※この作品はR-18です。

琥珀の底   作:ほもちめめ

7 / 9
七 最後の抵抗

留守番電話のメッセージに気づいたのは、十二月の初めの、日曜日の昼だった。

 

遥は、ベッドの上で、悠真の腕の中にいた。いつから眠っていたのか、いつ目を覚ましたのか、よく分からなかった。カーテンの隙間から射し込む光は、白っぽかった。たぶん、昼なのだろう。

 

枕元に伏せたスマホが、点滅していた。

 

何気なく、手に取った。

画面に、着信の通知が並んでいた。

 

母。母。母。美咲。母。会社。母。

 

その一番上に、留守番電話のアイコンが、小さく灯っていた。

 

遥は、しばらく、それを見つめていた。それから、なぜだか分からないまま、再生のボタンを押した。

 

    ◇

 

「……遥? お母さんです」

 

聞き慣れた声だった。

少し早口で、語尾が上がる、いつもの母の声。

 

「最近、全然連絡つかないから、ちょっと心配になって。元気にしてる? 仕事、忙しいの?」

 

一瞬の間。

 

「この前ね、美咲ちゃんからうちに電話があったのよ。遥と連絡がとれないって。会社にも、あまり来てないみたいだって……」

 

母の声が、わずかに揺れた。

 

「何かあったの? 悠真くんとは、うまくいってる? ……何でもいいから、声、聞かせて。ね」

 

もう一度、間。

 

「お父さんもね、心配してる。言わないけど。……いつでも、帰っておいで。遥の部屋、そのままにしてあるから」

 

メッセージは、そこで終わった。

 

    ◇

 

遥は、スマホを握りしめたまま、動けなかった。

 

いつでも、帰っておいで。

遥の部屋、そのままにしてあるから。

 

実家の、二階の、六畳の部屋。学習机と、本棚と、窓辺の古いぬいぐるみ。夏休みに帰省したとき、母が干してくれた布団の、陽だまりの匂い。

 

遠かった。

あまりにも遠くて、まるで、誰か別の人の記憶のようだった。

 

いつから、母の声を聞いていなかったのだろう。最後に電話で話したのは。最後に、自分から連絡したのは。

 

思い出せなかった。

 

遥は、ゆっくりと、部屋の中を見回した。

 

閉じたままのカーテン。

床に散らばった服。食べかけのまま固まった、コンビニの弁当。

テーブルの隅の、埃をかぶった封筒の山。赤い文字。

湿って重くなったシーツ。

部屋じゅうに沈む、甘く、重たい匂い。

 

それから、隣で眠る悠真を見た。

 

頬がこけ、髪は伸び放題で、無精髭が顎を覆っている。肌だけが、異様なほど艶やかに、ほのかに光っていた。

 

自分も、きっと同じ顔をしている。

 

遥の目から、涙がこぼれた。

 

    ◇

 

悠真が目を覚ましたのは、遥がベッドの端に座って、声を殺して泣いているときだった。

 

「……遥?」

 

肩に、手が置かれた。

温かかった。その温かさだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 

遥は、その手を、そっと払いのけた。

 

悠真の手が、空中で止まった。

 

「お母さんから、電話があったの」

 

遥は、背を向けたまま言った。

声が、震えていた。

 

「美咲が、うちに連絡したって。会社にも来てないって。……心配してるって」

 

悠真は、何も言わなかった。

 

「私たち、おかしいよ」

 

遥は、膝の上で、両手を固く握りしめた。

 

「分かってるよね? 悠真も、分かってるよね? こんなの、普通じゃない。仕事も、友達も、家族も、全部、どうでもよくなって。貯金も全部使って、借金までして。部屋もこんなで。……私たち、このままだと、どうなっちゃうの」

 

「……遥」

 

「少し、離れよう」

 

言った瞬間、自分の言葉に、胸が裂けるかと思った。

 

けれど、遥は続けた。

今言わなければ、二度と言えない気がした。

 

「私、実家に帰る。しばらく。……一週間でも、三日でもいい。悠真と離れて、頭を冷やしたいの。じゃないと、私たち、本当に、戻れなくなる」

 

長い、長い沈黙があった。

 

やがて、背後で、悠真が息を吐く音がした。

 

「……うん」

 

その声は、掠れて、ひどく小さかった。

 

「そうだね。……それが、いいと思う」

 

遥は、振り向かなかった。

振り向いたら、悠真の顔を見たら、決意が崩れてしまうのが分かっていた。

 

    ◇

 

荷造りは、すぐに終わった。

 

小さなボストンバッグに、着替えを数枚。化粧品は、もう何週間も使っていなかった。財布と、スマホと、充電器。

 

服を着るのは、久しぶりだった。ブラウスの生地が肌に触れた瞬間、遥は小さく身を竦めた。布が、ざらざらと肌の上を這い回る。ボタンを留める指が、震えた。

 

鏡は、見なかった。

 

玄関で、靴を履いた。

背後に、悠真の気配があった。廊下の端に立って、こちらを見ている。

 

一メートルも離れていなかった。彼の体温が、空気を伝って、背中に触れてくる。あの匂いが、ふわりと首筋を撫でる。

 

振り向いて、その胸に飛び込みたかった。

 

遥は、ドアノブを握りしめた。

 

「……行ってくる」

「……うん」

「着いたら、連絡するね」

「……うん」

 

悠真の声が、ひどく遠く聞こえた。

 

遥は、ドアを開けた。

外の空気が、顔に吹きつけた。

 

冷たかった。

何週間ぶりかの、外の空気だった。

 

一歩、踏み出した。

 

背後で、ドアが閉まる音がした。

 

    ◇

 

駅までの道を、遥は早足で歩いた。

 

振り返らなかった。

振り返ったら、走って戻ってしまう。

 

街は、いつもどおりだった。

日曜日の午後。家族連れ。自転車。コンビニの前で笑い合う学生たち。

冬の初めの、乾いた日差し。

 

その全部が、ひどく眩しくて、薄っぺらく見えた。まるで、ガラス一枚隔てた向こう側の景色のように。

 

電車に乗った。

実家までは、乗り換えを二回して、二時間半。

 

席に座り、ボストンバッグを膝に抱えた。窓の外を、見慣れた街並みが、後ろへ流れていく。

 

大丈夫、と、遥は自分に言い聞かせた。出張の五日間だって、耐えられた。あのときは、悠真が戻ってくると分かっていたから耐えられた。今回も同じだ。少しのあいだだけ。頭を冷やしたら、ちゃんと戻る。

 

今度は、ちゃんと、普通に。

 

    ◇

 

最初の乗り換え駅に着いたのは、家を出て四十分後だった。

 

遥は、ホームのベンチに座っていた。

次の電車まで、十二分。

 

指先が、震え始めていた。

 

おかしい、と思った。

出張のときは、渇きが来たのは二日目だった。最初の一日は、平気だった。

 

まだ、一時間も経っていない。

 

なのに、指先から、冷たいものが這い上がってくる。

手首へ。肘へ。肩へ。

 

いや、冷たいのではない。熱いのか、冷たいのか、分からない。皮膚の表面だけが凍りついて、その下で、何かが灼けるように疼いている。

 

遥は、両腕で自分の身体を抱きしめた。

 

あのときとは、違うのだ。

 

出張のとき、二人の身体の中にあったのは、瓶の蜜だった。飲めば溜まり、時間が経てば抜けていく、外から入ってきたもの。

 

今は、違う。

二人の身体そのものが、蜜になっている。

悠真の汗を、唾液を、それ以上のものを、毎日、毎時間、肌から、口から、身体の奥から、浴びるように取り込み続けてきた。

 

それが、今、断たれた。

 

身体が、それを、どれほど深く必要としていたのか。遥は、ホームのベンチの上で、ようやく理解した。

 

    ◇

 

電車が来た。

 

遥は、立ち上がろうとした。

膝に、力が入らなかった。

 

ドアが開き、人が降り、人が乗っていく。

発車のベルが鳴る。

 

遥は、ベンチの上で、ボストンバッグを抱きしめたまま、動けなかった。

 

ドアが閉まる。

電車が、ゆっくりと動き出し、ホームから遠ざかっていく。

 

次の電車まで、また十二分。

 

遥は、ベンチに座ったまま、震えていた。

 

歯の根が合わない。

カチカチと、小さな音が鳴り続けている。

額に汗が滲み、それが冷えて、首筋を伝い落ちていく。

 

その汗から、甘い匂いがした。

自分の匂い。あの蜜の匂い。

 

けれど、自分の匂いでは、何も満たされなかった。

欲しいのは、自分ではない。

 

悠真。

 

その名前が、頭の中に、はっきりと形になった。

 

悠真。

悠真の肌。悠真の匂い。悠真の声。悠真の熱。

 

ほかのことが、何も考えられなくなっていく。母の声も、実家の六畳の部屋も、陽だまりの布団の匂いも。全部、遠ざかっていく。悠真の名前だけが、頭の中を埋め尽くしていく。

 

隣のベンチに座った老夫婦が、心配そうにこちらを見ていた。

 

「お嬢さん、大丈夫? 顔色が……」

 

声をかけられた。

遥は、答えられなかった。

 

肌の上を、虫が這っている。

いや、皮膚の下を。血管の中を。骨の芯を。

 

もう、無理だった。

 

    ◇

 

その頃、悠真は、玄関の床に座り込んでいた。

 

遥が出ていってから、一歩も動いていなかった。ドアが閉まった、その場所に、ずるずると崩れ落ちたまま。

 

最初の十分は、まだ考えることができた。これでいいんだ。遥の言うとおりだ。少し離れて、頭を冷やして。そうすれば、また普通に。

 

二十分を過ぎた頃から、考えがまとまらなくなった。

 

三十分を過ぎた頃には、指先の震えが、全身に広がっていた。床に手をついて、身体を支える。その手も、震えている。

 

部屋じゅうに、遥の匂いが満ちていた。シーツに、ソファに、カーペットに、壁に。けれど、それは残り香でしかなかった。生きている遥の、温かい肌から立ちのぼる匂いではなかった。

 

吸い込めば吸い込むほど、渇きが深くなった。目の前に水を並べられて、それに手が届かないような。

 

四十分。

悠真は、這うようにして寝室に戻り、遥が着ていた部屋着を掴んだ。顔に押しつけた。

 

足りなかった。

全然、足りなかった。

 

五十分。

悠真は、スマホを握りしめていた。

遥の番号を表示させた画面を、ただ見つめていた。

 

かけてはいけない。

かけたら、遥の決意を壊してしまう。

 

親指が、通話のボタンの上で、震えていた。

 

    ◇

 

スマホが鳴ったのは、そのときだった。

 

画面に、遥の名前が表示された。

 

悠真は、一回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、出た。

 

「……っ」

 

電話の向こうから聞こえたのは、言葉ではなかった。荒い息。嗚咽。駅のアナウンス。電車の走り去る音。

 

「遥? 遥、どこ――」

 

「……む、り」

 

掠れきった声が、ようやく、それだけを絞り出した。

 

「むり……ゆうま……」

 

悠真は、立ち上がっていた。

自分がいつ立ち上がったのか、分からなかった。

 

「どこ」

「……のりかえ……えき……」

「今行く」

 

電話を繋いだまま、悠真は玄関を飛び出した。靴を履いたのかどうかも、覚えていなかった。

 

    ◇

 

けれど、悠真が駅に着く前に、二人は出会った。

 

遥もまた、戻ろうとしていたのだ。乗り換え駅から、逆方向の電車に乗って。

 

最寄り駅の改札を出たところで、遥は、向こうから走ってくる悠真の姿を見た。

 

靴を履いていなかった。

裸足だった。シャツのボタンは掛け違えていて、髪はぼさぼさで、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

 

遥のボストンバッグが、床に落ちた。

 

二人は、駅前の雑踏の真ん中で、互いに向かって走った。

 

ぶつかるように、抱き合った。

 

    ◇

 

肌と肌が触れた瞬間。

 

遥の全身を、熱が貫いた。

 

悠真の首筋に顔を埋める。

汗の匂い。甘い蜜の匂い。悠真の匂い。

それが肺の奥まで満ちて、骨の芯の渇きに、一気に流れ込んでいく。

 

震えが、止まった。

肌の下を這い回っていた虫が、一瞬で、消えた。

 

悠真の腕が、遥の身体を、痛いほど強く抱きすくめている。彼の身体の震えも、遥の腕の中で、すうっと引いていくのが分かった。

 

人通りの多い駅前だった。

日曜日の夕方。家族連れ。学生。買い物帰りの人々。

 

誰かが、二人を見て、何か言った。誰かが、立ち止まって、スマホを向けた。

 

聞こえなかった。

見えなかった。

 

二人には、もう、互いしかなかった。

 

    ◇

 

どうやって部屋まで戻ったのか、二人とも覚えていない。

 

覚えているのは、玄関のドアが閉まった瞬間、その場に崩れ落ちたこと。遥のブラウスのボタンが、またひとつ、床を転がっていったこと。裸足の悠真の足の裏が、真っ黒に汚れていたこと。

 

そして、離れていた、ほんの一時間あまりのあいだに溜まった渇きが、ひどく深く、ひどく激しく、満たされていったこと。

 

    ◇

 

夜。

 

ベッドの上で、遥は天井を見上げていた。悠真の腕が、遥の身体に回されたまま、離れなかった。遥の手も、悠真の手首を、握りしめたまま離さなかった。

 

もう、一センチも、離れたくなかった。

 

「……ねえ」

遥が、掠れた声で言った。

 

「このままで、いいのかな」

 

悠真が、ゆっくりと顔を向けた。

 

「仕事、も。美咲、も。お母さん、も……」

 

言葉が、うまく続かなかった。長い文章を組み立てようとすると、途中で、頭の中の糸がほどけてしまう。

 

「おかしいの。わかってる、のに……」

 

遥は、両手で顔を覆った。

 

「ゆうまと、はなれるの……むり、だった」

 

一時間。

たった一時間だった。

 

母の声を聞いて、泣いて、決意して、荷物をまとめて、家を出て。その全部が、たった一時間で、崩れ去った。

 

悠真は、しばらく黙っていた。それから、遥の髪を、ゆっくりと撫でた。

 

指先が髪に触れた瞬間、遥の肩が小さく跳ねた。それでも、彼女は顔を覆ったままだった。

 

「……わからない」

悠真が、静かに言った。

「このままでいいのか、僕にも、わからない」

 

遥の指の隙間から、涙が一筋、こぼれ落ちた。

 

「でも」

 

悠真は、遥の身体を引き寄せた。抵抗はなかった。遥は、まるで水が低いほうへ流れるように、彼の腕の中に収まった。

 

「はなれたく、ない」

 

悠真の言葉も、もう、短かった。

 

「遥と、はなれるのは、いやだ」

 

その答えを聞いた瞬間。

遥の胸に広がったのは、安堵だった。

 

温かくて、甘くて、身体の芯まで染み渡っていくような安堵。悠真も同じ気持ちでいてくれる。このままでいいと、言ってくれた。止めなくていいと、言ってくれた。

 

そう感じてしまった自分に、遥は、かすかな怖さを覚えた。

 

今、自分は何に安堵したのだろう。悠真の愛情に? それとも――引き返さなくていい理由を、手に入れたことに?

 

その問いが、頭の片隅で小さく光った。

 

最後の、小さな光だった。

 

けれど、悠真の唇が涙の跡に触れた瞬間。その熱が、涙の塩気と混じり合って、甘く変わった瞬間。

 

光は、どこか遠くへ流れていった。蜜の底に、静かに沈んでいった。

 

もう、二度と、浮かび上がってこなかった。

 

    ◇

 

翌朝、遥のスマホに、母から短いメッセージが届いていた。

 

「着いた? 駅まで迎えに行こうか?」

 

遥は、それを読んで、画面を伏せた。

 

返事は、しなかった。

何と返せばいいのか、もう分からなかった。

 

    ◇

 

月曜日の夜、悠真は、眠る遥の横顔を見下ろしていた。

 

明日、会社に行けば、また九時間、遥から離れることになる。たった一時間で、遥はあの駅のホームで崩れ落ちた。自分も、玄関の床から立ち上がれなかった。九時間。考えただけで、指先が冷たくなった。

 

計画を立てるのは、得意なはずだった。貯金はいくら残っているか。カードの請求はいつ来るか。家賃は。来月は。頭の中で数字を並べようとした。数字は、並ばなかった。並べる端から、隣で眠る遥の寝息に溶けていった。

 

ただひとつだけ、はっきりと分かることがあった。

遥のそばを、離れたくない。

 

それはもう、計画ではなかった。決断と呼べるのかどうかも分からない、ただひとつ残った答えだった。

 

    ◇

 

悠真が会社を辞めたのは、その翌週だった。

 

退職届を出したのは、火曜日の朝だった。上司は驚き、引き止め、理由を訊いた。悠真は「いっしんじょうの、つごうで」としか言わなかった。その言葉さえ、何度か言い淀んだ。

 

中村が廊下で彼を捕まえて、「おい、本気かよ」と肩を掴んだ。悠真の肌に触れた瞬間、中村は、ぎょっとしたように手を離した。

 

「お前……熱あるだろ。すげえ熱いぞ」

 

悠真は、ただ曖昧に笑っただけだった。中村の手が触れた場所が、ひどく不快だった。遥ではない肌が触れたことが、まるで汚されたように感じた。

 

誰にも相談しなかった。

遥にさえ、事前には言わなかった。

 

その夜、悠真が「やめて、きた」と告げると、遥は一瞬だけ目を見開いた。それから、何も言わずに、彼の胸に顔を埋めた。

 

責めなかった。

理由も、訊かなかった。

 

訊く必要が、もうなかったからだ。

 

遥は、あの日曜日から、一度も会社に行っていなかった。退職届も、出していなかった。出しに行く、ということを、考えることさえできなくなっていた。

 

    ◇

 

その夜、二人は久しぶりに、食器棚を開けた。

 

奥のほうに、瓶が並んでいた。

空っぽになった、一本目。

空っぽになった、二本目。

そして、半分ほど中身の残った、三本目。

 

三百円。

三十万円。

百万円。

 

二人の五年間と、未来と、それ以上のものが、この三本の瓶の中に消えていった。

 

悠真が、三本目を手に取った。ガラスは相変わらず温かかった。けれど今は、そのぬくもりが、自分たちの肌のぬくもりと同じだと分かる。

 

「……これ」

遥が、瓶を見つめて言った。

「どう、する?」

 

悠真は、瓶を光にかざした。

琥珀色の液体が、とろりと揺れて、金色にきらめく。

 

「もう、いらない、ね」

「うん」

「すてる?」

 

遥は、少し考えた。

考える、ということに、ひどく時間がかかった。

 

それから、首を横に振った。

 

「……ここ、に、おいとこう」

 

なぜ、と悠真は訊かなかった。二人とも分かっていた。もう、この瓶を捨てても、何も変わらない。自分たちの中に、同じものが流れているのだから。

 

それに。

 

老婆の声が、耳の奥で、かすかに響いていた。

 

いずれ、何倍にもして返していただきますから。

 

その意味を考えようとして、二人とも、やめた。考えるのは、もう、ひどく疲れることだった。

 

瓶は、食器棚に戻された。

三本、並べて。

扉が、静かに閉じられた。

 

それきり、二度と開けられることはなかった。開ける理由も、開けようと思う理性も、やがて、二人の中から消えていったから。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。