再会したあの夜から、量は、坂道を転がるように増えていった。
四匙は、一週間で浅くなった。
五匙になった。
五匙は、十日もたなかった。
六匙になった。
もう、小匙は使わなくなっていた。大きなスプーンで、どろりと掬って、そのまま口に運ぶ。量るのをやめたのが、いつだったのか思い出せない。
効き目が浅い夜の苦しさは、あの出張の五日間を思い出させた。骨の芯の渇き。止まらない震え。肌の上を這う、見えない虫。二人とも、もう二度とあれを味わいたくなかった。だから、浅いと感じた瞬間に、迷わずもうひと掬い足した。
裏切らない薬だった。
足せば、足しただけ、応えてくれた。
◇
九月の初めのある夜。
遥が、いつものように瓶を傾けた。琥珀色の液体が、ゆっくりと口元まで這い上がってくる――はずだった。
なかなか、降りてこなかった。
遥は、瓶をさらに傾けた。
ほとんど逆さまにして、ようやく、どろりとした最後の塊が、スプーンの上に落ちた。
遥は、瓶を光にかざした。
底に、ほんのわずかに、琥珀色の膜が残っているだけだった。
あとは、空っぽのガラス。
「……悠真」
遥の声が、震えていた。
悠真が、台所に入ってきた。
遥の手の中の瓶を見て、足が止まった。
二人は、しばらく、何も言わずに瓶を見つめていた。
「……今夜の分は、ある」
悠真が、静かに言った。
「二人で分ければ、たぶん」
「明日は?」
悠真は、答えなかった。
◇
その夜、二人は最後のひと掬いを分け合った。
足りなかった。
二人分には、まるで足りなかった。
熱は来た。けれど、浅かった。あの雨の夜の、届かない感覚。戻ってくる膜。そして、終わったあとに襲ってくる、骨の芯の渇き。
明け方、遥はベッドの上で膝を抱えて、小さく震えていた。
「……行こう」
遥が、掠れた声で言った。
「あの店。もう一回、探しに行こう」
悠真は、遥の背中をさすりながら、ゆっくりと頷いた。
地図の上には存在しない路地。戸に打ちつけられていた、錆びた釘の板。あの店がもう一度見つかる保証なんて、どこにもなかった。
それでも、行くしかなかった。
◇
土曜日の午後。
二人は、あの日と同じ駅で降りた。大通りを歩く。あの日、雨宿りのために駆け込んだのは、確かこのあたりだった。
けれど、路地はなかった。
古いビルの裏手。灰色のコンクリートの壁。地図アプリで見たとおりの、ただの行き止まり。
「……ここだったよね」
「うん。ここのはず」
二人は、壁の前に立ち尽くした。
一本先の路地も見た。二本先も。反対側の通りも、裏手の駐車場も、隣のブロックも。
何もなかった。
日が傾き始めた。
遥の指先が、また震え始めていた。悠真の額に、脂汗が滲んでいた。昨夜の浅い熱は、もうとっくに身体から抜けきっていた。
「……どうしよう」
遥が、壁に手をついて、うなだれた。
「見つからなかったら、どうしよう。私、もう、あの五日間みたいなの、耐えられない……」
悠真は、遥の肩を抱いた。
その腕も、細かく震えていた。
そのときだった。
ぽつり、と。
悠真の頬に、冷たいものが落ちた。
見上げると、さっきまで晴れていた空が、いつの間にか、灰色の雲に覆われていた。
ぽつり。ぽつり。
雨粒が、だんだん大きくなっていく。
あの日と、同じ雨だった。
遥が、顔を上げた。
そして、息を呑んだ。
さっきまで灰色の壁しかなかった場所に、細い路地が口を開けていた。
古い木造の建物が並ぶ、薄暗い路地。雨音だけが、石畳に跳ねている。
その中ほどに、看板のない引き戸。曇りガラスの向こうに、橙色の灯りが、ぼんやりと滲んでいた。
戸は、ほんの指一本ぶんだけ、開いていた。
◇
二人は、もう、怖がらなかった。
迷わずに路地に踏み込み、引き戸に手をかけた。乾いた木が、長い溜め息のような音を立てて軋んだ。
中は、あの日と同じだった。
ひんやりとした空気。薄暗い天井のランプ。
そして、乾いた薬草と、蜜を煮詰めたような甘い匂い。
その匂いを吸い込んだ瞬間、二人とも、膝が崩れそうになった。あの雨の日には、頬が少し熱くなっただけだった。今は、全身の皮膚が一斉に粟立ち、喉の奥が、ごくりと鳴った。
身体が、この匂いを覚えていた。
覚えていて、求めていた。
壁一面の棚は、相変わらず、ほとんど空っぽだった。埃の中に残された、無数の丸い輪の跡。
けれど、あの日より、その輪が増えている気がした。
棚の中央に、瓶がひとつ。
琥珀色の液体が、ランプの光を透かして、とろりと揺れていた。
「お待ちしておりましたよ」
声は、やはり背後から聞こえた。
振り向くと、老婆が立っていた。皺だらけの顔。濡れたように光る、黒い目。
老婆は、二人の顔を、交互に、ゆっくりと見た。こけた頬を。目の下の影を。震える指先を。
それから、二人のあいだに目をやった。あの雨の日には、拳ひとつ分の隙間が空いていた場所。
今は、隙間などなかった。
二人の肩は、ぴたりと寄り添い、指は固く絡み合っていた。
「……あの」
悠真が口を開いた。声が掠れていた。
「同じものを。もう一本、ください」
老婆は、すぐには動かなかった。
ただ、黒い目で、二人をじっと見つめていた。震える遥の指先を。脂汗の滲む悠真の額を。互いを離そうとしない、固く絡み合った二人の手を。
やがて、老婆は小さく溜め息をついた。
「欲張らないことです、と……申し上げたはずですがねえ」
遥の肩が、びくりと跳ねた。
責める口調ではなかった。
その声には、かすかな笑みが含まれていた。
「ひと匙で、十分だったのですよ。ひと匙で、お二人の退屈は溶けた。寂しさも消えた。……それで、やめておけばよかった」
老婆は、ゆっくりと棚に手を伸ばした。
「けれど、皆さん、欲張るのです。最初の一本だけで帰っていった方は、ひとりもいらっしゃいません」
皺だらけの指が、埃の中の丸い輪の跡を、ひとつ、またひとつと、愛おしむようになぞっていく。
「ひとりも、ね」
老婆は棚から瓶を取り上げた。けれど今度は、遥の手には載せなかった。自分の胸の前で、両手に包むように持ったまま、二人を見上げた。
「三十万円になります」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「さんじゅう、まん……?」
悠真が、掠れた声で繰り返した。
「前は、三百円で……」
「ええ。最初の一本は、三百円です」
老婆は、こともなげに頷いた。
「最初の一本は、お試しですから。ひと匙で世界が変わることを、知っていただくための。……知ってしまったあとの一本は、お値段が違います」
黒い目が、細められた。
「お二人とも、もう、ご存じでしょう? この瓶が、どれほどの値打ちのものか」
遥は、唇を噛んだ。
知っていた。
骨の芯の渇き。止まらない震え。満たされない夜明け。そして、満たされたときの、あの深さ。
それを知ってしまった今、三百円が安すぎたことも、三十万円が高すぎないことも、身体が知っていた。
「……そんな大金、今、持ってません」
悠真が、絞り出すように言った。
「構いませんよ」
老婆は、瓶を胸に抱いたまま、穏やかに微笑んだ。
「この雨が止むまでは、ここは開いております。駅前に、銀行がございましたねえ」
◇
二人は、雨の中を走った。
傘は持っていなかった。
濡れた髪が頬に貼りつき、シャツが肌に貼りつく。その感触さえ、渇いた身体には、ざらりとした痺れになって響いた。
駅前のATMの前で、悠真は、震える指で暗証番号を押した。二人で旅行のために貯めていた口座だった。いつか行こうと話していた、北欧のオーロラ。五年分の、少しずつの積み立て。
画面に表示された金額を、二人は一瞬だけ見つめた。
それから、悠真が「引き出し」を押した。迷わなかった。遥も、止めなかった。
吐き出された札束は、思っていたよりもずっと薄かった。オーロラは、こんなに薄っぺらいものだったのか、と遥はぼんやり思った。
雨が、少し弱まっていた。
「急ごう」
悠真が遥の手を引いた。
路地が消えてしまう前に。
◇
路地は、まだそこにあった。
引き戸は、指一本ぶん開いたままだった。
老婆は、店の真ん中で、さっきと同じ姿勢のまま待っていた。まるで、二人が戻ってくるまで、一歩も動かずにいたかのように。
悠真が、濡れた封筒を差し出した。
老婆は受け取り、中身を数えもせずに、懐にしまった。それから、ようやく瓶を遥の手のひらに載せた。
温かかった。
あの日よりも、ずっと。
今の遥には、それが、自分の肌とまったく同じ温度だと分かった。
「次は、もう少しお高くなりますよ」
老婆が言った。
天気の話でもするような、何気ない口調だった。
「……次」
遥が呟く。
「ええ。三本目は、百万円」
悠真が、息を呑んだ。
「そんな……買えるわけ……」
「ええ、ええ。皆さん、そうおっしゃいます」
老婆は、目を細めて笑った。
「そして皆さん、ちゃんと、いらっしゃるのです」
それだけ言うと、老婆は背を向けて、奥の暗がりへと歩いていった。足音もなく。小さな背中が、闇に溶けていった。
◇
外に出ると、雨は上がっていた。
振り返ると、路地はもうなかった。灰色のコンクリートの壁が、夕陽に赤く照らされているだけだった。
二人は、しばらく、その壁を見つめていた。
「……百万なんて、無理だよ」
遥が、呟いた。
「だから、今度は、大事に使おう。ね。少しずつ」
悠真は頷いた。
遥のコートのポケットの中で、瓶が、とくん、と脈打った。
◇
大事に使おう、という約束は、四日もたなかった。
新しい瓶を開けた最初の夜、二人は六匙分を一気に飲んだ。効いた。あの雨の夜以来の深さで。
翌日は、少しだけ減らそうと話した。五匙にした。浅かった。結局、あとからもう二掬い足した。
三日後には、七匙になった。
一週間後には、もう数えるのをやめていた。大きなスプーンで、二杯、三杯。瓶を直接傾けて、喉に流し込んだ夜もあった。
三十万円の瓶の中身が、目に見える速さで減っていく。
遥は、瓶を光にかざすたびに、胸が締めつけられた。これが、オーロラだった。五年分の、二人の未来だった。それが、一晩ごとに、喉の奥に消えていく。
それでも、手は止まらなかった。
量に比例して、熱は深くなった。服の衣擦れどころではなかった。空気の流れだけで、肌がざわめく。エアコンの風が首筋を撫でるだけで、遥は小さく声を上げた。悠真が同じ部屋にいる、ただそれだけで、身体の芯がじんと痺れる。
◇
二本目の瓶が底をついたのは、三週間後だった。
前の夜、最後のひと掬いを二人で分けた。足りなかった。まるで足りなかった。
そして、あの渇きが来た。
出張の五日間と同じ。いや、もっと酷かった。量を増やしすぎた身体は、蜜が切れた途端、悲鳴を上げた。
骨の芯が軋んだ。
指先だけでなく、全身が震えた。歯の根が合わず、カチカチと鳴った。
肌の上を這う虫は、もう皮膚の下にまで潜り込んでいるようだった。
遥は、会社のトイレで嘔吐した。悠真は、商談の最中に意識が遠くなりかけて、同僚に支えられて早退した。
その夜、二人は灯りもつけない部屋で、震えながら抱き合っていた。
抱き合えば、少しはましだった。互いの体温と、匂いと、鼓動。それだけで、ほんのわずかに、渇きが和らぐ。けれど、そこまでだった。あの深さには、まるで届かない。
「……百万」
暗闇の中で、悠真が言った。
遥は、何も答えなかった。
答えなくても、二人とも、同じことを考えていた。
◇
翌朝、二人は、テーブルの上に通帳とカードを並べた。
旅行用の口座は、もう空っぽだった。悠真の普通預金に、四十万と少し。遥の口座に、二十三万。引っ越しのときのために、と二人で積み立てていた定期預金が、十五万。
全部合わせても、八十万に届かなかった。
二人は、黙って数字を見つめた。
「……足りないね」
遥が言った。
声は、ひどく平坦だった。
悠真は、しばらく黙っていた。
家計簿をつけ始めたのは、同棲を始めた最初の月だった。毎月の終わりに、二人で数字を眺めながら、少しずつ増えていく貯金に、缶ビールで小さく乾杯した。借金だけはしない。それが、几帳面な悠真が自分に課した、たったひとつの決まりだった。
その決まりが、頭の片隅で、かすかに声を上げていた。けれど指先は、もう震えていた。遥の肩も、震えていた。あの雨の夜の、届かない熱。骨の芯の渇き。それをもう一度、遥に味わわせるくらいなら――。
決まりの声は、震えの中で、あっけなく掻き消えた。
悠真は、財布から一枚のカードを取り出して、テーブルの上に置いた。
銀行のカードではなかった。
キャッシングのできる、クレジットカード。
遥は、それを見つめた。
何か言うべきだと思った。やめよう、と。借金なんて、と。
けれど、口から出てきたのは、違う言葉だった。
「……今日、行ける?」
悠真は、頷いた。
◇
その日は、晴れていた。
雨が降らなければ、路地は現れない。二人とも、それを知っていた。
会社には、二人とも行かなかった。遥は上司に「体調不良で」とだけメッセージを送った。悠真は、連絡すらしなかった。
札束の入った封筒を鞄に入れて、二人はあの駅で降りた。ビルの裏手の、灰色の壁の前に立った。
空を見上げた。
雲ひとつない、九月の青空。
二人は、そこで待った。
一時間。二時間。
ビルの影が、ゆっくりと伸びていく。
遥は、壁際にしゃがみ込んで、膝を抱えていた。
震えが、止まらなかった。
悠真は、その隣に立って、ずっと空を見上げていた。雨を。雨だけを、祈るように。
通りすがりの人が、怪訝そうに二人を振り返っていく。壁の前で、何時間も、何をするでもなく佇んでいる男女。こけた頬と、焦点の合わない目。
構わなかった。
もう、他人の目など、どうでもよかった。
日が傾き始めた頃。
ぽつり、と。
遥の手の甲に、冷たいものが落ちた。
顔を上げた。
空の端から、灰色の雲が、異様な速さで流れ込んできていた。
ぽつり。ぽつり。
雨粒が、大きくなっていく。
遥は、泣きそうな顔で笑った。悠真が、彼女の手を引いて立たせた。
壁があった場所に、細い路地が口を開けていた。
◇
老婆は、店の真ん中で待っていた。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じ、穏やかな声だった。二人が来ることなど、とうに分かっていたかのように。
悠真が、黙って封筒を差し出した。厚かった。前の封筒の、三倍以上。そのうちの二十五万は、今朝、駅前の機械で、カードから引き出したものだった。
老婆は受け取り、やはり中身を数えもせずに、懐にしまった。
「よく、いらっしゃいました」
棚から、瓶を取り上げる。
遥の手のひらに、そっと載せた。
温かかった。
いや、熱いくらいだった。
遥は、それを両手で包み込んだ。瓶を握りしめただけで、震えが、ほんの少し、収まった。
「……次は」
悠真が、掠れた声で訊いた。
訊きたくなかった。けれど、訊かずにはいられなかった。
「四本目は、いくらなんですか」
老婆は、しばらく黙って二人を見つめていた。
こけた頬を。
濡れて、焦点の揺れる目を。
震えながらも固く絡み合った指を。
そして、二人の肌から、かすかに立ちのぼる甘い匂いを。
老婆は、すんと鼻を鳴らした。匂いを確かめるように。熟れ具合を見定めるように。
それから、小さく笑った。
「お二人には、四本目は、もう要らないかもしれませんねえ」
「……どういう、意味ですか」
老婆は答えなかった。
ただ、あの日と同じように、ゆっくりと首を傾げただけだった。
そして、背を向けて、奥の暗がりへと歩いていった。足音もなく。小さな背中が、闇に溶けていく、その間際に。
「――ご心配なく。お二人がお支払いになった分は、いずれ、何倍にもして返していただきますから」
声だけが、ひんやりとした店の空気の中に、ぽつりと残った。
◇
三本目の瓶は、二人を、さらに深いところへ連れていった。
もう、大事に使おう、とは、どちらも言わなかった。百万円の重さも、カードの請求書のことも、蜜が喉を落ちていく瞬間には、跡形もなく溶けて消えた。
量は、とうに意味を失っていた。欲しいだけ飲んだ。足りないと思えば、また飲んだ。
身体の奥に、蜜が溜まっていく感覚があった。飲んだ分が、一晩で抜けきらない。翌朝になっても、指先に、首筋に、腹の奥に、琥珀色の熱がうっすらと残っている。それが、日を追うごとに、少しずつ濃くなっていく。
それでも、二人は、まだ、ぎりぎりのところで会社に通っていた。
◇
異変が起きたのは、十月の初めの、平日の夜だった。
その夜は、瓶を開けていなかった。三本目も、もう半分近く減っていた。四本目がいくらになるのか、考えるのも怖くて、二人は「今夜は飲まない」と決めていた。
遥は、台所で洗い物をしていた。悠真が風呂から上がってきて、彼女の背後に立った。いつものように、何気なく、肩越しに頬へキスをした。
それだけだった。
本当に、それだけだったのに。
唇が離れた瞬間、遥は手に持っていた皿を取り落とした。シンクの中で、陶器が鈍い音を立てて割れた。
「遥!? 大丈夫、怪我――」
悠真の声が、遠くで聞こえた。遥は答えられなかった。シンクの縁を両手で掴み、俯いたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
熱い。
キスされた頬から、熱が広がっていく。あの琥珀色の、蜜の熱。飲んだときと同じ。いや、飲んだときよりも、もっと直接的で、生々しい。悠真の唇が触れた場所から、彼の何かが、皮膚を通して自分の中に染み込んでくるような。
「……ゆう、ま」
振り向いた遥の目を見て、悠真は息を呑んだ。
潤んで、焦点が揺れている。
頬が赤く染まり、唇が薄く開いている。
瓶を飲んだ夜と、同じ顔だった。
「僕……何も……」
悠真は自分の唇に触れた。
「今日、飲んでないよね。僕も、遥も」
「……うん」
「じゃあ、なんで」
答えは、どちらにも分かっていた。あの路地の、老婆の声が、二人の耳の奥で、同時に蘇っていた。
お二人には、四本目は、もう要らないかもしれませんねえ。
◇
確かめたのは、悠真だった。
震える遥の身体を支えてソファまで運び、隣に座らせる。彼女の首筋には、汗が玉になって浮かんでいた。熱に浮かされた肌が、じっとりと湿っている。
悠真は、しばらくそれを見つめていた。それから、ゆっくりと顔を寄せた。
「悠真……? なにする――」
首筋の汗を、舌先で掬った。
ほんの少しだった。
けれど舌の上に広がったのは、塩辛さではなかった。
甘い。
あの瓶の、琥珀色の蜜の味。
薬草の苦みが、喉の奥にじわりと残る。
悠真は、目を見開いたまま動けなくなった。数秒後。指先が、内側から火照り始めた。手首を這い上がり、腕を伝い、肩へ、首筋へ。身体の芯に、とろりとした熱の塊が沈んでいく。
「……遥」
悠真の声が、掠れていた。
「遥の、汗……」
遥は、両手で口を覆った。
◇
それから二人は、まるで実験をするように、互いの身体を確かめていった。
怖かった。
怖かったのに、やめられなかった。
唾液。
軽いキスだけで、指先が火照った。舌を絡めるような深いキスをすると、頭の芯がじんと痺れて、膝から力が抜けた。
汗。
肌を寄せ合い、互いの汗が混じり合うだけで、全身の皮膚がざわめいた。
涙。
熱に浮かされて遥の目尻に滲んだ涙を、悠真が唇で拭った。それだけで、彼の呼吸が乱れた。
そして――。
その夜、二人は瓶に一度も触れなかった。
触れる必要がなかった。
肌を重ね、互いの奥深くで交わり合ったとき、それは起きた。
愛し合う中で、二人の身体からこぼれ落ちるもの。遥の奥から溢れ出し、悠真を濡らすもの。悠真が果てる瞬間、遥の奥深くへと注ぎ込むもの。
それが互いの中に混じり合った瞬間、これまでとは比べものにならない熱が、二人を呑み込んだ。
瓶を傾けて喉に流し込んだ夜でさえ、こうではなかった。全身の神経が一斉に灼かれ、視界が白く弾け、自分の輪郭が溶けていく。悠真にしがみつく遥の爪が、彼の背中に深く食い込んだ。悠真は遥の名前を呼ぼうとして、声にならなかった。
いちばん濃く、いちばん甘く効くのは、それだった。愛し合ったときに、互いの身体の奥から溢れるもの。
◇
明け方。
ぐったりと横たわったまま、二人は天井を見上げていた。カーテンの隙間から、青白い光が射し込んでいる。外で、早起きの鳥が鳴いていた。
「……ねえ、悠真」
遥の声は、ひどく掠れていた。
「私たち、どうなっちゃったの」
悠真は、すぐには答えなかった。
天井の染みを見つめながら、あの店のことを思い出していた。空っぽの棚。埃の中に残された、無数の丸い輪の跡。あの日より、増えていた気がする輪。かつてそこに並んでいた、たくさんの瓶。それを買っていった、たくさんの誰か。
その誰かたちも、三本目の瓶を握りしめて、あの路地から帰っていったのだろうか。
そして、そのあと――。
「……分からない」
悠真は正直に言った。
「でも、たぶん。あのおばあさんが言ってたのは、このことだったんだと思う」
遥の手を探り、指を絡める。
その指先が触れ合っただけで、まだ微かに残る熱が、二人の間でちりちりと揺れた。
「たくさん飲んで、身体の中に溜まって。……それで、身体そのものが、あの薬みたいになった」
遥は、絡めた指を見つめた。
悠真の指。五年間、何度も握ってきた手。
その皮膚の下に、今は、あの琥珀色の蜜が流れている。
自分の身体にも。
「……もう、瓶、いらないんだね」
遥が呟いた。
それは、怯えた声のはずだった。けれど悠真の耳には、どこか、うっとりとした響きが混じっているように聞こえた。
もう、瓶が尽きる心配をしなくていい。もう、雨を待って、あの壁の前に立たなくていい。もう、あの渇きに、怯えなくていい。
互いがそばにいる限り。
そして、それを聞いた自分の胸にも、同じ安堵があることに、悠真は気づいていた。
互いの身体そのものが、尽きることのない小瓶になっていた。
◇
その日、二人は揃って会社を休んだ。
遥は、上司に電話をかけた。
「すみません、熱が出てしまって……」
出張中に初めてついた嘘よりも、ずっと短い言葉だった。病院に寄るとも、ご迷惑をおかけしますとも、言わなかった。言おうという考え自体が、浮かばなかった。
悠真は、課長にメッセージを一通送っただけだった。
「体調不良のため休みます」
電話を切ったあと、二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。罪悪感と、それを上回る何かが混じった、ぎこちない笑いだった。
台所の食器棚には、半分残った三本目の瓶がしまわれていた。それはその日から、開けられることがなくなった。