いつからか、二人の肌は、乾くことがなくなった。
汗ではなかった。
汗なら、時間が経てば引いていく。肌の上で冷え、蒸発して、跡だけを残して消えていく。
これは、消えなかった。
肌の内側から、絶えず、とろりとしたものが滲み出していた。
毛穴の一つひとつから、ゆっくりと、静かに。湧き水が、岩の割れ目から染み出すように。
琥珀色だった。あの瓶の中身よりも、ずっと濃く、深い色をしていた。
ランプの光は、もう何日もつけていなかった。
それでも、カーテンの隙間から滲む光の中で、二人の肌は、薄い琥珀色の膜に覆われて、ほのかに光っていた。
遥の首筋から、鎖骨のくぼみへ。
張りつめた胸の丸みを伝い、先端からひと雫、またひと雫と、滴り落ちていく。
くびれた腰を伝い、丸く張り出した曲線を伝い、太腿の内側を、とろりと流れ落ちていく。
悠真の肩から、背中の筋を伝い、腰へ。
腕の内側から、手首へ、指先へ。
二人の身体は、もう、蜜を湛えた器ではなかった。
蜜が、湧き出す泉だった。
不思議と、二人の身体は衰えなかった。
まともに食べなくなってから、どれほど経ったのか分からない。それでも、痩せた手足はそれ以上痩せず、遥の胸と腰の曲線は、むしろ日ごとに豊かに、柔らかくなっていった。悠真の肩や背中も、蜜の膜をまとって、艶やかに光っていた。
互いから湧き出す蜜が、二人を生かしていた。
そして、二人を、互いのためだけの形に、作り変え続けていた。
◇
触れなくても、よくなった。
遥が身じろぎをする。
それだけで、肌から立ちのぼる甘い匂いが、ふわりと部屋の空気を揺らす。
その匂いが、悠真の肌に触れる。
悠真の肌が、それを吸い込む。
「……ぁ……」
悠真の喉から、声が漏れた。
遥は、何もしていなかった。
ただ、少し離れた場所で、寝返りを打っただけだった。
それだけで、悠真の身体の芯に、琥珀色の熱が灯る。
悠真が、遥のほうへ、ゆっくりと手を伸ばす。
その指先から、蜜が、ひと雫、シーツの上に落ちる。
そのひと雫から立ちのぼる匂いが、遥の肌を撫でた。
「……ぁっ……」
遥の背中が、小さく反った。
互いの気配だけで。
互いの匂いだけで。
同じ部屋で、同じ空気を吸っている、ただそれだけで。
身体の芯が、疼き、震え、熱を持つ。
二人の存在そのものが、媚薬になっていた。
◇
けれど、離れていられるはずがなかった。
悠真の指先が、遥の肩に触れる。
触れた瞬間、そこから、波が来た。
もう、熱が「灯る」などという、穏やかなものではなかった。
互いの肌から湧き出す蜜と蜜が、触れ合った一点で混じり合い、一瞬で、全身を貫いていく。
「あっ……」
遥の口から、声がこぼれた。
指先が、肩から、背中へと滑っていく。
滑ったあとに、蜜の筋が残る。その筋の全長が、灼けるように熱い。
「あっ……あ……っ」
悠真の腕が、遥の身体を引き寄せる。
肌と肌が、重なる。
胸と胸が。腹と腹が。脚と脚が。
触れ合ったすべての場所で、蜜と蜜が混じり合う。
湧き出し、溢れ、混じり合い、また沁み込み、また湧き出す。
「ぁ……あっ……あぁ……っ」
遥の喉から、声が溢れる。
止められなかった。止めようとも、思わなかった。
悠真の喉からも、低く、掠れた声が漏れていた。
意味のある言葉ではなかった。名前でもなかった。
ただ、声だった。
◇
二人が繋がった瞬間。
「あっ――」
遥の声が、高く、細く、跳ね上がった。
身体の奥で、悠真の熱と、自分の熱が、混じり合う。
そこから湧き出したものが、二人の身体の内側にも、外側にも、溢れていく。
内側で注がれ、混じり合ったものが、身体の奥から、全身へと染み渡る。
外側で溢れ、肌を濡らしたものが、皮膚から、全身へと沁み込んでいく。
内と外から、同時に。
「あっ、あっ……あ……っ」
波が来る。
引く前に、次が来る。
次が頂点に届く前に、また次が来る。
遥の腰が、跳ねた。
びくん、と。
それが落ちる前に、また跳ねた。
「あっ……あ、あ……っ」
悠真の背中が、震えていた。
遥の指が、その背中に食い込む。爪が、蜜に濡れた肌の上を、滑る。
「ぁ……あぁ……っ、あっ……」
声が、重なる。
遥の声と、悠真の声が、重なって、どちらがどちらの声なのか、分からなくなる。
悠真が、果てる。
遥の奥深くで。
その熱が、遥の中に注がれた瞬間。
「あっ――あ、あぁ……っ!」
遥の全身が、硬直した。
それから、激しく、何度も、跳ねた。
注がれたものが、身体の奥から、内側を灼きながら全身へ広がっていく。
同時に、二人のあいだから溢れたものが、太腿を、腰を、腹を濡らし、肌から沁み込んで、外側から全身を包み込む。
内からも、外からも。
逃げ場が、どこにもない。
「あっ……あっ……ぁ……」
びくん。
びくん、と。
遥の痙攣が、悠真の身体に伝わる。
悠真の身体も、また、跳ねる。
その振動が、また遥に返ってくる。
「ぁ……あ……っ」
終わらなかった。
一度、果てても、終わらなかった。
果てた瞬間に溢れたものが、また二人を濡らし、沁み込み、次の波を呼ぶ。
「あっ……」
悠真が、また、動き始める。
遥の腰が、それを迎えにいく。
終わりがなかった。
始まりも、もう、分からなかった。
◇
時間が、溶けていった。
いつ眠ったのか。
いつ目を覚ましたのか。
その区別が、なくなった。
眠っているあいだも、二人は繋がっていた。
夢の中でも、波は来た。目を覚ますと、まだ波の中にいた。
どこからが夢で、どこからが現実なのか。どこからが眠りで、どこからが目覚めなのか。
分からなかった。
分かる必要も、なかった。
一度と、次の一度の区別も、なくなった。
果てて、また始まって、また果てて。その境目が、どんどん曖昧になっていく。
やがて、ひとつの、途切れることのない波になった。
寄せては返す、のではなかった。
寄せたまま、引くことがなかった。
ずっと、満ちたまま。満ちて、溢れて、それでもまだ、満ちていく。
カーテンの隙間の光が、白くなり、橙色になり、消え、また白くなる。
それが何度繰り返されたのか、誰も数えていなかった。
一日だったのか。
一週間だったのか。
一年だったのか。
二人の時間は、もう、止まっていた。
いや――止まったまま、永遠に続いていた。
◇
「……ぁ……」
声だけが、残っていた。
言葉は、もうなかった。
名前も、とうに溶けていた。
それでも、声だけは、残っていた。
「あっ……」
それは、言葉ではなかった。
意味を伝えるためのものではなかった。
ただ、溢れ出すものだった。
身体の奥から湧き出す熱が、喉を通って、外へこぼれ落ちていく。
蜜が肌から滲み出すのと同じように。
抑えることも、選ぶことも、できない。
「あ……あっ……」
遥の声。
「……っ、ぁ……」
悠真の声。
二人の声が、重なって、湿った部屋の空気に溶けていく。
かつて、互いの名前を呼んだ唇。
かつて、くだらない話をして笑い合った唇。
かつて、「たまになら」と約束を交わした唇。
その唇から、今は、ただ、甘い喘ぎだけがこぼれ続けていた。
「あっ……あ……ぁ……」
それは、二人に残された、最後の言葉だった。
いや、言葉よりも、ずっと正直なものだった。
気持ちいい。
もっと。
あたたかい。
しあわせ。
その全部が、たった一つの音の中に、溶けていた。
「……ぁ……っ」
◇
二人の身体は、もう、どこもかしこも濡れていた。
汗と。唾液と。涙と。
遥から溢れ続ける蜜と、悠真から注がれ続けるもの。
そして、二人の肌の全面から、絶えず湧き出し続ける、琥珀色の蜜。
それらが混じり合い、重なり合い、二人の身体を、とろりと包み込んでいた。
触れていない場所が、なかった。
絡め合った指。重ね合った胸。もつれた脚。
押しつけた頬。重ねた額。混じり合う吐息。
指と指のあいだで、蜜が糸を引く。
胸と胸のあいだで、蜜がぬるりと滑る。
脚と脚のあいだで、蜜が溢れ、シーツへ、床へと、とろとろと流れ落ちていく。
シーツは、もう、布ではなかった。
蜜をたっぷりと吸い込んで、重く、温かく、二人の身体の形に沈み込んでいた。
その上で、二人は、溶け合っていた。
「あっ……あ……」
声が、こぼれる。
「ぁ……っ……」
声が、細くなる。
波が、また来た。
引く前に、次が来た。
次が頂点に届く前に、また次が来た。
「……ぁ……」
喉が、震える。
けれど、声は、もう、ほとんど形にならなかった。
声を出すためには、息を吸わなければならない。
息を吸うためには、ほんの一瞬、波から浮かび上がらなければならない。
その一瞬が、もう、なかった。
波は途切れなかった。
浮かび上がる隙間が、どこにもなかった。
「……っ……!」
遥の唇が、大きく開いた。
喉が、ひくりと引きつる。
何かを叫ぼうとして、胸が、大きく膨らむ。
けれど、そこから出てきたのは、音ではなかった。
「…………!」
唇が、震える。
喉が、震える。
声帯が、確かに、何かを吐き出そうとしている。
なのに、音にならない。
あの、あっ、という声。
最後に残っていた、たったひとつの声。
それさえも、喉の奥で、蜜に溶けて、形を失っていく。
「……っ! ………っ!」
遥の背中が、反る。
唇が、ぱくぱくと動く。
叫んでいる。全身で、叫んでいる。
なのに、部屋には、蜜の滴る音と、肌の擦れる湿った音しか響かない。
悠真も、同じだった。
喉を反らせ、口を開き、何かを吐き出そうとして。
「……っ……!」
出なかった。
低く震えていたはずの声が、途切れ、掠れ、喉の奥で、ただ、ひくひくと痙攣するだけになった。
声を出そうとする。
出ない。
また、出そうとする。
また、出ない。
その、出ないことさえ、もう、どうでもよかった。
出そうとして出ない、その喉の痙攣さえ、熱に変わって、全身を駆け巡っていく。
叫べない快楽が、行き場を失って、身体の内側で、さらに大きく膨らんでいく。
「…………! …………!」
どちらが動いているのか、分からない。
どちらが求めているのか、分からない。
どちらが満たされているのか、分からない。
息が、重なる。
鼓動が、重なる。
震えが、重なる。
声にならない叫びが、重なる。
熱い。
甘い。
溶ける。
もう、考えない。
考える、ということが、どういうことだったのかも、もう、わからない。
ただ、
あたたかい。
◇
閉じた部屋の、蜜に濡れたシーツの上で。
二つの身体が、
蜜の中で、
ゆっくりと、
いつまでも、
揺れていた。
名前も、言葉も、声も、昨日も、明日もない。
遥の背中が、弓なりに反る。
悠真の腕が、それを抱きしめる。
開いた唇。
見開いた、焦点のない瞳。
蜜に濡れて光る、震える喉。
その全身が、叫んでいた。
「………っ!」
「…………っ!!」
けれど、そこには、何の音もなかった。
ただ、
とろけるような熱と、
満ち足りた、
深い、深い、
しあわせだけが、
そこに、
あった。
◇
その部屋の鍵が、静かに回ったのは、ずっと後のことだった。
ドアが、指一本ぶんだけ開いた。
音もなく、小柄な影が、部屋の中に滑り込んできた。
むせかえるような甘い匂いが、部屋じゅうに満ちていた。
並の人間なら、一歩踏み込んだだけで膝を折っていただろう。
老婆は、平然としていた。
すん、と鼻を鳴らして、満足そうに目を細めた。
「よく、熟れましたねえ」
寝室の、蜜に濡れたベッドの上で。
二人の身体が、絡み合ったまま、ゆっくりと揺れていた。
二人の唇は、開いたまま、ぱくぱくと震えていた。
「……っ! ……!」
声にならない叫びが、途切れることなく続いている。
老婆が入ってきたことにも、二人は、気づいていなかった。
気づく、ということが、もう、二人にはなかった。
二人の肌の上を、琥珀色の蜜が、とろとろと流れていた。
遥の胸の先から。悠真の指先から。絡み合った脚のあいだから。
シーツを伝い、ベッドの縁から、床へと、細く、滴り落ちている。
老婆は、懐から、空の小瓶を取り出した。
ベッドの縁にしゃがみ込み、滴り落ちる蜜の下に、そっと瓶の口をあてがう。
ぽたり。
ぽたり。
琥珀色の雫が、瓶の中に溜まっていく。
ランプの光もない部屋の中で、それは、ほのかに金色に光っていた。
一本が満ちると、老婆は蓋をして、懐にしまった。
また、空の瓶を取り出した。
ぽたり。
ぽたり。
「三百円と、三十万と、百万」
老婆は、瓶に溜まっていく蜜を見つめながら、独り言のように呟いた。
「何倍にもして、返していただきますよ」
ベッドの上で、遥の腰が、びくん、と跳ねた。
「…………っ!」
唇だけが、音もなく大きく開く。
その拍子に、蜜が、ひときわ多く溢れ出して、瓶の中へと流れ込んだ。
老婆は、くつくつと、喉の奥で笑った。
◇
どこかの街の、雨の日。
大通りから一本外れた、細い路地。
古い木造の建物が並び、雨音だけが、石畳に跳ねている。
その中ほどに、看板のない引き戸があった。
曇りガラスの向こうに、橙色の灯りが、ぼんやりと滲んでいる。
店の中の、壁一面の棚。
ほとんど空っぽで、埃の中に、無数の丸い輪の跡が残っている。
その中央に、新しい瓶が、ひとつ。
琥珀色だった。
親指ほどの大きさのガラス瓶で、天井のランプの光を透かして、中身がとろりと揺れている。蜂蜜よりも少し赤みがかっていて、光の加減で、ときおり金色にきらめいた。
光の加減だろうか。その琥珀の底に、寄り添うふたつの小さな影が、閉じ込められているように見えた。
手に取れば、きっと、温かいだろう。
人肌のように。
いや、人肌よりも、少しだけ熱く。
瓶の下には、小さな値札が置かれていた。
三百円。
引き戸が、ほんの指一本ぶんだけ、開いていた。
雨の向こうから、足音が近づいてくる。
傘が一本。肩を寄せ合い、けれど、どこか拳ひとつ分の隙間を空けて歩く、二人分の足音。
「……こんな道、あったっけ」
「さあ。この辺、あんまり来ないし」
女のほうが、ふと足を止めて、スマホの画面に目を落とした。
既読のつかないまま、もう何か月も止まっているトーク画面。いちばん下には、自分が送った最後のメッセージが残っている。
「遥? 生きてるなら、返事して」
「美咲? どうした」
「……ううん。なんでもない」
彼女はスマホをしまい、男の傘の下へ、半歩だけ身を寄せた。
拳ひとつ分の隙間は、それでも埋まらなかった。
引き戸が、長い溜め息のような音を立てて、軋んだ。
奥の暗がりで、黒い目が、濡れたように光った。
「お二人に、ちょうどいいものがありますよ」
『琥珀の底』 了