Muv-Luv The frayed memory/Carved memory 作:REDALERT
京介がイーダル試験小隊所属となった翌日、リコ・ヴォルフは前日の料理の失敗を取り戻そうと彼の部屋まで迎えに行く途中だった。今日の朝食を作ったのは彼女ではないものの、上手く出来たはずのボルシチが何故かドロドロになってしまったのを食べさせてしまった償いをしたい、というのが彼女の思考回路だった。朝食後にせめて施設の案内だけでもと意気揚々と京介の部屋へと通じる通路に差し掛かった彼女は、突如視界の向こうで開かれたドアに反応して思わず陰に隠れてしまった。
そして通路を覗き込むように顔を動かすと、彼女の視線に入り込んだのは今正に京介がジャケットに袖を通さず羽織った状態で出て来たところだった。眠そうに欠伸をして、首をコキコキと動かしているその姿に微笑ましいものを感じつつ、リコはそのまま陰から出て京介に声を掛けようとする。だが次の瞬間再び京介の部屋のドアが開かれると、彼女の身体は再び陰へと引っ込んでいた。
(あれって……嘘)
リコが目の当たりにしたのは、京介の部屋から着崩れを直しながら出て来るクリスカ・ビャーチェノワの姿だった。普段の彼女からは想像も出来ない眠そうに目を擦る姿と、楽しそうに京介に何事か声を掛けている姿に、リコは思わず生唾を飲み込む。談笑している二人の様子を探るように見ていたリコは、一瞬クリスカと目が合ったような気がして再び陰へと引っ込んだ。そして再び恐る恐る顔を出してみれば、彼女は声にならない悲鳴を上げて廊下を来た方向へと駆けだして行く。その遠くから急に聞こえてきた慌しい足音に京介は思わずクリスカから重ねられてきた唇を離したが、何も起こらない事を確認すると自分から彼女の身体を抱き寄せた。それは近くに誰かいた場合に話を聞かれないようにする為だったが、クリスカとしては丁度良い行為だった。
「どうしたんだよ、クリスカ。誰かに見られたらどうするんだ?」
「その時はその時だろう? 昨日の今日でまだ感慨深いんだ、もう少し楽しみたい」
「馬鹿言え」
そう言って言葉を切り上げた京介は、そのままクリスカの身体を離すと一人廊下を歩き出す。その後をすぐにクリスカが着いて行くも、特にこれといった会話をすることも無く昨日も訪れた食堂へと足を運んだ。そこには何人かの整備員の姿があり、中には日本から連れてきた者もいる。彼らからの敬礼を受けた京介も敬礼を返すと、適当に見繕った朝食のトレーを持ってそのまま少し離れた席へと腰を下ろした。向かいに座ったクリスカと食事を進めながら、京介はこれからについてを問う。
「俺が乗るチェルミナートル、どうなってるんだ? クリスカの機体は複座型だから、他の連中の機体を使うのか」
「そう聞いている。私達の機体がSu-47に更新されれば、今まで使用していたSU-37M2が余るからそれを使ってもらうのだろう」
「成る程な。……しかし同じ近接戦をメインにしている機体だからって、いきなりすんなりと乗りこなせそうにはないな。暫く練習がいる」
そう言って食事を進めた京介だったが、途中で自分の近くに現れた大柄の男の姿を見るとその手を止めた。イワン・ゲオルギー・レオニード・レズノフが、手に大きなファイルを持ってやって来ている。彼は京介とクリスカの近くに歩いてくると、そのファイルを京介のトレーの隣に置いた。
「Su-37M2に関するファイルだ。今日の間にシミュレーションで簡単なレクチャーを行うが、時間は何時でも良い。俺はハンガーにいるから、好きな時に来てくれ。ファイルもそれまでに目をざっと通しておくだけで良い」
「いや、ちょっと待て」
イワンからそう言われた京介はファイルを一瞥すると、残っていた飯を一気に掻き込んで口元を乱暴に拭った。
「今からで良い、行こう」
「京介っ」
言いながら立ち上がった京介にクリスカが思わず反応すると、イワンはやれやれと言った表情で食堂の外で待っていると言って出て行った。代わりに何か言いたげなクリスカを前にして、京介は後頭部をポリポリと掻く。その顔は自分が何故彼女に呼ばれたか、その理由を完璧に理解していたようだった。
「イーニァのところに行くのは、こっちの仕事が終わってから。な? だから待っててくれ」
「……分かった。引き止めてすまない……」
明らかに意気消沈している様子のクリスカに京介はどうしたものかと悩んだが、イワンを待たせている以上時間は掛けられなかった。周囲に人の目もあった所為で彼女の肩を軽く叩く程度で接触を済ませると、京介はトレーの片付けも程々に食堂を出て行く。そして外の通路で待っていたイワンと合流すれば、ハンガーへ向けて歩き出した。この時京介が何よりもハンガーへ行くことを優先したのは、イワンに対して聞きたいことがあったからであった。先を行くイワンの背を睨みつける京介の目は、鋭い。
一方京介が出て行ったテーブルに一人座っていたクリスカは、傍から見ても明らかに意気消沈しているようだった。目の前にある食器は既に空になっていたものの、視線はそのトレーの先の何かをぼうと見つめている。するとその視界の上端に人影が映りこみ、クリスカは反射的に視線を上げた。
「どーも、ビャーチェノワ少尉」
そこに立っていたのはトレーを持ったリコ・ヴォルフであり、彼女は何処か不機嫌そうな表情でクリスカを睨みつけていた。彼女はそのアッシュブロンドの髪を揺らしながら席に着くと、乾いたパンを千切りながらジッとクリスカに視線を向けている。敵意とは言わないまでも強い攻撃的な視線を前に、クリスカは戸惑った。今までは特に関わることもなかったが、リコに関してはそれなりに接触を持とうとしてくれていた部分があったからだ。イーニァに関しても一線を引いているものの関わりを持とうとしてくれていたこともあって、クリスカは何故彼女が自分にそんな態度を向けてきているのか全く心当たりが無かった。
「私に……何か?」
「何かって言えば、何かね。貴女、今朝ウラキ中尉の部屋で何をしていたの?」
そのリコの言葉を聞いてクリスカが最初に思ったのは、ああ、あの時感じた視線は彼女だったのかというそれだけだった。朝京介の部屋から出て来た事を見られたところで、クリスカはそこまで恥ずかしがったりするような事は無い。ただそれがどうしてリコの不機嫌が態度に繋がるのかは理解出来なかったが、兎に角彼女から続けざまにぶつけられた質問に答える事は止めなかった。
「何をしていたと言われても……昨日から彼の部屋に居て、そのまま泊まっただけだ」
「泊まったって……。少尉、アンタまさか中尉と変なことしたんじゃないでしょうね」
「変なこととは何だ?」
「何だって、そりゃあ……その、セッ……とか」
急に頬を赤らめて言葉を濁すリコにクリスカは首を傾げたが、彼女の言葉の尻に付いていた聞き覚えのある単語には反応した。それは昨夜自分と京介が致したことであり、彼女にとってその事実は非常に重要な思い出になっている。だからその事をそのまま言うのは恥ずかしかった為、クリスカは小声でリコに応えた。
「それは……した、ぞ。昨日の夕方から夜まで……」
「ぶっ!?」
飲んでいた水を噴出すと、リコは咽こみながらクリスカの顔を信じられないと言った表情で見やった。やはり非常識だったかと反省したクリスカだったが、リコから放たれた口調はそれ自体を窘めるものでは無かった。寧ろ、更に根本的なところだった。
「アンタ、自分が何をしたのか分かってるの!?」
「何をって、ただ私は京介に……」
「タカムラ中尉が亡くなったばかりのあの人とよくそんな事しようなんて考え付いたわね……。実際付き合っていたのかどうか知らないけど、傷心の人間に付け込んでやることじゃないわよ」
呆れたと言ったリコの様子に何故そうなるのかが分からないクリスカは首を傾げるしかなく、それを察したリコは信じられないと頭を抱える。
「アンタが昨日中尉としたいやらしい事はね、普通の人じゃやらないような事よ。傷心の男に傷心の女がへばりついて粘膜の愛を交したって、結局どっちかがどっちかを自分の都合の良いようにしてるだけじゃない」
「それはどういう……」
「アンタ、シェスチナ少尉が意識不明になってからずっと気が重そうにしてた。自分にとってのあの子の代わりになってもらおうとしてたんじゃないの、中尉に」
「そんな事はない!」
思わず声を荒げたクリスカに食堂は一瞬静寂に包まれたものの、すぐにざわざわと何も起こらなかったかのように会話が始まりだす。目の前で怒声を受けたリコも怯んだ表情をしていたものの、ハッとしてすぐに険悪な表情へと切り替えた。
「アンタにとってはそうかもしれないけど、中尉にとってはどうなのよ。アンタのこと、タカムラ中尉の代わりにしか思ってなかったりするんじゃないの?」
「京介はタカムラ中尉とはしたことないと……」
「する予定だったかもしれないでしょ。大体したことないから他の人を抱くっていうものでもないでしょうに」
コップの水を一度口に含んでから、リコは飲み込んで乾いていた喉を潤した。自分が何故ここまでクリスカをねちねちと口撃しているのか分からなかったが、兎に角傷心の男女が身体を重ねたという事実が彼女を苛立たせていた。それはやや潔癖症な彼女がそういった生々しい話を嫌悪していたからだという簡単な話だったが、意外な事にリコはそれを自覚していない。だからこそ、彼女の苛立ちは一方的に募っていく。そしてクリスカにそれはぶつけられていく。
「こういう事言いたくないけど、もしタカムラ中尉が生きていたらアンタのやったことは最低な事になるのよ?」
「最低って……」
「人の男を寝取ったのに最低って言わないでどうするのよ。……まあ、あの子はもう亡くなっちゃったからあんまりこういう事も言えないけど……」
そこまで言って、リコはクリスカの顔面が蒼白になっていることに漸く気付いた。彼女は肩や手を震わせ、まるでこの世の絶望の全てを味わったかのような顔をしている。自分が放った言葉でここまで追い込まれるとは思ってもみなかったリコは、慌てて両手をバタつかせながらフォローに走った。
「ちょ、ちょちょちょっと! そんな顔しなくたって良いじゃない! そりゃあ私も言い過ぎたかなー? って思ったりしたりしなかったりもするけど……えーと、その……モラルというか世間の目と言うか……」
「いや……大丈夫だ、ヴォルフ少尉。私も少し、考えが甘かったようだ……」
リコの弁解を片手で制したクリスカは、一度顔を両手で覆ってから頭を左右に振った。まだ僅かに顔は青白いものの、その目は何かを決意したかのように煌いている。
「今日、京介がSu-37の訓練が終わったらイーニァのところに行くことになっている。そこで……彼に聞いてみることにする。私の事や、昨日の事をどう思っているのか……」
「え、その……私が色々言っておいてなんだけれど……大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ。もし彼が私の事をタカムラ中尉と重ねていても……私の身体で彼の心の穴を埋めて上げられるのなら、それで良い。……それが一番、良いはずなんだ」
そう言うクリスカの言葉にリコは背筋がざわついたが、これ以上自分がこの事に首を突っ込むべきではないという自制の念が彼女の口を堅く閉じさせる。だから彼女は、ため息混じりに会話を終了させるしかなかった。
「それもそれで問題だとは思うけど……誰かの代わりでも良いなんて言ってる人程、その人の代わりでいることに疲れてくるもんなのよ」
その言葉に、クリスカはかつての無人島で見た少女のか弱い姿を思い出した。彼の保護者のようで加護者でもあったその少女の代わり、自分とは何もかもが違うその女性の代替品、自分で言っておきながらクリスカは、その言葉にギュッと胸が苦しくなるのを抑えることは出来なかった。
同じ頃、クリスカがそんな事になっているとは思ってもいなかった京介は、誰もいない通路でイワンと対峙していた。目の前の大男を睨み上げるその視線は鋭く、強い。対するイワンの青年を見下ろす視線は、優しかった。
「やけに早く訓練をしたがるなとは思ったが、まさか俺に用があったとはな」
「アンタがさっさと答えてくれればすぐに済む話だ。内容はあの黒目玉の大佐に関係してる」
京介の言葉にイワンは分かっていると言わんばかりに頷いてみせると、腕を組んで京介の次の言葉を待った。その態度に若干の苛立ちを感じつつも、京介は言葉を続ける。
「俺の曖昧な記憶の中に、奇妙な光景が残っている。そこじゃあ何処からか引っ張ってきた衛士達に長時間のシミュレーションをやらせた挙句、実弾を使用した実機演習で容赦無く殺害する事が黙認されているような場所だ。そこでの俺は何故だか記憶が無くてな、今になって思い出せば……そこから俺を連れ出したのは姉さんだった。……そこで一瞬だがお前に引き合わされたあのイェーガー大佐の姿も見た。そこが------」
「そこがイェーガー大佐の率いている連隊の本拠地か。お前はそう聞きたいのだろう?」
「っ。お前、やっぱり知って……」
「答えは勿論イエスだ。そしてお前が次に聞きたいのは、何故自分の姉があんな場所に居たのかということだろう」
不本意ながらも頷いて肯定した京介の姿に、イワンは笑い出しそうになりながら廊下から周囲を見回した。不審な人物もおらず、この廊下には監視カメラもマイクも無い。状況としては最適だと判断したイワンは、目の前の青年の疑問を解消してやることにした。これから先面倒な事に巻き込む事が確定している分、今のうちに少しでも疑問を解消しておいてやろうという不親切な親切心から来たものである。
「話せば長くなるから端的に言わせてもらうが、君の姉……浦城夏希は、イェーガー大佐に次ぐ実力と権力を手にしている。彼女が率いている部隊こそ、連隊内で最も優れた人員を集めた第一中隊【
「何? ……それじゃあ、まさか!」
「いや、あの時彼女は部隊を率いていなかった。自分の代わりの補充要因を連れて行かせたのさ、イェーガー大佐が持っていた写真も彼女が撮らせたものだ。最も、彼女の行動にはあの大佐も手を焼いているようだが」
「どうして俺の姉さんがあんな奴のところに居るんだ。教えてもらおうか」
逸る京介に掌を見せて制止するようイワンが示すと、彼は眉を顰めて険しい表情のまま腕を組んだ。
「お前もあの時聞いていたはずだ。お前が彼女に引っ張られて参加した例の部隊も、イェーガー大佐の息が掛かっていたと。そう考えれば後は簡単なはずではないかな?」
「……どうして連中は俺を狙うんだ。例外とか特別とか、そんな不安定な言葉で形容されたって俺には分からない。けど、アンタはその言葉が何を指しているのか知っているはずだろう」
「…………」
「答えろ、イワン!」
京介の怒声にイワンは深いため息をつくと、目元を押さえながら疲れたように目を瞬かせた。その後その視線は京介へと注がれ、大男は青年の疑問に答え始める。
「因果律干渉能力者……、それがイェーガー大佐が探しているものだ。あの連隊に所属しているのは皆全てその能力を所持している可能性の高い連中。端的に言えば……どんな状況下でも生き延びる事が出来る人間、死なない兵士の素養がある人間達だ」
「……はっ、そんなふざけた話を本気で信じると思ってるのか? 死なない兵士なんてもん、存在する訳ないだろう」
イワンの言葉を鼻で笑ったものの、京介は何故か心の中でその言葉を否定出来ないでいた。それがどうしてかは自分でも分からないが、心の中の何処かでその能力が存在していることを肯定しているかのようだった。理由の分からない感覚をイワンに気取られまいとしていた京介に、彼は言葉を続ける。
「全ては可能性の話だ。可能性の高い者が生き残り、可能性の低い、無い者が淘汰されていく。……お前もまた、その一人ということだ」
「どうしてそうなるんだ? 何度も戦場に出て帰って来る奴はごまんといる。まさか、そいつら全員がその因果がどうのこうのって言う気なのか?」
「それこそまさか、だ。……お前は今まで、何度
「何?」
イワンの言葉に、京介は首を傾げた。衛士となって以降、BETAとは片手で数えるほどだが戦ってきた。人間との戦いも、模擬戦や演習を何百回と繰返してきた。それが一体何だというのか、そう言外に匂わせていた京介に、イワンは再度問いを繰返す。
「お前が人間と何度戦ってきたかと聞いている。模擬戦や演習なんかじゃない、本気の……殺し合いをだ」
「っ……三回……いや、二回か。グアドループと、頭の中にある曖昧な記憶が事実なら」
「ふむ……全体的に記憶が曖昧になっている訳ではないという訳か。いや、三回で合っているぞ。お前の頭の中から失われているカムチャツカでの記憶、その中でお前はイェーガー大佐と戦っている」
「何? おい、それはどういう……まさか」
言い掛けて、京介は口を閉じた。自分の頭の中にある曖昧な記憶、すっぽりと無くなっているカムチャツカでの記憶、それらを繋ぐものが何も無い状況に、京介が感じるものがあった。何故自分があの基地に運ばれて、戦わされていたのか。京介の顔を見ていたイワンは一度小さく頷くような動きを見せると、その口を開く。
「何の脈絡も無く一人の人間が全く別の場所へと移動させられることは無い。あの時、カムチャツカでの戦いは我々が仕組んだものだ。多大な威力を見せた電磁投射砲のブラックボックスと、お前、そのどちらか……或いは片方を確実に手に入れる為に、わざと基地近くの地下に掘られていた穴を黙認しBETAを基地へと誘導したんだ。結果として基地に残っていた戦力の中でお前だけが時間稼ぎの為に出撃し、ブラックボックスも一度は手にすることが出来た。そしてBETAを粗方片付けたお前を大佐が襲撃し、お前は勝利した」
「勝った……!?」
「と言ってもほぼ相撃ちのようなものだったがな。大佐も怪我をしたとは聞いているが……何処まで信じて良いものかは分からない。兎に角勝利したものの大怪我を負ったお前を我々が回収し、そしてすぐに浦城夏希がここに来てお前の身柄を攫って行った。そうして
疲れたようにため息をつきながら両手で髪を掻き上げると、京介は壁に背中をドンッとぶつけて俯いた。今聞いたばかりの情報が頭の中で処理し切れていないのか、顔を両手で覆って深いため息を繰返している。明らかに混乱している様子の京介を前に、イワンはフッと鼻を鳴らした。
「まあ信じるも信じないもお前の自由だが、少なくとも現状お前のしなければならない事に何の変更も無い。……タカムラ中尉が殺害されたのを知ってまだ二日と経っていないが、お前も開発衛士ならば私情を捨てて任務に励むんだ」
「その事に触れるな! ……っ、クソ。自分でもすんなりその話を受け入れられたのが意外だっただけだ。あのイェーガー大佐との勝負は兎も角、姉さんに会ったことは間違いない。だったら面倒な事態が俺の知らないところで動いてるっていうことくらいは分かる。我ながら、よく面倒な事に巻き込まれるってな。……それよりも、もう唯依の事については口にしないでくれ。考えたくないんだ」
そう京介が言った瞬間、彼は気がつけばイワンに胸倉を掴まれて思い切り壁に押し付けられていた。背を強かに打ちつけた所為で肺の中の酸素を全て吐き出し、手で首下が絞まっている為に上手く呼吸が出来ない。
「っ、ぐ……お前……!」
「今お前は、考えたくないと言ったな? そうやって思考を止めて立ち止まっていれば、何時かは時間が解決してくれるとでも思っているのか?」
手を離されて開放された京介は床に尻餅をつくと、咽ながらイワンの顔を見上げた。初めて見る彼の怒ったような表情に、京介は背筋がぞっとする感覚を覚える。イワンは無理矢理京介を立たせると、その顔を片手で掴んだ。ミシミシと骨が鳴る音が頭の中で響き、京介はその手から逃れようとするもイワンがその手を緩めることは無い。そして頭上から、冷たい声が投げ掛けられる。
「立ち止まった状態のお前に一体何が出来る? 自分の気持ちの整理一つ出来ない奴が、何かを成せると思うなよ」
イワンはそう言うと京介の身体から手を離したが、険しい表情のまま懐から一枚の写真を取り出した。イワンはそれを相手の懐に押し付けるようにすると、京介はその写真を手にとって写っているものを見る。そこに写っていたのは、イワンと見られる若い男性とその隣に並ぶ女性。そして女性に抱かれている赤ん坊と老夫婦の五人だった。
「これは……?」
「俺の家族だ。もう九年になるか……、俺が仕事だ任務だと前線で動いていた時にBETA共に襲われて死んだ。全員だ」
「っ」
イワンの言葉に京介が思わず黙り込むと、彼は京介の手から写真を引っ手繰るかのように取り上げた。それを懐にしまい込みながら、イワンは京介に言葉を投げ掛ける。今度は冷たくは無く、温かみに溢れた優しい声色で。
「……あの時の俺は、BETAの数を一つでも減らしてやろうと躍起になっていた。だが気付いてみれば生まれたばかりの息子を一度も抱いてやれなくて、遺体の無い墓の前で泣き続けたもんだよ」
「それは……」
「死に目にも会えず、別れも言えず、妻や息子に愛しているとも言えなかった。それを今でも俺は後悔している。お前もそうだろう?」
「…………!」
イワンの言葉に、京介は何も言えなかった。篁唯依に、何か伝えたいことはあったか。彼女が死んだと聞かされた時、自分が狼狽したのは何故か。無理矢理中身を押し込めて鍵を掛けていた扉のドアが内側からの圧力によって開かれつつある感覚に、京介は視界がぼやけていくのを見た。
「ウラキ、自分にとって大切な人が死ぬというのは誰だって悲しくて辛いものだ。お前にとって彼女がどういう存在だったのかは俺は知らん。だがその事と向き合わずに歩き続けても、それは何時かお前自身が破滅するだけだ。割り切れとも、忘れろとも言わない。ただ後ろを向いて立ち止まることだけはするな。お前はちゃんと、相手の死と向き合ってやったのか? 向き合って、受け入れたのか? 俺は受け入れた。受け入れたからこそ、ずっと後悔し続けている」
「俺は……」
イワンの言葉を受けて、京介は漸く自分が唯依の死に対して向き合っていなかった事を自覚させられた。知らされた事実に涙していても、一人ベッドに寝転んでいても、結局きちんとした形で向き合う事から逃げていたのだ。歪んだ視界から頬へと冷たい雫が伝っていくのを感じると、京介は両手で顔を覆う。初めて会った時の事、まだ髪が短かった頃のあどけない姿、三年ぶりに再会した時の嬉しさを噛み締めていた表情、何度もぶつかり合い、喧嘩をしても、彼女は自分の事を心配してくれていた。いつか見た微笑が風の向こう側へと飛んでいき、その全てが雫となって指の間から零れ落ちていく。一日と、女との性交の末に、京介は本当の意味で篁唯依の死を受け入れる事が出来たのだった。だがしかし、それが彼にとって良い影響を齎したかどうかまでは、誰にも分からない。
「全く……我ながら、デカイ息子を持ったな。面倒臭い男だよ、お前も……俺もな」
目の前で床に座り込んで大粒の涙を声を押し殺して指の隙間から零していく京介の頭をその大きな手で撫でながら、イワンは冗談めかして口調で言うのであった。その冗談の中に自分への自嘲を混ぜ込み、イワンは思っていたより饒舌になっていた自分の頬を指先で掻く。ほんの少しだけ嘘が混じっていた自分の過去の話を聞かせたのが恥ずかしかったのか、その大きな背中が不自然に揺れていたのだった。
日も落ちかけて夕日へと切り替わってきた頃、イーニァの眠る医務室のドアの前でクリスカ・ビャーチェノワは一人京介を待っていた。朝にリコから言われた言葉をずっと頭の中で反芻させながら、彼女は思い詰めた顔で親指同士を手の中でクルクルと回転させていた。そしてその視線が廊下の角を曲がって現れた京介を捉えた時、クリスカは自分が駆け寄るよりも先に近づいて来た京介の腕の中にいた。力強く背に回された腕に身体を抱き締められたクリスカは、京介の身体が僅かに震えている事に気付くとその首筋に頬を摺り寄せる。
「訓練で、何かあったのか?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないけど……お前の、クリスカの匂いを嗅ぎたくなったんだ」
「そうか。……それで、もう満足したのか?」
「もう少しだけ……このままでいさせてくれ」
「分かったよ、京介」
後頭部に添えられた彼の手の感覚に身を委ね、クリスカは京介の背に腕を回し優しく撫でてやる。本来聞くべきだった事を全て頭の奥へと追いやって、クリスカは自分を頼ってくれている、自分を欲していてくれる目の前の男を癒す事に脳を働かせた。けれどそれは彼女の自己満足で、自分を抱いている男が心の中で何を考えているかなど全く気にしていなかった。知ろうとすれば何時でも知れるという自負があったからか、その時この場での自身の選択が後日重大な事件を引き起こすことになるとは、クリスカは何の予想も出来なかった。そして愛する男の腕の中にいるという事実が自分の感覚を錆び付かせているという事にも、彼女は気付いていなかった。