黙っていれば彫刻のように整ったその顔に、歪な笑みが浮かんだ。
彼は私の手元にある設計図を一瞥し、鼻で笑う。
『── シュロロロ。お前、いつまで良い子のフリをしてるつもりだ?』
声には出さない。けれど、彼の鋭い視線は確かにそう告げていた。
彼は知っている。私の内側に渦巻く澱みを。
「あぁ、シーザー。ちょうどよかった、この資料なんだが……」
ベガパンクさんが彼に声をかける。シーザーさんは瞬時に有能な科学者の顔を作り、いつもの軽薄な態度で返事を始めた。
ベガパンクさんは隣で、未来を救う「光」の話を続けている。
(……シーザーさんは、知っている)
私がベガパンクさんの期待するような平和で優しい科学に吐き気を催していることも。
自分の才能が、誰かを救うためではなく、もっと残酷で美しいもののために震えていることも。
この真っ白なラボの誰もが気づかない私の本性を、あの男だけが、当然のことのように暴いてみせた。
「……〇〇? 顔色が悪いね。少し休んだほうがいい」
ベガパンクさんが心配そうに私の顔を覗き込む。その慈愛に満ちた瞳が、今は鋭い刃のように私の胸を突き刺す。
ごめんなさい、ベガパンクさん。
私は、あなたの期待には応えられない。
◆◆◆
夜の海は、すべてを飲み込むほどに深く、暗い。甲板に出ると、凍てつくような潮風が容赦なく頬を叩いた。MADSの研究船が波を切り進むたび、巨大な鉄の塊が呻き声を上げる。
私は手すりにしがみつき、暗い水平線を見つめていた。
「……シュロロロ! こんなところでなにしている。心中でもするつもりか?」
不意に、背後から突き刺さるような声が響く。
「……シーザー、さん」
「あの林檎頭の隣で良い子を演じるのは、そんなに骨が折れるかァ? お前、さっきから今にも死にそうなツラしてやがるぜ」
シーザーさんは、私の隣で手すりに肘をついた。見上げるほど高い身長。彫りの深い、整いすぎた横顔。風に乱れる髪が、月光を反射して青白く光っている。
「シュロロロ! あいつの掲げる科学の平和的利用なんてのは、結局のところただの綺麗事だ。あいつは科学の本質からわざと目を逸らしてやがる。……お前みたいな不純物が、その隣に一生並んでいられると思ってたのか?」
その言葉は、私の胸の最も柔らかい部分を無遠慮に抉った。
シーザーさんが私の方へ体を向けた。大きな影が、私を完全に覆い隠す。彼は私の顎を持ち上げ、その鋭い瞳で私の奥底を覗き込んできた。
「俺が教えてやる」
「あいつが禁忌だと蓋をして、見ようともしなかった本物の高み。……お前のその澱んだ頭が、ずっと欲しがっていた答えだ」
シーザーさんの指先が、私の頬をゆっくりとなぞり、耳たぶに触れる。
冷たいはずの指なのに、触れられた場所から熱が広がっていく。顔が、頭が良くて、そして救いようのない悪意を抱えた大人。
選択肢なんて、最初から無かったのかもしれない。
私は、ベガパンクさんの期待に本当の意味で応えられない自分に絶望していた。けれど、目の前のこの男は、その絶望を「才能」だと呼んだのだ。
「……知りたいです。ベガパンクさんが、教えてくれないこと」
絞り出すような私の声を聞いて、シーザーさんはこれ以上ないほど満足げに、歪な笑みを深めた。
「いい返事だ。〇〇」
彼は私の手を力強く引き、迷いのない足取りで船内の影へと歩き出した。
握られた手の大きさに、彼特有の薬品の匂いに。
私は、自分の指先が甘やかな期待で震えているのを隠せなかった。
[newpage]
シーザーさんの個人研究室は、船内の最も奥まった場所にあった。重厚な金属の扉が開いた瞬間、逃げ場のない薬品の匂いが私の肺を支配した。
ベガパンクさんのラボが「白」なら、ここは「紫」だ。薄暗い照明の下で、フラスコの中の液体が怪しく泡立ち、複雑なパイプからは時折、毒々しい色の蒸気が噴き出している。
「……座れ。あいつが欠陥品だと捨てた理論を、俺がどう完成させたか拝ませてやる。シュロロロ!」
シーザーさんは椅子を蹴るようにして私に促すと、自分は背後のデスクに腰掛け、長い足を組んだ。
彼が見せてきたのは、ベガパンクさんの既存の計算式を、殺戮用に改造した歪な設計図だった。副作用を無視し、安定性を捨てて、ただ「出力」と「致死性」だけを極限まで引き上げた── 美しくも醜い、禁忌の科学。
「……これ、は……ベガパンクさんの……」
「そうだ。あいつは安全だの倫理だのと抜かして、エネルギーの牙を抜いちまう。だが、本来の科学ってのは、こういう獰猛なもんだろ?」
シーザーさんは私の背後に回り込み、覆いかぶさるようにしてデスクに両手をついた。逃げ場を奪うように、彼の長い腕が私の左右を塞ぐ。
「── っ、」
「夜中に男の部屋にのこのこやって来るんだ。……お前、自分が今からどうされるか、分かってて来たんだよなァ?」
耳元で弾ける、低く湿った声。彼の手が私の白衣のボタンに指をかけ、弄ぶように一つ、また一つと外していく。
「……っ、あ……」
剥き出しの征服欲に満ちた瞳に見下ろされ、鎖骨に熱い唇を寄せられた瞬間、私はたまらず声を漏らした。
シーザーさんの手が、私の腰へと滑り落ちた、その時。
「……あの、シーザーさん」
「なんだァ? 今更怖じ気づいたか?」
「いえ、一応……言っておこうと思って」
私は、彼の胸板を軽く押し返して、努めて冷静に告げた。
「私、まだ13歳なので」
「…………は?」
シーザーさんの動きが物理的に止まった。さっきまで獲物を狙う肉食獣のようだった瞳が点になる。彼は私の顔と、自分の手を交互に見つめ、それから「嘘だろ」と言いたげに頬を引き攣らせた。
(……この人、やっぱり気づいてなかったの?)
「じゅう……さん……? ……おい、お前、この間の論文の執筆者は……」
「私です」
「ベガパンクと対等に議論してたあの設計図は……」
「私が書きました」
「…………」
シーザーさんは音もなく私から飛び退くと、わざとらしく空咳をした。
30歳の天才科学者のプライドが今、「未成年者○行」という名の法と倫理の壁に衝突している。
「シュ、シュロロロ……! 当たり前だろ、分かってたぜ! 俺がそんなガキに本気になるわけねェだろォ!」
彼は窓の方を向き、必死に平然を装う。組んだ腕が、隠しきれずにわずかに震えているのを私は見逃さなかった。
「……手が、震えてますよ」
「黙れ! これは実験のしすぎだ! いいか、俺が欲しいのはお前の『脳』だ! こんな貧相な身体に欲情するほど、俺は飢えてねェんだよ!」
彼は一度もこちらを見ようとはせず、追い払うように手を振った。
「帰れ! 13歳なら……その、なんだ、カルシウムでも摂って寝ろ! 宿題でもしてろ! シュロロロ!」
そう捨て台詞を残して、彼は奥の実験台へ逃げるように去っていった。
私は、外されたままのボタンを留めながら、少しだけ寂しく、けれどおかしくてたまらなくなった。
廊下に出ると、夜の風が熱を帯びた肌を冷やしていく。あのシーザーさんを怯ませた事実と、彼が残した薬品の匂い。
私は、あの高慢な男を一瞬でも狼狽えさせたのだという奇妙な達成感に、小さく口角を上げた。