「氷の課長」と呼ばれる38歳の人妻・氷室玲子。完璧で冷たい彼女には、誰にも言えない秘密があった――優しい夫との夜に、十年間一度も満たされたことがないこと。
台風で電車が止まった夜、オフィスに残されたのは、彼女と、いつも叱られてばかりの頼りない部下・佐伯健太だけ。ずぶ濡れで戻った彼の着替えを偶然目にしてしまった瞬間から、玲子の身体の奥で、忘れていた熱が疼きはじめる。
誇りと欲望のあいだで揺れる人妻の心と、嵐の一夜に溶けていく氷の鎧。そして夜明け、出社してきた同僚の足音がすぐそこに迫るなかで――。

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※本作品は18歳以上の方を対象とした官能小説です。性的な描写を含みますので、18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。登場人物はすべて成人であり、物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
「氷の課長」と呼ばれる38歳の人妻・氷室玲子。完璧で冷たい彼女には、誰にも言えない秘密があった――優しい夫との夜に、十年間一度も満たされたことがないこと。
台風で電車が止まった夜、オフィスに残されたのは、彼女と、いつも叱られてばかりの頼りない部下・佐伯健太だけ。ずぶ濡れで戻った彼の着替えを偶然目にしてしまった瞬間から、玲子の身体の奥で、忘れていた熱が疼きはじめる。
誇りと欲望のあいだで揺れる人妻の心と、嵐の一夜に溶けていく氷の鎧。そして夜明け、出社してきた同僚の足音がすぐそこに迫るなかで――。
静かで切なく、そして濃密な、大人のための官能短編


嵐の夜、氷の課長は熱に溶ける〜台風で閉じ込められたオフィス、頼りない部下と人妻上司の一夜〜

 

一

窓ガラスを叩く雨の音が、午後三時を過ぎたあたりから明らかに変わった。

ぱらぱらと軽かった粒が、いつの間にか重く、横殴りの塊になって十二階の窓にぶつかってくる。フロアのあちこちでスマートフォンが一斉に震え、誰かが「計画運休だって」と小さく声を上げた。

私は顔を上げずに、手元の資料の数字を追い続けた。

「佐伯くん」

呼ぶと、斜め向かいの席で肩がびくりと跳ねるのが見えた。見なくても分かる。三年も同じ島で働いていれば、彼が私の声にどう反応するかくらい、もう目を閉じていても思い描ける。

「は、はい」

「この見積もり、単価が去年のままよ。先方には今朝これで送ったの?」

「え……あ、いえ、その、送ったのは……」

佐伯健太は二十七歳。背は高いのに、いつも少し猫背で、ネクタイはたいてい左に曲がっている。仕事は丁寧だが遅く、丁寧なわりに肝心なところで抜ける。今日のこれも、そうだった。

「送ったのね」

「……はい。すみません」

周囲の空気が、すっと冷えるのが分かった。氷室課長がまた佐伯を詰めている。部下たちのあいだで私がどう呼ばれているか、知らないわけではない。氷の課長。名字にかけた、ありきたりで、でも外れてはいないあだ名だ。

「明日の朝一番で訂正版を出す。今夜中に全部の明細を洗い直して。私も見るから」

「えっ、でも、電車が……」

「だから急いで」

私は言い切って、画面に視線を戻した。言い方がきついのは自覚している。けれど、きつく言わなければ伝わらない相手もいるし、何より私は、自分の声が揺れるのが嫌いだった。

四時半、総務から全館メールが回ってきた。台風の進路が予報より東に寄り、今夜半に直撃する見込み。社員は速やかに帰宅すること。ただし、すでに主要路線は運転を見合わせている。

フロアの人間は、潮が引くようにいなくなった。タクシーを奪い合う者、近くに住む同僚の家に転がり込む者。部長は早々に「氷室さん、あとは頼むね」と手を振って消えた。

気づけば、広いフロアに残っているのは、私と佐伯くんだけになっていた。

夫にはメッセージを送った。「台風で帰れない。会社に泊まります」。既読はすぐについて、「了解。気をつけて」とだけ返ってきた。スタンプも、電話もない。それで十分なのだと、私は自分に言い聞かせるのが、もうずいぶん上手くなっていた。

夫の誠一は、穏やかで、優しい人だ。声を荒らげたことは一度もない。結婚して十年、喧嘩らしい喧嘩もしたことがない。周囲からは理想の夫婦だと言われる。私もそう答える。

ただ、寝室のことだけは、誰にも話したことがない。

月に一度あるかないかの夜。夫は丁寧に私に触れ、丁寧に謝るように身体を重ね、そして、私が何かを感じはじめる前に終わってしまう。小さく、控えめで、私の奥のどこにも届かないまま。夫は満足そうに息をつき、「よかった?」と訊く。私は「うん」と答える。それが十年続いた。

不満を言ったことはない。言えば夫を傷つける。それに、私はもう三十八だ。そういうことに飢えるような年でもないし、そういう女でもない——そう思っていた。思おうとしていた。

「課長、あの……コンビニ、行ってきます。何か要るものありますか」

佐伯くんが、おずおずと声をかけてきた。時計は七時を回っていた。窓の外は、もう夜というより、ただの黒い渦だった。

「この雨の中を?」

「下のローソンなら、地下通路から……あ、いや、通路、閉まってるかもしれないですけど。でも、何も食べないと、たぶん朝までもたないので」

彼は困ったように笑った。その笑い方が、なぜか少しだけ私の胸に引っかかった。

「……サンドイッチと、お茶。お願い」

「はい!」

返事だけは、いつもいい。

二

彼が戻ってきたのは、三十分ほど経ってからだった。

エレベーターホールのほうで足音がして、振り向くと、ずぶ濡れの男が立っていた。地下通路はやはり閉まっていたらしい。ビルの外を回ったのだろう。髪から雫が垂れ、ワイシャツは肌に貼りつき、透けた生地の下に、思っていたよりずっと厚い肩と胸の輪郭が浮いていた。

「すみません、傘、一瞬で折れました」

彼はコンビニの袋だけは大事そうに胸に抱えていた。中のサンドイッチは、ほとんど濡れていなかった。

「……馬鹿ね」

それしか言えなかった。叱ったつもりだったのに、声が思ったより柔らかく出てしまって、私は少し慌てた。

「給湯室の奥に休憩室があるでしょう。ロッカーに防災用のタオルと、総務が置いてる予備のTシャツがあるはず。着替えてきなさい。風邪をひかれたら困るわ」

「はい、ありがとうございます」

彼が廊下の奥へ消えたあと、私は窓際に立った。一度だけブラインドの隙間から外を覗くつもりで窓の換気口に手を伸ばしたら、吹き込んだ雨が袖から胸元を濡らした。白いブラウスが冷たく肌に貼りつく。小さく舌打ちをして、ハンカチで押さえた。

予備のTシャツは、たしか一番下の段のロッカーだった。彼が見つけられずにまごまごしている姿が目に浮かんで、私はため息をつき、休憩室へ向かった。

休憩室のドアは、半分開いていた。

「佐伯くん、Tシャツは一番下の——」

言いかけて、言葉が止まった。

蛍光灯の白い光の下で、彼は背中を向けていなかった。こちらに半身を向けたまま、濡れたスラックスを脱ぎかけたところで、腰に巻いたタオルがちょうど床に落ちたところだった。

ほんの一瞬だった。たぶん、二秒もなかった。

けれど私の目は、それをはっきりと見てしまった。

黒いボクサーの、濡れて身体に貼りついた布地を、内側から押し上げているもの。布越しでも分かるほどくっきりと形を浮かせ、斜めに、窮屈そうに張りつめた熱の塊。腰骨のあたりまで届きそうな長さと、手首ほどもありそうな太さ。

——大きい。

頭のなかで、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。

夫のものしか、私は知らない。結婚前に一人だけ付き合った人はいたけれど、もう顔も思い出せない。それでも、見ればわかった。これは、私の知っているものとはまるで違う。比べることさえ、失礼なくらいに。

「わっ、か、課長っ!」

佐伯くんが真っ赤になってタオルを拾い上げ、前を隠した。私ははっとして、反射的に目を逸らした。

「……ノックをしなかった私が悪いわ。Tシャツ、一番下の段」

自分でも驚くほど平坦な声が出た。それだけ言って、私はドアを閉めた。

廊下を歩く足が、少しだけもつれた。

席に戻っても、画面の数字が頭に入ってこなかった。

どうして、あんなふうになっていたのだろう。雨に打たれて、身体が冷えて——男の人は、そういうときにもそうなるものなのだろうか。それとも。

ふと、さっき濡れた自分のブラウスに目を落とした。白い生地が胸元に貼りつき、下着のレースの線がうっすらと透けている。彼が戻ってきたとき、私はこの格好で彼の前に立っていた。

まさか、と思った。まさか、私を見て。

頬が熱くなった。三十八にもなって、部下の、しかもいつも叱りつけている頼りない男の身体の一部を見たくらいで、何を動揺しているのか。馬鹿馬鹿しい。私は氷室玲子で、課長で、人妻だ。

それなのに、まぶたの裏に、あの濡れた布の輪郭が焼きついて離れない。

「課長、お茶、ここに置いておきます……」

Tシャツにジャージ姿で戻ってきた佐伯くんは、私と目を合わせようとしなかった。耳まで赤い。私も、彼を見なかった。

二人で黙々と見積もりの明細を洗い直した。九時、十時。風は唸りを強め、ときどきビル全体がかすかに軋んだ。照明が一度だけ瞬いて、また戻った。

彼の席から、紙をめくる音と、小さな咳払いが聞こえる。そのたびに、私の意識はそちらへ引き寄せられた。ジャージの柔らかい生地。あの下に、あれが——。

考えるたびに、下腹の奥が、じん、と疼いた。

疼く、という言葉を、私は長いあいだ忘れていた。身体の芯がゆっくりと温まり、脚の付け根のあたりが落ち着かなくなる。椅子の上で何度も座り直し、膝を固く閉じた。ストッキングの内腿が擦れ合う、そのかすかな感触にさえ、肌がぞわりと粟立った。

最低だ、と思った。夫がいるのに。部下なのに。

でも、思えば思うほど、熱は引いてくれなかった。

三

日付が変わる少し前、ようやく最後の明細を確認し終えた。

「……これで、全部です」

佐伯くんが疲れきった声で言った。私は彼の画面を覗き込み、一つずつ数字を確かめた。肩が触れそうな距離だった。彼の身体から、雨と、安いボディソープと、若い男の体温の匂いがした。

「いいわ。よくやったわね」

そう言うと、彼は驚いたように私を見た。

「課長に褒められたの、初めてです」

「そう?」

「はい。三年で、初めて」

彼は嬉しそうに、照れくさそうに笑った。その顔を見た瞬間、胸のどこかが、きゅっと縮んだ。

休む場所を決めなければならなかった。応接室に三人掛けのソファが二つある。私は奥のソファを使うことにし、彼には手前の会議室の長椅子を勧めた。

「おやすみなさい、課長」

「……おやすみ」

明かりを落とした応接室で、私はジャケットを毛布代わりにかけて横になった。窓の外では、嵐が獣のように吠えていた。

眠れなかった。

目を閉じると、あの光景が戻ってくる。濡れた布。張りつめた輪郭。大きく、硬く、熱そうな——。

私はソファの上で身体を丸めた。太腿をきつく閉じ合わせる。それでも、奥の疼きはおさまらない。むしろ、閉じたぶんだけ熱がこもり、下着の内側がじわりと湿っていくのが分かった。

信じられなかった。こんなふうに、自分の身体が勝手に濡れるなんて。夫との夜でさえ、私は準備のためのジェルを使っていたのに。

指が、無意識にスカートの上から下腹に触れた。触れただけで、腰がかすかに跳ねた。慌てて手を離す。駄目だ。ここは会社で、壁一枚向こうに、彼がいる。

壁一枚向こうに、彼がいる。

その事実が、かえって私を追い詰めた。

ずっと、自分は満たされないことに慣れた女だと思っていた。欲しがらない女。乱れない女。冷たく、完璧で、何も求めない女。それが私の鎧であり、誇りだった。

けれど本当は、ただ、知らなかっただけなのかもしれない。満たされるということが、どういうものなのかを。

一時を過ぎた。二時が近づいた。

私は起き上がった。

何をしようとしているのか、自分でもはっきりとは分かっていなかった。ただ、このまま朝まで横になっていたら、頭がおかしくなりそうだった。水を飲むだけ。そう言い訳をして、応接室を出た。

会議室のドアの隙間から、細い明かりが漏れていた。彼も、起きていた。

ノックをした。今度は、ちゃんと。

「は、はい」

ドアを開けると、長椅子に座っていた佐伯くんが、弾かれたように立ち上がった。スマートフォンの画面の明かりだけが、彼の顔を下から照らしていた。

「眠れないの?」

「……はい。風の音が、すごくて」

嘘だ、と思った。彼の目が、私を見て、すぐに逸れた。私と同じ目だった。

私は後ろ手にドアを閉め、彼の前に立った。

「佐伯くん。さっきのこと」

「す、すみませんでした! あの、本当に、見苦しいものを……」

「謝らなくていい。訊きたいことがあるの」

声が震えないように、私は一度、息を吸った。

「あのとき、どうして、ああなっていたの」

沈黙が落ちた。窓の外で、風が長く鳴いた。

佐伯くんは、俯いたまま、拳を握りしめていた。やがて、絞り出すように言った。

「……課長の、ブラウスが、濡れてて」

やっぱり、と思った。思った瞬間、身体の奥に火が点いたように熱くなった。

「すみません。最低ですよね。でも、俺、ずっと……課長のこと、きれいだって思ってて。怒られるのも、嫌じゃなくて。あ、いや、変な意味じゃなくて、その……」

しどろもどろの告白だった。少しも格好よくない。いつもの、頼りない佐伯くんのままだった。

それなのに、私の足は、一歩、彼に近づいていた。

「佐伯くん」

「は、はい」

「今も?」

彼が顔を上げた。私は彼の目を見ずに、視線を下へ落とした。ジャージの柔らかい生地が、さっきと同じように、内側から、はっきりと押し上げられていた。

彼は何も答えなかった。答えの代わりに、喉が小さく鳴る音がした。

私は手を伸ばしかけて、止めた。指先が、宙で震えていた。

ここで引き返せば、何もなかったことになる。明日の朝、私はまた氷の課長に戻り、彼はまた叱られる部下に戻る。夫の待つ家に帰り、月に一度の、何も届かない夜に耐える。

それで、いいの?

心のなかで、誰かが訊いた。それは、十年間ずっと黙らせてきた、私自身の声だった。

「……ドアの鍵を、かけて」

自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

佐伯くんが、信じられないものを見るような顔で、私を見つめた。

「課長、それって」

「勘違いしないで。これは命令よ」

私は、精一杯の冷たさをかき集めて、言った。

「それから——避妊具。持ってるの?」

 

(ここから有料)

四

彼は、しばらく口をぱくぱくさせていた。

それから、ジャージのポケットを探り、尻ポケットから財布を取り出した。震える指で小銭入れの奥を探り、小さな四角い包みを一つ、取り出した。

「……大学の先輩に、お守りだって押しつけられて。ずっと、入れっぱなしで」

「一つだけ?」

「一つだけ、です」

その答えがあまりに彼らしくて、私は思わず小さく笑ってしまった。笑ったら、肩の力が少しだけ抜けた。

彼がドアの鍵をかける、かちり、という乾いた音が、嵐の音のなかでやけに大きく響いた。

振り向いた彼が、ためらうように私の前に立った。背の高い身体が、蛍光灯を遮って影を落とす。こうして近くで見上げると、彼は私よりずっと大きかった。叱られて縮こまっているときには、一度も気づかなかった。

「課長……本当に、いいんですか」

「何度も訊かないで。……嫌なら、今やめるわ」

「嫌なわけ、ないです」

彼の手が、おそるおそる私の頬に触れた。熱い手だった。大きな掌が頬を包み、親指が、確かめるように唇の端をなぞる。

唇が重なった。

最初は、ぎこちなく触れるだけだった。けれど、私がわずかに唇を開くと、彼は息を呑み、それから堰を切ったように深く口づけてきた。舌が触れ合う。絡まる。不器用で、必死で、少しも洗練されていないキス。なのに、膝から力が抜けていくのが分かった。

夫とのキスは、いつも唇の表面で終わった。こんなふうに、奥まで探られるようなキスを、私はもう何年もしていなかった。

背中が会議室の机の縁に当たった。彼の手が、ためらいながらブラウスのボタンにかかる。一つ目で、指がもたついた。

「……不器用ね」

「すみません」

「いいから」

私は自分でボタンを外した。生乾きのブラウスが肩から滑り落ち、冷えた空気が肌を撫でる。彼の目が、私の胸元に吸い寄せられるのが分かった。レースの下着ごしに、先端がもう硬く尖っているのを、隠しようもなかった。

彼の唇が、首筋に降りた。鎖骨をなぞり、下着の縁を辿る。ホックを外す手間取りに焦れて私が背中に手を回すと、彼は「すみません」とまた謝り、そして、こぼれ出た胸に、祈るように顔を埋めた。

「っ……」

尖った先を唇に含まれ、舌で転がされる。思わず漏れた声に、私は自分で驚いた。こんな声が、私の喉から出るなんて。

彼の手がスカートの裾から入り込み、ストッキング越しに内腿を撫で上げた。指先が脚の付け根に届いたとき、彼の動きが止まった。

「課長……すごく、濡れて……」

「言わないで」

顔から火が出そうだった。下着もストッキングも、彼の指が触れたところだけ、はっきりと色を変えているはずだった。何時間も前から、私はずっとこうだったのだ。

彼は私を机の上に座らせ、床に膝をついた。スカートをたくし上げ、ストッキングと下着をまとめて、ゆっくりと引き下ろしていく。片方ずつ、踵から抜き取られる。会議室の机の上で、私は下半身をすべて彼の目にさらしていた。

「待って、そんな、見ないで——」

言い終わる前に、彼の唇が、内腿の柔らかいところに触れた。

それから、もっと奥へ。

濡れた襞を、舌がそっと割った。

「あ、っ……!」

腰が跳ねた。彼の両手が私の太腿を押さえ、逃げられないように固定する。舌が、下から上へ、ゆっくりと襞のあいだをなぞる。何度も。一番敏感な芽に触れたところで、私の背中が勝手に反り返った。

知らなかった。夫は、こんなことを一度もしてくれなかった。私も、頼んだことがなかった。

彼の舌は、上手ではなかったと思う。探るように、確かめるように、私の反応を一つずつ拾い上げながら、少しずつ動きを覚えていく。私が息を詰めるところ。腰が震えるところ。声が漏れてしまうところ。仕事の覚えは悪いくせに、こういうことだけは、驚くほど飲み込みが早かった。

「佐伯くん、そこ……っ、だめ、そこ……」

だめ、と言いながら、私の指は彼の髪を掴み、もっと奥へと押しつけていた。

芽を唇で包まれ、吸われながら、指が一本、熱く濡れた入り口に沈んできた。ゆっくりと、奥へ。内側の壁を、指の腹がそっと撫でる。

その瞬間、目の前が白く弾けた。

「——っ、あ、ぁあ……っ!」

声を抑えることもできなかった。腰ががくがくと震え、太腿が彼の頭を挟み込む。奥がきゅうっと彼の指を締めつけ、波が何度も、何度も押し寄せてくる。

こんなに簡単に。こんなに、深く。

肩で息をする私を、彼は床から見上げていた。口元が、私のもので濡れて光っていた。

「課長、今の……」

「……言わないでって、言ったでしょう」

叱る声に、少しも力が入らなかった。

私は机から降り、震える膝で彼の前に立った。今度は私が、彼のジャージに手をかけた。

腰のゴムを下ろした瞬間、それは弾かれたように跳ね上がり、私の目の前にそそり立った。

息を呑んだ。

布越しに見たときよりも、ずっと大きかった。硬く張りつめ、浮き出た筋が脈打ち、先端は熱を溜めて艶やかに濡れている。そっと指を回してみると、私の指は、届かなかった。

「……こんなの、入るのかしら」

思わず、声に出ていた。

「む、無理しないでください」

「無理なんかしてないわ」

私は彼の手から小さな包みを取り上げ、歯で封を切った。指が震えて、うまく着けられない。彼が自分の手を添え、二人で、ゆっくりと薄い膜を被せていく。根元まで伸ばしきると、それはいっそう凶暴な形に見えた。

会議室の長椅子に、私は仰向けに横たわった。彼が覆いかぶさってくる。大きな身体が、窓の外の嵐から私を隠すように。

熱いものの先端が、濡れた入り口に触れた。

「……ゆっくり、ね」

「はい」

彼が、腰を沈めてきた。

入り口が、押し広げられる。痛みに似た、けれど痛みではない、強烈な圧迫感。今まで一度も開かれたことのない場所が、少しずつ、少しずつ、彼の形に押し開かれていく。

「あ……っ、あ、大きい……っ」

「課長、きつ……っ」

半分ほどで、もう奥に届きそうだった。夫が届いたことのない、ずっと先。私自身さえ存在を忘れていた場所。

彼は止まり、私の額に口づけた。「大丈夫ですか」と訊く声が掠れている。私は答える代わりに、彼の腰に手を回し、引き寄せた。

ずん、と最後まで沈んだ。

一番奥を、熱い塊が押し上げた。

「——っ!」

声にならなかった。息が止まり、背中が弓なりに反る。満ちている。身体の内側が、隙間なく彼で埋め尽くされている。こんな感覚が、この世にあったなんて。

彼が、ゆっくりと動きはじめた。

引き抜かれるとき、内側の襞がすべて引きずられていくようだった。押し込まれるとき、奥の一点が、とん、と叩かれる。そのたびに、腰の奥から痺れが駆け上がった。

「あ、あっ、佐伯くん、そこ……奥、っ……」

「ここ、ですか」

「そう、そこ……っ、ああ……」

彼は、私の声だけを頼りに、同じ場所を何度も、何度も突いた。不器用な部下が、私の言葉を一つも聞き漏らすまいとするように。いつもの会議では、私の指示を半分も覚えていないくせに。

長椅子がきしむ音と、濡れた音と、私の声と、嵐の音が混ざり合った。

二度目の波は、一度目よりもずっと深いところから来た。

「だめ、また……っ、来る、来ちゃう……っ」

「課長、俺も、もう……」

「いい、いいから……っ、一緒に……っ」

奥を強く押し上げられた瞬間、私は彼の背中に爪を立てて、声を上げて達した。身体の芯が彼を何度も締めつけ、その奥で、彼のものがびくびくと大きく脈打つのが、薄い膜越しにはっきりと伝わってきた。

しばらく、二人とも動けなかった。

彼の重みと、汗の匂いと、まだ奥に収まったままの熱。私は天井の蛍光灯をぼんやりと見上げながら、自分が泣いていることに気づいた。

「課長……? す、すみません、痛かったですか」

「違うの」

私は首を振った。

違う。痛かったんじゃない。

十年間、私は一度も、こんなふうに満たされたことがなかった。それが、ただ、悔しくて、悲しくて——そして、どうしようもなく、嬉しかったのだ。

五

給湯室から持ってきた紙コップの水を、二人で分け合って飲んだ。

私は彼のTシャツを借りて羽織り、長椅子の端で膝を抱えていた。彼はジャージだけを穿いて、床に座り、長椅子にもたれている。窓の外では、まだ風が唸っていた。台風の目は、まだ遠いらしい。

借りたTシャツは、私の太腿の半ばまで隠れるほど大きかった。袖口から、彼の匂いがした。雨と、汗と、さっきまで私を抱いていた肌の匂い。鼻先を袖に埋めると、まだ奥に残っている余韻が、また小さく疼いた。

身体の内側が、まだ彼の大きさを覚えていた。脚を閉じても、そこにぽっかりと彼の形の空洞が残っているようで、落ち着かない。満たされた後に、こんなにも寂しくなるものだということも、私は初めて知った。

佐伯くんは、私のほうを見ないようにしていた。見ないようにしながら、ときどき盗み見ては、慌てて目を逸らす。その仕草が、叱られた後の彼とまるで同じで、私は少しだけ可笑しくなった。

「……旦那さんには」

佐伯くんが、ぽつりと言った。

「言えるわけないでしょう」

「ですよね」

彼は困ったように笑った。責めるでも、得意がるでもない、ただ困ったような笑い方。それを見ていると、不思議と罪悪感よりも、胸の奥の柔らかいところをくすぐられるような気持ちになった。

「うちの夫はね、優しい人なの」

なぜ、そんなことを話しはじめたのか分からない。暗い会議室と、嵐の音と、さっきまで私の中にいた男の気配が、口を軽くさせたのかもしれない。

「優しくて、真面目で。でも……届かないの。どこにも」

佐伯くんは何も言わなかった。ただ、床の上で、私の足首にそっと手を置いた。その掌の熱が、足首からふくらはぎへ、じわじわと染み上がってくる。

「十年よ。十年、私は、こういうものだと思ってた。女はこんなものなんだって。私は、そういうことに向いてない身体なんだって」

「……向いてないなんてこと、ないです」

彼が顔を上げた。

「課長、さっき、すごく……きれいでした」

真剣な顔だった。会議で私に詰められているときと同じ、まっすぐで、少し怯えた目。なのにその奥に、さっきまでなかった熱が灯っていた。

視線を落とすと、ジャージの前が、また大きく持ち上がっていた。

「……あなた、また」

「す、すみません。課長が、そんな格好でいるから」

私は自分の姿を見下ろした。ぶかぶかのTシャツ一枚。裾から伸びた素足。下には何も着けていない。

「避妊具は、もうないのよね」

「……はい」

分かっていた。分かっていて、訊いた。

私は長椅子から降り、床に座る彼の前に膝をついた。ジャージの縁に指をかけ、ゆっくりと引き下ろす。現れた熱は、さっき果てたばかりとは思えないほど、硬く反り返っていた。

両手で包んだ。掌に、どくん、どくんと脈が伝わってくる。根元から先端へ、そっと撫で上げると、彼の腰がびくりと震えた。

「課長、っ……」

先端に滲んだ雫を、指先で塗り広げる。それから、身を屈め、唇でそっと触れた。

彼が息を詰める音がした。

全部は、とても含めなかった。先のほうだけを唇に収め、舌で形をなぞる。熱くて、少ししょっぱくて、私の口の中で、まだ大きくなろうとしている。こんなことを自分からするのも、初めてだった。夫に求められたことは一度もなかったし、私から求めたこともなかった。

けれど今、私は、この熱をもっと知りたかった。

「課長、だめです、そんなにしたら……」

彼が私の肩を掴んで、引き剥がした。息が荒い。

「……出ちゃいます」

「出すなら」

私は彼の膝の上に跨がった。Tシャツの裾が、彼の腹に落ちる。

「ちゃんと、私の中で、気持ちよくなってから。——でも、最後は、外に出して。約束できる?」

彼の喉仏が、大きく上下した。

「……約束します」

「破ったら、明日から一生、残業よ」

「はい」

真剣にうなずく彼がおかしくて、私は笑いながら、腰を下ろしていった。

薄い膜のない熱が、直に、濡れた入り口に触れた。

さっきとは、まるで違った。肌と肌。熱と熱。彼の形が、脈が、すべてそのまま伝わってくる。ゆっくりと沈めていくと、内側の襞の一枚一枚が、彼の起伏をなぞり、吸いつくように絡みついていくのが分かった。

「あ……っ、すごい、さっきより……っ」

「課長の中、熱い……っ、溶けそう……」

自分の重みで、一番奥まで届いた。

彼の膝の上で、私は動けなくなった。奥を押し上げられたまま、息をするたびに、そこがかすかに擦れる。それだけで、腰が震えた。

「動いて、いいわよ」

「課長が……動いてください。課長の、好きなように」

ずるい、と思った。でも、言われた通りに、私はゆっくりと腰を揺らしはじめた。

前後に。円を描くように。奥の一点に彼の先端を擦りつけるたびに、甘い痺れが背骨を駆け上がる。彼の手がTシャツの中に入り込み、胸を包み、尖りきった先端を指で摘んだ。

「あ、ぁ……っ、それ、だめ……」

窓のブラインドの隙間から、稲光が射し込んだ。一瞬だけ白く照らされた会議室で、私は彼の上で髪を振り乱し、腰を振っている自分の姿を、窓ガラスの反射に見た。

あれが、私?

氷の課長と呼ばれ、誰にも隙を見せず、夫に「よかった?」と訊かれて「うん」と答えてきた女。その女が、部下の膝の上で、こんなにも浅ましく、こんなにも気持ちよさそうな顔をしている。

恥ずかしかった。死ぬほど恥ずかしかった。

それなのに、腰が止まらなかった。

「課長、俺、もう、我慢できない……」

彼が私の腰を掴み、そのまま身体を返した。床に敷いた私のジャケットの上に押し倒され、脚を大きく開かされる。上から、深く、突き入れられた。

「ああっ……!」

さっきまでとは違う。彼が主導権を握った途端、動きが変わった。長く引き抜き、奥まで一気に打ち込む。そのたびに、身体が床の上をずり上がる。彼が私の肩を押さえ、逃げ場をなくして、また奥を穿つ。

「佐伯くん、そんな、激し……っ、あ、あ、あぁっ」

頼りないなんて、誰が言ったのだろう。

彼の腰は、恐ろしいほど正確に、私の一番弱いところを打ち続けた。奥の、そのまた奥。押し上げられるたびに、目の裏で光が弾ける。

一度、達した。彼は止まらなかった。

二度目は、すぐに来た。痙攣する奥を、さらに突き上げられ、波の上にまた波が重なる。

「だめ、もう、おかしくなる……っ、こわれちゃう……っ」

「課長、課長……っ」

三度目の波に呑まれたとき、私は声を上げることもできず、ただ彼の背中にしがみついて、全身を震わせていた。

「っ、出る……!」

彼が叫ぶように言い、腰を引いた。

ずるり、と熱が抜け出ていく。その喪失感に、私の奥が、行かないでと縋るように収縮した。

次の瞬間、私の下腹に、熱いものが迸った。一度、二度、三度。臍のあたりから胸の下まで、何度も、何度も。彼は歯を食いしばり、震えながら、最後の一滴まで外に吐き出した。

約束を、守ってくれた。

荒い息のまま、彼は私の隣に崩れ落ちた。私は、肌の上に広がった熱をぼんやりと指でなぞった。とろりと濡れて、まだ温かい。

「……こんなに」

「す、すみません」

「謝ってばかりね、あなた」

私は笑った。笑いながら、また少し泣いた。

窓の外で、風の音が、ふっと弱まった。台風の目に入ったのかもしれない。嘘のような静けさの中で、私たちは、ジャケット一枚の上で身を寄せ合い、いつの間にか眠りに落ちていた。

六

目を覚ましたとき、ブラインドの隙間が、うっすらと青白くなっていた。

嵐は、去っていた。窓の外から聞こえるのは、遠くで鳴るサイレンと、雨樋を伝う水の音だけだった。

腕時計を見た。五時四十分。

隣で、佐伯くんが寝息を立てていた。無防備な寝顔だった。睫毛が思ったより長い。口が少し開いている。会社で見る、おどおどした顔とはまるで違う、子どものような顔。

私はそっと身を起こした。身体の奥が、鈍く、甘く痛んだ。一晩で、私の内側は彼の形を覚えてしまったらしい。脚を動かすたびに、まだそこに彼がいるような錯覚がした。

床に落ちたジャケットの皺。長椅子の背に引っかかったストッキング。机の端に置き忘れられた、破れた小さな包み。薄明かりの中で、昨夜の痕跡が一つずつ形を取り戻していく。

後悔は、しなかった。少なくとも、今はまだ。

不思議なほど、頭が澄んでいた。十年分の霧が晴れたような気分だった。私はずっと、自分の身体を、どこか遠い場所に置き忘れたまま生きてきたのだと思う。仕事の数字を追い、部下を叱り、夫に微笑み、そして夜は目を閉じて、何も感じないふりをする。そうしているうちに、本当に何も感じなくなっていた。

それを、この頼りない男が、一晩で連れ戻してしまった。

寝息を立てる彼の髪に、そっと指を伸ばしかけて、やめた。触れたら、また欲しくなる。もう、自分がそういう女だということを、私は知ってしまっていた。

始発は六時過ぎに動くはずだった。早出の社員が来るのは、早くても七時半。それまでに、すべてを元に戻さなければならない。散らばった服。乱れた長椅子。机の上の、私が座った跡。

立ち上がろうとしたとき、手首を掴まれた。

「……課長」

寝起きの、掠れた声だった。

「起きたなら、片付けを手伝って。もうすぐ朝よ」

「はい。でも……」

彼は身体を起こし、後ろから私を抱きしめた。背中に、彼の胸の熱が押しつけられる。首筋に唇が触れた。

そして、腰のあたりに、もう一つの熱が。

「……あなた、どうなってるの」

「すみません。朝なので」

「言い訳しないで」

叱ったつもりだった。けれど、うなじに口づけられ、Tシャツの上から胸を包まれると、声が勝手に甘く崩れた。

「少しだけ、です。すぐ、終わりますから」

「すぐ終わるなんて、あなたに限っては信じられないわ」

言いながら、私は、彼の腕を振りほどかなかった。

自分から机に手をついた。窓に向かって。ブラインドの隙間から、雨上がりの街が、薄青く光っているのが見えた。

後ろから、熱が触れた。昨夜の名残で、私の入り口はまだ柔らかく濡れていた。彼は、ゆっくりと、深く入ってきた。

「ん……っ、ぁ……」

立ったまま、背後から貫かれる。昨夜とはまた違う角度で、違う場所を擦り上げられる。机の縁を握る指に力がこもった。

静かな朝だった。嵐の音に紛れることのできた夜とは違う。肌がぶつかる音も、濡れた音も、私の吐息も、すべてがやけに大きく響いた。私は唇を噛んで、声を殺した。

彼の動きが、少しずつ速くなる。腰を掴む手に力が入る。奥を突かれるたびに、膝が震え、つま先が床から浮きそうになる。

そのときだった。

廊下の向こうで、チン、と軽い音が鳴った。

エレベーターの到着音。

私たちは、凍りついた。

足音が聞こえた。硬い靴底が、リノリウムの床を叩く音。一人。ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。

「……誰か、来た」

彼が、私の耳元で囁いた。中に収まったままの熱が、びくりと跳ねた。

まだ六時前のはずだ。警備員の巡回だろうか。それとも、始発より早く、近所に住む誰かが様子を見に来たのか。

足音が、フロアの入口で止まった。カードキーをかざす電子音。自動扉が開く気配。

心臓が、喉から飛び出しそうだった。

会議室の鍵は、かかっている。けれど、ドアのすりガラスの向こうに影が差せば、中の気配は伝わってしまう。

「抜いて」と言うべきだった。今すぐ離れて、服を着て、何事もなかった顔をするべきだった。

それなのに。

足音が、デスクの島のほうへ遠ざかっていく。誰かが、自分の席に鞄を置く音。

その音を聞きながら、私の奥は、彼をきつく、きつく締めつけていた。

怖かった。見つかったら、すべてが終わる。課長の椅子も、十年の結婚も、私が積み上げてきた何もかもが。

その恐怖が、どうしてか、私の中の熱を、狂ったように煽り立てていた。

「課長……っ、締めすぎ、です……」

彼が、苦しげに囁いた。

「動いて」

自分の声が、信じられなかった。

「静かに……、ゆっくり、でいいから……っ、やめないで……」

彼は、一瞬ためらい、それから、音を立てないように、ゆっくりと腰を引いた。そして、ゆっくりと、奥まで沈めた。

声が漏れそうになって、私は自分の手の甲を噛んだ。

ゆっくりと、深く。ゆっくりと、深く。音を殺した抽送が、かえって一回一回の感覚をくっきりと際立たせる。引き抜かれるときの擦れ。押し込まれるときの圧。奥を押し上げられる、あの痺れ。

廊下の向こうで、誰かが咳払いをした。コーヒーメーカーのスイッチを入れる音。

すぐそこに、人がいる。

私は、身体をひねり、彼のほうを振り向いた。彼の首に腕を回し、引き寄せる。彼は私を抱え上げ、机の上に座らせた。向かい合って、また深く、つながる。

目が合った。

彼の目も、怯えていた。そして、怯えと同じくらい、熱に浮かされていた。

唇を重ねた。声を、互いの口の中に閉じ込めるように。

奥を、突かれる。一度、二度。声にならない声が、彼の口の中で溶ける。

限界が、近かった。私も、彼も。

彼が、腰を引こうとした。約束を、守ろうとして。

その瞬間、私の脚が、勝手に動いていた。

彼の腰に、両脚を絡めた。踵で、その背を強く引き寄せた。

「課長、だめです、離して……っ、もう……」

「いいの……っ」

唇を離し、彼の耳元で、私は掠れた声で囁いた。

「中で……っ、いいから……。お願い、このまま……っ」

自分が何を言っているのか、分かっていた。分かっていて、言った。

欲しかった。最後まで、全部。この人の熱を、一番奥で受け止めたかった。十年間、一度も満たされたことのなかった場所を、今だけは、溢れるほどに満たしてほしかった。

「……いいんですか」

「いいって、言ってるでしょう……っ」

彼が、私を強く抱きしめた。

そして、一番奥まで、深く、沈めてきた。

「——っ、ん、んんっ……!」

彼の肩に顔を押しつけ、声を殺した。全身が、ばらばらになるかと思うほど震えた。奥が、彼を搾り取るように、何度も、何度も収縮する。

同時に、彼のものが、私の一番奥で大きく脈打った。

熱い。

熱いものが、奥に、注ぎ込まれていく。どくん、どくんと、脈打つたびに、内側が満たされていく。お腹の奥がじんわりと温かくなり、その温かさが、波の余韻と一緒に、身体じゅうに広がっていく。

彼の腕の中で、私は、静かに泣いていた。

声を殺したまま、二人で、長いあいだ震えていた。

七

足音が、こちらへ近づいてきた。

私たちは弾かれたように離れた。彼のものが抜けていくと、奥から、とろりと熱いものが溢れて、内腿を伝った。慌ててハンカチで押さえる。

ブラウスに腕を通す。ボタンを留める指が震えて、うまくいかない。佐伯くんが、黙って手を伸ばし、一つずつ留めてくれた。昨夜はあんなにもたついていたのに、今朝の指は、少しも迷わなかった。

ストッキングは、もう穿く時間がなかった。丸めてジャケットのポケットに押し込む。スカートの皺を伸ばし、髪を手櫛で整える。

ドアのすりガラスに、影が差した。

ノックの音。

「あれ、誰かいます? 課長?」

二課の、早出で有名な新人の声だった。

私は一度だけ深く息を吸い、吐いた。それから、鍵を開け、ドアを開けた。

「おはよう。早いのね」

「わっ、課長! 泊まりだったんですか!? 佐伯さんも?」

「見積もりの訂正よ。佐伯くんがまたやらかしたから、朝まで付き合わされたの」

私は、いつもの声で言った。冷たく、平坦で、少しも揺れない声。十年かけて磨いた、完璧な氷の声。

「うわあ、お疲れさまです……佐伯さん、ほんと勘弁してくださいよ」

「す、すみません」

背後で、佐伯くんがいつもの情けない声で謝った。新人は笑いながら、自分の席へ戻っていった。

ドアが閉まる。

私は振り返らなかった。振り返ったら、きっと、顔に出てしまう。

「佐伯くん」

「はい」

「長椅子、拭いておいて。それから、机も」

「……はい」

会議室を出ようとして、ドアノブに手をかけたまま、私は立ち止まった。

内腿を、まだ温かいものが、ゆっくりと伝っていく。彼の熱が、私の奥に、まだ残っている。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。夫からだった。

「おはよう。電車動いたみたいだね。今夜は帰れる?」

画面を見つめた。いつも通りの、優しい、何も届かない言葉。

私は短く返信を打った。

「今夜も、残業になりそう」

送信して、画面を伏せた。

胸が痛まなかったと言えば、嘘になる。夫は何も悪くない。悪いのは、たぶん私だ。満たされないことに慣れたふりをして、欲しいものを欲しいと言えなかった私。

けれど、もう戻れないことも分かっていた。一度知ってしまった熱は、なかったことにはできない。身体の奥に刻まれた彼の形を、私はきっと、今夜も、明日も、思い出してしまう。会議の最中に。夫の隣で眠る夜に。彼を叱りつける、そのたびに。

それから、ほんの少しだけ振り返り、長椅子を拭いている佐伯くんの背中に向かって、誰にも聞こえない声で言った。

「——今夜も、付き合ってもらうわよ。今度は、ちゃんと準備してきなさい」

彼の手が、止まった。

ゆっくりと振り向いた彼の顔が、耳まで赤く染まっていくのを見届けてから、私はドアを開けた。

朝の光が、雨に洗われたフロアいっぱいに射し込んでいた。

私は背筋を伸ばし、ヒールの音を響かせて、自分の席へ歩いていった。

氷室課長は、今日も完璧だった。

ただ一人、その氷の下で何が溶けたのかを知っている男を除いて。

(了)

 


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