そして、その翌朝。
俺の人生において、避けては通れない、ある出来事が起こった。
◇
「ルシアニウス様。朝でございます」
聞き慣れた落ち着いた声が、眠りの底に沈んでいた意識をゆっくりと引き上げる。
いつもの朝だった。
窓から差し込む柔らかな光。静かな部屋。整えられた寝台。そして、毎朝決まった時間に俺を起こしに来てくれるセレナ。
俺は寝返りを打ち、目を閉じたまま小さく唸った。
「……あと少し」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたね」
「昨日は昨日。今日は今日だよ……」
「本日の予定は昨日のうちに確認しております。朝食の後はマルグリット先生の授業、その後に魔法の訓練です。起床が遅れますと、予定の調整が必要になります」
「……起きます」
俺は観念して目を開いた。
十二歳になっても、朝が苦手なのは変わらない。
前世では会社員として働いていたのだから、もう少し早起きが得意でもよさそうなものだが、残念ながら、そう都合よくはいかなかった。
セレナが寝台の脇で、いつものように微笑んでいる。
「おはようございます、ルシアニウス様」
「……おはよう、セレナ」
俺は上半身を起こそうとした。
その瞬間だった。
ふと、違和感を覚えた。
何かがおかしい。
寝ぼけた頭では、すぐに原因がわからなかった。
身体が重いわけではない。頭痛がするわけでもない。熱があるような感じもしない。
ただ、妙に変なにおいがする。
それに、下半身に妙な違和感があった。
寝具の感触も、いつもとは少し違う気がする。
俺は眉をひそめ、掛け布団を見下ろした。
セレナもまた、何かに気づいたようだった。
彼女の視線が、俺の表情から寝具へと移る。
そして、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
静寂。
俺は頭の中で、状況を整理しようとした。
変なにおい。
下半身の違和感。
寝具の異変。
……まさか。
いや、待て。
そんなはずは。
けれど、身体に起きた変化には心当たりがあった。
前世の知識が、嫌になるほど正確に答えを示してくる。
思春期。
男性の身体の成長。
そして――。
「「あっ」」
俺が声を上げたのと、セレナが小さく声を漏らしたのは、ほとんど同時だった。
互いに顔を見合わせる。
セレナの表情が、みるみるうちに変わっていった。
普段はどんな状況でも落ち着いている彼女が、明らかに動揺している。
俺も、頭の中が真っ白になっていた。
……嘘だろ。
いや、嘘ではない。
これは、どう考えても。
俺は布団を握りしめた。
顔が熱い。
頭のてっぺんから足の先まで、急激に熱が広がっていくような感覚があった。
「……ルシアニウス様」
「ま、待って」
「はい?」
「その……これは……」
言葉が出てこない。
生物学的な仕組みは知っている。思春期になれば起こり得る現象であり、病気でもなければ、恥ずべきことでもない。
頭では、そう理解していた。
理解していたはずなのだ。
それなのに。
よりによって、朝起きた瞬間に。
しかも、セレナの目の前で。
俺は顔を真っ赤にしながら、布団をさらに引き寄せた。
「……夢精、ですね」
セレナの声は、いつもより少しだけ小さかった。
その言葉を聞いた瞬間、俺は両手で顔を覆いたくなった。
認めたくない。
認めたくないが、現実は変わらない。
「……うん」
ようやく、それだけ答えた。
声が情けないほど小さくなってしまった。
俺は十二歳だ。
身体が成長すれば、こういうことが起きるのは当然だ。
前世でも知識としては理解していたし、こちらの世界でも、十歳になったころから身体の変化について少しずつ意識するようになっていた。
それでも、実際に自分の身に起きると、まるで話が違う。
しかも、俺には前世の記憶がある。
自分の身体が成長していることも、こうした現象が自然なものであることも、頭ではわかっている。
だからこそ、妙な羞恥心があった。
今の俺は十二歳の少年であり、身体もまだ子供に近い。
けれど、精神の奥底には三十代の男としての感覚が残っている。
その両方が一斉に反応して、どうにも落ち着かない気分になっていた。
「……あの、セレナ」
「はい」
「できれば、その……」
俺は言いよどんだ。
何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。
見なかったことにしてもらいたい。
忘れてほしい。
いや、そもそも、どうしてこんなことを頼まなければならないのだろう。
自然な生理現象なのだから、堂々としていればいい。
そう思う一方で、今すぐこの場から消えてしまいたいという気持ちもあった。
セレナは、そんな俺の様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
「ルシアニウス様。どうか、そのように気を落とさないでくださいませ」
「……でも」
「身体が成長している証拠です。何もおかしなことではございません」
落ち着いた声だった。
いつもと同じ、優しい声。
それを聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「……そう、だよね」
「はい。ですから、まずはお着替えと寝具の交換をいたしましょう。朝食までには、まだ時間がございます」
「……うん」
俺は小さく頷いた。
セレナは必要なものを手早く用意し、俺が着替えられるように整えてくれた。
その間、俺はできるだけ彼女の顔を見ないようにしていた。
セレナは何も言わなかった。
余計なことを口にせず、必要な作業を一つずつ進めていく。
それが、今の俺にはありがたかった。
寝具を片づけ、身体を清潔にし、着替えを済ませる。
すべてが終わるころには、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻していた。
ただし、顔の熱だけは、なかなか引いてくれなかった。
「……セレナ」
「はい、ルシアニウス様」
「その……ありがとう」
俺が小さく頭を下げると、セレナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「どういたしまして。わたくしの務めでございますから」
そう言って、彼女は乱れた俺の襟元を整えてくれた。
その手つきは、いつもと変わらず丁寧だった。
だからこそ、俺は余計に恥ずかしくなった。
……本当に、勘弁してほしい。
◇
朝食の席に向かうころには、身支度も整い、表面上はいつもどおりの状態に戻っていた。
ただし、精神的にはまったく戻っていない。
食堂へ向かう廊下を歩きながら、俺は何度も同じことを考えていた。
夢精。
精通。
思春期。
生理現象。
言葉にすれば、それだけのことだ。
身体が成長すれば起こる。個人差はあるが、珍しいことでもない。
医学的にも、恥じる必要はない。
……わかっている。
わかっているのだが。
いざ自分の身に起きると、どうしてこうも落ち着かないのだろう。
前世の記憶があるせいかもしれない。
もし、俺がこの世界で生まれた十二歳の少年としてだけ生きていたなら、もう少し素直に受け止められたのだろうか。
いや、きっとそれでも恥ずかしいものは恥ずかしいだろう。
そもそも、俺は人前で目立つことがあまり好きではない。
社交の場でも、できれば静かに過ごしたいと思っている。
それなのに、身体の変化まで俺の意思とは無関係に起こるのだから、困ったものだ。
「ルシー、おはよう」
食堂に入ると、母様が微笑んだ。
「おはよう、母様」
「今日は少し眠そうですね。昨夜は遅くまで勉強していたのですか?」
「……ううん。そんなことはないよ」
俺はできるだけ自然に答えた。
母様は少し首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
ノーラ姉さまとリーザ姉さまも、すでに席についていた。
「ルシー、今日は顔が赤いわね。熱でもあるの?」
「えっ?」
ノーラ姉さまに指摘され、俺は思わず顔に手を当てた。
まだ赤いのか。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと寝起きが悪かっただけ」
「そう? 具合が悪いなら、無理をしてはいけないわよ」
「うん。ありがとう、ノーラ姉さま」
エレオノーラは心配そうに俺を見ていたが、やがて納得したように頷いた。
一方、リーザ姉さまは少しだけ楽しそうな顔をしていた。
「ルシー、何か隠していることがあるんじゃない?」
「な、何もないよ!」
声が裏返った。
しまった。
これでは、何かあると言っているようなものではないか。
「ふうん?」
「本当に何もないってば!」
「そう。ならいいけど」
エリザベートは、にやにやしながら俺を見ている。
絶対に面白がっている。
この人は、昔から俺の反応を見て楽しむところがあるのだ。
俺はこれ以上余計なことを言わないよう、黙って席についた。
食事が運ばれてくる。
パン、卵料理、野菜、温かなスープ。
いつもと変わらない朝食だった。
俺はできるだけ普段どおりに振る舞い、食事を口に運んだ。
……味がよくわからない。
いや、料理がおいしくないわけではない。
むしろ、いつもどおりおいしい。
ただ、頭の中が朝の出来事でいっぱいだった。
セレナは、俺が朝食を食べている間、いつもどおり少し離れた場所で控えていた。
目が合う。
俺は反射的に視線を逸らした。
セレナも、ほんのわずかに目を伏せる。
……やめてくれ。
思い出してしまう。
俺はパンを口に運び、無理やり別のことを考えた。
今日の授業は何だっただろうか。
午前中はマルグリット先生の授業だ。その後、昼食を挟んで師匠のところへ向かう。
魔法学校への提出書類も確認しなければならない。最近まとめた研究ノートの整理も残っている。
そうだ。
やるべきことは山ほどある。
今朝の出来事をいつまでも気にしている場合ではない。
そう考えれば考えるほど、逆に意識してしまうのが困ったところだった。
結局、俺はいつもより少し早く朝食を終えた。
「ごちそうさまでした」
「もういいの、ルシー?」
「うん。今日は少し早めに準備しておこうと思って」
「そう。勉強も大切だけれど、無理はしないでね」
「わかってるよ、母様」
俺は笑顔を作り、食堂を後にした。
背後からリーザ姉さまの声が聞こえる。
「ねえ、ノーラ。やっぱり何かあったんじゃない?」
「リーザ、あまりルシーをからかってはいけないわ」
「わかってるって。でも、あの反応は絶対に何かあるわよ」
「……もう」
ノーラ姉さまの呆れた声が続いた。
俺は聞こえなかったことにした。
◇
その日の午後。
俺が師匠のもとで魔法の授業を受けている間、セレナは一人で母様の執務室を訪れていた。
「奥様。少々、ご報告したいことがございます」
いつもと変わらぬ声だったが、その表情は普段よりも神妙だった。
机に向かって書類を確認していたアンネリーゼは、顔を上げた。
「どうしました、セレナ。何か問題でも?」
「はい。ルシアニウス様のことでございます」
その言葉を聞き、アンネリーゼはすぐに姿勢を正した。
息子のこととなれば、どんな些細なことでも気になる。
「ルシーに何かあったのですか?」
「いえ、お身体に問題が生じたわけではございません。むしろ、成長に関するご報告でございます」
「成長?」
アンネリーゼは首を傾げた。
セレナは一度、静かに息を吸った。
そして、普段どおりの落ち着いた口調を保ちながら、言葉を選んで告げた。
「本日の朝、ルシアニウス様が初めて精通なさいました。夢精も伴っておりましたので、わたくしのほうで必要な処置を済ませております」
アンネリーゼは、数秒間、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと目を見開いた。
「……まあ」
声には驚きと、母親としての感慨が滲んでいた。
ついこの間まで、寝台の上で手足を動かしていた赤ん坊だった。
初めて歩いた日。初めて言葉を話した日。魔法に興味を持ち、危険な実験をして叱られた日。
その一つ一つが、まるで昨日のことのように思い出される。
身体が大人へと向かい始める年齢になったのだ。
「そう……。もう、そんな時期なのですね」
「はい、奥様」
セレナは静かに頷いた。
アンネリーゼは、しばらく手元の書類に目を落としていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ルシーは、恥ずかしがっていましたか?」
「はい。大変、恥ずかしがっておいででした」
「ふふ……そうでしょうね」
アンネリーゼの口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
息子の成長を喜ぶ気持ちと、まだ幼いと思っていた息子が少しずつ大人へ近づいていることへの、言葉にしがたい寂しさ。
その二つが、胸の中で静かに混ざり合っていた。
「それにしても……ルシーも、もう十二歳ですか」
「はい」
「あと三年で成人。魔法学校への入学も決まっていますし、本当に早いものですね」
「わたくしも、そう感じております」
セレナの声には、ほんの少しだけ感慨が滲んでいた。
彼女がルシアニウスの専属侍女になったのは、彼が五歳のときだ。
あの日、幼い主人は、数ある侍女の中から彼女を選んだ。
それから七年。
日々の勉強を支え、魔法の研究に必要な資料を整え、時には無茶をする主人を叱り、時には失敗を一緒に片づけてきた。
その少年が、少しずつ大人になっていく。
喜ばしいことだ。
けれど、成長すればするほど、いつか自分の手を離れていく日が近づいているのだとも感じる。
セレナは、そんな思いを胸の奥にしまい込んだ。
今はまだ、主人を支えることが自分の役目なのだから。
「これからも、ルシーをよろしくお願いしますね」
「はい、奥様。誠心誠意、お仕えいたします」
セレナは、いつもと同じように頭を下げた。
そして、静かに執務室を後にした。
◇
「ついに…ね…」
一人になったアンネリーゼはそんな言葉を漏らした
成長がうれしいことは事実だ。しかし、アンネリーゼはそれ以外の理由で12年間この日を待ちわびていた。
あとはルシアニウス次第である
この日を思い自分で自分を鎮めた日々を思い出す
正直ルシアニウスには嫌われていないとは思う
しかし、だからといって、いくら慣例とはいえ自分を選んでくれなかったらという考えがいつも頭にあった
対抗馬の有力候補としてはセレナがいる。
強敵だろう
というか私が結婚や出産を勧めたのにしなかったのはこの日を狙っていたに違いない
すました顔してやっぱり女のようだ
「ルシアニウス…」
もう一度祈ってから仕事に戻ることにした