※この作品はR-18です。

Muv-Luv The frayed memory/Carved memory   作:REDALERT

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-prologue-
Take me back.-1


 

1958年、人類は初めてそ(・)れ(・)と遭遇した。それと呼称されていたのはまだ当時その存在が一体何者なのかが全く以て不明だったからであり、それが後に【BETA】と呼称されるようになるまで、実に九年もの月日が必要だった。だがその九年の月日が人類の首を綿で絞め続けていた事に気付く者は皆無であり、そ(・)れ(・)と人類が火星に続いて月で遭遇した時点で、全ては遅かったのだ。1967年、BETA大戦と呼ばれる長期の戦乱の火蓋を切って落としたのが、第一次月面戦争である。これが人類史上、初の地球外生物と人類との接触及び戦争の始まりであり、また接触した異星起源種がBETA:Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race――【人類に敵対的な地球外起源生命】と命名される所以なのであった。

 

 

BETA大戦が勃発する一年前、1966年にBETAとの意思疎通------つまりコミュニケーション方法を模索するオルタネイティヴ計画が発動された。当初BETAの言語及び思考解析による意思疎通計画としてオルタネイティヴ1だったが、これは全く解明する事が出来ずに失敗している。この計画が本領を発揮し始めたのは、大戦の勃発から一年が経過した1968年、第二段階へと移行されてからであった。大量の人員や装備の犠牲を払い捕獲したBETAの調査・分析計画、これによって判明したことはBETAが【炭素生命体】であるということだけである。そしてこの後事態が急展開を迎えるのは、1973年4月19日、中国新疆ウイグル自治区カシュガルにBETAの着陸ユニットと呼ばれる物体が落下したこの日。BETAが地球上に襲来したこの日から、人類の長きに渡る血みどろの争いが始まったのである。

 

 

 

 

1996年、ウランバートルハ(・)イ(・)ヴ(・)。

 

同年にBETAにより建設された18番目の巣(・)。この地には尚BETAの侵攻を喰い止めるべく奮戦していた兵士達がいた。彼らは戦術機と呼ばれる人型機動兵器を駆り、その装備を持って何とかBETAと渡り合っている。戦術機、それは【戦術歩行戦闘機】の略称である。光線属種と呼ばれる高出力レーザーを放つBETAの登場により、これまで人類が運用していた航空兵力が無効化されたことによる空洞を埋める為に、対BETA戦の最終局面、即ちハイヴ攻略用の決戦兵器として開発された人類の刃。しかし、その兵器特性である三次元機動と柔軟な任務適応能力、つまりは高い運動性や兵装の汎用性によって、設計時には予測もされなかった様々な評価を得るに至り、通常戦闘に於いても有効な対BETA兵器として運用されている。その全高は18~30m超と機種により差異があり、世界各国ではそれぞれの国情や運用思想にあわせ、様々な仕様の機体が現在も研究・開発されている。動力は本体と腰部に装着されている跳躍ユニットの二系統に分けられ、電磁伸縮炭素帯(カーボニック・アクチュエーター)が中心の本体側は蓄電池とマグネシウム電池によって賄われており、一方の跳躍ユニットは推進剤と呼ばれるジェット燃料を使用している。

 

 

殲撃(ジャンジ)10型、イスラエルと統一中華戦線による共同開発で生まれた第二世代型戦術機だ。比較的小型ではあるものの高い近接機動格闘戦能力を有し、また、整備性、量産性も高い優秀な機体である。元々は米軍の開発したF-16Cファイティング・ファルコンという機体をベースに開発されたものであり、軍関係者の間では俗に16'sファミリーと呼ばれるF-16派生機の中では最も成功した機体であった。1994年から配備され始めた最新型と言っても良いくらいのこの機体の残(・)骸(・)が、その前線基地には大量に散らばっていた。その理由は簡単である、彼らが敵対している数が多過ぎるからである。

 

 

BETAが地球上にハイヴを建設し早十八箇所目、【モニュメント】と呼ばれる塔のような地表構造物と【スタブ】と呼ばれる広大な地下茎構造を持つそ(・)れ(・)は、常に拡大拡張され続けている。ハイヴの規模を表すには【フェイズ】という単語が用いられ、更にBETAが新しいハイヴを建設する条件は既存ハイヴ周辺のBETA固体数がある基準までに達し飽和状態になった場合であるというところまでは解明されている。そのためこのウランバートルハイヴ面する前線基地含む最前線では、BETAの個体数が飽和状態にならないように定期的に間引きする作戦を行っている。が、必ずしもうまく機能しているわけでなくハイヴの進出は抑えられても、定期的な戦力抽出が負担となり大規模な反抗作戦を準備する事が困難になっているのが実状であった。当然現場の兵士達は更なる応援を求める声を発したくもなるが、実際にそれを口に出すことは無い。何処の戦場でも圧倒的に兵力が足りないのだ。通常兵器然り、戦術機然り、それを操る衛士然り。最前線は常にギリギリの戦いを強いられている。その所為か、部隊再編成に手間取っていた基地司令官の耳に援軍の報が入った時、彼は自分の部下が遂に発狂してしまったのかと勘違いする程だった。

 

 

「これは何と……一個中隊もの戦術機が我々の下に?」

 

 

死体袋や空薬莢、破壊された機器類類の散らばる基地施設に出向いた司令官の目に飛び込んできたものは、二列に並ぶ戦術機運搬用の大型トレーラー十二台の姿だった。知らされていなかった援軍に司令官は快哉を上げたいところをグッと堪え、わざとらしく部下に咳払いを二、三度聞かせると、そのまま威厳たっぷりといった様子でトレーラー群へと大股で歩き出した。何時の時代も司令官はこ(・)う(・)あ(・)る(・)べ(・)き(・)。そんな古臭い姿を見て笑い声を上げる者達がいた。トレーラーから降りてきた十一人の衛士達である。彼らは黒と緑の二色のパターンをした強化装備、つまり戦術機を操縦する衛士であることを示す服装をし、その上からバラバラのジャケットを羽織っていた。否、正確には強化装備に内蔵されているバッテリーの電力消費を防ぐ為のものではあるが、そのデザインが各員バラバラなのである。更に司令官を困惑させたのが、十一人の衛士全員が日本人だということだった。モンゴルと漢民族の血を引いている司令官自身、同じアジア人ということでもその種族の違いについては人目で判別出来る自信があった。ベトナムであろうがフィリピンであろうが、それこそ日本人であろうが必ず違いを見つけることが出来る。だからこそ、その違和感は一際大きかったのだ。

 

 

「貴官らは何者か!」

 

 

「援軍よ、見れば分かるでしょう?」

 

 

声を荒げた司令官に対して即座に返答した女性衛士は茶色いベリーショートの髪形をしていて、その顔つきは鋭いナイフのようで、口の端には厭な笑みを浮かべている。彼女の言葉に連動するかのように他の衛士達の口からくっくという嘲笑が漏れ、司令官の顔は血液の集中により瞬く間に真っ赤に染まり上がる。さながら林檎のようだと衛士達が茶化すように笑みを浮かべ直すと、女性衛士を押し退けて現れた一人の偉丈夫が形式ばった敬礼の姿勢を取った。それだけで他の衛士達は白けた表情を浮かべ、そして司令官に対して十分遅い敬礼の姿勢を取る。

 

 

「部下が失礼した、非礼を詫びよう。我々は国連軍特務戦闘隊第03中隊、レイダースだ」

 

 

「襲撃者(RAIDERS)? 聴いた事が無いな、日本人だけの部隊など」

 

 

言葉の何処からも謝罪の感情が見出せない衛士の言葉に司令官は首を傾げ、小さな器から嫌味の一つでも返してやろうと赤い顔を肌色に戻しながら口を開いた。それに対する偉丈夫の回答は、小さく鼻で笑う更なる司令官への嘲笑だった。

 

 

「当然、我々の存在は極秘です。最前線で使(・)い(・)捨(・)て(・)にされるような少将殿に知らされる道理などありません」

 

「貴様ッ!」

 

「ですが不本意なことに、我々はここの基地の人員を撤退させる時間稼ぎを行えとの命令を受けている。色々不都合はあるかと思うが、二時間後には全員この基地から撤退して頂く」

 

 

偉丈夫がその言葉と共に差し出した古めかしい紙の書類を受け取った司令官は、その内容と信憑性を裏付ける上層部のサインを交互に見やり、更に自身を小馬鹿にする衛士達の視線を一瞥すればすぐに傍に控えていた部下を怒鳴りつけた。命令を突っぱねる事も不可能ではないが、そうした場合の事(・)後(・)処(・)理(・)で自らの首が飛ぶかもしれない。周囲から見ればまともに皿が動かない天秤を精一杯動かしたつもりの司令官は、その書類をグシャグシャにしたい衝動に駆られながらも衛士達に対して敬礼の姿勢を取った。その後方では戦術機の破片に躓いた部下が派手にスッ転び、整備員達から余計な仕事を増やすなと再び怒鳴られている。

 

 

「確かに承った。それでは------」

 

 

「ああ、後は好きにやってくれ。我々は我々の仕事を行う。尚もし二時間経過した後未だこの基地に人員が残っていた場合、全てこちらで処(・)理(・)させてもらうからそのつもりで。では」

 

 

偉丈夫が言葉を終わらせると同時に衛士達は踵を返しそれぞれのトレーラーへと歩いて行く。その背中に怒りの篭った視線をぶつけていた司令官だったが、ふとトレーラーと彼らの数が一つ違うことに気がついた。トレーラーは十二台あるというのに、肝心の衛士は十一人しかいない。不思議に思った司令官が遠くに並ぶトレーラーを一つずつ眺めていると、その目が一人の少(・)年(・)を捉えた。他の衛士同様強化装備に身を包みボロボロの黒いジャケットを羽織るその衛士は、明らかに他の衛士達と比べて若い。トレーラーの屋根に片膝立てて座るその少年は司令官からの視線に気付いたのか、スッと立ち上がると挑発するかのように首を傾げ、そして両手の中指を突き立てて見せた。再び司令官の顔が真っ赤に染まりかけたが、その若い衛士を最初に司令官と言葉を交わした女性衛士がトレーラーから引き摺り下ろしたのを見て、吐き出しかけた言葉を近くの整備員に代わりにぶつけたのだった。無論その整備員が不満そうな顔でスパナを適当に放り投げたのは言うまでもない。

 

 

トレーラーから引き摺り下ろされた若い衛士は、まだ二十歳にもなっていない少年だった。名を浦城京介と言い、階級は先任少尉、志願して衛士となってまだ二年と経っていない新米中の新米である。父である浦城喜之助は既に他界しているものの、第二次世界大戦時に日ノ本のエースとして名を馳せた祖父・浦城源流と同じように日本帝国軍内にて無頼の飛行機乗りとして名を馳せていた。一方母・花陽(かよう)も広島の地で名家の娘として生まれ、女性でありながらありとあらゆる武道・芸道を極めていた。こちらも数年前に精神的病に侵されたことで衰弱し療養先で死去している。無論類まれな両親を持つこの少年も只者ではなく、それはまた彼(・)の(・)姉(・)も同様であった。

 

 

「見っとも無い真似はよしな、京介」

 

 

「うっせーな、姉さんも人のこと言えねえだろ」

 

 

浦城夏希、齢二十三になる彼女もまた浦城の血を引く女傑であった。父親の死の際に起きた遺産騒動に於いて彼女は遺産目的で近づいて来た男衆七人を叩きのめし、自身は悠々と遺産を相続し日本帝国軍衛士の門を蹴り開けたのだ。茶色い髪を掻き上げた彼女は自身が無理矢理部隊に引っ張った弟の尻を蹴り上げると、その黒髪を引っつかんで無理矢理引き寄せる。その声色は、姉が弟に語り掛けるそれでは無かった。

 

 

「アタシは止めろって言ってんのよ、分かる?」

 

 

一方髪を引っ張られ痛そうな表情を浮かべる京介もまた、姉に真っ向から対抗する素振りをその拳から見せていた。歯をグッと喰いしばりながら、彼もまた姉へと吼える。早めの声変わりを迎えた事で低く大人に近い声を発する少年に、周囲が向ける視線は冷ややかだった。

 

 

「無能な司令官おちょくってるのはそっちも同じだろうがよ……! 岩国に行く予定だった俺を無理矢理こんな激戦区に連れてきやがって、二時間後には俺は立派にアンタの考え通りに死んでるだろうな!」

 

 

「姉弟喧嘩は後にしてもらおうか、レイダー3、レイダー8」

 

 

唾を撒き散らしながら夏希に吼える京介を彼女から引き剥がしたのは、レイダース隊長を務める偉丈夫だった。金霧(かなぎり)丈津(たけつ)、階級は大尉。190cm近い身長を持ち黒髪を角刈りにした、筋骨隆々の大男である。彼は軽々と170近い京介を抱え上げると、そのまま彼のトレーラーの側面にその身を叩(・)き(・)付(・)け(・)た(・)。背中を打ちつけ強制的に吐き出さされた酸素を求めて咳き込む京介を尻目に、金霧は夏希に向き直る。

 

 

「レイダー3、君が肉親を自分の傍に置いておきたい理由は良く分かる。だがここは戦場で、我々はレイダースだ。今作戦に於いて君とレイダー8の部隊は別々に分ける、良いな」

 

 

「……了解」

 

 

明らかに納得していないという表情の夏希を無視するように金霧は他のレイダース達に視線を振り撒いた。彼らは皆が皆高(・)度(・)に(・)複(・)雑(・)で(・)難(・)解(・)な(・)事(・)情(・)により軍部から召集され、そして至る所の死地へと送り続けられる運命を背負っている。使用する戦術機やサポートに関しては正式な申請を行えば受理され許可が起きるものの、人的保障に関しては一癖も二癖もある連中ばかりが送られてくる。金霧は思い出す。インドネシアでは三人、ソ連では二人死んだ。その度にレイダースには曲者が送られてくる。金霧は思い出せない。何故自らがこの隊を率いる事になったのかを。思考が停止し掛けたところで、出撃していた殲撃10型が撤退途中に限界を迎えたのか基地近くに墜落し爆発した音がその耳朶を貫き、金霧の意識を覚醒させる。

 

 

「総員出撃準備! 釜に火をくべろ!」

 

 

その一言で、レイダース全員がトレーラーに連結されていたコンテナの中へと入って行く。彼らのコンテナの中には、二種類の戦術機が格納されている。一つは【89式戦術歩行戦闘機・陽炎】、そしてもう一つは【94式戦術歩行戦闘機・不知火】。日本帝国純国産戦術機である新型の、プロトタイプを改修した模造品であった。三機の模造不知火と九機の陽炎によって構成されているレイダースは、一機の不知火を分隊長とし三機の陽炎が一チームとなる小隊制を取っている。分隊長が担当する不知火には最前線で戦闘を行う突撃(ストーム)前衛(バンガード)装備が施され、二機の陽炎にはそれぞれ強襲掃討(ガンスイーパー)、迎撃後衛(ガンインターセプター)装備が施されていた。この一個中隊を少数に分ける方式が彼らの生存率を著しく下げているのだが、その事に関して異議を挟む者は皆無だった。それは一重に彼ら全員が生きて国に帰りたいと思っている訳でもなく、ただ生きる意義も何もないだけであり、死ぬのならばそれでも良いと考える破綻者達であるからだった。ただ一人、浦城京介を除いて。

 

 

ヘッドセットが直接網膜にメイン・カメラからの映像を投影し外の光景を映し出している中、戦術機の中枢である管制ユニット内のシートに身体を預けていた京介は、操縦桿を持った手を大きく震わせていた。寒いのでも武者震いでもなく、ただ彼は戦場に向かうのが堪らなく怖かったのだ。経験した戦闘はシミュレーションのみで、それほど成績が良かった訳でもなかった。だが実戦となると話は別であり、彼が経験した実戦は数日前に派遣されたインドネシア大陸での戦いだった。同じ小隊にいた陽炎が突撃級と呼ばれるBETAに踏み潰された光景を前に嘔吐し失禁した彼は、死の八分と呼ばれる新米衛士が戦場で死ぬまでの平均時間を乗り越えたものの、完全に味方がやられる光景がトラウマとなってしまっている。それでも彼が姉や他のレイダースに生意気な態度を取るのはただ自分自身を騙し強く見せようとしているだけなのであって、管制ユニット内で一人でいるとどうしようもない恐怖感に襲われるのだ。結局のところ、彼はまだ精神的成熟を迎えていない少年なのである。彼自身、何故自分が謎の部隊に参加させられたのかなど分からずに死ぬのだと思っていた。そしてそんな精神状態の彼が過去の想い出に縋ろうとするのは、至極当然であるとも言えた。

 

 

 

------1985年8月某日、広島。

 

夏、近くの木々にいるのであろう蝉の喧しい合唱をBGMに、少年・浦城京介は剣道着を身につけ、竹刀を持ち、果敢に一人の男性に立ち向かっていた。ありとあらゆる太刀筋を見切られ、その度に全力の竹刀を身体に打ち付けられながらも、少年京介は膝をつかなかった。彼が一本も取れぬまま床に汗による水溜りが複数出来始めた頃、道場の扉がガラリと音を立てて開かれる。それに反応した男性が視線を逸らすと、京介は好機とばかりに最後の攻撃を仕掛けたが、それは無常にも面越しに叩き込まれた男性の蹴りによって失敗に終わった。勢い良く床に叩きつけられ転がる京介は即座に体勢を立て直すも、脳震盪を起したのかそのままガックリと膝をつき、おぼつかない手で面を外す。大量の汗を吸い込んだ白いタオルがビチャッと音を立てて床に落ちると、京介はその黒い髪を生やした頭をブルブルと振って汗を散らした。無論本来褒められた行為ではないが、一本も取れなかった場合だだっ広い道場を京介は一人で掃除しなければならない取り決めがなされていた為に、誰も咎める事がなかったのだ。面とタオルとを床に置いた京介は視界が少しばかり歪む中床に大の字で寝転がると、盛大にその鼻から血を流し始めた。

 

 

その出来事に最も驚いたのは道場の扉を開いた人物で、彼(・)女(・)は着物だというのにダッと駆け出すと壁に掛けてあった木製の薙刀を手に京介を見下ろしていた男性に襲い掛かった。当然男性も竹刀を構えなおすも完全に萎縮しており、戸惑っている様子。気がつけばその男性も薙刀に足元を払われ無様に尻餅をつき、面越しに柄を叩きつけられて昏倒した。着物の女性、京介の母親である花陽は鼻血を垂れ流している京介の目を覗き瞳孔を確認すると、傍で倒れ込んでいた男性の面を剥いでその顔を叩いた。その男性こそ京介の父親であり、花陽の旦那でもある浦城喜之助であり、喜之助はやや呆けていたものの三度目の頬の痛みによって完全に意識を取り戻した。そんな喜之助を、花陽は平然と叱り飛ばす。

 

 

「やり過ぎです貴方! 早く綺麗なタオルと桶に水を入れて持ってきなさい! 早く!」

 

 

「お……お? お、おう、分かった」

 

 

フラフラと立ち上がり道場を出て行った喜之助から早々に視線を逸らした花陽は、すぐに京介の後頭部に彼が今さっきまで頭に巻いていたタオルを畳んだもの敷き胴着を肌蹴させた。それから着物が汚れるのも構わず京介の鼻血を拭っていた花陽は、喜之助が水とタオルを入れた桶を持ってくると、すぐそのタオルで京介の顔を冷やし始める。その間喜之助に文句を言いながらも他のタオルを持ってこさせ、京介が落ち着く頃には喜之助の方が疲労困憊といった様子であった。

 

 

「……だって父ちゃん、思いっ切り顔蹴るんだもん。そりゃあ母ちゃんも怒るよ」

 

 

昼過ぎ、落ち着いた京介と喜之助は共に風呂場で汗を流していた。両方の鼻の穴に白い布を詰められた京介の顔は些か間抜けだったが、その後花陽に折檻された喜之助の背中には大きなもみじが出来上がっている。息子の言葉に対して、喜之助は申し訳無さそうに頭を掻いた。武道の指導を行っている時以外の喜之助は、のほほんとした優しい父親だった。だから京介は、時折家にやってくる父親の部下達から聞く父の怖い話を半信半疑で何時も聞いている。

 

 

「すまんなぁ、京介。止めたと思ったら行き成り来るもんだから、父ちゃんびっくりしちゃって」

 

「本当だよ。首の骨折れるかと思ったぜ」

 

「すまんすまん、お詫びに今度欲しがってた戦艦大和の玩具買ってやるからな」

 

「本当!? やったー!」

 

 

お湯をバチャバチャと音を立てて喜ぶ息子の姿を見た喜之助は柔らかい笑みを浮かべ、その頭をガシガシと撫でた。勿論その直後、再び京介が鼻血を噴出したのは言うまでもない。

 

 

「じゃあ、遊びに行って来るー!」

 

「今日はあんまり危ないことしないのよ、京介」

 

「分かってるって!」

 

 

昼食のそうめんを鱈腹食べた後、京介は近所の友人達と遊ぶべく家を飛び出して行った。地元で最も大きい家と言われる浦城家には大きな庭と鯉が何匹も住む池があり、更に道場や畑までもが同じ敷地内に存在している。そんな家の跡取り息子である京介だったが、その実周りの子供達から距離を置かれることもなく、一種のガキ大将のような立ち位置で毎日を遊びに費やしていた。玄関から門までの長い石畳を駆け抜けた京介は、丁度門側から家に入ろうとしていた一人の少女とぶつかりそうになった。茶色いベリーショートの髪をし、鼻筋に絆創膏を貼った気の強そうな少女。京介の四つ上の姉、夏希である。夏希の後ろには黒塗りの車が止まっており、中からは日本帝国軍人であることを示す軍服を着た男性が京介の顔を見つめていた。

 

 

「アンタまた遊びに行くの? 今日の練習は?」

 

 

初めは男性に興味を示していた京介であったが、夏希の言葉によってそちらに注意を向けられると、後頭部で手を組みながらあっけらかんと答えた。

 

 

「今日のはもう終わったよ、ぼろ負けだったけど父ちゃんに顔蹴られちゃってさ。鼻血とか熱中症とかで今日の分は終わり! じゃ、俺遊びに行って来る! 姉ちゃんは?」

 

 

「アタシは今から御父様のところに御客様を案内しなきゃならないの。分かったらあんたはさっさと行く、しっ! しっ!」

 

 

犬を追い払うかのように夏希に押し出された京介は、姉の言う客人であろう軍服の男性に窓越しに軽く頭を下げれば、そのまま駆け出して何時もの空き地へと向かうのだった。それと入れ替わりに車から降りた男性は襟元を正すと、京介を心配そうな目で見送っていた夏希へと声を掛けた。低く落ち着いた、威厳のある声だ。

 

 

「あれが京介君か、中々元気のある良い子じゃないか」

 

 

自分の弟が褒められたからか、普段京介に対しては強く当たっている夏希も少しばかり誇らしげな様子だった。そんな子供の様子を前に、男は途中で降りたいと言って我侭を通した娘のことを思い出した。一応地図は渡しているものの、遠くへ行っていなければ良いが……。

 

 

 

日も暮れだした頃、京介は一人帰路についていた。何時もの友人達と川で遊び、服は乾いたものの濡れた下着が少しだけ気持ちが悪い。早く帰りたいなと、今日の夕飯は何だろうなと京介が道行く街の人達と挨拶を交わしながら歩いていると、先日店主である老婆が無くなった所為で閉店してしまった駄菓子屋の前に見慣れない少女が立っていた。淡い水色に朝顔の模様の入った浴衣を着ているその少女は、グッと拳を握り締めて何かに耐えているようだった。その駄菓子屋の前は基本的に人の往来が多く、京介達も外から帰る時は必ずここを通れと言われている場所だ。なのにその少女に誰も声を掛ける様子はなく、疑問に思った京介は駄菓子屋近くの魚屋の扉を叩いた。そこは一人の友人の家であり、京介も馴染みの店だったからだ。出て来たのは四十代ながらもそうとは思えない若々しさを持つ友人の母であり、彼女は京介の顔を見るなり膝を曲げて視線を同じ高さにまで下げてくれた。

 

 

「あれ、京ちゃん。どうかしたの?」

 

 

「あの、おばさん。あそこに居る女の子、どうしたの?」

 

 

言いながら駄菓子屋の前を指差した京介の視線に納得したのか、友人の母親は困ったような表情を浮かべて京介の疑問に答えた。

 

 

「うん、あの子ね、ここらじゃ見かけない子でしょう? だからみんなで迷子じゃないかって色々声を掛けてみたんだけど、待ち合わせしてるって聞かなくてね。一応うちで時間を見ながら確認してるんだけど……少し心配なのよね」

 

「ふーん、そっか。……ありがとう、おばさん! じゃあ俺帰るね!」

 

「気をつけてねー」

 

 

魚屋の扉が閉まるのを遠くから確認するや否や、京介はすぐに駄菓子屋の前まで駆けて行った。京介が話している間もずっとそこに立っていた少女は、近づいて来た京介を一瞥しただけでそれ以上何もアクションを起そうとはしなかった。ただジッと赤くなった目で遠くの山を見つめているだけだ。やっぱり迷子なんじゃないかと思った京介は、すぐに少女の視界を塞ぐように立った。

 

 

「お前、迷子だろ」

 

 

そして一言。すると少女はキッと京介を睨みつけると、途端に声を荒げた。

 

 

「違う! 私は迷子ではなく、御父様を待っているのだ!」

 

 

その剣幕に一瞬怯んだものの、京介はこのままここに置いておくのも悪いと思ったのか、自分の家に行こうと言って彼女の手を掴んだ。だが。

 

 

「やめて!」

 

 

強い力で手を振り払われた途端、少女は京介の顔に一発浴びせてそのまま京介がやってきた方向へと走り去ってしまった。思わず追いかけようとしたものの、顔を叩かれたこともあって京介は憤慨した様子でそのまま自分の家へと帰ってしまった。それから家に帰った京介が父と母から家に来ているお客の娘が帰って来ないという話を聞き、その少女があの水色の浴衣の子だと知ると、京介は両親が止めるのも構わずに再び外へと飛び出していったのだった。

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