※この作品はR-18です。

琥珀の底   作:ほもちめめ

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六 侵食

瓶が要らなくなってから、時間の流れ方が変わった。

 

以前は、一週間という単位があった。月曜日から金曜日までを働いて過ごし、週末に少しだけ羽目を外す。その繰り返しの中で、特別な夜は、点のように散らばっていた。

 

今は、違う。

点と点の間隔が、どんどん縮まっていった。やがて点は線になり、線は面になって、二人の日々を塗り潰し始めた。

 

二人は、それを止めようとした。

少なくとも、最初のうちは。

 

    ◇

 

最初に崩れたのは、朝だった。

 

目覚まし時計が鳴る。悠真が手を伸ばして止める。隣で遥が、寝ぼけた声で「おはよ」と言う。いつもなら、そこで起き上がって、それぞれの朝の支度を始める。

 

その朝、悠真は起き上がる前に、遥の額に軽くキスをした。寝起きの、何の気なしのキスだった。

 

唇に、彼女の肌の汗が触れた。夜のあいだに滲んだ、ほんの薄い膜のような汗。

 

悠真の指先が、じんと疼いた。

 

「……悠真?」

遥が目を開ける。彼の顔を見て、ゆっくりと状況を理解する。

自分の額。悠真の唇。そこに残った、自分の汗。

 

「ごめん、つい……」

「ううん」

 

遥は、首を横に振った。

そして、自分から悠真の首に腕を回した。

 

その日、悠真は会社に一時間遅刻した。課長には「電車が遅れていまして、申し訳ありません」と頭を下げた。駅で遅延証明書をもらい忘れたことまで、丁寧に詫びた。課長は特に疑わなかった。

 

ただ、デスクに座った悠真の首筋に、赤い跡がひとつ残っているのを、隣の席の後輩が気まずそうに見ていた。

 

    ◇

 

その夜、二人はテーブルを挟んで向かい合った。

 

「ルールを決めよう」

悠真が言った。

「平日の朝は、キスしない。触らない。……それだけでも」

 

遥は、頷いた。

 

「うん。それがいい」

 

紙に書いて、冷蔵庫に貼った。

「平日の朝は、触れない」

 

ペンを持つ遥の指は、少し震えていた。悠真の指も、テーブルの下で、固く組まれていた。

 

テーブルを挟んでいるのに、向かいの悠真から、甘い匂いが漂ってくる。遥は、息を浅くして、それを吸い込まないようにしていた。

 

    ◇

 

けれど、禁止すればするほど、身体は求めた。

 

歯を磨きながら、鏡越しに目が合う。それだけで、遥の頬が赤くなる。悠真は慌てて目を逸らし、口をすすいで、足早に洗面所を出ていく。

 

すれ違うとき、肩と肩が、ほんの少しだけ触れた。二人とも、その場で立ち止まった。

 

数秒。

互いに背を向けたまま、浅い呼吸を繰り返す。

 

それから、悠真が先に歩き出した。遥は、洗面台の縁を掴んで、膝が崩れそうになるのを堪えた。

 

玄関で靴を履く悠真の背中を、遥は廊下の端から見送った。

近づけば、触れてしまう。

その背中に頬を押しつけたい衝動を、爪が手のひらに食い込むほど拳を握って、必死で抑えた。

 

ドアが閉まった瞬間。

遥はその場にしゃがみ込み、震える膝を抱えた。

 

冷蔵庫の貼り紙は、二週間もった。

 

    ◇

 

二週間目の、水曜日の朝。

 

遥が冷蔵庫を開けたとき、背後から、悠真の腕が回された。何も言わなかった。言葉は要らなかった。

 

遥は、振り向いた。

目の前で、貼り紙が、マグネットの下で小さく揺れていた。

 

その日、二人は揃って、会社に二時間遅れた。

 

夜、悠真が貼り紙を剥がして、新しいものを貼った。

 

「寝室の外では、触れない」

 

遥は、それを見て、何も言わなかった。平日の朝が、いつの間にか消えていた。代わりに、ルールの範囲が、ずっと狭くなっていた。

 

それでも、ルールはルールだった。二人とも、そう思おうとした。

 

    ◇

 

寝室の外では、触れない。

 

それは、つまり、寝室に入れば、何をしてもいいということだった。

 

二人とも、帰宅するとまっすぐに寝室へ向かうようになった。夕食は、寝室に運んで食べた。テレビは、寝室の小さなモニターで観た。そのうち、観なくなった。

 

リビングのソファに、埃が積もり始めた。台所のシンクに、洗い物が溜まり始めた。

 

寝室の外に出る時間が、一日のうちで、どんどん短くなっていく。朝、会社に行くまでのわずかな時間と、トイレと、冷蔵庫まで食べ物を取りに行く数分だけ。

 

それでも、ルールは守られていた。寝室の外では、触れていない。

 

ただ、寝室の外に、いなくなっただけだった。

 

    ◇

 

職場でも、熱は追ってきた。

 

遥は、パソコンの画面を見つめたまま、何も手につかない時間が増えた。悠真の唇の感触を思い出すと、指先が火照る。彼の汗の味を思い出すと、喉が渇く。そして、もっと深いところで交わったときのことを思い出すと――遥はキーボードから手を離し、俯いて、浅い呼吸を繰り返すしかなかった。

 

朝、家を出る前に触れ合った名残が、肌に残っている。悠真の汗や唾液が、遥の首筋に、手首に、唇に。それが、昼過ぎまで、じわじわと熱を放ち続ける。

 

「遥さん、顔赤いけど大丈夫? 熱あるんじゃない?」

「あ、う、うん。ちょっと、風邪気味かも」

 

早退が増えた。

 

最初は、上司のデスクまで行って、頭を下げた。

「申し訳ありません、体調が優れなくて、午後は早退させていただいてもよろしいでしょうか。明日までに、この資料は必ず仕上げますので」

 

二度目は、もう少し短かった。

「すみません、体調が悪くて。早退します」

 

三度目は、チャットで一言だった。

「体調不良のため早退します」

 

四度目からは、返事を待たずに、席を立った。

 

有給休暇が、みるみる減っていった。

 

    ◇

 

悠真も、同じだった。

 

会議中。取引先との電話中。満員電車の中。ふとした瞬間に、遥の匂いが蘇る。髪から立ちのぼる、あの甘い蜜の匂い。彼女の肌そのものが、あの匂いを纏うようになっていた。

 

いや、遥だけではなかった。

 

ある朝、満員電車の中で、隣に立った女性が、ちらりと悠真を見上げた。それから、もう一度。三度目には、頬をわずかに赤らめて、戸惑ったように俯いた。

 

悠真は、自分のワイシャツの襟元に、そっと鼻を寄せた。

 

熟れた果実のような、甘ったるい匂いがした。

自分の肌から。

 

悠真は、次の駅で電車を降りた。ホームのベンチに座り込んで、両手で顔を覆った。

 

自分の身体が、外に向かって、何かを漏らし始めている。

 

その日から、悠真は香水をつけるようになった。強い、ウッディな香り。甘い匂いを、上から塗りつぶすように。

 

それでも、昼過ぎには、香水の下から、蜜の匂いが滲み出してきた。

 

    ◇

 

昼休みになると、悠真は必ず遥に電話をかけるようになった。用事はない。ただ、声が聞きたかった。

 

「……もしもし」

受話器越しの遥の声は、いつも少し掠れていた。

「今、何してる?」

「お弁当、食べてる。……悠真は?」

「遥の声、聞いてる」

 

電話の向こうで、遥が小さく息を呑む音がした。それから、しばらく、どちらも何も言わなかった。互いの呼吸の音だけが、細い電波に乗って行き来した。

 

声だけで、熱が灯るようになっていた。薬も、汗も、唾液もない。ただ、相手の吐息が耳に届くだけで。

 

身体が、相手を覚えてしまっていた。

 

    ◇

 

貼り紙は、また変わった。

 

「外出の前の一時間は、触れない」

 

寝室の外という区切りは、いつの間にか意味をなくしていた。リビングのソファで。台所の床で。廊下で。浴室で。気がつけば、どこででも、二人は互いを求めていた。

 

だから、せめて、外に出られるように。出かける前の一時間だけは、肌に何も残らないように。

 

その一時間が、二人にとって、一日のうちでいちばん長い時間になった。

 

離れた場所に座って、壁の時計を見つめる。秒針が、ひどくゆっくり進む。部屋の空気に、互いの匂いが満ちている。息を吸うたびに、肺の奥から少しずつ温められていく。

 

四十分を過ぎたあたりで、遥の膝が震え始める。五十分を過ぎたあたりで、悠真が立ち上がり、窓を開けて、外の空気を吸い込む。

 

一時間が経つ。

二人は、互いの目を見ないようにしながら、玄関を出る。

 

それを、どれくらい続けられたのか。三週間だったか、四週間だったか。

 

ある朝、四十分を過ぎたところで、遥が、ソファから立ち上がった。

 

悠真の前に立った。

何も言わずに、彼の膝の上に、崩れるように座り込んだ。

 

悠真は、拒まなかった。

 

その日、二人は家を出なかった。

 

翌朝、冷蔵庫の貼り紙を剥がしたのは、遥だった。新しいものは、貼られなかった。

 

    ◇

 

十一月の終わりのある夜。

 

悠真は、遥の身体を抱きしめたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。二人とも、汗に濡れていた。シーツは湿り、部屋には煮詰めた蜜のような匂いが濃く立ちこめている。

 

いつからか、悠真は気づいていた。互いの身体から出るもので、効き目に差があることに。

 

唾液は、指先を火照らせる。

汗は、肌をざわめかせる。

けれど、それとは比べものにならないものがあった。

 

「……遥」

「ん……」

「気づいてる? 一番、効くもの」

 

遥は、悠真の胸に額を押しつけたまま、しばらく黙っていた。それから、蚊の鳴くような声で答えた。

 

「……うん」

 

二人とも、本当はずっと前から分かっていた。最初に互いの体液の効き目に気づいたあの夜。愛し合う中で、二人の身体の奥から溢れたもの。それが混じり合った瞬間の、あの波。

 

遥の身体が悠真を受け入れるために溢れさせる、蜜のような愛液。悠真の身体が、果てる瞬間に彼女の奥へと注ぎ込む精液。

 

それこそが、あの琥珀色の瓶を三本まとめて煮詰めたような、いちばん濃い媚薬だった。

 

悠真の指が、遥の脚の付け根に溢れたその蜜に触れたことがある。ただ指先で掬って、それを自分の唇に運んだだけだった。次の瞬間、悠真の視界は真っ白に灼けた。心臓が早鐘を打ち、全身の血が沸き立ち、彼女の名前を呼ぼうとした唇から漏れたのは、獣のような荒い息だけだった。瓶を直接傾けて飲んだ夜でさえ、あれほどではなかった。

 

遥の側も同じだった。

悠真が彼女の中で果て、その熱が身体の奥に注がれるたびに、遥は自分の境界が溶けていくのを感じた。注がれた場所から、琥珀色の熱が全身へ、指の先、髪の一本一本にまで染み渡っていく。それは快感というより、身体ごと別の何かに作り変えられていくような感覚だった。そしてその熱が引くよりも早く、また次を求めてしまう。

 

一度交われば、互いの中に、それが残る。残ったものが、また次を求めさせる。求めて交われば、また新しく注がれ、溢れる。

 

終わりのない円環。

いや――螺旋だった。回るたびに、少しずつ深く沈んでいく。

 

「……私たち、これ、止められるのかな」

遥が呟いた。

 

悠真は答えなかった。

答えの代わりに、彼女の髪に顔を埋めた。蜜の匂いが、肺の奥まで満ちていく。

 

止められるのか、ではない。

止めたいと、思えるのか。

 

その問いの答えを、悠真は知りたくなかった。

 

    ◇

 

友人からの誘いを、断ることが増えた。

 

「ごめん、その日はちょっと……」

「最近付き合い悪いね。悠真くんと何かあった?」

「ううん、何もないよ。むしろ、仲良くやってる」

 

嘘ではなかった。

けれど、本当のことでもなかった。

 

遥の大学時代からの友人、美咲は、何度か家に遊びに来たいと言った。そのたびに遥は理由をつけて断った。部屋に染みついたこの匂いを、誰かに嗅がれるのが怖かった。それに、悠真以外の人間を部屋に入れること自体が、もうなんだか、ひどく億劫に思えた。

 

断りの理由も、少しずつ雑になっていった。

「仕事が忙しくて」が、「ちょっと用事が」になり、「ごめん、無理」になった。

やがて、美咲からのメッセージに、既読をつけることさえしなくなった。

 

実家の母からの電話も、後回しにするようになった。着信履歴に、母の名前が三件、四件と溜まっていく。かけ直さなきゃ、と思う。思いながら、悠真の腕の中で、スマホの画面を伏せる。

 

悠真の側も同じだった。

同期との飲み会。週末のフットサル。毎年恒例だった、大学時代の仲間とのキャンプ。

全部、断った。

 

「お前、最近どうしたんだよ」

同期の中村が、喫煙所で訊いてきた。

「顔色悪いぞ。痩せたし。……なんか、目がやばいって。それに、その香水、きつすぎるだろ」

「え、そう?」

「彼女となんかあったのか? 相談乗るぞ」

 

悠真は笑って首を振った。

相談なんて、できるはずがなかった。何をどう話せばいい? 消える店で買った百万円の薬のせいで、恋人の身体が媚薬になった、とでも?

 

それに。

本当は、相談したいとも思っていなかった。

 

誰かに話せば、止められるかもしれない。

止められたくなかった。

 

    ◇

 

ある日の昼休み、遥は、同僚たちの会話を聞くともなく聞いていた。

 

「ねえ、あのニュース見た? 隣の区のマンションで、何か月も連絡が取れなかったカップルが見つかったって」

「見た見た。家族が鍵を開けてもらったら、二人とも抱き合ったままだったんでしょ」

「そう。生きてはいるのに、話しかけても全然反応しないんだって。救急車で運ぶときも、どうやっても離れなかったらしいよ」

「部屋じゅう、すごく甘い匂いがしてたって。台所に、空っぽの小さな瓶が三本並んでたとか」

「なにそれ、こわ。変な薬?」

 

同僚たちは笑って、すぐに別の話題に移っていった。

 

遥は、箸を持ったまま、動けなくなっていた。

 

三本。

食器棚の奥の、空っぽの二本と、半分残った一本が、目の前に浮かんだ。

埃の中に並んだ、無数の丸い輪の跡。あの日より、増えていた気がする輪。

 

その夜、遥はその話を悠真にしようとして、口を開いた。けれど言葉が出るより先に、彼の唇がそれを塞いだ。話は、それきり、二度と出てこなかった。

 

    ◇

 

郵便受けに、封筒が届いた。

 

カード会社からだった。

悠真は、それを開けずに、テーブルの隅に置いた。

 

翌月、また封筒が届いた。

今度は色が違った。赤い文字で、何かが印字されていた。

 

悠真は、それも開けずに、最初の封筒の上に重ねた。

 

遥は、それを見ていた。

見ていて、何も言わなかった。

 

自分の口座の残高も、もう何週間も確認していなかった。確認すれば、何かを考えなければならなくなる。考えるのは、ひどく疲れることだった。

 

テーブルの隅の封筒の山は、少しずつ高くなっていった。その上に、埃が積もり始めた。

 

    ◇

 

冷蔵庫の中身が、減らなくなった。

 

料理をする時間が、惜しかった。台所に立っている間も、悠真の気配が気になって仕方がない。彼が隣を通るだけで、包丁を持つ手が止まる。結局、手を止めて、振り向いて、彼の首に腕を回してしまう。鍋を焦がしたことが、何度もあった。

 

食事は、コンビニの弁当や、デリバリーになった。それすら、食べかけのままテーブルに放置されることが増えた。

 

洗濯物が溜まっていく。

掃除機は、もう何週間もクローゼットから出していない。

 

部屋の空気が、変わっていった。カーテンを開ける回数が減り、窓を開けることはほとんどなくなった。閉じた部屋の中で、二人の身体から立ちのぼる甘い匂いが、少しずつ濃くなっていく。壁に、カーペットに、ソファのクッションに、シーツに。部屋全体が、あの琥珀色の蜜に浸されていくようだった。

 

ある日、早退して帰宅した悠真は、玄関を開けた瞬間、その匂いに一歩目で膝を折りかけた。この部屋の空気そのものが、もう二人を離そうとしなかった。

 

    ◇

 

それでも、二人は、まだ話をしていた。

 

ベッドの上で、互いの身体に手を這わせながら。汗に濡れたまま、天井を見上げながら。

 

「今日、課長に何か言われた?」

「ううん。もう、何も言われなくなった」

「……そっか」

「遥は?」

「美咲から、また連絡来てた。見てないけど」

「見なくていいの?」

「……うん。いい」

 

ちゃんとした文章で、ちゃんとした会話ができた。相手の言葉を聞いて、意味を考えて、返事をすることができた。

 

ただ、話題が、少しずつ減っていた。仕事のことも、友人のことも、家族のことも、どれも、口に出すたびに、遠くなっていく。話しても仕方がないことのように思えてくる。

 

最後に残るのは、いつも、同じ話題だった。

 

「……ねえ」

「ん」

「もう一回」

 

悠真は、言葉の代わりに、遥を抱き寄せた。

 

    ◇

 

ある夜、遥は、洗面所の鏡の前に立っていた。

 

風呂上がりだった。

バスタオルを肩に掛けただけの姿で、久しぶりに、まじまじと自分の身体を見た。

 

頬が、こけていた。

目の下に、深い影が落ちていた。髪は艶を失い、乾いて、ところどころもつれている。食事をまともに摂らなくなって、もう何週間になるだろう。肋骨が、うっすらと浮いて見える。腕も、手首も、以前より細くなっていた。

 

それなのに。

 

遥は、鏡の中の自分の胸元に、目を落とした。

 

胸が、張っていた。

 

痩せたはずなのに、そこだけが、以前よりも丸く、重たげに膨らんでいる。肌は内側から薄く押し上げられたように張りつめ、白く、なめらかで、浮き出た細い血管が、うっすらと青く透けて見えた。先端は、何にも触れていないのに、熱を持ったように色づいて、つんと上を向いている。

 

そっと、指先で触れてみた。

 

「……っ」

 

小さな声が漏れた。

自分の指なのに。ほんの少し、なぞっただけなのに。

 

柔らかかった。

指が沈み込むほど柔らかいのに、内側から、熱い何かが押し返してくる。熟れきった果実の、皮一枚下に溜まった蜜のような。

 

遥は、鏡の前で、ゆっくりと身体を横に向けた。

 

細くなった腰の線が、すっと内側にくびれている。その下で、腰から太腿にかけての曲線が、以前よりもずっと豊かに張り出していた。

 

お尻が、丸くなっていた。

 

肉が落ちたはずの身体の中で、そこだけが、ふっくらと、重たげに膨らみ、なめらかな弧を描いている。肌が、ほんのりと上気したように薄紅色に染まり、湯上がりの水滴とは違う、薄い膜のような艶で、濡れたように光っていた。

 

腰を少し捻ると、その曲線が、ゆるやかに揺れた。揺れた振動が、肌の内側を伝って、身体の芯まで響いてくる。

 

遥は、思わず息を詰めた。

 

これは、自分の身体だろうか。

 

五年間、見慣れてきた身体だった。取り立てて目立つところもない、平凡な身体だと思っていた。悠真と付き合い始めた頃、もう少し胸があったらな、と冗談めかして言ったこともあった。

 

その身体が、今、鏡の中で、見たこともないほど艶めかしく変わっていた。

 

余分なものは、すべて削ぎ落とされている。そして、男の手が触れたくなる場所だけが、蜜を溜め込んだように、豊かに、柔らかく、熟れている。

 

まるで、身体そのものが、悠真のためだけに、作り変えられていくように。

 

いや――。

悠真に触れられるためだけに。

 

肌は、異様なほど艶やかだった。内側から、ほんのりと光を放っているような。首筋も、鎖骨も、胸の谷間も、腰のくびれも、薄く濡れたように光っている。触れなくても分かる。甘い匂いが、毛穴の一つひとつから、立ちのぼっている。

 

唇は、熟れた果実のように、赤く濡れていた。

 

綺麗だ、と思った。

そして、そう思った自分に、ほんの少しだけ、ぞっとした。

 

あの瓶を、初めて光にかざした朝と、同じ感覚だった。

 

鏡の中の自分が、だんだん、あの琥珀色の瓶に似てきている。甘い蜜を、内側にたっぷりと湛えた、温かいガラスの器に。

 

「遥?」

 

廊下から、悠真の声がした。

 

その声を聞いた瞬間、鏡の中の遥の身体が、目に見えて変わった。

 

頬が、さっと赤く染まった。

瞳が潤み、唇が、薄く開いた。

胸の先端が、さらに硬く色づき、肌全体が、ふわりと薄紅色に上気していく。腰の奥が、きゅっと疼いて、太腿の内側を、熱いものが伝い落ちていく気配がした。

 

遥は、自分の身体が変わっていく様を、鏡越しに、ただ見つめていた。

 

声ひとつで。

名前を呼ばれた、ただそれだけで。

 

足音が、近づいてくる。

洗面所のドアが、細く開いた。

 

隙間から覗いた悠真が、鏡の中の遥の姿を見て、その場で息を止めた。

 

ドアの縁を掴む彼の指が、白くなるほど力が入っていた。彼の視線が、遥の首筋から、胸元へ、くびれた腰へ、丸く張り出した曲線へと、ゆっくりと滑り落ちていく。

 

その視線が通り過ぎた場所が、ひとつずつ、灼けるように熱くなった。

 

触れられてもいないのに。

見られているだけなのに。

 

「……遥」

 

悠真の声が、掠れていた。

 

「なんか……すごく、きれいになった」

 

遥は、肩のバスタオルを、そっと床に落とした。

 

「……悠真のせいだよ」

 

暗闇に慣れた目に、自分の肌だけが、ほのかに光っている気がした。悠真が、ゆっくりと、洗面所に足を踏み入れた。

 

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