留守番電話のメッセージに気づいたのは、十二月の初めの、日曜日の昼だった。
遥は、ベッドの上で、悠真の腕の中にいた。いつから眠っていたのか、いつ目を覚ましたのか、よく分からなかった。カーテンの隙間から射し込む光は、白っぽかった。たぶん、昼なのだろう。
枕元に伏せたスマホが、点滅していた。
何気なく、手に取った。
画面に、着信の通知が並んでいた。
母。母。母。美咲。母。会社。母。
その一番上に、留守番電話のアイコンが、小さく灯っていた。
遥は、しばらく、それを見つめていた。それから、なぜだか分からないまま、再生のボタンを押した。
◇
「……遥? お母さんです」
聞き慣れた声だった。
少し早口で、語尾が上がる、いつもの母の声。
「最近、全然連絡つかないから、ちょっと心配になって。元気にしてる? 仕事、忙しいの?」
一瞬の間。
「この前ね、美咲ちゃんからうちに電話があったのよ。遥と連絡がとれないって。会社にも、あまり来てないみたいだって……」
母の声が、わずかに揺れた。
「何かあったの? 悠真くんとは、うまくいってる? ……何でもいいから、声、聞かせて。ね」
もう一度、間。
「お父さんもね、心配してる。言わないけど。……いつでも、帰っておいで。遥の部屋、そのままにしてあるから」
メッセージは、そこで終わった。
◇
遥は、スマホを握りしめたまま、動けなかった。
いつでも、帰っておいで。
遥の部屋、そのままにしてあるから。
実家の、二階の、六畳の部屋。学習机と、本棚と、窓辺の古いぬいぐるみ。夏休みに帰省したとき、母が干してくれた布団の、陽だまりの匂い。
遠かった。
あまりにも遠くて、まるで、誰か別の人の記憶のようだった。
いつから、母の声を聞いていなかったのだろう。最後に電話で話したのは。最後に、自分から連絡したのは。
思い出せなかった。
遥は、ゆっくりと、部屋の中を見回した。
閉じたままのカーテン。
床に散らばった服。食べかけのまま固まった、コンビニの弁当。
テーブルの隅の、埃をかぶった封筒の山。赤い文字。
湿って重くなったシーツ。
部屋じゅうに沈む、甘く、重たい匂い。
それから、隣で眠る悠真を見た。
頬がこけ、髪は伸び放題で、無精髭が顎を覆っている。肌だけが、異様なほど艶やかに、ほのかに光っていた。
自分も、きっと同じ顔をしている。
遥の目から、涙がこぼれた。
◇
悠真が目を覚ましたのは、遥がベッドの端に座って、声を殺して泣いているときだった。
「……遥?」
肩に、手が置かれた。
温かかった。その温かさだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
遥は、その手を、そっと払いのけた。
悠真の手が、空中で止まった。
「お母さんから、電話があったの」
遥は、背を向けたまま言った。
声が、震えていた。
「美咲が、うちに連絡したって。会社にも来てないって。……心配してるって」
悠真は、何も言わなかった。
「私たち、おかしいよ」
遥は、膝の上で、両手を固く握りしめた。
「分かってるよね? 悠真も、分かってるよね? こんなの、普通じゃない。仕事も、友達も、家族も、全部、どうでもよくなって。貯金も全部使って、借金までして。部屋もこんなで。……私たち、このままだと、どうなっちゃうの」
「……遥」
「少し、離れよう」
言った瞬間、自分の言葉に、胸が裂けるかと思った。
けれど、遥は続けた。
今言わなければ、二度と言えない気がした。
「私、実家に帰る。しばらく。……一週間でも、三日でもいい。悠真と離れて、頭を冷やしたいの。じゃないと、私たち、本当に、戻れなくなる」
長い、長い沈黙があった。
やがて、背後で、悠真が息を吐く音がした。
「……うん」
その声は、掠れて、ひどく小さかった。
「そうだね。……それが、いいと思う」
遥は、振り向かなかった。
振り向いたら、悠真の顔を見たら、決意が崩れてしまうのが分かっていた。
◇
荷造りは、すぐに終わった。
小さなボストンバッグに、着替えを数枚。化粧品は、もう何週間も使っていなかった。財布と、スマホと、充電器。
服を着るのは、久しぶりだった。ブラウスの生地が肌に触れた瞬間、遥は小さく身を竦めた。布が、ざらざらと肌の上を這い回る。ボタンを留める指が、震えた。
鏡は、見なかった。
玄関で、靴を履いた。
背後に、悠真の気配があった。廊下の端に立って、こちらを見ている。
一メートルも離れていなかった。彼の体温が、空気を伝って、背中に触れてくる。あの匂いが、ふわりと首筋を撫でる。
振り向いて、その胸に飛び込みたかった。
遥は、ドアノブを握りしめた。
「……行ってくる」
「……うん」
「着いたら、連絡するね」
「……うん」
悠真の声が、ひどく遠く聞こえた。
遥は、ドアを開けた。
外の空気が、顔に吹きつけた。
冷たかった。
何週間ぶりかの、外の空気だった。
一歩、踏み出した。
背後で、ドアが閉まる音がした。
◇
駅までの道を、遥は早足で歩いた。
振り返らなかった。
振り返ったら、走って戻ってしまう。
街は、いつもどおりだった。
日曜日の午後。家族連れ。自転車。コンビニの前で笑い合う学生たち。
冬の初めの、乾いた日差し。
その全部が、ひどく眩しくて、薄っぺらく見えた。まるで、ガラス一枚隔てた向こう側の景色のように。
電車に乗った。
実家までは、乗り換えを二回して、二時間半。
席に座り、ボストンバッグを膝に抱えた。窓の外を、見慣れた街並みが、後ろへ流れていく。
大丈夫、と、遥は自分に言い聞かせた。出張の五日間だって、耐えられた。あのときは、悠真が戻ってくると分かっていたから耐えられた。今回も同じだ。少しのあいだだけ。頭を冷やしたら、ちゃんと戻る。
今度は、ちゃんと、普通に。
◇
最初の乗り換え駅に着いたのは、家を出て四十分後だった。
遥は、ホームのベンチに座っていた。
次の電車まで、十二分。
指先が、震え始めていた。
おかしい、と思った。
出張のときは、渇きが来たのは二日目だった。最初の一日は、平気だった。
まだ、一時間も経っていない。
なのに、指先から、冷たいものが這い上がってくる。
手首へ。肘へ。肩へ。
いや、冷たいのではない。熱いのか、冷たいのか、分からない。皮膚の表面だけが凍りついて、その下で、何かが灼けるように疼いている。
遥は、両腕で自分の身体を抱きしめた。
あのときとは、違うのだ。
出張のとき、二人の身体の中にあったのは、瓶の蜜だった。飲めば溜まり、時間が経てば抜けていく、外から入ってきたもの。
今は、違う。
二人の身体そのものが、蜜になっている。
悠真の汗を、唾液を、それ以上のものを、毎日、毎時間、肌から、口から、身体の奥から、浴びるように取り込み続けてきた。
それが、今、断たれた。
身体が、それを、どれほど深く必要としていたのか。遥は、ホームのベンチの上で、ようやく理解した。
◇
電車が来た。
遥は、立ち上がろうとした。
膝に、力が入らなかった。
ドアが開き、人が降り、人が乗っていく。
発車のベルが鳴る。
遥は、ベンチの上で、ボストンバッグを抱きしめたまま、動けなかった。
ドアが閉まる。
電車が、ゆっくりと動き出し、ホームから遠ざかっていく。
次の電車まで、また十二分。
遥は、ベンチに座ったまま、震えていた。
歯の根が合わない。
カチカチと、小さな音が鳴り続けている。
額に汗が滲み、それが冷えて、首筋を伝い落ちていく。
その汗から、甘い匂いがした。
自分の匂い。あの蜜の匂い。
けれど、自分の匂いでは、何も満たされなかった。
欲しいのは、自分ではない。
悠真。
その名前が、頭の中に、はっきりと形になった。
悠真。
悠真の肌。悠真の匂い。悠真の声。悠真の熱。
ほかのことが、何も考えられなくなっていく。母の声も、実家の六畳の部屋も、陽だまりの布団の匂いも。全部、遠ざかっていく。悠真の名前だけが、頭の中を埋め尽くしていく。
隣のベンチに座った老夫婦が、心配そうにこちらを見ていた。
「お嬢さん、大丈夫? 顔色が……」
声をかけられた。
遥は、答えられなかった。
肌の上を、虫が這っている。
いや、皮膚の下を。血管の中を。骨の芯を。
もう、無理だった。
◇
その頃、悠真は、玄関の床に座り込んでいた。
遥が出ていってから、一歩も動いていなかった。ドアが閉まった、その場所に、ずるずると崩れ落ちたまま。
最初の十分は、まだ考えることができた。これでいいんだ。遥の言うとおりだ。少し離れて、頭を冷やして。そうすれば、また普通に。
二十分を過ぎた頃から、考えがまとまらなくなった。
三十分を過ぎた頃には、指先の震えが、全身に広がっていた。床に手をついて、身体を支える。その手も、震えている。
部屋じゅうに、遥の匂いが満ちていた。シーツに、ソファに、カーペットに、壁に。けれど、それは残り香でしかなかった。生きている遥の、温かい肌から立ちのぼる匂いではなかった。
吸い込めば吸い込むほど、渇きが深くなった。目の前に水を並べられて、それに手が届かないような。
四十分。
悠真は、這うようにして寝室に戻り、遥が着ていた部屋着を掴んだ。顔に押しつけた。
足りなかった。
全然、足りなかった。
五十分。
悠真は、スマホを握りしめていた。
遥の番号を表示させた画面を、ただ見つめていた。
かけてはいけない。
かけたら、遥の決意を壊してしまう。
親指が、通話のボタンの上で、震えていた。
◇
スマホが鳴ったのは、そのときだった。
画面に、遥の名前が表示された。
悠真は、一回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、出た。
「……っ」
電話の向こうから聞こえたのは、言葉ではなかった。荒い息。嗚咽。駅のアナウンス。電車の走り去る音。
「遥? 遥、どこ――」
「……む、り」
掠れきった声が、ようやく、それだけを絞り出した。
「むり……ゆうま……」
悠真は、立ち上がっていた。
自分がいつ立ち上がったのか、分からなかった。
「どこ」
「……のりかえ……えき……」
「今行く」
電話を繋いだまま、悠真は玄関を飛び出した。靴を履いたのかどうかも、覚えていなかった。
◇
けれど、悠真が駅に着く前に、二人は出会った。
遥もまた、戻ろうとしていたのだ。乗り換え駅から、逆方向の電車に乗って。
最寄り駅の改札を出たところで、遥は、向こうから走ってくる悠真の姿を見た。
靴を履いていなかった。
裸足だった。シャツのボタンは掛け違えていて、髪はぼさぼさで、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
遥のボストンバッグが、床に落ちた。
二人は、駅前の雑踏の真ん中で、互いに向かって走った。
ぶつかるように、抱き合った。
◇
肌と肌が触れた瞬間。
遥の全身を、熱が貫いた。
悠真の首筋に顔を埋める。
汗の匂い。甘い蜜の匂い。悠真の匂い。
それが肺の奥まで満ちて、骨の芯の渇きに、一気に流れ込んでいく。
震えが、止まった。
肌の下を這い回っていた虫が、一瞬で、消えた。
悠真の腕が、遥の身体を、痛いほど強く抱きすくめている。彼の身体の震えも、遥の腕の中で、すうっと引いていくのが分かった。
人通りの多い駅前だった。
日曜日の夕方。家族連れ。学生。買い物帰りの人々。
誰かが、二人を見て、何か言った。誰かが、立ち止まって、スマホを向けた。
聞こえなかった。
見えなかった。
二人には、もう、互いしかなかった。
◇
どうやって部屋まで戻ったのか、二人とも覚えていない。
覚えているのは、玄関のドアが閉まった瞬間、その場に崩れ落ちたこと。遥のブラウスのボタンが、またひとつ、床を転がっていったこと。裸足の悠真の足の裏が、真っ黒に汚れていたこと。
そして、離れていた、ほんの一時間あまりのあいだに溜まった渇きが、ひどく深く、ひどく激しく、満たされていったこと。
◇
夜。
ベッドの上で、遥は天井を見上げていた。悠真の腕が、遥の身体に回されたまま、離れなかった。遥の手も、悠真の手首を、握りしめたまま離さなかった。
もう、一センチも、離れたくなかった。
「……ねえ」
遥が、掠れた声で言った。
「このままで、いいのかな」
悠真が、ゆっくりと顔を向けた。
「仕事、も。美咲、も。お母さん、も……」
言葉が、うまく続かなかった。長い文章を組み立てようとすると、途中で、頭の中の糸がほどけてしまう。
「おかしいの。わかってる、のに……」
遥は、両手で顔を覆った。
「ゆうまと、はなれるの……むり、だった」
一時間。
たった一時間だった。
母の声を聞いて、泣いて、決意して、荷物をまとめて、家を出て。その全部が、たった一時間で、崩れ去った。
悠真は、しばらく黙っていた。それから、遥の髪を、ゆっくりと撫でた。
指先が髪に触れた瞬間、遥の肩が小さく跳ねた。それでも、彼女は顔を覆ったままだった。
「……わからない」
悠真が、静かに言った。
「このままでいいのか、僕にも、わからない」
遥の指の隙間から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「でも」
悠真は、遥の身体を引き寄せた。抵抗はなかった。遥は、まるで水が低いほうへ流れるように、彼の腕の中に収まった。
「はなれたく、ない」
悠真の言葉も、もう、短かった。
「遥と、はなれるのは、いやだ」
その答えを聞いた瞬間。
遥の胸に広がったのは、安堵だった。
温かくて、甘くて、身体の芯まで染み渡っていくような安堵。悠真も同じ気持ちでいてくれる。このままでいいと、言ってくれた。止めなくていいと、言ってくれた。
そう感じてしまった自分に、遥は、かすかな怖さを覚えた。
今、自分は何に安堵したのだろう。悠真の愛情に? それとも――引き返さなくていい理由を、手に入れたことに?
その問いが、頭の片隅で小さく光った。
最後の、小さな光だった。
けれど、悠真の唇が涙の跡に触れた瞬間。その熱が、涙の塩気と混じり合って、甘く変わった瞬間。
光は、どこか遠くへ流れていった。蜜の底に、静かに沈んでいった。
もう、二度と、浮かび上がってこなかった。
◇
翌朝、遥のスマホに、母から短いメッセージが届いていた。
「着いた? 駅まで迎えに行こうか?」
遥は、それを読んで、画面を伏せた。
返事は、しなかった。
何と返せばいいのか、もう分からなかった。
◇
月曜日の夜、悠真は、眠る遥の横顔を見下ろしていた。
明日、会社に行けば、また九時間、遥から離れることになる。たった一時間で、遥はあの駅のホームで崩れ落ちた。自分も、玄関の床から立ち上がれなかった。九時間。考えただけで、指先が冷たくなった。
計画を立てるのは、得意なはずだった。貯金はいくら残っているか。カードの請求はいつ来るか。家賃は。来月は。頭の中で数字を並べようとした。数字は、並ばなかった。並べる端から、隣で眠る遥の寝息に溶けていった。
ただひとつだけ、はっきりと分かることがあった。
遥のそばを、離れたくない。
それはもう、計画ではなかった。決断と呼べるのかどうかも分からない、ただひとつ残った答えだった。
◇
悠真が会社を辞めたのは、その翌週だった。
退職届を出したのは、火曜日の朝だった。上司は驚き、引き止め、理由を訊いた。悠真は「いっしんじょうの、つごうで」としか言わなかった。その言葉さえ、何度か言い淀んだ。
中村が廊下で彼を捕まえて、「おい、本気かよ」と肩を掴んだ。悠真の肌に触れた瞬間、中村は、ぎょっとしたように手を離した。
「お前……熱あるだろ。すげえ熱いぞ」
悠真は、ただ曖昧に笑っただけだった。中村の手が触れた場所が、ひどく不快だった。遥ではない肌が触れたことが、まるで汚されたように感じた。
誰にも相談しなかった。
遥にさえ、事前には言わなかった。
その夜、悠真が「やめて、きた」と告げると、遥は一瞬だけ目を見開いた。それから、何も言わずに、彼の胸に顔を埋めた。
責めなかった。
理由も、訊かなかった。
訊く必要が、もうなかったからだ。
遥は、あの日曜日から、一度も会社に行っていなかった。退職届も、出していなかった。出しに行く、ということを、考えることさえできなくなっていた。
◇
その夜、二人は久しぶりに、食器棚を開けた。
奥のほうに、瓶が並んでいた。
空っぽになった、一本目。
空っぽになった、二本目。
そして、半分ほど中身の残った、三本目。
三百円。
三十万円。
百万円。
二人の五年間と、未来と、それ以上のものが、この三本の瓶の中に消えていった。
悠真が、三本目を手に取った。ガラスは相変わらず温かかった。けれど今は、そのぬくもりが、自分たちの肌のぬくもりと同じだと分かる。
「……これ」
遥が、瓶を見つめて言った。
「どう、する?」
悠真は、瓶を光にかざした。
琥珀色の液体が、とろりと揺れて、金色にきらめく。
「もう、いらない、ね」
「うん」
「すてる?」
遥は、少し考えた。
考える、ということに、ひどく時間がかかった。
それから、首を横に振った。
「……ここ、に、おいとこう」
なぜ、と悠真は訊かなかった。二人とも分かっていた。もう、この瓶を捨てても、何も変わらない。自分たちの中に、同じものが流れているのだから。
それに。
老婆の声が、耳の奥で、かすかに響いていた。
いずれ、何倍にもして返していただきますから。
その意味を考えようとして、二人とも、やめた。考えるのは、もう、ひどく疲れることだった。
瓶は、食器棚に戻された。
三本、並べて。
扉が、静かに閉じられた。
それきり、二度と開けられることはなかった。開ける理由も、開けようと思う理性も、やがて、二人の中から消えていったから。