そして、ようやく一段落した頃。
俺は、別の光景を目撃することになった。
「エレオノーラ! エリザベート!」
アンネリーゼの声が、部屋に響いた。
俺はアンネリーゼの腕の中で、びくりとした。
……え?
今、姉たちの名前を呼んだか?
アンネリーゼは俺を抱いたまま、部屋の入口へ視線を向けた。
そこには、エレオノーラとエリザベート、そしてセレナが立っていた。
三人とも、普段よりもずっと緊張した顔をしている。
特にセレナは、いつも冷静な彼女にしては珍しく、顔色が悪かった。
アンネリーゼは三人を前にすると、普段とはまったく違う表情を見せた。
「あなたたちは、いったい何をしていたのですか!」
声が大きい。
俺は思わずアンネリーゼの顔を見上げた。
いつもの優しいアンネリーゼとは、まるで別人のようだった。
「ルシアニウスがいなくなったことに、どうしてすぐ気づかなかったのですか!」
エレオノーラははっと顔を上げた。
「お母様、申し訳ありません……」
「エリザベート、あなたもです!」
「は、はい……!」
エリザベートは肩を震わせた。
アンネリーゼの声には、先ほど俺を叱っていたときよりも、ずっと強い迫力があった。
いや、比較にならない。
俺に向けられていたのが心配と叱責の混じったものだったとすれば、今の母は完全に怒っている。
それも、相当に。
「あなたは、ルシアニウスを見ているように頼まれていたのでしょう?」
「はい……」
「それなのに、なぜ目を離してしまったの?しかも、セレナ。あなたはいつもルシアニウスの面倒を見ているでしょう?」
「……はい。私の不注意でございます」
セレナは深く頭を下げた。
いつもは冷静で、何事にも動じない彼女が、今は一言も言い返さずに母の叱責を受けている。
俺は、その様子を呆然と見つめていた。
……いや、待ってほしい。
俺が勝手に部屋を出たのだ。
確かに、姉たちやセレナが俺のそばにいたのは事実だが、俺が抜け出したのも事実である。
それなのに、なぜ彼女たちがここまで怒られているのだろうか。
アンネリーゼは、さらに言葉を続けた。
「ルシアニウスは、まだ一人で安全に外を動き回れる年齢ではありません。何かあったら、どうするつもりだったのですか!」
「「「申し訳ありません……!」」」
三人の声が重なった。
エレオノーラは、今にも泣きそうな顔をしている。
エリザベートは、すでに涙をこぼしている。
そしてセレナは、いつもの落ち着きを失い、ただひたすらに頭を下げていた。
……うわあ。
これは、想像以上だ。
アンネリーゼは俺を叱っていたときとは比べものにならないほど、厳しい口調で三人を叱責していた。
その様子を見ていると、俺の方が申し訳なくなってくる。
何しろ、今回の騒動の原因は俺なのだ。
俺が本を読みたいと思わなければ、こんなことにはならなかった。
俺が一人で書庫へ向かわなければ、姉たちやセレナが叱られることもなかった。
……これは、あとで謝らなければ。
「ごめんなさい……ルシアニウスがいなくなったのは、私たちのせいです……」
ノーラは唇を噛みしめている。
「私も、もっと気をつけるべきでした……」
セレナは、変わらず頭を下げている。
その姿を見て、俺は胸が痛くなった。
いつも俺の世話をしてくれるセレナ。
遊び相手になってくれる姉たち。
彼女たちは、俺を大切にしてくれている。
それなのに、俺のせいで怒られている。
……本当に申し訳ない。
◇
アンネリーゼの叱責が終わった後も、部屋の空気は重かった。
エレオノーラとエリザベートは、母の前でうなだれている。
セレナも、いつもどおりの落ち着いた表情に戻ろうとしているようだったが、どこか沈んで見えた。
俺はアンネリーゼの腕から身を乗り出した。
そして、姉たちへ手を伸ばした。
「……あら、ルシー?」
母が俺の動きに気づく。
俺は小さな手を伸ばし続けた。
ノーラ。
リーザ。
セレナ。
ごめん。
俺が悪かった。
そう伝えたかった。
もちろん、言葉にはできない。
だが、エリザベートが俺の手に気づいた。
「ルシー……?」
彼女は恐る恐る近づいてきた。
俺は彼女の指を握った。
すると、エリザベートの表情が崩れた。
「……ルシー……!」
彼女は俺を抱きしめた。
母ほど強くはないが、それでもぎゅっと。
「よかった……本当に、よかった……!」
再び涙がこぼれる。
エレオノーラも、そっと俺の頭を撫でた。
「もう……心配したのよ、ルシー」
その声は優しかった。
だが、少しだけ震えていた。
俺は二人を見上げた。
いつも一緒に遊んでくれる姉たち。
積み木を崩しても、何度でも作り直してくれるリーザ。
俺が転がしたボールを、優しく返してくれるノーラ。
そんな二人が、今日は泣いている。
……もう、こんなことはやめよう。
少なくとも、誰にも言わずに勝手にいなくなるのは。
俺は小さく頷いた。
すると、二人の姉は、ますます俺を抱きしめた。
……あの。
ちょっと、苦しいです。
いや、文句を言える立場ではないのだが。
◇
その後、俺はようやくアンネリーゼの腕から解放された。
いや、正確には、アンネリーゼが俺を離そうとしたところで、今度は姉たちが抱きしめ、姉たちが離すと侍女たちが抱きしめるという、奇妙な連鎖が起きたのだ。
……俺はぬいぐるみか何かなのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、俺は部屋の中を見回した。
アンネリーゼはまだ少し目元を赤くしている。
ノーラもリーザも、先ほどまで泣いていたせいで顔が赤い。
セレナはいつものように俺のそばに控えていたが、俺と目が合うと、わずかに表情を緩めた。
俺は彼女に手を伸ばした。
セレナは一瞬だけ目を見開き、それから俺を抱き上げた。
「……ご無事で、本当によかったです」
静かな声だった。
その言葉を聞いて、俺は改めて反省した。
俺は、この世界に来てから、ずっと誰かに守られている。
母がいて、姉たちがいて、侍女たちがいる。
俺が何かをしようとすれば、誰かが手を貸してくれる。
転んでしまえば、誰かが抱き上げてくれる。
困ったことがあれば、誰かが助けてくれる。
それは、とてもありがたいことだ。
だが、だからこそ、彼女たちに心配をかけるようなことは、できるだけ避けなければならない。
俺はセレナの服を握った。
そして、顔を見上げた。
彼女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……次からは、私にお声がけくださいませ。どこへでも、お連れいたしますから」
……どこへでも?
その言葉に、俺は反応した。
どこへでも連れていってくれるのなら。
書庫にも?
俺は思わず、書庫の方角へ顔を向けた。
セレナは俺の視線を追った。
そして、少し考え込むような表情になった。
「……もしかして、書庫に興味がおありなのですか?」
俺は彼女を見た。
……鋭い。
やはり、この人は侮れない。
俺が本の方を指さすと、セレナは小さく目を見開いた。
「なるほど……」
彼女は俺の頭を撫でた。
「本がお好きなのですね」
違う。
いや、間違ってはいないのだが。
俺は本が好きというより、本を読んでこの世界を知りたいのだ。
魔法のことを知りたい。
文字を覚えたい。
この世界の仕組みを理解したい。
そういうことなのだが、今の俺には説明できない。
俺は仕方なく、セレナに笑顔を返した。
すると、彼女は微笑んだ。
「それでしたら、今度は私と一緒に参りましょう。奥様にもお話ししておきます」
……本当に?
俺は思わず身を乗り出した。
セレナは頷いた。
「はい。ただし、一人で抜け出すのは、もういけませんよ」
……はい。
どうやら、今回はこれで許してもらえそうだった。
◇
その日の夜。
俺は寝台の上で、今日の出来事を振り返っていた。
書庫へ行き、本を見つけ、魔法についての手がかりを得た。
その一方で、母や侍女たちに心配をかけ、姉たちとセレナまで叱られてしまった。
収穫はあった。
だが、代償も大きかった。
……次からは、もっと慎重に行動しよう。
そう決意した。
ところで、ずっと気になっていることがある。
アンネリーゼは俺に対しても怒った。
確かに叱られたし、勝手に出歩くなとも言われた。
しかし、その怒り方は、姉たちやセレナに向けられたものとは明らかに違っていた。
俺は何度も抱きしめ、涙を流し、無事でよかったと繰り返していた。
一方、姉たちとセレナには、かなり厳しい口調で責任を問いただしていた。
もちろん、姉たちやセレナは俺より年上だ。
俺はまだ赤ん坊だから、危険を理解できない。
そう考えれば、ある程度は納得できる。
それに、俺はこの家の末っ子だ。
母や姉たちが、年下の弟を特別にかわいがるのは、珍しいことではないのかもしれない。
……うん。
きっと、そういうことなのだろう。
俺はそう結論づけた。
しかし、胸の奥には、小さな疑問が残っていた。
なぜ、これほどまでに大切にされているのだろう。
なぜ、俺がいなくなっただけで、屋敷中があれほどの騒ぎになったのだろう。
そして、なぜ、母や侍女たちは、俺を抱きしめるたびに、あんなにも安心した表情を浮かべるのだろう。
正直、男の子なんてそんなものじゃないだろうか?
好奇心の赴くままに行動を起こすなんてよくあることだ
……俺が言うことではないが
今の俺には、その答えはわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
この屋敷には、俺が思っている以上に、俺を大切にしてくれる人たちがいる。
だからこそ、これからは少しだけ気をつけよう。
そして、文字を覚えたら、今度こそ自分の力で本を読めるようになろう。
魔法の仕組みを知るために。
この世界を知るために。
そして、いつか自分の暮らす領地を、もっと豊かにするために。
俺は小さな手を握りしめた。
……よし。
明日から、また頑張ろう。
そう考えたところで、眠気が襲ってきた。
赤ん坊の身体は、まだまだ不便だ。
どれほど大きな目標を立てても、眠くなれば眠るしかない。
俺は欠伸をし、目を閉じた。
こうして、ヴァレンシュタイン家を騒がせた小さな失踪事件は、ひとまず幕を閉じた。
ただし。
この日を境に、俺が書庫へ行きたいと身振りで伝えると、セレナが本を選んで持ってきてくれるようになった。
文字を覚えるには、まだ時間がかかる。
それでも、俺は少しずつ、この世界の知識に近づき始めていた。
そして、あの本の挿絵を見つけた瞬間の興奮だけは、きっと何年経っても忘れないだろう
幼少期編で一番書きたかったエピソードを書けました(。-ω-)ふぅー
まだ幼少期が続くのでお付き合いください