触手は、逃げる二人を執拗に追った。
亜衣の領巾の端をかすめ麻衣の赤い腕貫を舐める。かすめた箇所から、甘い痺れが染み広がった。その得体の知れない粘液からは、以前よりも遥かに濃い淫気が滲み出ていた。指先が、言うことを聞かなくなる。
「麻衣、触られちゃだめ!」
「わかってる……っ」
だが触手は数で圧した。亜衣の足首に一筋が絡みつく。引き剥がそうとした麻衣の手の甲にも、別の一筋が巻き付いた。手首の上を、触手がぬるりと這い上がる。二の腕に巻かれた領巾がはらりと靡いて逃れるが、触手はしつこく素肌を舐めていった。
「掴まれた…」
「麻衣!……くっ…放せ!」
亜衣の手には弓が麻衣の手には薙刀が、握られたままだった。だが触手は二人の腕を上からも下からも絡め取り、上体ごと縛り上げていく。亜衣は弦に指をかけることもできず、麻衣は柄を握り直すこともできない。武器は手の中にあるのに、振るえない。
「っ…何これ…」
麻衣の肌が粟立った。甘い香りが鼻の奥で弾ける。あの時の感覚が、下腹の奥でざわめいた。膝が笑うように震える。指先から力が抜け、握っていたものがこぼれ落ちそうになる。堪らず息を漏らしてしまう。
「あぁ……」
「くひひ。そうだ、そうやって喘げ」
松笠法師の声が、遠くで笑った。
触手の先が亜衣の短い裳裾をたくし上げる。亜衣の恥丘が晒される。禊を済ませたばかりの秘裂が、触手の粘液に濡れていく。別の一筋が、麻衣の長裳の奥をまさぐる。麻衣が、ひぃと啼いた。冷たいものが内腿を這い上がり、無毛の聖域をなぞる。花びらの間に潛ろうとした、まさにその瞬間――――
「させるものですか」
亜衣の瞳に光が宿った。怯まず、内側へ神通力を込める。触手の先端が、ぱちりと弾けた。稲妻が走る。青白い光が先端を打ち据え、ジュッと音を立てて萎えさせた。触手が、怯んだように後ずさる。
その光は麻衣の足首にも伝い、絡みつく触手を弾きほどく。呼応した麻衣の上体が、しなる。二の腕の領巾がはっと浮き上がり、長い後ろ髪が逆立つように舞った。うっすらと、肌にも青白い光が走る。
姉妹の神通力は、呼応する。
「今だわ!」
二人は跳んだ。石を投げてようやく届くほどの距離まで、下がった。二人は背中合わせになった。
「お姉ちゃん」
「ええ」
「……やる?」
「やるしかないでしょう」
二人の呼吸が重なった。亜衣と麻衣の瞳が同時に閉じられる。そして二人は、天高く舞い上がった。尾を引くふたりの領巾が折り重なって、美しい軌跡を作り出す。
「「羽衣、必殺!!」」
亜衣の弓が光を帯びた。麻衣の薙刀が光を帯びた。しかしその光は矢や刃のかたちをしていなかった。それは細長い梅の小枝のかたちに変化していた。
松笠法師の笑みが初めて、消えた。
「な……!この技は…!」
どんよりとした曇り空の真ん中に、太陽のように眩しい光が放たれる。亜衣と麻衣は、天女の舞そのものだった。空中で互いに交差し、折り重なるように回転を始める。
「「梅ふぶき!!」」
姉妹の声が渓谷に響いた瞬間、双つ天女の周りから季節外れの梅の花びらが一つ二つと咲き始めた。亜衣と麻衣の回転が速くなり、まるで竜巻のような嵐が吹き上がり始める。その風にのって無数の花びらが舞い散る。いや、散らされた。
突風とともに渓谷の空を埋め尽くすほどに舞い上がり、松笠法師の張った結界の膜に無数に突き刺さった。
結界の境界で火花が散り、膜が悲鳴を上げた。
結界の膜は、ガラスのように割られ、花びらが一斉に松笠法師を包み込む。黒い霧が噴き出した。松笠法師の姿が、輪郭から崩れ始める。胸の鱗が全て開き、赤い触手が煮詰まって蠢く。
「……ば…かな……!」
松笠法師の体が内側から白い花びらに食い破られていく。それは梅の花が雪のように降り積もる光景だった。美しく静かで残酷だった。
松笠法師は最後に、一度だけ姉妹を見た。
「ぐぬぬ………俺様の結界を破るとは……しかし…これで勝ったと思うなよ!」
そしてその体は白い花びらの奔流に呑まれ、跡形もなく消えた。
渓谷に、静寂が戻った。
「終わったの?」
麻衣が、荒い息をつきながら呟いた。梅の枝はいつの間にか元の薙刀に戻っていた。亜衣は、答えなかった。松笠法師が消えた場所をじっと見つめている。
「お姉ちゃん?」
「麻衣。下がって」
「え?」
「いいから、下がって!」
亜衣の声にはこれまでにない緊張があった。麻衣は、思わず一歩後ろに下がった。
その瞬間だった。渓谷の空気が、歪んだ。
松笠法師が消えた場所に黒い穴が開いた。穴の中から、別の気配が這い出てくる。松笠法師の気配は古く乾いていた。しかし、この気配は――新しく濡れていた。
「くひひひ……よく、やってくれたのう」
声が聞こえた。松笠法師の声ではない。もっと低く、もっと邪悪な声。
黒い穴の中から別の淫獣が姿を現した。それは先ほど倒した松笠法師の姿をしていた。しかしその姿は膜のような結界で薄く揺れている。
「この松笠法師は、ワシが作った
淫獣は、笑った。
「ワシの傀儡術に、まんまと引っかかったようじゃな。ぐひひ」
亜衣の弓が、震えた。麻衣の薙刀が震えた。
(やられた――)
麻衣の胸に、冷たいものが広がった。梅しぐれを幻影に使ってしまった。天神の奥義は神通力の消耗が激しく、一日に一度しか使えない。それは姉妹が亡き祖母の幻舟から受け継いできた教えだった。
(……でも、まだ、諦めない。天神様の御力はまだ残っている)
麻衣は薙刀を翳し直した。亜衣も新しい矢を弦に番える。二人の瞳にまだ光は消えていなかった。
(そうよ、麻衣。まだ戦える。そのために鍛えて来たのよ)
「行くわよ麻衣!」
「ええ、亜衣姉!」
しかし松笠法師に見える得体の知れない敵は姉妹に背を向けた。
「ふふ。強がりは見苦しいぞ、天津の牝どもよ。」
「強がりではないわ!」
亜衣が叫ぶ。しかし、神通力を使い果たした今、うかつには攻撃できない。
「くく、通力の尽きたお主らをここで嬲っても興醒めというもの。このワシと本気でやり合うには、お主らでは役不足じゃ。」
「なんですって?」
麻衣が薙刀を翳し直す。やはり、踏み込めない。
「お主らを痛めつけるのは、次の楽しみに取っておこうぞ。くひひ」
「くっ……!」
亜衣が、その淫魔の背中を睨む。敵の姿が、黒い穴の中へ溶けていった。
「せいぜい、この下郎と戯れておれ」
「うわっ!」
「ひゃっ!」
亜衣と麻衣の足元で何かが弾けた。
咄嗟に飛び上がった二人の視界に煙に包まれた何かが動いていた。
煙幕が引き、その全貌が現れた。
まるで芋虫のような、巨大な淫獣が現れていた。
黒い穴は、もうどこにもなかった。