※この作品はR-18です。

琥珀の底   作:ほもちめめ

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九 琥珀の底

いつからか、二人の肌は、乾くことがなくなった。

 

汗ではなかった。

汗なら、時間が経てば引いていく。肌の上で冷え、蒸発して、跡だけを残して消えていく。

 

これは、消えなかった。

 

肌の内側から、絶えず、とろりとしたものが滲み出していた。

毛穴の一つひとつから、ゆっくりと、静かに。湧き水が、岩の割れ目から染み出すように。

 

琥珀色だった。あの瓶の中身よりも、ずっと濃く、深い色をしていた。

 

ランプの光は、もう何日もつけていなかった。

それでも、カーテンの隙間から滲む光の中で、二人の肌は、薄い琥珀色の膜に覆われて、ほのかに光っていた。

 

遥の首筋から、鎖骨のくぼみへ。

張りつめた胸の丸みを伝い、先端からひと雫、またひと雫と、滴り落ちていく。

くびれた腰を伝い、丸く張り出した曲線を伝い、太腿の内側を、とろりと流れ落ちていく。

 

悠真の肩から、背中の筋を伝い、腰へ。

腕の内側から、手首へ、指先へ。

 

二人の身体は、もう、蜜を湛えた器ではなかった。

蜜が、湧き出す泉だった。

 

不思議と、二人の身体は衰えなかった。

まともに食べなくなってから、どれほど経ったのか分からない。それでも、痩せた手足はそれ以上痩せず、遥の胸と腰の曲線は、むしろ日ごとに豊かに、柔らかくなっていった。悠真の肩や背中も、蜜の膜をまとって、艶やかに光っていた。

 

互いから湧き出す蜜が、二人を生かしていた。

そして、二人を、互いのためだけの形に、作り変え続けていた。

 

    ◇

 

触れなくても、よくなった。

 

遥が身じろぎをする。

それだけで、肌から立ちのぼる甘い匂いが、ふわりと部屋の空気を揺らす。

その匂いが、悠真の肌に触れる。

 

悠真の肌が、それを吸い込む。

 

「……ぁ……」

 

悠真の喉から、声が漏れた。

 

遥は、何もしていなかった。

ただ、少し離れた場所で、寝返りを打っただけだった。

 

それだけで、悠真の身体の芯に、琥珀色の熱が灯る。

 

悠真が、遥のほうへ、ゆっくりと手を伸ばす。

その指先から、蜜が、ひと雫、シーツの上に落ちる。

 

そのひと雫から立ちのぼる匂いが、遥の肌を撫でた。

 

「……ぁっ……」

 

遥の背中が、小さく反った。

 

互いの気配だけで。

互いの匂いだけで。

同じ部屋で、同じ空気を吸っている、ただそれだけで。

 

身体の芯が、疼き、震え、熱を持つ。

 

二人の存在そのものが、媚薬になっていた。

 

    ◇

 

けれど、離れていられるはずがなかった。

 

悠真の指先が、遥の肩に触れる。

 

触れた瞬間、そこから、波が来た。

 

もう、熱が「灯る」などという、穏やかなものではなかった。

互いの肌から湧き出す蜜と蜜が、触れ合った一点で混じり合い、一瞬で、全身を貫いていく。

 

「あっ……」

 

遥の口から、声がこぼれた。

 

指先が、肩から、背中へと滑っていく。

滑ったあとに、蜜の筋が残る。その筋の全長が、灼けるように熱い。

 

「あっ……あ……っ」

 

悠真の腕が、遥の身体を引き寄せる。

 

肌と肌が、重なる。

胸と胸が。腹と腹が。脚と脚が。

 

触れ合ったすべての場所で、蜜と蜜が混じり合う。

湧き出し、溢れ、混じり合い、また沁み込み、また湧き出す。

 

「ぁ……あっ……あぁ……っ」

 

遥の喉から、声が溢れる。

止められなかった。止めようとも、思わなかった。

 

悠真の喉からも、低く、掠れた声が漏れていた。

意味のある言葉ではなかった。名前でもなかった。

 

ただ、声だった。

 

    ◇

 

二人が繋がった瞬間。

 

「あっ――」

 

遥の声が、高く、細く、跳ね上がった。

 

身体の奥で、悠真の熱と、自分の熱が、混じり合う。

そこから湧き出したものが、二人の身体の内側にも、外側にも、溢れていく。

 

内側で注がれ、混じり合ったものが、身体の奥から、全身へと染み渡る。

外側で溢れ、肌を濡らしたものが、皮膚から、全身へと沁み込んでいく。

 

内と外から、同時に。

 

「あっ、あっ……あ……っ」

 

波が来る。

引く前に、次が来る。

次が頂点に届く前に、また次が来る。

 

遥の腰が、跳ねた。

びくん、と。

それが落ちる前に、また跳ねた。

 

「あっ……あ、あ……っ」

 

悠真の背中が、震えていた。

遥の指が、その背中に食い込む。爪が、蜜に濡れた肌の上を、滑る。

 

「ぁ……あぁ……っ、あっ……」

 

声が、重なる。

遥の声と、悠真の声が、重なって、どちらがどちらの声なのか、分からなくなる。

 

悠真が、果てる。

遥の奥深くで。

 

その熱が、遥の中に注がれた瞬間。

 

「あっ――あ、あぁ……っ!」

 

遥の全身が、硬直した。

それから、激しく、何度も、跳ねた。

 

注がれたものが、身体の奥から、内側を灼きながら全身へ広がっていく。

同時に、二人のあいだから溢れたものが、太腿を、腰を、腹を濡らし、肌から沁み込んで、外側から全身を包み込む。

 

内からも、外からも。

逃げ場が、どこにもない。

 

「あっ……あっ……ぁ……」

 

びくん。

びくん、と。

 

遥の痙攣が、悠真の身体に伝わる。

悠真の身体も、また、跳ねる。

 

その振動が、また遥に返ってくる。

 

「ぁ……あ……っ」

 

終わらなかった。

 

一度、果てても、終わらなかった。

果てた瞬間に溢れたものが、また二人を濡らし、沁み込み、次の波を呼ぶ。

 

「あっ……」

 

悠真が、また、動き始める。

遥の腰が、それを迎えにいく。

 

終わりがなかった。

始まりも、もう、分からなかった。

 

    ◇

 

時間が、溶けていった。

 

いつ眠ったのか。

いつ目を覚ましたのか。

 

その区別が、なくなった。

 

眠っているあいだも、二人は繋がっていた。

夢の中でも、波は来た。目を覚ますと、まだ波の中にいた。

どこからが夢で、どこからが現実なのか。どこからが眠りで、どこからが目覚めなのか。

 

分からなかった。

分かる必要も、なかった。

 

一度と、次の一度の区別も、なくなった。

果てて、また始まって、また果てて。その境目が、どんどん曖昧になっていく。

やがて、ひとつの、途切れることのない波になった。

 

寄せては返す、のではなかった。

寄せたまま、引くことがなかった。

ずっと、満ちたまま。満ちて、溢れて、それでもまだ、満ちていく。

 

カーテンの隙間の光が、白くなり、橙色になり、消え、また白くなる。

それが何度繰り返されたのか、誰も数えていなかった。

 

一日だったのか。

一週間だったのか。

一年だったのか。

 

二人の時間は、もう、止まっていた。

いや――止まったまま、永遠に続いていた。

 

    ◇

 

「……ぁ……」

 

声だけが、残っていた。

 

言葉は、もうなかった。

名前も、とうに溶けていた。

 

それでも、声だけは、残っていた。

 

「あっ……」

 

それは、言葉ではなかった。

意味を伝えるためのものではなかった。

 

ただ、溢れ出すものだった。

 

身体の奥から湧き出す熱が、喉を通って、外へこぼれ落ちていく。

蜜が肌から滲み出すのと同じように。

抑えることも、選ぶことも、できない。

 

「あ……あっ……」

 

遥の声。

 

「……っ、ぁ……」

 

悠真の声。

 

二人の声が、重なって、湿った部屋の空気に溶けていく。

 

かつて、互いの名前を呼んだ唇。

かつて、くだらない話をして笑い合った唇。

かつて、「たまになら」と約束を交わした唇。

 

その唇から、今は、ただ、甘い喘ぎだけがこぼれ続けていた。

 

「あっ……あ……ぁ……」

 

それは、二人に残された、最後の言葉だった。

いや、言葉よりも、ずっと正直なものだった。

 

気持ちいい。

もっと。

あたたかい。

しあわせ。

 

その全部が、たった一つの音の中に、溶けていた。

 

「……ぁ……っ」

 

    ◇

 

二人の身体は、もう、どこもかしこも濡れていた。

 

汗と。唾液と。涙と。

遥から溢れ続ける蜜と、悠真から注がれ続けるもの。

そして、二人の肌の全面から、絶えず湧き出し続ける、琥珀色の蜜。

 

それらが混じり合い、重なり合い、二人の身体を、とろりと包み込んでいた。

 

触れていない場所が、なかった。

 

絡め合った指。重ね合った胸。もつれた脚。

押しつけた頬。重ねた額。混じり合う吐息。

 

指と指のあいだで、蜜が糸を引く。

胸と胸のあいだで、蜜がぬるりと滑る。

脚と脚のあいだで、蜜が溢れ、シーツへ、床へと、とろとろと流れ落ちていく。

 

シーツは、もう、布ではなかった。

蜜をたっぷりと吸い込んで、重く、温かく、二人の身体の形に沈み込んでいた。

 

その上で、二人は、溶け合っていた。

 

「あっ……あ……」

 

声が、こぼれる。

 

「ぁ……っ……」

 

声が、細くなる。

 

波が、また来た。

引く前に、次が来た。

次が頂点に届く前に、また次が来た。

 

「……ぁ……」

 

喉が、震える。

けれど、声は、もう、ほとんど形にならなかった。

 

声を出すためには、息を吸わなければならない。

息を吸うためには、ほんの一瞬、波から浮かび上がらなければならない。

 

その一瞬が、もう、なかった。

 

波は途切れなかった。

浮かび上がる隙間が、どこにもなかった。

 

「……っ……!」

 

遥の唇が、大きく開いた。

喉が、ひくりと引きつる。

何かを叫ぼうとして、胸が、大きく膨らむ。

 

けれど、そこから出てきたのは、音ではなかった。

 

「…………!」

 

唇が、震える。

喉が、震える。

声帯が、確かに、何かを吐き出そうとしている。

 

なのに、音にならない。

 

あの、あっ、という声。

最後に残っていた、たったひとつの声。

それさえも、喉の奥で、蜜に溶けて、形を失っていく。

 

「……っ! ………っ!」

 

遥の背中が、反る。

唇が、ぱくぱくと動く。

叫んでいる。全身で、叫んでいる。

 

なのに、部屋には、蜜の滴る音と、肌の擦れる湿った音しか響かない。

 

悠真も、同じだった。

喉を反らせ、口を開き、何かを吐き出そうとして。

 

「……っ……!」

 

出なかった。

低く震えていたはずの声が、途切れ、掠れ、喉の奥で、ただ、ひくひくと痙攣するだけになった。

 

声を出そうとする。

出ない。

また、出そうとする。

また、出ない。

 

その、出ないことさえ、もう、どうでもよかった。

 

出そうとして出ない、その喉の痙攣さえ、熱に変わって、全身を駆け巡っていく。

叫べない快楽が、行き場を失って、身体の内側で、さらに大きく膨らんでいく。

 

「…………! …………!」

 

どちらが動いているのか、分からない。

どちらが求めているのか、分からない。

どちらが満たされているのか、分からない。

 

息が、重なる。

鼓動が、重なる。

震えが、重なる。

声にならない叫びが、重なる。

 

熱い。

甘い。

溶ける。

 

もう、考えない。

考える、ということが、どういうことだったのかも、もう、わからない。

 

ただ、

 

あたたかい。

 

    ◇

 

閉じた部屋の、蜜に濡れたシーツの上で。

 

二つの身体が、

蜜の中で、

ゆっくりと、

いつまでも、

揺れていた。

 

名前も、言葉も、声も、昨日も、明日もない。

 

遥の背中が、弓なりに反る。

悠真の腕が、それを抱きしめる。

 

開いた唇。

見開いた、焦点のない瞳。

蜜に濡れて光る、震える喉。

 

その全身が、叫んでいた。

 

「………っ!」

 

「…………っ!!」

 

けれど、そこには、何の音もなかった。

 

ただ、

とろけるような熱と、

満ち足りた、

深い、深い、

 

しあわせだけが、

 

そこに、

 

あった。

 

 

 

    ◇

 

 

 

その部屋の鍵が、静かに回ったのは、ずっと後のことだった。

 

ドアが、指一本ぶんだけ開いた。

 

音もなく、小柄な影が、部屋の中に滑り込んできた。

 

むせかえるような甘い匂いが、部屋じゅうに満ちていた。

並の人間なら、一歩踏み込んだだけで膝を折っていただろう。

 

老婆は、平然としていた。

すん、と鼻を鳴らして、満足そうに目を細めた。

 

「よく、熟れましたねえ」

 

寝室の、蜜に濡れたベッドの上で。

二人の身体が、絡み合ったまま、ゆっくりと揺れていた。

 

二人の唇は、開いたまま、ぱくぱくと震えていた。

 

「……っ! ……!」

 

声にならない叫びが、途切れることなく続いている。

老婆が入ってきたことにも、二人は、気づいていなかった。

気づく、ということが、もう、二人にはなかった。

 

二人の肌の上を、琥珀色の蜜が、とろとろと流れていた。

遥の胸の先から。悠真の指先から。絡み合った脚のあいだから。

シーツを伝い、ベッドの縁から、床へと、細く、滴り落ちている。

 

老婆は、懐から、空の小瓶を取り出した。

ベッドの縁にしゃがみ込み、滴り落ちる蜜の下に、そっと瓶の口をあてがう。

 

ぽたり。

ぽたり。

 

琥珀色の雫が、瓶の中に溜まっていく。

ランプの光もない部屋の中で、それは、ほのかに金色に光っていた。

 

一本が満ちると、老婆は蓋をして、懐にしまった。

また、空の瓶を取り出した。

 

ぽたり。

ぽたり。

 

「三百円と、三十万と、百万」

 

老婆は、瓶に溜まっていく蜜を見つめながら、独り言のように呟いた。

 

「何倍にもして、返していただきますよ」

 

ベッドの上で、遥の腰が、びくん、と跳ねた。

 

「…………っ!」

 

唇だけが、音もなく大きく開く。

その拍子に、蜜が、ひときわ多く溢れ出して、瓶の中へと流れ込んだ。

 

老婆は、くつくつと、喉の奥で笑った。

 

    ◇

 

どこかの街の、雨の日。

 

大通りから一本外れた、細い路地。

古い木造の建物が並び、雨音だけが、石畳に跳ねている。

 

その中ほどに、看板のない引き戸があった。

曇りガラスの向こうに、橙色の灯りが、ぼんやりと滲んでいる。

 

店の中の、壁一面の棚。

ほとんど空っぽで、埃の中に、無数の丸い輪の跡が残っている。

 

その中央に、新しい瓶が、ひとつ。

 

琥珀色だった。

親指ほどの大きさのガラス瓶で、天井のランプの光を透かして、中身がとろりと揺れている。蜂蜜よりも少し赤みがかっていて、光の加減で、ときおり金色にきらめいた。

 

光の加減だろうか。その琥珀の底に、寄り添うふたつの小さな影が、閉じ込められているように見えた。

 

手に取れば、きっと、温かいだろう。

人肌のように。

いや、人肌よりも、少しだけ熱く。

 

瓶の下には、小さな値札が置かれていた。

 

三百円。

 

引き戸が、ほんの指一本ぶんだけ、開いていた。

 

雨の向こうから、足音が近づいてくる。

傘が一本。肩を寄せ合い、けれど、どこか拳ひとつ分の隙間を空けて歩く、二人分の足音。

 

「……こんな道、あったっけ」

「さあ。この辺、あんまり来ないし」

 

女のほうが、ふと足を止めて、スマホの画面に目を落とした。

既読のつかないまま、もう何か月も止まっているトーク画面。いちばん下には、自分が送った最後のメッセージが残っている。

「遥? 生きてるなら、返事して」

 

「美咲? どうした」

「……ううん。なんでもない」

 

彼女はスマホをしまい、男の傘の下へ、半歩だけ身を寄せた。

拳ひとつ分の隙間は、それでも埋まらなかった。

 

引き戸が、長い溜め息のような音を立てて、軋んだ。

 

奥の暗がりで、黒い目が、濡れたように光った。

 

「お二人に、ちょうどいいものがありますよ」

 

 

 

『琥珀の底』 了

 

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