喉の奥にまだ、昨夜の嫌な苦味が残っている気がした。
研究所の廊下を歩く私の足取りはいつも通りに真っ直ぐだが、本当は今も心臓が痛いほど脈打っているし、彼に会うのが怖い。けれど、露骨に態度を変えて冷たくしたり避けたりすれば、それは「私はあなたに傷つけられました」と白旗を上げるようなものだ。
大好きな人にそんな惨めな姿は見せたくないという、私の精一杯のプライドだけで立っていた。
「おはようございます、シーザーさん」
デスクにやってきたシーザーさんに、私はいつも通り穏やかに微笑んで挨拶をする。その瞬間、シーザーさんの顔から一瞬だけ表情が消えたような気がした。
「……シュロロ、ロ……」
ひどくぎこちない、掠れた含み笑いが彼の口から漏れる。
シーザーさんは無言のまま私のデスクの端を細い指でトントン、と規則的に叩いた。その目は私の顔を、まるで未知の不可解なデータでも分析するかのような異様な鋭さで凝視している。
「おい、〇〇…… 第3実験室のガスの数値を検算しろ。付いてきやがれ」
シーザーさんの声はいつもよりずっと低く、静かだった。
周囲の人間にはただの日常的な業務命令にしか聞こえていないだろう。けれど掴まれた私の手首には、指の形が白く残るほどの尋常ではない力が込められていた。
静まり返った第3隔離実験室。重い鉄の扉が静かに閉まり、カチャリと鍵の閉まる音が室内に虚しく響く。
「……あの、シーザーさん。ガスの数値なら、もう提出してありますけれど」
振り返った瞬間、シーザーさんは私を壁際に追い詰めた。彼は奥歯をギリ、と不快そうに鳴らし、顔を醜く歪めて私を見下ろしている。思わず体が凍りつく。前髪の隙間から覗くその目は、信じられないほどの焦燥で血走り、異様な鋭さで私を凝視していた。
(なんで、この人はこんなに怒りを含んだ目で私を見てるの……?)
私からすれば、彼は何でも知っている大人の男だ。昨夜の仕打ちだって、彼にとってはただの気まぐれで行ったことのはずなのに、なぜ翌朝になって、彼の方がこんなに余裕をなくして私に詰め寄ってくるのか、その理由が本気で分からなかった。
「お前……何なんだよ、そのツラはァ……!!」
シーザーさんは声を荒らげる代わりに、地を這うような、押し殺した低い声で私をなじった。
「昨日あれだけ俺にめちゃくちゃにされて、ボロボロ泣いて縋り付いてきたガキが……! 何で翌朝になって、ンなすました顔してんだ!」
「え……?」
「怒るなり、睨むなり、泣きつくなり、何かしやがれってんだ!なに何事もなかったかのようにしてやがる…… まさかお前、昨夜の俺の行為が、その程度で流せる些細な出来事だったとでも言うつもりかァ!?」
掴まれた肩から伝わってくる、彼の手の震え。
絶望も怒りも見せない私のいつも通りな態度が、彼のプライドを根底から突き崩しているのだと悟った。私の平然とした顔一つをこの人は、「自分は無視された」「無価値だ」と勝手に自己否定に変換している。
あまりにも子供っぽくて、だけど恐ろしいほどに拗れた彼の異常性。私は掴まれた肩の痛みを忘れ、ただじっと彼を見つめ返した。
(── そうか。私は、ただ普通にしていればいいのか)
本当は今すぐ泣き出してしまいたいくらい怖い。
── けれど彼が私の態度にここまで翻弄されて、勝手に焦ってくれているのなら。
私は痛む心を仮面の下に隠したまま、大好きな人の、見たこともないほど余裕のない顔を、静かに睨み据えた。
◆◆◆
私が無言のまま、真っ直ぐにその瞳を見つめ返していると、シーザーさんの呼吸が微かに乱れた。
掴まれた肩に、ギリ、とさらに強い圧がかかる。痛い。けれど私は眉一つ動かさず、ただ静かに彼の焦燥を見つめ続けた。
見開かれた彼の目が小刻みに揺れている。
彼は私の瞳の奥から、自分が期待していたはずの怯えや、絶望や、あるいは激しい憎悪といったわかりやすい感情を必死に探そうとして── そして、そのどれも見つけられず、立ち尽くしていた。
「……チッ」
どれくらいの沈黙が流れただろう。先に限界を迎えたのは、シーザーさんの方だった。彼は忌々しそうに舌打ちをすると、弾かれたように私の肩から手を離す。行き場のなくなったその長い手は、泳ぐように自分の白衣のポケットへと突っ込まれた。
「……フン、いい度胸じゃねェか。お前がそのツラを崩さねェなら、どこまでその余裕が持つか試してやる。せいぜい途中で泣き言ナシでこなしてみせろよ」
吐き捨てるようなその声。いつもならもっと尊大で、周囲を見下すような響きがあるはずの彼の声が、今はどこか、突き放すような冷たさの中に、拒絶された子供のような焦りを隠しきれていなかった。
シーザーさんは私に背を向けると、長い白衣を大きく翻し、足早に実験室の出口へと向かう。重い鉄の扉が開き、彼が去っていく後ろ姿を、私はただ静かに見送った。
カチャン、と再び扉が閉まり、完全に一人きりになった室内。
「……っ、ふう、」
張り詰めていた緊張が解け、私の膝ががくがくと震え出した。壁に背中を預けたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
(怖かった……。本当に、怖かった……)
自分の両腕をきつく抱きしめる。心臓は今にも破裂しそうなほど脈打っていて、指先は冷たく震えていた。
けれど、涙は出なかった。私は自分の震える唇をそっと指でなぞる。
(でも……私の勝ち。シーザーさんは、私に手を出せなかった)
大好きな人に傷つけられた痛みは消えない。
けれど、彼が私の態度に翻弄されて、勝手に傷ついて、勝手に引き下がってくれた。その事実だけが、今の私を支える唯一の、そして最大の武器だった。
◆◆◆
「なあ、やっぱり最近シーザーのやつ、〇〇ちゃんに対する態度おかしくないか?」
「おかしいっていうか、異常だよ。ほら、2、3日前に、シーザーさんが〇〇ちゃんを実験室に連れて行った、あの日からさ……」
「あの日? 用事があっただけじゃないの? 」
「なんて言うか、あの時二人の間の空気が妙に張り詰めてた気がしてさ。現に、その日の午後からずーっと、彼女にだけ嫌がらせみたいに膨大なデータを押し付けてるだろ」
「30過ぎた大人の男が、16歳の女の子相手にムキになって八つ当たりなんて…… いくら天才でも、流石に大人気ないわよね」
廊下の向こうから聞こえてくる研究員たちのひそひそ声を、私はデスクで淡々と書類をめくりながら、他人事のように聞き流していた。
あの日以来、私のデスクの上には、山積みにされている実験データと修正依頼の書類がそびえ立っている。
どれも、今日明日中に終わらせる必要のない、嫌がらせのためだけに集められたような雑用の山だ。
実験室で「どこまでその余裕が持つか試してやる」と吐き捨てて去っていったシーザーさんは、あの日以降、私と直接目を合わせようとはしなくなった。
その代わりこうした理不尽を積み上げて、私の仮面が剥がれるのを、今か今かと不機嫌な足音を響かせながら待っている。
「……〇〇ちゃん、本当に大丈夫? シーザーさん、今日もあんなにピリピリしてて…… それ、私たちも手伝おうか?」
隣の席の研究員が、心底気の毒そうな顔で私の顔を覗き込んできた。心配そうにブレイクタイム用のお菓子を差し出してくれる彼女に、私はいつも通り、完璧に穏やかな笑みを向ける。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。シーザーさんのご指示はすごく勉強になりますから」
(……絶対に、泣いてなんかやるもんか)
お菓子を口に運びながら、私は胸の奥で、ひっそりと熱い感情を燃やしていた。
大好きな人にこんな嫌がらせをされるのは、本当は悲しくて、今すぐ泣き叫びたいくらいに痛い。だけど、シーザーさんの思い通りになるのだけは、死んでも御免だ。
私を支配しようと必死になればなるほど、彼は自分で自分の首を絞めて、勝手に周囲から孤立していく。
ざまあみろ、と思う。
そうやって自分の心を強引に納得させないと、彼への大好きな気持ちと、悔しさで胸が張り裂けてしまいそうだった。
── そんな、張り詰めた静かな冷戦が始まって、一週間が経とうとしていた頃。
「ん? なんだか最近、研究室の空気がやけにピリピリしている気がする……?」
自分の研究以外には一切の興味を示さないはずの、世界最大の頭脳── ベガパンクさんが、ようやくその鈍感な首を傾げた。
ベガパンクさんのその視線が、私のデスクに山積みにされた書類へと向けられる。
「……シーザー、それはいくらなんでも、〇〇に任せる量ではないのではないかね? 私の大事な助手に、自分のところのデータ処理まで押し付けて負担を強いておらんか?」
核心を突いたベガパンクさんの言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
シーザーさんはピクリと肩を揺らすと、あからさまに不機嫌そうな顔でベガパンクさんを睨みつけた。
「アホ抜かせ、ベガパンク! 俺が直々に、このガキの能力に見合った高度な処理を叩き込んでやってるだけだ。……おい、〇〇! そうだよなァ!?」
私を脅すような、苛立ちの混じった視線が刺さる。ここで私が泣き言を言えば、彼の思うツボだ。
私はいつも通りの笑みをベガパンクさんに向けた。
「はい、ベガパンクさん。シーザーさんのご指示は細部まで徹底されていて、とても勉強になっています。ただ、少々データが膨大ですので、効率的な処理方法について、後ほどシーザーさんと少し擦り合わせをさせていただこうと思っていました」
「ふむ、それなら良いのだが…… あまり根を詰めんようにな」
ベガパンクが納得して研究室を出ていくと、室内に重苦しい沈黙が降りた。他の研究員たちも、関わり合いを避けるように次々と退室していく。
部屋にシーザーさんと二人きりになった瞬間、私はペンを置いた。そして静かに立ち上がり、彼のデスクへと歩み寄る。
「シーザーさん。今、お時間よろしいでしょうか」
シーザーさんは、私がついに限界を迎えて許しを請いに来たのだとでも思ったのだろう。椅子の背もたれに深く寄りかかり、傲慢に足を組んで私を見下ろした。
「シュロロロ!なんだ? 泣き言なら、今更聞くつもりはねェなァ!」
私は声を落とし、淡々と、しかし極めて冷ややかな正論を伝えた。
「この一週間でいただいたデータですが、こちらの3割は既に精査済み、残りの7割は今やる必要のない過去の遺物です。……正直に申し上げてもよろしいですか?」
「あ?」
「シーザーさんを深く尊敬していますし、大好きですが……いくらなんでもこの嫌がらせは、非効率的で行き過ぎています。ベガパンクさんにまで不審がられていますし、これ以上は研究所全体の損失になりかねません。子供じみた当て付けは、もうやめにしませんか」
感情を排した私の言葉に、シーザーさんの顔が見る見るうちに真っ赤に変わる。
私のすました仮面を剥ぎ取るつもりだったのに、逆に自分の子供じみた行動を正論で返され、言い返す言葉を無くしたのだろう。
彼はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、大人気なく喚き散らした。
「子供じみただと!? テメェ、世界一の天才であるこの俺様に向かって、何様だその口の利き方は!……だったらもういい! お前みたいな生意気なガキには、二度と俺のデータに触らせてやらねェよ!」
唾を飛ばさんばかりに怒鳴り、シーザーは私の手元から書類を乱暴にひったくった。
彼のけたたましい怒り声を聞きながら、私はすました顔で、心の中でだけ小さく息を吐く。
面倒くさくて、子供みたいで、本当に手がかかる人。
── でもだからこそ、ベガパンクさんへの劣等感以外で、この人をここまでムキにさせているのが自分だけだという事実は、やっぱり酷く心地が良かった。
◆◆◆
『二度と俺のデータに触らせねェ!』
その言葉通り次の日から、私はシーザーさんの仕事に関わることを一切禁じられた。
あの日以来、ただでさえ冷え切っていた二人の関係は、これで完全に断絶されたことになる。私はベガパンクさんの助手業務に専念し、淡々と仕事をこなした。
完全な冷戦状態になって数日経った夕方。
研究員たちが帰り静まり返った研究所の給湯室で私は一人、明日の書類を整理していた。
背後から、あからさまに殺気立った、重苦しい足音が近づいてくる。
振り返るより早く、視界が大きな影に覆われた。激しい音がして私の頭の横の壁に、大きな手が乱暴に突き立てられる。完全に退路を塞がれた。
覗き込んできたシーザーさんの顔は怒りと、私の「普通」を崩せないことへの屈辱で、見たこともないほど引き攣っている。
「おい……お前、随分と余裕しゃくしゃくじゃねェか……! 俺に二度と触るなと言われて、よくそんな澄ました顔で俺の前に立てるなァ!?」
どこまでも自意識過剰で、どこまでも往生際が悪い男。私は怯えを必死に隠し、冷ややかな視線を彼に返した。
「いえ。シーザーさんのご指示通り、お仕事に触らないようにしているだけですが。……明日の実験の準備がありますので、どいていただけますか」
その徹底した態度が引き金となり、シーザーさんの理性が内側から派手にぶっ飛ぶのが分かった。
「その澄ましたツラをやめろって言ってんだ!!! テメェ、俺をバカにして楽しんでんだろォ!!!」
「っ……!?」
叫ぼうとした瞬間、肺がちりちりと焼けるような激痛に襲われる。喉が引き攣り、声が出ない。
物理的な力ではない。この男は、私の周囲の酸素だけを完全に掌握し、奪い去ったのだ。
酸欠で視界がぐにゃりと歪み、私の身体から急速に力が抜けていく。床へ崩れ落ちそうになった私の身体を、シーザーさんの大きな腕が強引に抱き止めた。
「……シュロロロロ、口ほどにもねェ。どんなに澄ましたツラしてようが、俺のガス一つで簡単に息も出来なくなるくせに、生意気なんだよ……!」
遠のいていく意識の向こうで、耳元に彼の低く、勝ち誇ったような笑い声が響く。
私の自由を奪い、自分の支配下に置いたことに狂喜する彼の、やけに荒い呼吸が首筋を打った。