「――亜衣様!――麻衣様!」
渓谷の下流から声が聞こえた。複数の足音が岩場を駆け下りてくる。亜衣は、霞む視界を上げた。見覚えのある巫女装束——―各々薙刀を手に持つ、子守衆の巫女達であった。
「……よかった……助けに来てくれた……」
亜衣の唇が、そう動いた。だが声にはならなかった。麻衣は、既に気を失っていた。
「あ、亜衣様…!…何という、お姿に……」
一人の巫女が駆け寄った。早苗である。
「早苗……さん……」
早苗と呼ばれた巫女は、羽織っていた天津流の千早を脱ぎ、未だ立てない亜衣の肩にかけてやる。
「私と麻衣は無事よ……それより、あの三人は?」
遠くから、巫女達の声がする。
「無事です。凛も、彩芽も、茉莉も。気を失っているだけですわ」
「よかった……」
亜衣は安堵の息をついた。仲間たちの出現で、力が回復するのを感じた。
駆けつけてくれた古参の巫女達は、倒れている巫女弟子達を介抱した。亜衣と麻衣は、何とか歩くことができた。
「亜衣様、麻衣様、ご無理をなさらずに」
「私と麻衣は大丈夫だわ。このくらいの瘴気なら、平気」
「その通り、ちょっと寒いけど大丈夫……へへ」
いつの間に元気を取り戻した妹が、けろっと笑う。
渓谷での救出は、夜を徹して行われた。天津姉妹と早苗たちが、負傷した三人の巫女を代わる代わる背負って天津屋敷にたどり着いたのは、東の空が白み始めた頃だった。道中生き残っていた二匹の邪鬼を退治した。
彩芽たち三人は、すぐに奥の間に運ばれ屋敷の古参巫女たちによって看病された。三人とも、破瓜の流血以外は、命に別状はなかった。だが熱にうなされた。
体の奥に、淫魔の触手が残した「淫毒」が、澱のように沈んでいる。三人とも布団の中で呻き続ける。松笠法師の臭気に侵されたことのある亜衣と麻衣は、彼女達が心配でならなかった。
「亜衣様、麻衣様、もうお休みになさってください。後はわたくしどもが」
早苗が言う。三十代にしてはまだ若々しい美貌を保つ古参巫女は、あの聖戦を生き残った内の一人であった。右目の眼帯は、その時負った傷で失明したためだ。
「麻衣。あなたも、休みなさい」
「お姉ちゃんもね」
「ええ。でも、その前に、体を清めたい」
「ほんと……まだ肌がベトベト……髪の毛だって……うぇえ」
「そうおっしゃると思って、湯をはっておりますよ、亜衣様」
早苗が、ふっと笑う。母代わりの世話役らしい柔らかな笑みだった。
姉妹は、屋敷の奥の湯殿へと向かった。
新しい天津屋敷の湯殿は岩をくり抜いて作られた広い浴場だった。普段は姉妹たちが使うが、催し物のあるときには来客や巫女たちも湯に浸かる。湯は屋敷の裏手の山から引いた霊泉で、淫魔の穢れを洗い流す力があった。
亜衣と麻衣は装束を脱ぎ、髪を結い直して湯に浸かった。二人の瞳が湯気の向こうで静かに合わされる。
「ふー、生き返るー! 鬼麿様がいないだけでこんなに安心できるなんてー」
麻衣が湯船の中で背伸びをする。上向きの乳房が揺れて、波紋が広がった。天津屋敷で唯一の男子である鬼麿は、修行のため少し前から屋敷を空けている。木偶の坊がお供しているのは言うまでもない。
「そうね……ここだけが極楽だわ」
亜衣も相槌を打つ。屋敷は常に結界で守られ、あの日以来、警戒と修練を怠らない日々が続いている。この男子禁制の浴場は、二人にとってほとんど唯一の憩いの場であった。
「……梅ふぶき、使っちゃったわね」
麻衣がぽつりと言った。
「ええ」
「また、練習しなきゃ」
「ええ」
二人は少し笑った。しかしその笑いはすぐに消えた。湯船に、しばしの沈黙が落ちる。湯気が二人の間をゆっくりと流れていく。
「……亜衣姉。あの淫魔……」
「ええ。鬼夜叉童子は滅んだはずなのに……松笠法師だけじゃない。おそらく、今まで倒してきた淫魔たちが新しい形で戻ってきている。それにあの結界……わたしたちの攻撃が利かなかった」
亜衣の脳裏に平安朝の烏帽子を被った鬼神のような顔がよぎる。そして、あの忌々しい邪淫王の顔も。
「鬼獣淫界が復活したのかしら」
「……分からない。でも、わたしたちの知らないどこかで何か悍ましいことが起こっているのだけは、確かだわ」
亜衣の声は静かだった。しかしその静けさの底に、怒りが沈んでいた。
麻衣はそれ以上、何も言わなかった。湯に顎まで浸かる。湯気の立ち昇る湯面は、照明を反射してきらきらと光っていた。麻衣の瞳の奥には、渓谷で見た花びらの乱舞がまだちらついている。
(あの花びら、きれいだった)
麻衣は思った。淫魔を滅ぼした薄紅梅の花びら。しかし、その美しさが怖かった。自分たちの奥義があれほど美しいものだなんて。
「ねえ、麻衣?」
「なに?姉ちゃん」
「…幻舟おばあちゃん…生きていたら何て言うだろうね?今のわたしたちのこと」
「そうね…きっと、何かいい秘策を伝授してい下さるとおもう」
「うん………わたしたち…大丈夫かしら…」
「何言ってんの、お姉ちゃんらしくない。きっと大丈夫だよ!」
「うん…」
二人とも沈黙が続いた。
「ねえ……お姉ちゃん…そういえば、たまにお母さんのことも知りたくない?」
「え?…うん…そうね……お母さんってどんな人だったんだろう…」
「おばあちゃんって、お母さんのことあまり話さなかったよね…」
「そうね…たしかに…」
天神子守衆の統領、そして羽衣軍神の天女…その務めが亜衣の背中に重くのしかかる。亜衣と麻衣には、もう頼れる存在はいない。
「さて、麻衣。久しぶりにわたしが背中を流してあげようか?」
「うん、お願い、亜衣姉」
ボディソープで泡立つ麻衣の白い背中と腰のくびれが、甘い香りに包まれる。前の鏡には風呂椅子に腰かけた麻衣と、その背後で跪いた亜衣。二人が同時に映っている。
「きゃ、くすぐったいよ」
「ここも、ごしごししないと」
――さっきの穢れは、そう簡単には落ちないでしょ?
「ちょっと、そこは自分でやるよ!」
「だーめ。おねえちゃんが綺麗にしてあげる」
「ひぃい」
しかし、亜衣は手を止めた。鏡に映る妹をじっと見つめる。咲き乱れていたあの花びらのように美しい……そして、淫獣に呑み込まれていた麻衣の姿が重なった。
亜衣は怖くなった。自分たちの背負った宿命が。
二度と妹をあんな悲惨な目には合わせたくない……
――でも……戦わなきゃ……この先も。
私が麻衣を守る…
「ちょ、亜衣姉? そんなにじろじろ見ないでよ」
「え? あ、ごめん、麻衣。シャワーかけるね」
「ひゃ! ……ちょっと! お姉ちゃん、冷たいよ! 温度!」
「え? それは自分でやって」
「もー」
じゃれ合う二人の声が、浴室の外にまで響く。
その時だった。
ふいに、湯殿の入り口の戸がガラガラと音を立てて開いた。