ーエレオノーラ・ヴァレンシュタイン視点ー
日の光が差し込む部屋で、私は机に向かっていた。
目の前には、家庭教師から渡された課題が並んでいる。
領地の地理、歴史、算術、読み書き。それに、貴族として身につけるべき礼儀作法や、他家との交流に必要な知識。
どれも簡単ではない。
特に算術は、数字を扱うだけなら難しくないものの、実際の領地経営を想定した問題になると、途端に複雑になる。
税収を計算し、必要な支出を見積もり、余剰の資金をどこへ回すか。
領地を豊かにするには、何を優先すべきか。
ただ数字を計算するだけでは、答えは出ない。
「……難しいわね」
思わず呟いた。
家庭教師から出された問題は、ある村で不作が起きた場合、領主としてどのような対応を取るべきかというものだった。
備蓄を放出しれば、当面の食糧不足は解消できる。
しかし、備蓄を使い切れば、次の年に問題が起きたとき困る。
税を減らせば農民の負担は軽くなるが、領地の収入は減る。
ほかの村から食糧を融通するにしても、そちらの生活を圧迫するようでは意味がない。
どれか一つを選べば解決する、という話ではないのだ。
私はペンを置き、窓の外を眺めた。
領都ヴァルデンの街並みが見える。
その向こうには農地が広がり、さらに遠くには丘陵と森林が続いている。
この景色は、私にとって当たり前のものだった。
けれど、将来この領地を治めるのは私だ。
母様のように、領民の生活を守らなければならない。
領地を豊かにし、家を存続させ、次の世代へ引き継ぐ。
それが、ヴァレンシュタイン家の長女である私の役目だった。
「エレオノーラ様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう。そこへ置いてちょうだい」
侍女が机の端にカップを置く。
私は彼女に微笑みかけた。
「それと、あとでルシーの様子を見に行きたいのだけれど、今は何をしているかしら?」
「ルシアニウス様でしたら、セレナが付き添っておいでです。午前中は本を読まれる予定と伺っております」
「そう。ありがとう」
侍女が退室すると、私は再び課題に目を向けた。
けれど、頭の片隅には弟のことが残っていた。
ルシアニウス。
私より五歳年下の、かわいい弟。
あの子が生まれた日のことは、今でもよく覚えている。
母様が弟を産んだと聞かされ、私はリーザと一緒に、何度も母様の部屋へ行こうとした。
けれど、まだ小さかった私たちは、出産の部屋へ入ることを許されなかった。
出産後に会った母様の顔を見たとき、私は少し驚いた。
母様は泣いていたのだ。
理由はわからなかった。
ただ、腕の中に小さな赤子を抱きしめ、何度も「よかった」と繰り返していた。
そのときの母様の表情を、私は忘れられない。
それ以来、私はルシーを大切にしようと決めた。
弟だから、というだけではない。
母様があれほど心配し、ようやく抱きしめることができた、大切な子供だからだ。
もちろん、リーザも同じ気持ちだろう。
ただ、リーザは私よりも感情を表に出すことが多い。
ルシーを見つけると、すぐに抱き上げようとするし、遊んでいる最中も、何かと構いたがる。
私はそこまで露骨ではないつもりだ。
……少なくとも、自分ではそう思っている。
しかし、ルシーが笑ってくれると嬉しいし、泣いていると心配になる。
何かできるようになれば、誰よりも喜びたいと思う。
きっと、私も十分に甘いのだろう。
◇
「エレオノーラ様、家庭教師の先生がお見えです」
「わかったわ。すぐに参ります」
私は課題をまとめ、椅子から立ち上がった。
次は歴史の授業だ。
王国の成り立ちや、過去の貴族間の争い、領地の境界がどのように定められたか。
覚えることは多い。
しかし、ただ暗記するだけでは意味がない。
なぜ、その争いが起きたのか。
どのような判断が、どのような結果を生んだのか。
過去の出来事から学び、同じ失敗を繰り返さないことが大切だと、母様はよく言っていた。
私は授業を受けながら、ノートに要点を書き留めた。
家庭教師の先生は、私の理解が早いことを褒めてくださった。
「エレオノーラ様は、物事を順序立てて考えることがお得意ですね」
「ありがとうございます」
「ただ、知識を身につけるだけでなく、実際の状況を想像することも忘れないでください。領主になれば、教科書どおりにはいかない問題も多いのですから」
「はい。肝に銘じます」
私は頷いた。
母様の仕事を見ていても、そう思う。
同じ問題でも、相手の立場やそのときの状況によって、最善の選択は変わる。
領民のために必要なことと、領地を維持するために必要なこと。
どちらか一方を優先するだけでは、長く続かない。
両方を考えながら、できる限りよい方法を探さなければならない。
それは簡単ではないだろう。
それでも、私は母様のような領主になりたいと思っていた。
優しく、賢く、必要なときには厳しい判断もできる人。
領民から信頼され、家族を守れる人。
そのためには、今のうちから努力を続けていかなければならない。
◇
昼食の席には、母とルシアニウスがいた。
「ノーラ、リーザ。ちょうどよかったわ」
母様が微笑む。
「今ルシーが、読んでいた絵本の話を聞いていたのよ」
「本当?」
私は弟の顔を覗き込んだ。
ルシーは少し照れたように、母様の隣で座っていた。
「どんなお話だったの?」
「……くま」
「くま?」
「うん。おおきい、くま」
まだ説明は上手ではない。
それでも、自分が読んでもらった本について話そうとしているのがわかった。
「そう。大きな熊が出てくるお話だったのね」
私はゆっくりと相槌を打った。
ルシーは嬉しそうに頷いた。
その顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。
私はこの子を守りたい。
ただ甘やかすだけではなく、いつか自分の力で生きていけるように。
この世界には、男であることを理由に特別扱いされる環境がある。
ルシーも、これから成長するにつれて、そのことを知っていくだろう。
だからこそ、私はこの子に伝えたい。
人に何かをしてもらったら、感謝すること。
相手が誰であっても、尊重すること。
自分が恵まれているからといって、それを当然だと思わないこと。
けれど、今はまだ幼い。
難しい話をする必要はない。
まずは、安心して成長できる環境を整えること。
それが、姉としてできることなのだと思う。
食事が終わると、ルシーは母様に抱き上げられた。
「午後は少し休みましょうね、ルシー」
「……うん」
私は、その様子を見送りながら微笑んだ。
そして、午後の勉強に戻るため、席を立った。
やるべきことは多い。
学ばなければならないことも、身につけなければならないことも、まだまだある。
いつか私が家督を継いだとき、母様のように領地を守れるだろうか。
まだ自信はない。
けれど、努力を続けることはできる。
それに、私には大切な家族がいる。
母様がいて、リーザがいて、ルシーがいる。
いつか私が領主になったときも、この家族が安心して暮らせる場所を守りたい。
それが、今の私の目標だった。
◇
ーエリザベート・ヴァレンシュタイン視点ー
「もう一度お願いします!」
木剣を握りしめ、私は訓練相手に向かって頭を下げた。
「エリザベート様、少し休憩を挟まれてはいかがですか?」
「まだ大丈夫です!」
「しかし、先ほどから動きが乱れております」
「……わかりました」
私は渋々、木剣を下ろした。
悔しい。
もっと上手くなりたいのに。
もっと強くなりたいのに。
身体が思うように動かない。
剣を振るたびに腕が疲れ、足運びを間違えれば体勢が崩れる。
頭ではわかっているのに、身体がついてこない。
私は木剣を見下ろした。
ノーラは将来、家督を継ぐ。
勉強が得意で、物事を冷静に考えられる。母様の仕事を見ていても、ノーラなら立派な領主になれると思う。
では、私は何をすればよいのだろう。
最初は、そんなことを考えていた。
長女が家を継ぐ。
次女は別の道へ進む。
それが、この国のしきたりだった。
机に向かって勉強するより、身体を動かす方が好きだった。
剣を振ることが楽しかった。
訓練を重ねて、少しずつできることが増えていくのが嬉しかった。
だから、騎士になろうと思った。
でも、今はそれだけではない。
私には、守りたいものができた。
ルシーだ。
◇
ルシーが生まれたとき、私はとても嬉しかった。
小さな弟。
初めて見たときは、こんなに小さな子が本当に私の弟なのかと思った。
手も足も細く、少し触れただけで壊れてしまいそうだった。
母様は、そんなルシーを大切そうに抱きしめていた。
私は、弟を抱っこさせてもらいたかった。
でも、まだ小さかった私には難しく、侍女に支えてもらいながら、そっと腕の中に迎えた。
ルシーは、眠っていた。
小さな顔を見ていると、不思議な気持ちになった。
この子は、これからどんなふうに成長するのだろう。
どんなものが好きになるのだろう。
私のことを、姉だとわかってくれるのだろうか。
そう考えるだけで、胸がいっぱいになった。
それから、私はルシーをたくさん可愛がった。
遊んであげた。
抱っこした。
泣いていたら、どうしたのかと心配した。
もちろん、ノーラも同じだった。
ただ、ノーラは私よりも落ち着いている。
ルシーが泣けば、まず何が原因なのかを考える。
私なら、泣いているのを見るだけで、すぐに抱き上げたくなるのに。
ノーラは違う。
お腹が空いているのか。
眠いのか。
何か嫌なことがあったのか。
ちゃんと理由を考えてから、ルシーに接する。
だから、私はよくノーラに注意される。
「リーザ、急に抱き上げたら驚いてしまうでしょう?」
「でも、ルシーがかわいそうじゃない!」
「まずは、どうしたのか聞いてみましょう」
「……わかった」
そんなやり取りを、何度も繰り返してきた。
それでも、私はルシーが大好きだ。
この子が笑ってくれると嬉しい。
この子が何かできるようになると、自分のことのように嬉しくなる。
そして、何か危険なことが起きたら、守ってあげたいと思う。
それが、いつの間にか私の目標になっていた。
もっと強くなりたい。
ルシーを守れるくらいに。
◇
「エリザベート様、再開いたしましょう」
「はい!」
私は木剣を握り直した。
足を開き、腰を落とす。
相手の動きをよく見る。
剣を振るうだけでは駄目だ。
相手がどこから攻めてくるのか。
どちらへ動けば避けられるのか。
どうすれば、自分の体勢を崩さずに反撃できるのか。
考えることはたくさんある。
私は木剣を振った。
相手の剣とぶつかる。
手に衝撃が伝わった。
そのまま押し込もうとしたが、力を受け流され、体勢が崩れた。
「そこまでです」
訓練相手が木剣を下ろした。
「今のは、力を入れすぎております。相手を押し切ることばかり考えてはいけません」
「……はい」
「力で勝てない相手もいます。そういうときは、動き方や間合いを工夫する必要があります」
私は唇を尖らせた。
わかっている。
頭ではわかっているのだ。
けれど、つい力任せになってしまう。
私は、ノーラのように頭がよいわけではない。
難しいことを考えるのは苦手だ。
でも、だからといって、何も考えずに剣を振っていればよいわけではない。
強くなるには、考えることも必要なのだ。
「もう一度、お願いします」
「よろしいでしょう」
私は再び構えた。
今度は、相手の動きを待つ。
焦って攻めない。
相手が動いたら、それに合わせて動く。
剣がぶつかる。
足を踏み替える。
相手の横へ回ろうとする。
先ほどよりも、少しだけ長く打ち合うことができた。
最後には負けてしまったが、訓練相手は頷いてくれた。
「今の動きは、先ほどよりよくなっていました」
「本当ですか?」
「はい。少しずつ身についております。焦らず、繰り返し練習してください」
「はい!」
私は笑顔で返事をした。
少しでも成長できたなら、それでいい。
明日は、今日よりも上手くなろう。
その次の日は、さらに上手くなろう。
そうやって努力を続ければ、いつかきっと強くなれる。
◇
訓練を終え、汗を拭いていると、侍女が近づいてきた。
「エリザベート様、ルシアニウス様がお探しです」
「ルシーが?」
私は顔を上げた。
「はい。セレナと一緒に、こちらへ向かっておいでです」
「わかった! すぐに行くね!」
私は急いで着替えを済ませ、訓練場の出口へ向かった。
そこには、セレナに手を引かれたルシーがいた。
私を見つけると、ルシーが小さな手を振った。
「ルシー!」
私は思わず駆け寄り、抱き上げようとした。
しかし、途中でセレナの言葉を思い出した。
急に抱き上げると、驚かせてしまう。
私は立ち止まり、ルシーの前にしゃがんだ。
「ルシー、どうしたの?」
「……リーザねえさま、いた」
「うん。ここにいるよ」
「……あそぶ?」
私は思わず笑顔になった。
「もちろん!」
けれど、セレナがすぐに口を挟んだ。
「エリザベート様。ルシアニウス様と遊ばれる前に、汗を拭いてお着替えをなさってくださいませ」
「……はーい」
私は少しだけ残念に思ったが、すぐに頷いた。
ルシーと遊ぶのは大好きだ。
でも、汗をかいたままでは、ルシーに不快な思いをさせてしまうかもしれない。
それくらいは、私にもわかる。
「ルシー、少しだけ待っていてね!」
「うん!」
私は急いで着替えを済ませ、戻ってきた。
ルシーはセレナのそばで、大人しく待っていた。
「お待たせ!」
私は手を差し出した。
「今日は何をして遊ぼうか?」
「……ほん」
「本? 絵本を読むの?」
「うん」
「いいね! 私も一緒に読む!」
ルシーは嬉しそうに頷いた。
私はその小さな手を握り、歩き始めた。
守りたい。
この笑顔を。
この子が安心して暮らせる日々を。
そのために、私にできることは何だろう。
騎士になれば、ルシーを直接守る力が身につくかもしれない。
危険があったとき、すぐに駆けつけられるかもしれない。
もちろん、私一人で何でもできるわけではない。
ノーラにはノーラの役割がある。
母様には母様の役割がある。
セレナたち侍女にも、それぞれの仕事がある。
それでも、私は私にできることをしたい。
もっと強くなろう。
もっと学ぼう。
そして、いつかルシーが困ったときには、真っ先に助けに行ける姉になろう。
そんなことを考えながら、私は弟の手を握り直した。
◇
その日の夜。
私は自室で、剣術の先生から渡された課題を見ていた。
今日の訓練で失敗した動きを、どうすれば改善できるか考えるためのものだった。
相手の攻撃を受け流す方法。
体勢を崩さずに動く方法。
力を入れるべき場所と、抜くべき場所。
難しい。
でも、面白い。
身体を鍛えるだけでなく、頭を使うことも必要なのだと、少しずつわかってきた。
私は課題の端に、明日試したいことを書き留めた。
そして、窓の外を眺めた。
夜の屋敷は静かだった。
きっと、ルシーももう眠っているだろう。
明日も、あの子と遊べるだろうか。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
私は、騎士になりたい。
剣を振るうことが好きだから。
身体を鍛えることが好きだから。
そして何より、大切な人を守れるようになりたいから。
それが、私の進む道だ。
ノーラとは違う。
けれど、違うからこそ、できることがある。
私は再び課題に目を向けた。
明日は、今日よりも少しだけ強くなろう。
その積み重ねが、いつかきっと、大切な人を守る力になると信じて。