カーテンは、閉じたままになった。
昼と夜の境目は、厚い布越しに滲む光の色の違いでしか分からない。白っぽいときは昼。橙色のときは夕方。何も滲まないときは夜。それくらいの区別しか、もう要らなかった。
スマホは、いつの間にか、どちらも電池が切れていた。
充電しようという考えは、浮かばなかった。黒い画面のまま、ベッドの下のどこかに転がっている。
◇
変化は、ある朝――あるいは昼だったかもしれない――ひっそりと訪れた。
遥はソファの上で、悠真の腕を枕にして、うとうとしていた。
二人とも、何も身につけていなかった。服を着る理由が、もう思い出せなかった。
悠真の腕の内側に、汗が薄く滲んでいた。
遥の頬は、その腕にぴたりと押しつけられていた。
ただ、それだけだった。
舐めてもいない。唇も触れていない。頬の皮膚が、彼の汗ばんだ皮膚に、触れていただけ。
なのに。
遥の頬に、熱が灯った。
最初は、自分の体温だと思った。
けれど熱は、頬の一点から、じわりと広がっていく。まるで乾いた紙に水が染みていくように。頬から耳へ、耳から首筋へ、首筋から鎖骨へ。皮膚のすぐ下を、とろりとした何かが這い進んでいく。
遥は、ゆっくりと目を開けた。
「……ゆう、ま」
「ん……」
「いま……なめて、ない」
悠真が身を起こして、遥の顔を見た。
頬が、触れていた形のまま、赤く染まっている。その赤みが、目に見える速さで、首のほうへと広がっていく。
悠真は、自分の腕を見下ろした。
汗に濡れた内側の皮膚。遥の頬が押しつけられていた場所。
それから、そっと、遥の肩に手のひらを置いた。
二人の肌は、どちらも汗ばんでいた。
悠真の手のひらと、遥の肩。湿った皮膚と、湿った皮膚が、静かに重なる。
数秒後。
悠真の手のひらが、熱を帯びた。
遥の肩の汗が、彼の手のひらの皮膚から、染み込んでくる。毛穴の一つひとつが、小さな口になって、甘い蜜を吸い上げているような感覚。手のひらから手首へ、手首から肘へ。腕の内側を、琥珀色の熱がゆっくりと遡っていく。
同時に、遥の肩も。
悠真の手のひらの汗が、肩の皮膚から沁みて、背中へと広がっていく。
「……っ、ぁ……」
遥の口から、細い声が漏れた。
もう、口も、粘膜も、要らなかった。
皮膚が、触れているだけで。
互いの肌の表面に滲んだものが、そのまま相手の皮膚を通り抜けて、身体の中へ流れ込んでくる。
「からだ……ぜんぶ……」
遥が、うわ言のように呟いた。
「ぜんぶ、くち……みたい……」
悠真は答えられなかった。
彼もまた、全身の皮膚が、遥を飲み込もうとしているのを感じていた。
◇
それからは、もう、何も隔てるものがなかった。
抱き合えば、肌の触れているすべての場所から、互いが流れ込んでくる。
胸と胸。腹と腹。絡めた脚。指と指。頬と頬。
一か所からではない。
身体の表面の、触れ合っているすべてから、同時に。
以前なら、唇を重ね、舌を絡め、もっと深く交わることでしか届かなかった熱が、今はただ抱きしめるだけで、全身から一斉に注ぎ込まれる。広い面積で、絶え間なく、途切れることなく。
それは、温かい蜜の湯に、首まで浸かっているようだった。
いや、自分自身が溶けて、その蜜の一部になっていくようだった。
遥の、豊かに張った胸が、悠真の胸板に押しつけられる。
その柔らかな肌の全面から、彼の汗が沁み込んでくる。押し潰された曲線の内側で、熱が渦を巻き、先端から芯へ、芯から背中へと抜けていく。
悠真の手のひらが、遥の丸く張り出した腰を掴む。
指が沈み込む、その肌の一面一面が、彼の熱を吸い込む。手を離しても、彼の手の形のまま、そこだけがいつまでも熱く疼き続けた。
そして、身体の奥深くで交わり合うとき。
あのいちばん濃いもの――遥から溢れる愛液と、悠真が注ぐ精液――は、もう粘膜からだけではなかった。
溢れ出たものが、互いの太腿を、腰を、腹を濡らす。その濡れた肌の一面一面が、それを吸い込む。
遥の内腿を伝い落ちる蜜は、そのまま彼女自身の脚の皮膚から沁み込み、触れ合う悠真の脚へも沁みていく。
悠真が果てたあと、溢れて二人の肌を濡らしたものは、拭われることなく、そのまま二人の身体に吸い込まれていく。
注がれ、溢れ、肌を濡らし、沁み込み、また求める。
内側からも、外側からも。
逃げ場が、どこにもなかった。
逃げたいとも、思わなかった。
◇
それを、二人がはっきりと思い知らされたのは、皮膚の変化に気づいてから数日後のことだった。
交わりの、最後の瞬間。
悠真は、遥の中から身を引くのが、ほんの一瞬だけ遅れた。いや、早すぎたのかもしれない。どちらにしても、もう自分の身体を思うように動かせる状態ではなかった。
悠真の熱が、遥の肌の上に、散った。
下腹に。臍のくぼみに。胸元に。
白く、熱いものが、点々と、彼女の汗ばんだ肌の上に落ちる。
遥は、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
肌の上に、温かいものが落ちた。感じたのは、ただそれだけだった。
次の瞬間。
落ちた一点一点から、熱が、爆ぜた。
それは、汗が沁み込んでくるときの、じわじわと広がる熱とは、まるで違っていた。
皮膚が、それを貪るように吸い込んだ。肌の上に落ちた雫の一つひとつが、針のように細く、鋭く、皮膚の奥へと突き刺さっていく。毛穴から、細胞の隙間から、一瞬で。
吸い込まれた場所から、灼けるような痺れが走った。
下腹から背骨へ。
胸元から喉へ。
臍から、身体のいちばん奥深くへ。
いくつもの熱の筋が、同時に、全身を駆け抜けた。
「――っ、ぁ、ぁあ……っ!」
遥の背中が、弓のように反った。
シーツから浮き上がった腰が、びくん、と大きく跳ねる。
落ちる。また跳ねる。
自分の意思とは関係なく、身体の芯が、勝手に何度も痙攣した。
びくん。
びくん、と。
肌の上の白い雫が、ひとつ吸い込まれるたびに、新しい波が来る。
下腹の一点が沁み込めば、腰が跳ねる。
胸元の一点が沁み込めば、張りつめた胸が大きく波打ち、喉が反って、声にならない声が漏れる。
遥は、シーツを掴もうとした。
指に力が入らなかった。両手は空を掻き、やがて、悠真の腕にすがりついた。
その腕にも、彼の汗が滲んでいた。
すがりついた指先から、また熱が流れ込んでくる。
「ゆ、ぅま……っ、とまら、な……」
途切れ途切れの声が、震えていた。
目尻から涙がこぼれ、こめかみを伝って、髪の中に消える。
悠真は、動けなかった。
目の前で、遥の身体が、自分の放ったものを吸い込んでいく。
白い雫が、彼女の肌の上で、みるみる薄くなっていく。まるで乾いた砂に落ちた水のように。跡形もなく、肌の中へと消えていく。
そして、消えるたびに、遥が跳ねる。
その光景から、目が離せなかった。
自分の一部が、遥の中に沁み込んでいく。
口からでも、身体の奥からでもなく、ただ肌の表面から。彼女の全身が、自分を飲み込んでいく。
怖い、と、どこかで思った。
けれど、それよりもずっと強く、悠真の胸を満たしていたのは、震えるほどの愛おしさだった。
悠真は、遥の上に、そっと身体を重ねた。
まだ肌の上に残っていた雫が、二人の間に挟まれる。
押し潰され、広がり、遥の肌と悠真の肌の両方に、同時に沁み込んでいく。
今度は、悠真の身体も跳ねた。
自分が放ったものが、遥の汗と混じり合い、自分の肌から、自分の中へと還ってくる。
彼女を経由して、何倍にも濃くなって。
二人の身体が、重なったまま、同時に震えた。
びくん、と。
びくん、と。
もう、どちらの震えなのか、分からなかった。
遥の痙攣が、ようやく少しずつ間遠になっていったのは、どれくらい経ってからだっただろう。
悠真の胸の下で、遥は、浅く速い呼吸を繰り返していた。目の焦点が合わない。唇が、何かを言おうとして、何度も小さく動く。
けれど、出てきたのは、溶けたような吐息だけだった。
悠真の肌の下で、遥の肌が、まだ微かに、ひくひくと震えている。
沁み込んだものが、まだ彼女の中で、静かに熱を放ち続けている。
そして、その熱が完全に引くよりも早く。
遥の腕が、悠真の首に、ゆっくりと絡みついた。
◇
部屋は、すっかり変わり果てていた。
シーツは、もう何週間もそのままになっている。
二人の汗と、唾液と、それ以外のものが、幾重にも染み込んで、布地は重く湿り、甘い匂いを放っていた。
その上に横たわるだけで、背中がじわりと疼き出した。
シーツに染みたものが、背中の皮膚から沁みてくる。
二人が交わった跡が、二人を、また交わりへと誘う。
ソファも。カーペットも。
二人が肌を重ねたあらゆる場所が、蜜を吸い、蜜を吐いた。
空気が、重い。
吸い込むたびに、肺の奥がとろりと緩む。
静まり返った部屋に聞こえるのは、二人の呼吸と、湿った布が肌から剥がれるときの、ねっとりとした音だけだった。
部屋そのものが、巨大な琥珀色の瓶になっていた。
食器棚の奥で、二本の空き瓶と、半分残った一本が、それを静かに見守っていた。
◇
ときどき、玄関のチャイムが鳴った。
最初は、美咲だった。
「遥? いるんでしょ? ……ねえ、開けて。心配なの」
ドアを叩く音が、何度も続いた。
遥は、悠真の腕の中で、その声を聞いていた。
美咲。大学の頃から、ずっと一緒だった友達。
名前は、分かった。
顔も、うっすらと思い出せた。
けれど、立ち上がって、ドアを開けに行く、という考えが、どうしても形にならなかった。
立ち上がるためには、悠真の肌から離れなければならない。
それは、考えるだけで、骨の芯が軋むほどの苦痛だった。
やがて、ドアを叩く音は止んだ。
足音が、遠ざかっていった。
◇
次は、管理会社の人だった。
家賃の引き落としができていない、と、ドアの向こうで事務的な声が告げた。
封筒が、郵便受けに差し込まれる音がした。
その次は、悠真の名前を呼ぶ、低い声だった。
中村だったかもしれない。
二人は、その音を、遠い雨音のように聞いていた。
◇
ある日――それが何日目だったのか、もう分からない――チャイムが、長く鳴った。
一度。二度。三度。
「遥? 遥、いるの?」
その声に、遥の身体が、ぴくりと動いた。
母だった。
「お母さんよ。……開けて。お願い」
ドアを叩く音。
それから、ドアノブを回す音。鍵がかかっている。
「遥……悠真くん……? いるなら、返事だけでもして。ねえ……」
母の声が、震えていた。
泣いているのだと、遥には分かった。
遥は、悠真の胸から、ゆっくりと顔を上げた。
おかあさん。
その言葉が、喉の奥で、小さく形になりかけた。
「……お、か……」
唇が、動いた。
声が、出かかった。
その瞬間、悠真の手が、遥の背中を撫でた。
汗に濡れた手のひらが、遥の背中の皮膚に、ぴたりと重なる。
そこから、熱が、とろりと沁み込んでくる。
喉の奥の言葉が、溶けた。
「……ぁ……」
遥の唇から漏れたのは、甘い吐息だけだった。
母の声は、まだドアの向こうで続いていた。
何かを言っている。遥の名前を呼んでいる。
けれど、その声は、もう、意味を持った言葉として、遥の耳には届かなかった。
ただの、遠い音。
雨の音。風の音。
遥は、悠真の首筋に、また顔を埋めた。
どれくらい経ったのか。
チャイムの音が、止んだ。
ドアの前で、誰かが長いあいだ立ち尽くしている気配がして、それから、ゆっくりと遠ざかっていった。
それきり、チャイムは鳴らなかった。
◇
食べることも、少しずつ忘れていった。
空腹を感じないわけではなかった。
けれど、それよりも強いものが、いつも身体を満たしていた。
ときおり、思い出したように、悠真が冷蔵庫を開ける。
中にあるものを、手づかみで口に運ぶ。遥にも、口移しで与える。
口移しで与えると、遥の唇に、悠真の唾液が残る。
それだけで、遥の目が潤み、食べ物のことなど忘れて、悠真の首に腕を絡める。
結局、食べかけのものは床に落ち、二人はまた、互いの中へ沈んでいく。
水だけは、飲んだ。
飲んだ水は、汗になって肌に滲み、相手の肌に沁み込み、また相手の汗になって、自分の肌に沁み込んできた。
二人の身体を、同じものがぐるぐると巡っていた。
◇
かつて遥は、考えることが好きだった。
本を読むのが好きで、映画を観たあとは、何時間でも感想を語り合った。悠真の仕事の愚痴を、真剣に聞いて、的確な言葉を返すことができた。
かつて悠真は、計画を立てるのが得意だった。
旅行の行程を分刻みで組み、家計簿を毎月きっちりつけ、五年後、十年後の二人の暮らしを、頭の中で何度も描いていた。オーロラを見に行く日のことも。
その輪郭は、もう、とろりとした蜜の中に溶けて、見えなくなっている。
言葉が、減っていった。
あの日曜日に、短くなり始めた言葉は、さらに短くなっていった。
「ゆうま、いま、なんじ」が、「ゆうま、いま……」になり、「……ゆうま」になった。
やがて、名前を呼ぶことさえ、途中で溶けるようになった。
「ゆ……」
呼ぼうと開いた唇が、相手の唇で塞がれる。
あるいは、呼びかけの途中で、肌から流れ込んできた熱が、喉の奥の言葉をさらっていく。
言葉の代わりに、吐息が増えた。
吐息の代わりに、声にならない声が増えた。
それで十分だった。
言葉なんて、もう、何の役にも立たなかった。
相手が何を求めているのか、皮膚が知っていた。
肌と肌が触れ合うたびに、相手の熱と、相手の震えと、相手の渇きが、そのまま自分の中に流れ込んでくる。感じていることが、共有されていた。
ときどき、絡めた指がどちらのものなのか、一瞬だけ分からなくなることがあった。
そのたびに、遥は小さく笑った。それが怖いことだとは、もう思えなかった。
◇
ある時――それがいつだったのか、もう誰にも分からない――
遥は、ふと、目を開けた。
カーテンの隙間から、何色とも言えない光が滲んでいた。
視界が、ぼやけている。焦点が、うまく合わない。
すぐ目の前に、悠真の顔があった。
髪は伸び放題で、汗と、それ以外の何かで額に貼りついている。唇は赤く濡れ、薄く開いて、浅い呼吸を繰り返している。肌は、汗に濡れて、ほのかに光っていた。
その目が、遥を見ていた。
熱に濁った目だった。
理性の光は、もうほとんど残っていない。焦点もどこか遠くて、遥を見ているのか、遥の向こうの何かを見ているのか、分からない。
それでも。
その奥に、何かがあった。
遥は、それを知っていた。
大学の頃、終電を逃して、夜明けの公園のベンチで、初めてキスをする直前。悠真が、こんな目をしていた。
あの夜の目が、濁った熱の、ずっと奥のほうで、まだ微かに光っていた。
遥の唇が、動いた。
何かを言おうとした。
ゆうま。
すき。
あの夜の、公園の。
けれど、言葉は出てこなかった。
言葉が、どこにあるのか、もう分からなかった。
探そうとしても、頭の中には、とろりとした琥珀色の熱が、どこまでも満ちているだけだった。
代わりに、遥は笑った。
それは笑顔と呼ぶには、あまりにも弛緩した、とろけた表情だった。
悠真の唇も、同じ形に緩んだ。
それが、二人が交わした、最後の、言葉に似た何かだった。
時間が、どれだけ経ったのか、二人とも正確には覚えていない。
カーテンは、閉じたままになった。
昼と夜の境目は、厚い布越しに滲む光の色の違いでしか分からない。白っぽいときは昼。橙色のときは夕方。何も滲まないときは夜。それくらいの区別しか、もう要らなかった。
スマホは、いつの間にか、どちらも電池が切れていた。
充電しようという考えは、浮かばなかった。黒い画面のまま、ベッドの下のどこかに転がっている。
◇
変化は、ある朝――あるいは昼だったかもしれない――ひっそりと訪れた。
遥はソファの上で、悠真の腕を枕にして、うとうとしていた。
二人とも、何も身につけていなかった。服を着る理由が、もう思い出せなかった。
悠真の腕の内側に、汗が薄く滲んでいた。
遥の頬は、その腕にぴたりと押しつけられていた。
ただ、それだけだった。
舐めてもいない。唇も触れていない。頬の皮膚が、彼の汗ばんだ皮膚に、触れていただけ。
なのに。
遥の頬に、熱が灯った。
最初は、自分の体温だと思った。
けれど熱は、頬の一点から、じわりと広がっていく。まるで乾いた紙に水が染みていくように。頬から耳へ、耳から首筋へ、首筋から鎖骨へ。皮膚のすぐ下を、とろりとした何かが這い進んでいく。
遥は、ゆっくりと目を開けた。
「……ゆう、ま」
「ん……」
「いま……なめて、ない」
悠真が身を起こして、遥の顔を見た。
頬が、触れていた形のまま、赤く染まっている。その赤みが、目に見える速さで、首のほうへと広がっていく。
悠真は、自分の腕を見下ろした。
汗に濡れた内側の皮膚。遥の頬が押しつけられていた場所。
それから、そっと、遥の肩に手のひらを置いた。
二人の肌は、どちらも汗ばんでいた。
悠真の手のひらと、遥の肩。湿った皮膚と、湿った皮膚が、静かに重なる。
数秒後。
悠真の手のひらが、熱を帯びた。
遥の肩の汗が、彼の手のひらの皮膚から、染み込んでくる。毛穴の一つひとつが、小さな口になって、甘い蜜を吸い上げているような感覚。手のひらから手首へ、手首から肘へ。腕の内側を、琥珀色の熱がゆっくりと遡っていく。
同時に、遥の肩も。
悠真の手のひらの汗が、肩の皮膚から沁みて、背中へと広がっていく。
「……っ、ぁ……」
遥の口から、細い声が漏れた。
もう、口も、粘膜も、要らなかった。
皮膚が、触れているだけで。
互いの肌の表面に滲んだものが、そのまま相手の皮膚を通り抜けて、身体の中へ流れ込んでくる。
「からだ……ぜんぶ……」
遥が、うわ言のように呟いた。
「ぜんぶ、くち……みたい……」
悠真は答えられなかった。
彼もまた、全身の皮膚が、遥を飲み込もうとしているのを感じていた。
◇
それからは、もう、何も隔てるものがなかった。
抱き合えば、肌の触れているすべての場所から、互いが流れ込んでくる。
胸と胸。腹と腹。絡めた脚。指と指。頬と頬。
一か所からではない。
身体の表面の、触れ合っているすべてから、同時に。
以前なら、唇を重ね、舌を絡め、もっと深く交わることでしか届かなかった熱が、今はただ抱きしめるだけで、全身から一斉に注ぎ込まれる。広い面積で、絶え間なく、途切れることなく。
それは、温かい蜜の湯に、首まで浸かっているようだった。
いや、自分自身が溶けて、その蜜の一部になっていくようだった。
遥の、豊かに張った胸が、悠真の胸板に押しつけられる。
その柔らかな肌の全面から、彼の汗が沁み込んでくる。押し潰された曲線の内側で、熱が渦を巻き、先端から芯へ、芯から背中へと抜けていく。
悠真の手のひらが、遥の丸く張り出した腰を掴む。
指が沈み込む、その肌の一面一面が、彼の熱を吸い込む。手を離しても、彼の手の形のまま、そこだけがいつまでも熱く疼き続けた。
そして、身体の奥深くで交わり合うとき。
あのいちばん濃いもの――遥から溢れる愛液と、悠真が注ぐ精液――は、もう粘膜からだけではなかった。
溢れ出たものが、互いの太腿を、腰を、腹を濡らす。その濡れた肌の一面一面が、それを吸い込む。
遥の内腿を伝い落ちる蜜は、そのまま彼女自身の脚の皮膚から沁み込み、触れ合う悠真の脚へも沁みていく。
悠真が果てたあと、溢れて二人の肌を濡らしたものは、拭われることなく、そのまま二人の身体に吸い込まれていく。
注がれ、溢れ、肌を濡らし、沁み込み、また求める。
内側からも、外側からも。
逃げ場が、どこにもなかった。
逃げたいとも、思わなかった。
◇
それを、二人がはっきりと思い知らされたのは、皮膚の変化に気づいてから数日後のことだった。
交わりの、最後の瞬間。
悠真は、遥の中から身を引くのが、ほんの一瞬だけ遅れた。いや、早すぎたのかもしれない。どちらにしても、もう自分の身体を思うように動かせる状態ではなかった。
悠真の熱が、遥の肌の上に、散った。
下腹に。臍のくぼみに。胸元に。
白く、熱いものが、点々と、彼女の汗ばんだ肌の上に落ちる。
遥は、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
肌の上に、温かいものが落ちた。感じたのは、ただそれだけだった。
次の瞬間。
落ちた一点一点から、熱が、爆ぜた。
それは、汗が沁み込んでくるときの、じわじわと広がる熱とは、まるで違っていた。
皮膚が、それを貪るように吸い込んだ。肌の上に落ちた雫の一つひとつが、針のように細く、鋭く、皮膚の奥へと突き刺さっていく。毛穴から、細胞の隙間から、一瞬で。
吸い込まれた場所から、灼けるような痺れが走った。
下腹から背骨へ。
胸元から喉へ。
臍から、身体のいちばん奥深くへ。
いくつもの熱の筋が、同時に、全身を駆け抜けた。
「――っ、ぁ、ぁあ……っ!」
遥の背中が、弓のように反った。
シーツから浮き上がった腰が、びくん、と大きく跳ねる。
落ちる。また跳ねる。
自分の意思とは関係なく、身体の芯が、勝手に何度も痙攣した。
びくん。
びくん、と。
肌の上の白い雫が、ひとつ吸い込まれるたびに、新しい波が来る。
下腹の一点が沁み込めば、腰が跳ねる。
胸元の一点が沁み込めば、張りつめた胸が大きく波打ち、喉が反って、声にならない声が漏れる。
遥は、シーツを掴もうとした。
指に力が入らなかった。両手は空を掻き、やがて、悠真の腕にすがりついた。
その腕にも、彼の汗が滲んでいた。
すがりついた指先から、また熱が流れ込んでくる。
「ゆ、ぅま……っ、とまら、な……」
途切れ途切れの声が、震えていた。
目尻から涙がこぼれ、こめかみを伝って、髪の中に消える。
悠真は、動けなかった。
目の前で、遥の身体が、自分の放ったものを吸い込んでいく。
白い雫が、彼女の肌の上で、みるみる薄くなっていく。まるで乾いた砂に落ちた水のように。跡形もなく、肌の中へと消えていく。
そして、消えるたびに、遥が跳ねる。
その光景から、目が離せなかった。
自分の一部が、遥の中に沁み込んでいく。
口からでも、身体の奥からでもなく、ただ肌の表面から。彼女の全身が、自分を飲み込んでいく。
怖い、と、どこかで思った。
けれど、それよりもずっと強く、悠真の胸を満たしていたのは、震えるほどの愛おしさだった。
悠真は、遥の上に、そっと身体を重ねた。
まだ肌の上に残っていた雫が、二人の間に挟まれる。
押し潰され、広がり、遥の肌と悠真の肌の両方に、同時に沁み込んでいく。
今度は、悠真の身体も跳ねた。
自分が放ったものが、遥の汗と混じり合い、自分の肌から、自分の中へと還ってくる。
彼女を経由して、何倍にも濃くなって。
二人の身体が、重なったまま、同時に震えた。
びくん、と。
びくん、と。
もう、どちらの震えなのか、分からなかった。
遥の痙攣が、ようやく少しずつ間遠になっていったのは、どれくらい経ってからだっただろう。
悠真の胸の下で、遥は、浅く速い呼吸を繰り返していた。目の焦点が合わない。唇が、何かを言おうとして、何度も小さく動く。
けれど、出てきたのは、溶けたような吐息だけだった。
悠真の肌の下で、遥の肌が、まだ微かに、ひくひくと震えている。
沁み込んだものが、まだ彼女の中で、静かに熱を放ち続けている。
そして、その熱が完全に引くよりも早く。
遥の腕が、悠真の首に、ゆっくりと絡みついた。
◇
部屋は、すっかり変わり果てていた。
シーツは、もう何週間もそのままになっている。
二人の汗と、唾液と、それ以外のものが、幾重にも染み込んで、布地は重く湿り、甘い匂いを放っていた。
その上に横たわるだけで、背中がじわりと疼き出した。
シーツに染みたものが、背中の皮膚から沁みてくる。
二人が交わった跡が、二人を、また交わりへと誘う。
ソファも。カーペットも。
二人が肌を重ねたあらゆる場所が、蜜を吸い、蜜を吐いた。
空気が、重い。
吸い込むたびに、肺の奥がとろりと緩む。
静まり返った部屋に聞こえるのは、二人の呼吸と、湿った布が肌から剥がれるときの、ねっとりとした音だけだった。
部屋そのものが、巨大な琥珀色の瓶になっていた。
食器棚の奥で、二本の空き瓶と、半分残った一本が、それを静かに見守っていた。
◇
ときどき、玄関のチャイムが鳴った。
最初は、美咲だった。
「遥? いるんでしょ? ……ねえ、開けて。心配なの」
ドアを叩く音が、何度も続いた。
遥は、悠真の腕の中で、その声を聞いていた。
美咲。大学の頃から、ずっと一緒だった友達。
名前は、分かった。
顔も、うっすらと思い出せた。
けれど、立ち上がって、ドアを開けに行く、という考えが、どうしても形にならなかった。
立ち上がるためには、悠真の肌から離れなければならない。
それは、考えるだけで、骨の芯が軋むほどの苦痛だった。
やがて、ドアを叩く音は止んだ。
足音が、遠ざかっていった。
◇
次は、管理会社の人だった。
家賃の引き落としができていない、と、ドアの向こうで事務的な声が告げた。
封筒が、郵便受けに差し込まれる音がした。
その次は、悠真の名前を呼ぶ、低い声だった。
中村だったかもしれない。
二人は、その音を、遠い雨音のように聞いていた。
◇
ある日――それが何日目だったのか、もう分からない――チャイムが、長く鳴った。
一度。二度。三度。
「遥? 遥、いるの?」
その声に、遥の身体が、ぴくりと動いた。
母だった。
「お母さんよ。……開けて。お願い」
ドアを叩く音。
それから、ドアノブを回す音。鍵がかかっている。
「遥……悠真くん……? いるなら、返事だけでもして。ねえ……」
母の声が、震えていた。
泣いているのだと、遥には分かった。
遥は、悠真の胸から、ゆっくりと顔を上げた。
おかあさん。
その言葉が、喉の奥で、小さく形になりかけた。
「……お、か……」
唇が、動いた。
声が、出かかった。
その瞬間、悠真の手が、遥の背中を撫でた。
汗に濡れた手のひらが、遥の背中の皮膚に、ぴたりと重なる。
そこから、熱が、とろりと沁み込んでくる。
喉の奥の言葉が、溶けた。
「……ぁ……」
遥の唇から漏れたのは、甘い吐息だけだった。
母の声は、まだドアの向こうで続いていた。
何かを言っている。遥の名前を呼んでいる。
けれど、その声は、もう、意味を持った言葉として、遥の耳には届かなかった。
ただの、遠い音。
雨の音。風の音。
遥は、悠真の首筋に、また顔を埋めた。
どれくらい経ったのか。
チャイムの音が、止んだ。
ドアの前で、誰かが長いあいだ立ち尽くしている気配がして、それから、ゆっくりと遠ざかっていった。
それきり、チャイムは鳴らなかった。
◇
食べることも、少しずつ忘れていった。
空腹を感じないわけではなかった。
けれど、それよりも強いものが、いつも身体を満たしていた。
ときおり、思い出したように、悠真が冷蔵庫を開ける。
中にあるものを、手づかみで口に運ぶ。遥にも、口移しで与える。
口移しで与えると、遥の唇に、悠真の唾液が残る。
それだけで、遥の目が潤み、食べ物のことなど忘れて、悠真の首に腕を絡める。
結局、食べかけのものは床に落ち、二人はまた、互いの中へ沈んでいく。
水だけは、飲んだ。
飲んだ水は、汗になって肌に滲み、相手の肌に沁み込み、また相手の汗になって、自分の肌に沁み込んできた。
二人の身体を、同じものがぐるぐると巡っていた。
◇
かつて遥は、考えることが好きだった。
本を読むのが好きで、映画を観たあとは、何時間でも感想を語り合った。悠真の仕事の愚痴を、真剣に聞いて、的確な言葉を返すことができた。
かつて悠真は、計画を立てるのが得意だった。
旅行の行程を分刻みで組み、家計簿を毎月きっちりつけ、五年後、十年後の二人の暮らしを、頭の中で何度も描いていた。オーロラを見に行く日のことも。
その輪郭は、もう、琥珀色の底に沈んでいる。
言葉が、減っていった。
あの日曜日に、短くなり始めた言葉は、さらに短くなっていった。
「ゆうま、いま、なんじ」が、「ゆうま、いま……」になり、「……ゆうま」になった。
やがて、名前を呼ぶことさえ、途中で溶けるようになった。
「ゆ……」
呼ぼうと開いた唇が、相手の唇で塞がれる。
あるいは、呼びかけの途中で、肌から流れ込んできた熱が、喉の奥の言葉をさらっていく。
言葉の代わりに、吐息が増えた。
吐息の代わりに、声にならない声が増えた。
それで十分だった。
言葉なんて、もう、何の役にも立たなかった。
相手が何を求めているのか、皮膚が知っていた。
肌と肌が触れ合うたびに、相手の熱と、相手の震えと、相手の渇きが、そのまま自分の中に流れ込んでくる。感じていることが、共有されていた。
ときどき、絡めた指がどちらのものなのか、一瞬だけ分からなくなることがあった。
そのたびに、遥は小さく笑った。それが怖いことだとは、もう思えなかった。
◇
ある時――それがいつだったのか、もう誰にも分からない――
遥は、ふと、目を開けた。
カーテンの隙間から、何色とも言えない光が滲んでいた。
視界が、ぼやけている。焦点が、うまく合わない。
すぐ目の前に、悠真の顔があった。
髪は伸び放題で、汗と、それ以外の何かで額に貼りついている。唇は赤く濡れ、薄く開いて、浅い呼吸を繰り返している。肌は、汗に濡れて、ほのかに光っていた。
その目が、遥を見ていた。
熱に濁った目だった。
理性の光は、もうほとんど残っていない。焦点もどこか遠くて、遥を見ているのか、遥の向こうの何かを見ているのか、分からない。
それでも。
その奥に、何かがあった。
遥は、それを知っていた。
大学の頃、終電を逃して、夜明けの公園のベンチで、初めてキスをする直前。悠真が、こんな目をしていた。
あの夜の目が、濁った熱の、ずっと奥のほうで、まだ微かに光っていた。
遥の唇が、動いた。
何かを言おうとした。
ゆうま。
すき。
あの夜の、公園の。
けれど、言葉は出てこなかった。
言葉が、どこにあるのか、もう分からなかった。
探そうとしても、頭の中には、とろりとした琥珀色の熱が、どこまでも満ちているだけだった。
代わりに、遥は笑った。
それは笑顔と呼ぶには、あまりにも弛緩した、とろけた表情だった。
悠真の唇も、同じ形に緩んだ。
それが、二人が交わした、最後の、言葉に似た何かだった。