たまに、は、最初は本当に「たまに」だった。
あの夜から次に瓶を開けるまで、二人はちょうど一か月待った。どちらが言い出したわけでもない。カレンダーに印をつけたわけでもない。けれど二人とも、なんとなく日を数えていた。三週間が過ぎたあたりから、悠真は帰宅すると、まず食器棚に目をやるようになった。遥は、金曜日が近づくと、仕事中にふと手が止まるようになった。
一か月目の金曜日。
夕食のあと、悠真が黙って食器棚を開けた。遥は黙って小匙を二本並べた。
二度目は、一度目ほど怖くなかった。何が起きるか知っていたから。知っていて、それを待ち望んでいたから。
ひと雫を舐め、テレビもつけずに、ソファで並んで待った。互いの顔を見ないようにしていた。見たら、薬が効くより先に、何かが始まってしまいそうだった。
十分後。
指先がじわりと火照り出した瞬間、遥は小さく息を吐いた。それは安堵の吐息だった。
◇
三度目は、三週間後だった。
四度目は、二週間後。
「ほら、悠真、来週から出張でしょ。その前に」
「この前のプレゼン、頑張ったご褒美ってことで」
「明日休みだし」
理由は、いつもちゃんとあった。特別な夜にだけ、という約束は守られていた。ただ、特別な夜が、少しずつ増えていっただけだった。
五月の連休には、三日続けて瓶を開けた。
「連休だから」と遥が言い、悠真が頷いた。三日目の朝、遥は洗面所の鏡で、自分の首筋に残った赤い跡を見つけた。それを指でなぞりながら、昨夜のことを思い出して、膝から力が抜けそうになった。
鏡の中の自分は、少し痩せたように見えた。
けれど肌には艶があった。目が、潤んでいた。会社の同僚に「最近きれいになったね、何かあった?」と訊かれて、遥は曖昧に笑ってごまかした。
帰り際には、隣の席の後輩が、すれ違いざまに小さく鼻を鳴らした。
「遥さん、なんか甘い匂いしません? 香水変えました?」
香水など、つけていなかった。
◇
その夜は、六月の初めの、雨の金曜日だった。
いつものように、小匙にひと雫。舐めて、ソファに並んで、待つ。
五分。十分。
指先が、ぽっと温かくなった。遥はほっと息をついて、悠真の肩に頭を預けた。彼の腕が、いつものように腰に回される。
肌がざわめいた。
けれど、それだけだった。
十五分。二十分。
熱は、指先から手首までで止まっていた。いつもなら、そこから腕を這い上がり、肩を越え、背中を伝って、身体の芯まで沈んでいくはずなのに。今夜の熱は、皮膚の表面を薄く撫でるだけで、それ以上深くへは降りてこない。
悠真の唇が首筋に触れた。
気持ちいい。確かに気持ちいい。
けれど、あの夜のように視界が白く弾けることはなかった。
遠い。
その感覚に、遥はぞっとした。知っている。この遠さを、知っている。
薄い膜が、一枚。
自分の身体と、自分の感覚のあいだに、また挟まっている。瓶を開ける前の、あの何年も続いた夜と同じ膜が。
悠真も、気づいていた。
彼の手の動きが、少しずつ、焦るように速くなっていく。もっと強く、もっと深く。あの夜に届いた場所へ、何とかして届かせようとするように。
届かなかった。
その夜は、それなりに満たされて終わった。
それなりに。
◇
終わったあと、二人は背を向けなかった。けれど、抱き合ってもいなかった。並んで天井を見上げたまま、どちらも何も言わなかった。
雨の音だけが、窓を叩いていた。
遥は、自分の胸の奥に、見慣れない感情が渦巻いているのに気づいた。
苛立ちだった。
悠真に対してではない。自分の身体に対して。どうして。どうして今夜は届かないの。同じ瓶の、同じ量なのに。先週はあんなに深く沈めたのに。
それから、苛立ちの底に、もっと暗いものが沈んでいるのにも気づいた。
渇き、だった。
喉が渇いたときのような、けれど水では決して潤わない、身体の奥の乾き。一度あの深さを知ってしまった身体が、それを取り上げられて、声もなく悲鳴を上げている。
もっと。
もっと欲しい。
その言葉が、頭の中で、はっきりと形になった。
遥は目を閉じた。
自分がそう思ったことが、ひどく恐ろしかった。
隣で、悠真が寝返りを打った。眠っていないのは分かっていた。彼の呼吸は、浅くて、不規則だった。
「……悠真」
「ん」
「今日、なんか……」
「うん」
それ以上、どちらも言わなかった。言わなくても、分かっていた。
その夜、遥は明け方まで眠れなかった。身体の奥の渇きが、ずっと、ちりちりと疼いていた。
◇
それからの一週間は、長かった。
渇きは、消えなかった。
朝起きると、まず喉の奥に、あの乾きがある。会社でパソコンに向かっていても、昼休みに弁当を食べていても、それは静かに、けれど確かにそこにあった。
食器棚の前を通るたびに、足が止まった。
扉の向こうに、瓶がある。
温かいガラス。琥珀色の液体。
今夜開けてしまおうか。いや、まだ一週間経っていない。約束がある。欲張らないって。
約束を思い出すたびに、あの老婆の黒い目が浮かんだ。
欲張らないことです。
欲張るって、何だろう。
遥は、洗い物をする手を止めて考えた。量を増やすこと? 回数を増やすこと? それとも、もっと欲しいと思うこと、そのもの?
だとしたら、自分はもう、とっくに欲張っている。
◇
翌週の金曜日。
テーブルに、小匙が二本並んでいた。悠真が瓶を傾ける。琥珀色の液体が、ゆっくりと口元まで這い上がってくる。
ひと雫が、小匙の先に垂れた。
悠真の手が、そこで止まった。
瓶を傾けたまま、動かない。
口元に、次の雫が、ふくらんで、震えている。あと少し傾ければ、落ちる。
遥は、その雫を見つめていた。
悠真も、見つめていた。
雨の夜からずっと、二人とも同じことを考えていた。
口に出さなかっただけで。
「……もう一滴、いく?」
悠真の声は、掠れていた。
遥は、すぐには答えなかった。答えはもう決まっていた。決まっていることが怖くて、すぐには口にできなかった。
老婆の黒い目。
湿った、低い声。
欲張らないことです。
「一滴だけなら」
自分の声が、どこか遠くで聞こえた。
「一滴増やすだけなら、欲張りじゃないよね」
それは問いかけの形をしていた。けれど、答えを求めてはいなかった。
悠真が、手首をほんの少し傾けた。震えていた雫が、ぽたりと、小匙の上に落ちた。
二滴。
◇
二滴は、すぐに効いた。
舐めて、五分も経たなかった。舌に残る甘さは、ひと雫のときよりずっと濃く、焦がした砂糖のような苦みが、喉の奥にいつまでもまとわりついた。最初の夜と同じ、いや、それ以上の熱が、一気に押し寄せてきた。
指先から、手首から、そんな順番は飛ばして、いきなり身体の芯に。胃の底に落ちた蜜が、そこで爆ぜて、熱の波が全身に向かって放射状に広がっていく。
「っ、ぁ……!」
遥はソファの上で身をよじった。膜が、剥がれた。音を立てて、一気に。あの雨の夜にあれほど遠かった感覚が、今は皮膚のすぐ下にある。むき出しで、触れれば灼けるほど近くに。
悠真の袖を掴む。
彼もまた、荒い息を吐きながら、遥を見ていた。その目が、獣のように濡れて光っていた。
その夜、遥は思った。
ああ、これだ。
これが欲しかったんだ。
一週間ずっと身体の奥で疼いていた渇きが、一瞬で満たされていく。乾いた土に水が沁み込むように。いや、それ以上に。満たされて、溢れて、もっと深いところまで潤っていく。
そして、満たされたその瞬間に。遥は、はっきりと分かってしまった。
この渇きは、また来る。
今夜が終われば、また来る。そしてそのときは、二滴でも足りなくなるのだろう。
分かっていた。
分かっていたけれど、悠真の唇が首筋に触れた瞬間、その考えは熱に溶けて、跡形もなく消えた。
その考えが、どれほど危ういものか。熱に溶けていく頭では、もう分からなかった。
◇
遥の予感は、当たった。
二滴は、三週間で効かなくなった。
ひと匙になった。
ひと匙は、ひと月で薄くなった。
二匙になった。
効き目が浅くなるたびに、あの雨の夜が繰り返された。届かない熱。戻ってくる膜。満たされないまま迎える明け方。そして、身体の奥に巣食う渇き。
その渇きは、回を重ねるごとに深く、暗くなっていった。
量を増やせば、また届く。
増やせば増やしただけ、応えてくれる。
それが、この薬のいちばん怖いところだったのかもしれない。裏切らない。だから、やめる理由が見つからない。
◇
ひと匙のとき、触れられた場所が熱くなった。
二匙のとき、触れられる前から肌がざわめいた。悠真が隣に座るだけで、彼の体温が空気を伝って、肌の表面を撫でていくのが分かった。見えない指で、全身をくまなくなぞられているような。
三匙目を舐めたのは、七月の、蒸し暑い夜だった。
その数日前、二匙が効かなくなった夜があった。遥は、終わったあとのベッドの上で、声を殺して泣いた。悲しいのではなかった。苦しかった。満たされない身体が、内側から自分を責め立ててくるようで。悠真は、何も言わずに彼女の背中をさすり続けた。その手も、かすかに震えていた。
だから、三匙目を舐めるとき、遥はもう迷わなかった。
舐めた瞬間、少し怖くなった。舌の上の甘さが、いつもより重い。喉を滑り落ちていく感覚が、いつもより長い。胃の底に、とろりとした熱の塊が沈んでいくのが分かる。
「……悠真、ちょっと、多かったかも」
「うん……僕も、そう思う」
けれど、その怖さも、十分後には跡形もなく溶けていた。
三匙のときには、服の衣擦れだけで膝が震えた。立ち上がろうとして、スカートの裾が太腿を撫でた。それだけで、遥はその場にへたり込んだ。自分の身体を包んでいる布の一枚一枚が、まるで生きた手のように、肌の上を這い回っている。冷蔵庫の低い唸りも、窓の外を走る車の音も、やけに近い。耳ではなく、肌の上で鳴っているように聞こえた。
悠真が慌てて駆け寄り、彼女の肩を抱いた。その腕の重みに、遥は声を上げた。
「だ、大丈夫? 遥――」
「……耳、やめて」
「え?」
「声……耳に、かかると……」
悠真の吐息が耳たぶに触れるたびに、遥の思考が白く溶けていった。自分が何を言おうとしていたのか。今が何時なのか。ここがどこなのか。全部、蜜の中に沈んでいく。残ったのは、悠真の体温と、匂いと、声だけだった。
悠真も、同じだった。
遥の髪から立ちのぼる匂いを吸い込むたびに、頭の芯が痺れる。腕の中で彼女が震えるたびに、自分の背筋にも同じ震えが走る。触れているのか、触れられているのか。抱いているのか、抱かれているのか。境目が、どんどん曖昧になっていく。
その夜、二人は夜明けまで眠らなかった。眠れなかった。眠りたくなかった。
◇
明け方。
汗に濡れたシーツの上で、遥はぼんやりと天井を見上げていた。身体の隅々まで、満ち足りた気怠さが広がっている。渇きは、どこにもなかった。
今は。
「……ねえ、悠真」
「ん……」
「次は、何匙になるのかな」
冗談めかして言ったつもりだった。けれど、声は少しも笑っていなかった。
悠真は、しばらく黙っていた。それから、遥の手を探り当てて、指を絡めた。
「……わからない」
窓の外が、白み始めていた。
食器棚の瓶の中身は、もう、三分の一ほど減っていた。
◇
その週末、悠真が言った。
「来月、大阪に出張が入った。……五日間」
遥は、持っていたマグカップを、ゆっくりとテーブルに置いた。
五日間。
瓶を開けずに過ごしたことなら、何度もある。一週間、二週間、待ったこともある。
けれど、悠真がいない五日間は、一度もなかった。
「……そっか」
遥は笑った。
「仕事だもんね。仕方ないよ」
悠真も、笑った。
二人とも、相手の笑顔がひどくぎこちないことに、気づかないふりをした。