瓶は、それから三週間、食器棚の奥で眠っていた。
二人とも、その存在を口にしなかった。けれど遥は、皿を取り出すたびに、奥の暗がりにちらりと目をやってしまう自分に気づいていた。悠真も同じだった。夜中に水を飲みに起きたとき、なぜか食器棚の前で足が止まる。扉の向こうから、あの甘い匂いが漏れてくるような気がして。
もちろん、そんなはずはなかった。蓋はきつく閉まっている。
それでも、気がした。
あの店のことは、何度か調べた。悠真は地図アプリで路地を探し、遥は「看板のない薬屋」「琥珀色の小瓶」と検索した。何も出てこなかった。地図の上では、あの路地は存在しないことになっていた。大通りから一本入ったその場所には、古いビルの裏手の、ただの壁があるだけだった。
「……やっぱり、捨てたほうがいいよね」
ある朝、遥が言った。
「うん」
悠真は頷いた。それきり、話は終わった。
瓶は、捨てられなかった。
◇
開けたのは、三月の金曜日の夜だった。
その日、悠真の会社で小さなプロジェクトが無事に終わり、二人は近所のビストロで祝杯をあげた。久しぶりの外食だった。赤ワインを一本空けて、帰り道は二人とも少し足元がおぼつかなかった。
「ねえ、手、つないでいい?」
遥が言うと、悠真は笑って、黙って手を差し出した。
冷たい夜風の中で、つないだ手だけが温かかった。こんなふうに歩くのは、いつ以来だろう。遥は彼の指の節を親指でなぞりながら、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
部屋に戻っても、酔いは醒めなかった。ソファに並んで座り、どうでもいい話をして笑った。悠真の上司の口癖を遥が真似すると、彼は腹を抱えて笑った。その笑い声を聞きながら、遥はふと、食器棚に目をやった。
悠真も、その視線を追った。
部屋が、急に静かになった。
「……ねえ」
遥の声は、思ったよりも小さかった。
「あれ、ちょっとだけ、試してみない?」
悠真はすぐには答えなかった。酔いで少し赤くなった顔のまま、真剣な目で遥を見た。
「本気?」
「……わかんない」
遥は膝の上で指を絡めた。「でも、ずっと気になってたの。悠真も、でしょ」
悠真は否定しなかった。
「得体の知れないものだよ。何が入ってるかも分からない」
「うん」
「あの店、やっぱりおかしかった。消えてたし」
「うん」
「体に悪いものだったら、どうする」
「……ほんの少しなら」
遥は顔を上げた。
「ほんの少しなら、大丈夫だと思う。あのおばあさんも言ってたじゃない。欲張らなければって。欲張らなければ、いいんでしょ」
それは悠真を説得するための言葉だったのか、自分自身を説得するための言葉だったのか、遥にも分からなかった。
悠真は長いあいだ黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、食器棚の扉を開けた。
◇
瓶は、三週間前と同じ場所にあった。悠真が手に取ると、ガラスはやはり、ほんのりと温かかった。暖房の切れた台所で、それだけが。
「……温かい」
悠真が呟いた。遥は答えなかった。答えるまでもなく、知っていた。
テーブルに小匙を二本並べる。悠真が瓶の蓋に指をかける。固く閉まっていると思ったのに、蓋は拍子抜けするほど簡単に回った。
途端に、匂いが溢れた。
あの店と同じ、いや、もっと濃い。濃縮された蜜の甘さが、薬草の苦みを纏って、部屋いっぱいに広がっていく。遥は息を止めようとした。止められなかった。吸い込むたびに、胸の奥がとろりと緩んでいく。悠真の手が、わずかに震えているのが見えた。
「……やめるなら、今だよ」
悠真が言った。
「うん」
遥は頷いた。そして、小匙を手に取った。
瓶を傾けると、琥珀色の液体が、ゆっくりと口元まで這い上がってくる。蜂蜜よりも重く、なかなか落ちない。やがて、ひと雫だけが、小匙の先にぽたりと垂れた。ランプの光の下で、その雫は金色に光っていた。
もうひと雫、悠真の小匙に。
二人は顔を見合わせた。
遥が小さく笑った。緊張で引きつった笑みだった。悠真も同じ顔をしていた。
「せーの、で」
「……せーの」
舐めた。
甘い。
舌の上に、とろりとした甘さが広がる。蜂蜜でもない、メープルでもない、どこかで嗅いだことがあるのに思い出せない、懐かしいような甘さ。その奥から、じわりと苦みが滲み出して、喉の奥にしばらく残った。
二人は息を詰めて、互いの顔を見つめた。
十秒。二十秒。一分。
何も起きなかった。
「……何も、ないね」
遥が拍子抜けしたように言った。
「うん」
悠真の肩から、ふっと力が抜けた。「ただのシロップだったのかも」
「あんなに怖がって、馬鹿みたい」
笑い合った。笑うと、張りつめていたものが一気にほどけて、可笑しくてたまらなくなった。瓶の蓋をきつく閉め、悠真がそれを食器棚に戻す。遥はテレビをつけた。深夜のバラエティ番組が、空々しい笑い声を流していた。
ソファに戻り、二人で並んで画面を眺める。内容は、まるで頭に入ってこなかった。
◇
最初に気づいたのは、遥だった。
指先が、熱い。
暖房はつけていない。部屋は少し肌寒いくらいのはずだ。なのに、膝の上に置いた両手の指先だけが、まるで湯に浸けたように火照っている。ワインのせいかもしれない、と思った。
けれど熱は、引かなかった。
それどころか、ゆっくりと這い上がってくる。指先から手のひらへ。手のひらから手首へ。手首の内側の、皮膚の薄いところを、熱がじわじわと撫でていく。誰にも触れられていないのに、触れられているような感覚。遥は思わず、自分の手首を握った。
自分の指が触れた瞬間、びくりと肩が跳ねた。
「……っ」
声が漏れた。慌てて唇を噛む。自分の手で、自分の手首に触れただけだ。それだけなのに、触れた場所から、細い電流のようなものが腕を駆け上がった。
「遥?」
名前を呼ばれた。
それだけで、耳の奥がじんと痺れた。悠真の声が、いつもと違って聞こえる。低くて、柔らかくて、鼓膜の内側を直接撫でられたような。声の振動が耳から首筋へ、首筋から背骨へと、ゆっくり伝い落ちていく。
「だ、大丈夫……」
振り向いて、遥は息を呑んだ。
悠真が、シャツの袖をまくっていた。暑い、とでも言うように、無意識に。肘まで捲り上げられた布の下から、彼の前腕が覗いている。
毎日見ているはずの腕だった。
なのに、目が離せなかった。
浮き上がった筋。手の甲から肘へと走る、青い血管の線。骨ばった手首。うっすらと生えた産毛が、ランプの光を受けて淡く光っている。こんなに綺麗な形をしていただろうか。こんなに、触れてみたいと思わせる腕だっただろうか。
喉が鳴った。
自分の喉が、ごくりと鳴る音を、遥は初めて聞いた気がした。
◇
悠真もまた、様子がおかしかった。
熱い。
酔いのせいだと思っていた。けれど身体の芯から湧き上がってくるこの熱は、アルコールのそれとは明らかに違う。皮膚の内側で、無数の小さな火が灯っていくような。
隣に目をやって、悠真は動けなくなった。
遥の首筋に、後れ毛が一筋、汗で貼りついていた。呼吸に合わせて、肩がゆっくりと上下している。膝の上で握りしめられた指。少し開いた唇。頬から耳にかけて、ほんのりと赤く染まった肌。
五年間、見慣れたはずの横顔だった。それが今、初めて出会った人のように、鮮やかに、眩しく見える。
「遥」
呼んだつもりはなかった。名前が、勝手にこぼれ落ちた。遥がこちらを向く。潤んだ目が、まっすぐに悠真を捉える。
その目に、悠真は見覚えがあった。大学の頃。終電を逃して、二人で朝まで歩いた夜。夜明けの公園のベンチで、初めてキスをする直前に、遥がこんな目をしていた。
「……悠真」
遥の声が、震えていた。
「なんか、変……」
悠真は、そっと手を伸ばした。怖がらせないように、ゆっくりと。彼女の肩に、指先を置く。
服越しだった。
ニットの厚い生地越しに、ほんの軽く、触れただけだった。
遥の身体が、大きく跳ねた。
「ぁ……っ」
声にならない声。
触れられた一点から、波紋が広がっていく。水面に石を落としたように、肩から背中へ、背中から腰へ、腰から脚の先へ。痺れは熱に変わり、熱は甘い疼きに変わって、身体の奥深くへと沈んでいく。
遥は自分の両腕を抱きしめた。怖かった。自分の身体が、自分のものではなくなっていく。触れられただけで、こんなふうになるなんて。
けれど、怖さよりも強いものがあった。
もっと、と思った。
もっと触れてほしい。今触れられた場所だけじゃなく、全部。
「……なに、これ」
それが、問いだったのか、懇願だったのか、遥自身にも分からなかった。
◇
悠真は答えなかった。答えられなかった。
彼女の首筋に、ゆっくりと顔を近づける。肌から立ちのぼる熱が、頬に触れた。驚くほど熱かった。そして、かすかに甘い匂いがした。あの瓶の、琥珀色の蜜の匂い。遥の肌そのものが、蜜を纏っているかのように。
唇が、首筋に触れた。
遥の口から、聞いたことのない声がこぼれた。高くて、細くて、震えていて。自分の喉からこんな声が出ることを、遥は知らなかった。恥ずかしい、と思う間もなく、悠真の唇が首筋をなぞり、耳の後ろへ辿り着く。そこに吐息がかかった瞬間、遥の視界が白く弾けた。
悠真もまた、自分を見失いかけていた。唇に触れる彼女の肌が、甘い。舐めたわけでもないのに、舌の奥に、あの蜜の味が広がっていく。彼女が震えるたびに、自分の身体にも同じ震えが伝わってくる。触れているのは自分のはずなのに、触れられているような。
「悠真……」
遥の指が、彼のシャツを掴んだ。強く。
「ここじゃ、やだ……」
悠真は彼女を抱き上げた。
寝室までのほんの数歩が、果てしなく遠く感じられた。腕の中で、遥は彼の首にしがみつき、肩口に顔を埋めて、熱い息を何度も吐いた。その息がかかるたびに、悠真の足が止まりそうになった。
◇
その夜のことを、二人は今でもうまく思い出せない。
覚えているのは、断片だけだ。
灯りを消し忘れた寝室。ランプの橙色に照らされた天井。服を脱がせ合う指が、もどかしいほど震えていたこと。ボタンひとつ外すたびに、布が肌を擦るたびに、二人とも小さく声を上げたこと。
肌と肌が初めて触れ合った瞬間、雷に打たれたように、二人同時に動けなくなったこと。しばらく、ただ抱き合ったまま、互いの鼓動を聞いていたこと。速くて、強くて、どちらがどちらの心臓の音なのか分からなかった。
悠真の手が、遥の背中をゆっくりと撫で下ろしたこと。いつもと同じ手順のはずだった。五年間、何度も辿った道のりだった。なのに今夜は、まるで初めて触れる場所のように、指先の一本一本が新しかった。触れられるたびに、遥の身体のどこかで、知らなかった扉がひとつ開いていく。
何年ぶりかに、互いの名前を何度も呼んだこと。呼ぶたびに、声が掠れていったこと。
シーツを握りしめた遥の指の、白さ。悠真の背中に残った、小さな爪の跡。
いつもの、薄い膜一枚隔てたような遠さが、どこにもなかったこと。熱は芯まで届いた。届いて、溢れて、それでもまだ足りなくて、二人は何度も互いを求めた。
時間の感覚が溶けていった。
窓の外が白み始めたことにも、気づかなかった。
◇
覚えているのは、最後のことだけだ。
すべてが終わったあと、二人は背を向けなかった。汗ばんだ身体を寄せ合い、絡めた脚をほどかないまま、互いの胸の上下を感じていた。悠真の腕の中で、遥は彼の鎖骨に額を押しつけていた。
スマホには、どちらも手を伸ばさなかった。
「……悠真」
「ん」
「なんか……」
遥はその先を言わなかった。
悠真も、訊き返さなかった。
けれど今度の沈黙は、重くなかった。温かくて、柔らかくて、何も言わなくても全部伝わっているような沈黙だった。
いつの間にか、二人は眠りに落ちていた。
◇
翌朝、遥は昼近くに目を覚ました。
カーテンの隙間から、春の光が射し込んでいる。身体が重い。けれど、それは嫌な重さではなかった。手足の先まで、温かいお湯がゆっくりと満ちているような、心地よい気怠さだった。
隣を見ると、悠真はまだ眠っていた。口を少し開けて、子どものような顔で。寝癖が、いつもよりひどかった。
遥は上半身を起こして、それから、ベッドの惨状に気づいた。
シーツは大きく波打ち、半分ほどがマットレスから剥がれ落ちている。枕はひとつが床に転がり、もうひとつは足元にあった。脱ぎ捨てた服が、寝室の入り口からベッドまで、点々と道を作っている。シーツに顔を寄せると、汗の匂いに混じって、かすかに甘い匂いがした。あの瓶と、よく似た匂いだった。
遥は両手で顔を覆った。
頬が、燃えるように熱かった。昨夜とは違う種類の熱だった。
「……おはよ」
掠れた声に振り向くと、悠真が目を覚ましていた。彼もベッドの様子を見回し、それから遥の顔を見て、照れくさそうに笑った。
「すごかったね」
「……言わないで」
「いや、だって」
「言わないでってば」
遥は枕を彼の顔に押しつけた。悠真が笑いながら、それを押し返す。二人で、子どものようにじゃれ合った。笑い声が寝室に響いた。こんなふうに朝を迎えるのは、本当に久しぶりだった。
◇
悠真がコーヒーを淹れているあいだ、遥は食器棚の前に立っていた。
扉を開ける。
瓶は、昨夜悠真が戻した場所に、何事もなかったかのように収まっていた。手に取ると、やはり温かい。中身は、ほとんど減っていないように見えた。たった二滴だ。当然だった。
たった二滴で、あれほどのことが起きたのだ。
遥は、瓶を光にかざした。
琥珀色の液体が、とろりと揺れて、金色にきらめく。
綺麗だ、と思った。
そして、そう思った自分に、ほんの少しだけ、ぞっとした。
「遥」
背後から、悠真が声をかけた。マグカップを二つ持っている。
彼も、遥の手の中の瓶を見ていた。
二人は、しばらく黙っていた。
「……たまになら」
先に口を開いたのは、悠真だった。
「たまになら、いいよね」
遥は、瓶を握る手に、少しだけ力をこめた。
「うん」
小さく頷く。
「たまになら」
瓶は、食器棚に戻された。
今度は一番奥ではなく、少しだけ手前に。手を伸ばせば、すぐに届く場所に。
二人は約束した。
欲張らない。たまにだけ。特別な夜にだけ。
そのときは、本気で守れると思っていた。