同棲して五年目の冬だった。
遥が目を覚ますと、隣の布団はもう冷たかった。キッチンから、ケトルが湯を沸かす低い唸りと、悠真がマグカップを棚から取り出す音が聞こえる。いつもと同じ朝。いつもと同じ順番の音。
「おはよう」
「おはよう。コーヒー、淹れとく」
「ありがと」
会話はそれで終わる。悠真はトーストをかじりながらスマホでニュースを眺め、遥は洗面所で髪をまとめる。鏡越しに目が合っても、どちらも何も言わない。言うべきことが、もう特に残っていないのだ。
付き合い始めた頃のことを、遥はときどき思い出す。大学のサークルの飲み会で、隅の席に座っていた悠真に話しかけたのは遥のほうだった。終電を逃して、二人で朝まで歩いた。手が触れるか触れないかの距離で、くだらない話をして、何度も笑った。初めて彼の部屋に泊まった夜は、緊張で指先が冷たくなって、悠真がその手を両手で包んで温めてくれた。
あの頃は、彼の指が少し髪に触れただけで、心臓が跳ねた。
今は違う。
悠真の手は、毎晩遥の身体に触れる。肩に、腰に、太腿に。けれどそれは、決まった場所を決まった順番で辿っていく、慣れた道のりのようなものだった。どこをどう触れればいいのか、互いにもう知り尽くしている。知り尽くしているからこそ、驚きがない。
夜の営みは、だいたい週に一度。金曜日か土曜日。風呂から上がり、並んでソファに座ってテレビを眺め、番組が終わると、どちらからともなく「寝よっか」と言う。寝室の灯りを消して、短いキスをひとつ。それが合図だ。
悠真の手順は丁寧で、優しい。遥もそれに応える。身体は正しく反応するし、ちゃんと気持ちいいとも思う。
けれど、どこか遠い。
まるで薄い膜を一枚隔てて、自分の身体の出来事を眺めているような感覚。熱は上がるのに、芯まで届かない。届く前に、終わってしまう。
終われば、それぞれ背を向けてスマホを手に取る。画面の青白い光が、二人の横顔を別々に照らす。悠真は動画を、遥はSNSを。同じベッドの上で、違う場所を見ている。
嫌いになったわけではなかった。悠真の寝癖は相変わらず可笑しいし、遥が鼻歌を歌うと、彼は今でも小さく笑う。彼が風邪をひけば遥は粥を作るし、遥の仕事が遅くなれば、悠真は駅まで迎えに来る。愛情はちゃんとある。たぶん、出会った頃よりも深く。
ただ、互いの体温に驚かなくなっていた。肌を重ねることが、暖房の効いた部屋に入るのと同じくらい、当たり前のことになっていた。
「最近さ、なんか……」
ある晩、事のあとの暗がりで、遥は天井に向かって言いかけた。
「なに?」
背中越しに悠真の声。スマホの光がわずかに揺れる。
「……ううん、なんでもない」
悠真も、言葉の続きを本当は分かっていた。自分も同じことを思っていたから。最近、なんか、物足りない。そう口にした途端、二人で積み上げてきたものが、音を立てて崩れてしまう気がした。だから訊き返さなかった。遥も、続きを言わなかった。
暗闇の中で、二人分の沈黙だけが、少しずつ重くなっていった。
◇
その店を見つけたのは、二月の、冷たい雨の日だった。
週末、二人で久しぶりに街へ出た帰り道。駅へ向かう途中で空が急に暗くなり、大粒の雨が叩きつけるように降り出した。傘は一本しかなかった。悠真がそれを遥の側へ傾けると、彼の肩はみるみる濡れて、色が変わっていった。
「どこか入ろう」
悠真が遥の手を引いて、大通りから一本外れた路地へ駆け込む。
古い木造の建物が並ぶ、細い路地だった。昼間なのに薄暗く、雨音だけが石畳に跳ねている。
遥は、ふと違和感を覚えた。
大通りからほんの数歩入っただけなのに、車の音も、人の声も、まるで聞こえない。振り返ると、さっきまでいたはずの通りの明かりが、雨の向こうでやけに遠く滲んでいた。
「……こんな道、あったっけ」
「さあ。この辺、あんまり来ないし」
悠真はそう答えたが、彼もまた、無意識に遥の手を握る力を強めていた。
路地の中ほどに、看板のない引き戸があった。曇りガラスの向こうに、橙色の灯りがぼんやりと滲んでいる。戸は、ほんの指一本ぶんだけ開いていた。
まるで、誰かが来るのを待っていたかのように。
「お店……だよね?」
「たぶん。とりあえず、雨が弱まるまで入れてもらおう」
本当は、二人とも入りたくなかった。けれど雨脚はさらに強くなり、他に軒先らしいものも見当たらない。悠真が戸に手をかけると、乾いた木が、長い溜め息のような音を立てて軋んだ。
◇
中はひんやりとして、薄暗かった。
最初に感じたのは匂いだった。乾燥した薬草の青臭さと、その底に沈む、甘く重たい香り。蜜を何時間も煮詰めたような、喉の奥にまとわりつく甘さ。遥は思わず深く息を吸い込んで、それから、はっとして口元を押さえた。一瞬、頬がかっと熱くなったのだ。まるで、誰かに耳元で囁かれたときのように。
「……悠真、なんか、この匂い」
「うん。ちょっと、きついね」
悠真も眉をひそめていた。けれど遥は気づいていた。彼の喉仏が、ごくりと上下したのを。
「すみませーん」
悠真が奥へ声をかける。返事はない。
暗がりの向こうに、店の奥行きがどこまで続いているのか分からなかった。外から見た建物は、こんなに広くなかったはずなのに。
壁一面に、古びた木の棚が据えつけられている。けれどそのほとんどは空っぽで、埃が薄く積もっていた。遥は棚に近づいて、そこに残った小さな跡に気づいた。埃の中に、丸い輪がいくつも並んでいる。かつて、そこに何十もの瓶が置かれていたのだ。
――全部、誰かが買っていった?
その考えに、遥はなぜか背筋が冷えた。
棚の中央に、たったひとつだけ、小さな瓶が残っていた。琥珀色だった。親指ほどの大きさのガラス瓶で、天井のランプの光を透かして、中身がとろりと揺れている。蜂蜜よりも少し赤みがかっていて、光の加減で、ときおり金色にきらめいた。
ラベルはなかった。文字も、絵も、何もない。なのに、二人ともその瓶から目を離せなかった。見てはいけないものを見ているような、それでいて、ずっと見ていたいような。
「……ねえ、出よう」
遥が悠真の袖を引いた。
「雨、まだ強いよ」
「でも、なんか変だよ、ここ。誰もいないし」
そのときだった。
「お二人に、ちょうどいいものがありますよ」
声は、すぐ背後から聞こえた。遥は短く悲鳴を上げ、悠真は反射的に彼女を背中に庇った。
いつの間にか、小柄な老婆が立っていた。戸の開く音も、足音もしなかった。最初からそこにいたかのように、暗がりの中にぽつんと佇んでいる。皺だらけの顔の中で、目だけがやけに黒く、濡れたように光っていた。
「……驚かせないでくださいよ」
悠真が引きつった笑みを浮かべる。老婆は何も言わず、ただ二人の顔を交互に、ゆっくりと見た。
遥の顔を。悠真の顔を。
それから、二人のあいだに空いた、ほんの拳ひとつ分の隙間を。
まるで、何もかも知っているかのように、目を細める。
遥はぞっとした。
この人は、自分たちのことを知っている。毎晩背中を向けて眠ることも、言いかけてやめた言葉も、暗闇の中で重くなっていく沈黙も。そんな馬鹿な、と思うのに、そうとしか思えなかった。
「……これは、何ですか」
悠真が棚の瓶を指して尋ねた。声が少し掠れていた。
老婆は答えず、棚から瓶を取り上げると、迷いなく遥の手のひらに載せた。遥は思わず手を引きかけた。ガラスが、温かかったのだ。冷えきった店の中で、それだけが、人肌のように。いや、人肌よりも少しだけ熱い。手のひらの中で、とくん、と脈打ったような気さえした。
「ひと匙で、世界が変わります」
老婆の声は低く、湿っていた。
「退屈も、寂しさも、溶けてなくなりますよ」
「……中身は何なんですか。成分とか」
悠真が食い下がる。仕事で契約書を読むときの、慎重な声だった。
「飲んで大丈夫なものなんですか? 何かの薬? それとも――」
老婆は、ゆっくりと首を傾げた。その仕草が、悠真の質問をまるごと聞かなかったことにしているように見えて、彼は言葉を失った。
「ただし」
黒い目が、まっすぐに遥を見た。
悠真ではなく、遥だけを。
「欲張らないことです」
それは忠告のようでもあり、
なぜか、予言のようにも聞こえた。
◇
値段を訊くと、老婆は指を三本立てた。三千円、ではなかった。三百円だった。
「……安すぎない?」
遥が小声で言う。
「いや、怪しすぎるでしょ」
悠真も小声で返す。「やめとこう。返そう」
なのに、気づけば悠真は財布から小銭を取り出していた。自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。遥も止めなかった。止めようとして開いた口から、言葉が出てこなかったのだ。
老婆は小銭を受け取ると、何も言わず、奥の暗がりへと歩いていった。足音はやはりしなかった。小さな背中が闇に溶け、そのまま戻ってこなかった。
「……あの、すみません」
悠真の声だけが、空っぽの店に虚しく響いた。
◇
外に出ると、雨はもう上がっていた。雲の切れ間から、夕陽が路地に斜めに射し込んでいる。濡れた石畳が、赤く光っていた。
二人は無言のまま、数歩歩いた。
それから同時に振り返った。
引き戸は、ぴたりと閉じていた。曇りガラスの向こうの灯りは消え、戸には古い板が打ちつけられていた。何年も前からそうだったかのように、板は黒ずみ、釘は赤く錆びている。
「……え」
遥の声が震えた。悠真は何も言わず、ただ彼女の手をきつく握った。
大通りに出た途端、車の音と人の声が、洪水のように耳に流れ込んできた。いつもの街だった。二人はしばらく黙って歩き、駅の明かりが見えたところで、ようやく悠真が口を開いた。
「……変な店だったね」
「変なんてもんじゃないよ」
「帰ったら、捨てようか。それ」
「……うん。そうだね」
遥は頷いた。
頷きながら、コートのポケットの中で、小瓶を握りしめていた。
ガラスはまだ、ほんのりと温かかった。手を離そうとしても、指がうまく言うことを聞かなかった。
その夜、瓶はゴミ箱ではなく、食器棚の一番奥にしまわれた。
「念のため、ね」と遥が言い、悠真は「うん」とだけ答えた。何のための念なのか、二人とも説明しなかった。
冗談のつもりで買ったのだ。
少なくとも、そのときの二人は、そう思おうとしていた。