※この作品はR-18です。

琥珀の底   作:ほもちめめ

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一 マンネリ

同棲して五年目の冬だった。

 

遥が目を覚ますと、隣の布団はもう冷たかった。キッチンから、ケトルが湯を沸かす低い唸りと、悠真がマグカップを棚から取り出す音が聞こえる。いつもと同じ朝。いつもと同じ順番の音。

 

「おはよう」

「おはよう。コーヒー、淹れとく」

「ありがと」

 

会話はそれで終わる。悠真はトーストをかじりながらスマホでニュースを眺め、遥は洗面所で髪をまとめる。鏡越しに目が合っても、どちらも何も言わない。言うべきことが、もう特に残っていないのだ。

 

付き合い始めた頃のことを、遥はときどき思い出す。大学のサークルの飲み会で、隅の席に座っていた悠真に話しかけたのは遥のほうだった。終電を逃して、二人で朝まで歩いた。手が触れるか触れないかの距離で、くだらない話をして、何度も笑った。初めて彼の部屋に泊まった夜は、緊張で指先が冷たくなって、悠真がその手を両手で包んで温めてくれた。

 

あの頃は、彼の指が少し髪に触れただけで、心臓が跳ねた。

 

今は違う。

悠真の手は、毎晩遥の身体に触れる。肩に、腰に、太腿に。けれどそれは、決まった場所を決まった順番で辿っていく、慣れた道のりのようなものだった。どこをどう触れればいいのか、互いにもう知り尽くしている。知り尽くしているからこそ、驚きがない。

 

夜の営みは、だいたい週に一度。金曜日か土曜日。風呂から上がり、並んでソファに座ってテレビを眺め、番組が終わると、どちらからともなく「寝よっか」と言う。寝室の灯りを消して、短いキスをひとつ。それが合図だ。

 

悠真の手順は丁寧で、優しい。遥もそれに応える。身体は正しく反応するし、ちゃんと気持ちいいとも思う。

けれど、どこか遠い。

まるで薄い膜を一枚隔てて、自分の身体の出来事を眺めているような感覚。熱は上がるのに、芯まで届かない。届く前に、終わってしまう。

 

終われば、それぞれ背を向けてスマホを手に取る。画面の青白い光が、二人の横顔を別々に照らす。悠真は動画を、遥はSNSを。同じベッドの上で、違う場所を見ている。

 

嫌いになったわけではなかった。悠真の寝癖は相変わらず可笑しいし、遥が鼻歌を歌うと、彼は今でも小さく笑う。彼が風邪をひけば遥は粥を作るし、遥の仕事が遅くなれば、悠真は駅まで迎えに来る。愛情はちゃんとある。たぶん、出会った頃よりも深く。

 

ただ、互いの体温に驚かなくなっていた。肌を重ねることが、暖房の効いた部屋に入るのと同じくらい、当たり前のことになっていた。

 

「最近さ、なんか……」

ある晩、事のあとの暗がりで、遥は天井に向かって言いかけた。

「なに?」

背中越しに悠真の声。スマホの光がわずかに揺れる。

「……ううん、なんでもない」

 

悠真も、言葉の続きを本当は分かっていた。自分も同じことを思っていたから。最近、なんか、物足りない。そう口にした途端、二人で積み上げてきたものが、音を立てて崩れてしまう気がした。だから訊き返さなかった。遥も、続きを言わなかった。

 

暗闇の中で、二人分の沈黙だけが、少しずつ重くなっていった。

 

    ◇

 

その店を見つけたのは、二月の、冷たい雨の日だった。

 

週末、二人で久しぶりに街へ出た帰り道。駅へ向かう途中で空が急に暗くなり、大粒の雨が叩きつけるように降り出した。傘は一本しかなかった。悠真がそれを遥の側へ傾けると、彼の肩はみるみる濡れて、色が変わっていった。

 

「どこか入ろう」

悠真が遥の手を引いて、大通りから一本外れた路地へ駆け込む。

 

古い木造の建物が並ぶ、細い路地だった。昼間なのに薄暗く、雨音だけが石畳に跳ねている。

遥は、ふと違和感を覚えた。

大通りからほんの数歩入っただけなのに、車の音も、人の声も、まるで聞こえない。振り返ると、さっきまでいたはずの通りの明かりが、雨の向こうでやけに遠く滲んでいた。

 

「……こんな道、あったっけ」

「さあ。この辺、あんまり来ないし」

 

悠真はそう答えたが、彼もまた、無意識に遥の手を握る力を強めていた。

 

路地の中ほどに、看板のない引き戸があった。曇りガラスの向こうに、橙色の灯りがぼんやりと滲んでいる。戸は、ほんの指一本ぶんだけ開いていた。

まるで、誰かが来るのを待っていたかのように。

 

「お店……だよね?」

「たぶん。とりあえず、雨が弱まるまで入れてもらおう」

 

本当は、二人とも入りたくなかった。けれど雨脚はさらに強くなり、他に軒先らしいものも見当たらない。悠真が戸に手をかけると、乾いた木が、長い溜め息のような音を立てて軋んだ。

 

    ◇

 

中はひんやりとして、薄暗かった。

 

最初に感じたのは匂いだった。乾燥した薬草の青臭さと、その底に沈む、甘く重たい香り。蜜を何時間も煮詰めたような、喉の奥にまとわりつく甘さ。遥は思わず深く息を吸い込んで、それから、はっとして口元を押さえた。一瞬、頬がかっと熱くなったのだ。まるで、誰かに耳元で囁かれたときのように。

 

「……悠真、なんか、この匂い」

「うん。ちょっと、きついね」

 

悠真も眉をひそめていた。けれど遥は気づいていた。彼の喉仏が、ごくりと上下したのを。

 

「すみませーん」

悠真が奥へ声をかける。返事はない。

暗がりの向こうに、店の奥行きがどこまで続いているのか分からなかった。外から見た建物は、こんなに広くなかったはずなのに。

 

壁一面に、古びた木の棚が据えつけられている。けれどそのほとんどは空っぽで、埃が薄く積もっていた。遥は棚に近づいて、そこに残った小さな跡に気づいた。埃の中に、丸い輪がいくつも並んでいる。かつて、そこに何十もの瓶が置かれていたのだ。

 

――全部、誰かが買っていった?

 

その考えに、遥はなぜか背筋が冷えた。

 

棚の中央に、たったひとつだけ、小さな瓶が残っていた。琥珀色だった。親指ほどの大きさのガラス瓶で、天井のランプの光を透かして、中身がとろりと揺れている。蜂蜜よりも少し赤みがかっていて、光の加減で、ときおり金色にきらめいた。

 

ラベルはなかった。文字も、絵も、何もない。なのに、二人ともその瓶から目を離せなかった。見てはいけないものを見ているような、それでいて、ずっと見ていたいような。

 

「……ねえ、出よう」

遥が悠真の袖を引いた。

「雨、まだ強いよ」

「でも、なんか変だよ、ここ。誰もいないし」

 

そのときだった。

 

「お二人に、ちょうどいいものがありますよ」

 

声は、すぐ背後から聞こえた。遥は短く悲鳴を上げ、悠真は反射的に彼女を背中に庇った。

 

いつの間にか、小柄な老婆が立っていた。戸の開く音も、足音もしなかった。最初からそこにいたかのように、暗がりの中にぽつんと佇んでいる。皺だらけの顔の中で、目だけがやけに黒く、濡れたように光っていた。

 

「……驚かせないでくださいよ」

悠真が引きつった笑みを浮かべる。老婆は何も言わず、ただ二人の顔を交互に、ゆっくりと見た。

 

遥の顔を。悠真の顔を。

それから、二人のあいだに空いた、ほんの拳ひとつ分の隙間を。

 

まるで、何もかも知っているかのように、目を細める。

 

遥はぞっとした。

この人は、自分たちのことを知っている。毎晩背中を向けて眠ることも、言いかけてやめた言葉も、暗闇の中で重くなっていく沈黙も。そんな馬鹿な、と思うのに、そうとしか思えなかった。

 

「……これは、何ですか」

悠真が棚の瓶を指して尋ねた。声が少し掠れていた。

 

老婆は答えず、棚から瓶を取り上げると、迷いなく遥の手のひらに載せた。遥は思わず手を引きかけた。ガラスが、温かかったのだ。冷えきった店の中で、それだけが、人肌のように。いや、人肌よりも少しだけ熱い。手のひらの中で、とくん、と脈打ったような気さえした。

 

「ひと匙で、世界が変わります」

 

老婆の声は低く、湿っていた。

 

「退屈も、寂しさも、溶けてなくなりますよ」

 

「……中身は何なんですか。成分とか」

悠真が食い下がる。仕事で契約書を読むときの、慎重な声だった。

「飲んで大丈夫なものなんですか? 何かの薬? それとも――」

 

老婆は、ゆっくりと首を傾げた。その仕草が、悠真の質問をまるごと聞かなかったことにしているように見えて、彼は言葉を失った。

 

「ただし」

 

黒い目が、まっすぐに遥を見た。

悠真ではなく、遥だけを。

 

「欲張らないことです」

 

それは忠告のようでもあり、

なぜか、予言のようにも聞こえた。

 

    ◇

 

値段を訊くと、老婆は指を三本立てた。三千円、ではなかった。三百円だった。

 

「……安すぎない?」

遥が小声で言う。

「いや、怪しすぎるでしょ」

悠真も小声で返す。「やめとこう。返そう」

 

なのに、気づけば悠真は財布から小銭を取り出していた。自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。遥も止めなかった。止めようとして開いた口から、言葉が出てこなかったのだ。

 

老婆は小銭を受け取ると、何も言わず、奥の暗がりへと歩いていった。足音はやはりしなかった。小さな背中が闇に溶け、そのまま戻ってこなかった。

 

「……あの、すみません」

悠真の声だけが、空っぽの店に虚しく響いた。

 

    ◇

 

外に出ると、雨はもう上がっていた。雲の切れ間から、夕陽が路地に斜めに射し込んでいる。濡れた石畳が、赤く光っていた。

 

二人は無言のまま、数歩歩いた。

それから同時に振り返った。

 

引き戸は、ぴたりと閉じていた。曇りガラスの向こうの灯りは消え、戸には古い板が打ちつけられていた。何年も前からそうだったかのように、板は黒ずみ、釘は赤く錆びている。

 

「……え」

 

遥の声が震えた。悠真は何も言わず、ただ彼女の手をきつく握った。

 

大通りに出た途端、車の音と人の声が、洪水のように耳に流れ込んできた。いつもの街だった。二人はしばらく黙って歩き、駅の明かりが見えたところで、ようやく悠真が口を開いた。

 

「……変な店だったね」

「変なんてもんじゃないよ」

「帰ったら、捨てようか。それ」

「……うん。そうだね」

 

遥は頷いた。

頷きながら、コートのポケットの中で、小瓶を握りしめていた。

 

ガラスはまだ、ほんのりと温かかった。手を離そうとしても、指がうまく言うことを聞かなかった。

 

その夜、瓶はゴミ箱ではなく、食器棚の一番奥にしまわれた。

「念のため、ね」と遥が言い、悠真は「うん」とだけ答えた。何のための念なのか、二人とも説明しなかった。

 

冗談のつもりで買ったのだ。

少なくとも、そのときの二人は、そう思おうとしていた。

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