Muv-Luv The frayed memory/Carved memory 作:REDALERT
その知らせが京介の下へやって来た時、彼はまだクリスカと共にベッドの中だった。何度も部屋のドアをノックされる音に睡眠を妨げられた京介は、寝惚け眼ながら捲り上げたシーツを隣で寝息を立てているクリスカに被せる。その穏やかな寝顔に若干の満足感を得ながら、京介は頭を掻きながら今も尚ノックされているドアまで歩いた。途中時計を見てみれば、その針はまだ朝の五時を過ぎてすぐを示している。
「誰だ?」
「リコ・ヴォルフです」
ドアの向こうから返って来た声が仲間のものであることを確認すると、京介はこんな朝っぱらから一体何の用なのかとボヤキながらドアを開いた。開けたところで京介の前に現れたのは敬礼の姿勢を取るリコだったが、彼女はジャケットを脱いだだけの京介の姿に首を傾げる。
「おはようございます、中尉。……その、もう起きておられたんですね」
「ああ、いや、昨日シャワーを浴びてからそのまま眠っただけだ。気にしないでくれ。……で、何の用だ?」
少しよれた服装の京介を足先から頭のてっぺんまで見回した後、リコは思い出したかのように背筋を伸ばした。
「えっと、多分合っていると思うのですが……ビャーチェノワ少尉はこちらに?」
「ん? あ……あー、いるぞ。クリスカに用か?」
「は、はいっ! なので、出来れば呼んで頂けると有り難いのですが……」
「分かった。ちょっと待っててくれ」
「はい! 恐縮です!」
気恥ずかしそうに頬を掻くリコが何故そうしているのか京介にはすぐには分からなかったのだが、取り敢えずリコに待つように言ってから部屋の中へと戻った。ベッドの中では自分と同じようにジャケットを脱いだだけのクリスカが未だシーツに包まれて眠っており、さっきまで隣にいたはずの京介が居ない所為か枕を腕の中で抱きかかえている。そんな彼女の顔を覗き込むようにして、京介はクリスカを起した。
「おい、クリスカ? 朝だぞ」
そう言って軽く頬を叩くと、クリスカはすぐにその目を開いた。まどろんだ瞳が天井から京介の顔へと移されると、彼女は眠そうに目元をこすりながら口を開く。
「ん、んん……早いな、京介。んー……」
「ちょっとな。ヴォルフ少尉がお前に用があるらしいから、早いとこ顔洗ってきな」
「ああ……分かった。ふぁ……」
「ちゃんと口は濯いどけよ」
そう言って半分頭が眠っている様子のクリスカを洗面台へと送り込むと、京介は適当に乱れたシーツを整え、床に落ちていた二人分のジャケットを拾い上げてベッドの上に放り投げた。それから半分程閉まっていたカーテンを開けてから、ドアの向こうで待っているはずのリコへ声を掛ける。
「もう少しだけ待っていてくれ! すぐ行く!」
「あっ、分かりました!」
そうやってリコからの返事を受けた後、京介は戻って来たクリスカにジャケットを投げ渡すと自分もまた顔を洗いに洗面台へと向かった。乱雑に水を顔面に叩きつけてから口を濯いでいると、ドアの方から何か大きな声でクリスカとリコが言葉を交しているのが聞こえてくる。喧嘩をしているような感じではないものの、聞こえてくる大きな声に京介は一体何があったのかと少し不安になった。だが顔をタオルで拭いている時に部屋に戻って来たクリスカの顔が明るいものだったので、京介は首を傾げる。
「京介! イーニァが、あの子が目を覚ました!」
最初こそ、その言葉の意味をすぐに理解出来なかった京介だったが、すぐにその脳がクリスカの言葉を理解すると、彼はクリスカの肩を両手で掴んでいた。
「イーニァが……!? なら、早く行ってやれ。あの子は待ってるぞ!」
「京介も、行こう!」
「誰が部屋に鍵を掛けるんだよ。後で行くから、先に行って来い」
「わ、分かった!」
そう言って慌しく部屋から駆け出していったクリスカを見送ってから、京介もまたそそくさとジャケットを肩に掛けて部屋を出た。何処かにやついた表情のリコが廊下に一人立っていて、その視線が何故か自分を面白がって見ているようで京介は少しばかり鳥肌が立った。閉じたドアの鍵を後ろ手に掛けながら、京介はリコに声を掛ける。
「イーニァが起きたってのは、何時の話だ?」
「つい先程、イワンから連絡が。ビャーチェノワ少尉の部屋に内線掛けても出なかったそうなので、代わりに私のところに」
「探しに行けって?」
「はい」
言葉を交しながらジャケットに袖を通し、京介は前を開けたまま大きな欠伸を一つ。その隣を歩きながら、リコは口元に手を当ててクスクスと笑う。それは京介の髪が少しばかり跳ねているのが面白かったのだが、当の本人はその事には気付いておらず、別の意味でリコの笑いを受け取った。
「クリスカが俺の部屋に居るのは、変だったか?」
「ふふっ。え? いや、そうじゃないですよ。中尉、寝癖」
「ん? うわ、本当だ……途中便所で直すか」
面倒臭そうに髪を掻く京介に、リコは再び笑いながら何かを思い出したかのように足を止めた。その姿に京介が首を傾げると、リコは申し訳なさそうに手を顔の前で合わせた。日本人がよくやるその謝罪のポーズをロシア人であるリコがやっている事に違和感を覚えつつも、京介は一体何事かと問い質した。
「実はその、イワンから中尉にも伝言を頼まれてるのを忘れてまして……」
「伝言?」
「あの、昨日の模擬戦の報告を……」
リコに言われてから、京介はしまったと言わんばかりに片手で顔を覆いながら天を仰いだ。昨日のユウヤ・ブリッジスとの模擬戦後、京介は詳しい報告を後回しにしてさっさと自分の部屋に戻っている。全く報告をしていない訳ではないが、何かしらの資料を製作して日本帝国へと送らなければならない。その事と、サンダークへの報告もしろとイワンは言っているのだ。
「それは今日中にやっておくって、後でイワンに言っといてくれるか? サンダーク大尉には直に言いに行くからさ」
「あ、いえ、報告自体は全て自分に言うようにとイワンが」
「何だって? アイツに?」
はい、と言って頷くリコに首を傾げつつ、京介は分かったと返事する他無かった。何をどうしたら報告を一介の開発衛士であるイワンにするのだろうかという疑問が浮かんできてはいたが、彼の裏の顔を知っている京介はすぐにそちらの方面で何かしらの関わりがあるのだろうと適当な答えを考えて、それ以上リコを追求することはしなかった。今は兎に角目覚めたというイーニァに会いに行くのが最優先であり、そこから京介の方からリコへ何かを語り掛けるという事はしなかった。だがリコの方から質問攻めに合う事など、その時の京介には想像もつかなかった。
「あの……前にビャーチェノワ少尉と話をしたんですが、今日の様子からして大体想像はついてるんですが、中尉と彼女はお付き合いをされているんですか?」
「ん? お付き合い……してるな、うん」
「どうして彼女だったんですか?」
「どうしてって言われても……色々複雑なものが……」
自分から言っておきながら、京介はリコにどう説明したものかと悩んでいた。馬鹿正直に言えば唯依が死んだと聞かされて傷心していた自分を慰めてくれたのがクリスカだったから、というのだが、それではその時慰めてくれた人物だったら誰でも良いのかという話になってしまう。勿論そんな事は無いと断言出来る程にはクリスカを愛している京介だったが、どちらにしろそれも馬鹿正直に言うには彼には少々恥ずかしいものがあった。
「複雑って、まさか略奪愛とか……!?」
「どっちが奪って奪われてるんだよ、それ。……まあ、兎に角、俺にとってクリスカは大事な人ってのは変わらないんだから。そういう事で勘弁してくれよ、ヴォルフ少尉」
相手の額をコツンと拳で小突いてから、京介は昨日の模擬戦の内容を思い返していた。射撃兵装を捨て、超近接戦にまで持ち込んだのは良かった。だが途中、京介は自分でした行為を思い返し、そして何故自分があんな事をしたのかが自分で分かっていなかった。態々管制ユニットから顔を出してユウヤと直に言葉を交わし、更にクリスカと自分の関係についても暴露した。おまけに明確な殺意を抱いていたことすらも口にして、そして唯依に似た声------幻聴を思い出す。
(……何だってんだよ、結局)
すると京介が少しイラついた様子になったのを自分の所為だと勘違いしたのか、リコは慌てて京介の進路上に回ると思い切り頭を下げた。だがその内容は当たらずとも遠からずといったところで、京介がその事で余計に頭を悩ませる事になったのだが。
「あの、ごめんなさい! もしかして……ビャーチェノワ少尉の事で弄られるのって、嫌でしたか?」
「そっち? ……ああ、いや、そうだな……うん。出来ればあんまり触れないでくれると助かる。……おい、今弄るって言ったか?」
わざとらしく舌を出して恍けてみせるリコにため息をつきながら、漸く京介はイーニァが眠っていた部屋へと通じる廊下に出た。道中下らない話に花を咲かせていた所為か、えらく早く着いたように彼は感じていた。
「じゃあ、イワンに会ったらハンガーで会おうって伝えておいてくれるか?」
「はい、分かりました。……今は感動の再会! って感じなんですかね、部屋の中は」
「さあな。兎に角助かった、さっきの伝言、宜しく頼む」
「はーい! ……さて、と……奪ったのはビャーチェノワで、奪われたのは中尉。そういうことなんですよね」
イーニァとクリスカのいるであろう部屋へと入って行く京介の背をジッと見つめながら、リコはそう呟いた。何処か面白くなさそうな表情をした彼女は暫くの間廊下に立ち尽くしていたが、やがて興味を削がれたのか大きな欠伸をしながら身体をぐぐっと伸ばす。
「なーんか気に食わないのよね、現状。昨日の模擬戦然り、ウラキ中尉の行方不明然り。……アンタ、何か知ってるんじゃないの?」
最初は独り言だったはずのリコの言葉が段々と誰かへと話し掛けるものへと変化していくと、彼女の背後の物陰から独りの男が姿を現した。ユーリ・ミン・エゴロワ、短い髪を真っ赤に染め上げたその男は面倒そうな表情をしてリコの背後へと近づくと、そのまま耳元で囁く。それは彼女にとっての警告で、ユーリからしてみればイワンを除いて唯一気を許せる彼女を気遣うものだった。
「お前は何も知らない方が良い。知らない方が、まだ平和に暮らせる」
「もう訳分かんないテロ事件とかにも巻き込まれているのに、平和とかあるのかしら? 今私が知りたいのは、どうして急にビャーチェノワがウラキ中尉にぞっこんになっちゃのかってところなんだけれど」
「女の嫉妬か? そんな恋は成就しないぞ」
「心に穴の空いた中尉が誰かを求めるのなら、それが女であれば私でも良いんじゃなくて? 穴の空き方がより深ければ……なんて。これでも男の
「止めとけ。お前じゃ紅の姉妹は倒せない」
その言葉がユーリの口から放たれた時にリコは即座に振り返ったが、何処にも赤い短髪は見当たらなかった。怒りに染まった拳がギリギリと音を立てて軋んでいたが、リコはそれを暫くの間解く事は無かった。彼女自身が最も嫌がる煽り方をされた事に対して怒っていたのもあったが、一方で彼女が最も指摘されたくなかった部分を指摘されたことに対しても怒っていた。
「アンタは一々一言余計なのよユーリ……。アイツらに勝てないって事くらい、私が一番分かってるんだから……!」
京介が入って行った部屋のドアを蹴飛ばして、紅の姉妹の前から彼を連れ去ってやりたい衝動に駆られながら、リコはその場を離れて行った。可哀相な京介、と内心で哀れんでいるリコを他所に、部屋の中では一種の感動の再会とでも言えるかのような状況になっていたのだった。
初め部屋のドアを開けた京介の視界に飛び込んできたのは、ベッドの淵に腰掛けて小さな少女を力一杯抱き締めているクリスカの背中だった。抱き締められている少女------イーニァもまた、目尻に涙を浮かべながらその細い腕をクリスカの背に回している。互いに小さな声で何事かを囁きあっているその姉妹かと思う姿の間に入る事に罪悪を感じつつ、京介はコンコンと壁を軽くノックして自分の存在を知らせた。
「え……? あれ?」
目を閉じていたイーニァがノックに反応して目を開くと、彼女は自分の目の前に立っている人物を見て驚愕に目を見開いた。イーニァから身体を離したクリスカも振り返り京介の姿を確認すると、そのまま彼女は驚いている小さな少女に声を掛ける。
「イーニァ? 京介だよ、帰って来たんだ」
「キョウスケ? ほんものなの? いきて……?」
「ちゃんと足もあるぜ、イーニァ。大丈夫か?」
直し忘れた寝癖を手で弄って誤魔化しながらベッドに歩み寄ると、京介はその左手をイーニァの頭部に乗せてワシャワシャとその長い髪を撫でた。擽ったそうにするイーニァに何処か心が安らぐような感覚を得た京介は隣に立つクリスカと一瞬視線を合わせると、ポンッと一度だけイーニァの頭を叩く。
「キョウスケ、どうしてここにいるの? えっと……ゆくえふめい? ってクリスカが……」
「見つかって、それからここに帰って来たんだよ。所属は変わったけどな」
そう言って少しよれたジャケットの肩に付けられたイーダル試験小隊の腕章を見せると、イーニァは驚いた表情でクリスカの顔を見た。だがすぐに悲しそうな表情を見せると、おずおずと京介に向かってその小さな口から言葉を紡ぐ。
「えっと、キョウスケ……クリスカとなにかあったの?」
「急にどうした?」
「クリスカがまえよりもずっとあたたかくかんじるの。イーニァよりも、キョウスケのほうをみてて、わたし……」
「イーニァ……」
何故イーニァがそう感じてしまうのか京介には分からなかったが、心配そうな表情をしているクリスカの顔を見ると口の端を悪戯っ子のように歪めてイーニァの頬を人差し指で軽く突いた。柔らかい彼女の頬が指先で持ち上がり、イーニァはふえっと可愛らしい声を洩らす。
「クリスカにとって一番大事なのはイーニァに決まってるだろ? じゃなきゃこうやってずっと傍に居てやれないから」
「けど……」
「けども何も無いっての。そんなに気になるなら、直接クリスカに聞いてみな。ほら」
そう言って京介がイーニァの顔をクリスカの方へと向けさせると、誰かが部屋のドアをノックした。そして一瞬の間を置いて開かれると、顔を見せたのはイーニァを担当していた軍医だった。彼女は部屋に居た京介とクリスカの姿を見ると部屋に入るのを止め、敬礼の姿勢を取った後京介の方に部屋へ出るよう願い出た。首を傾げるクリスカとイーニァにすぐ戻ると言ってから部屋を出た京介に、軍医は部屋の中にいる二人には聞こえない音量で囁く。
「シェスチナ少尉はこれから暫くの間検査が続くと思うので、もし話したい事があるのなら今の内にお願いします」
「検査ってのは、今日だけの話じゃないのか?」
「今まで意識不明だったので、サンダーク大尉がよく調べておくようにと……。これ、秘密ですよ」
「……分かった、伝えておく。ありがとう」
また後で来ますと言って軍医が去った後、京介は部屋の中に戻ってクリスカとイーニァに事情を説明した。話を聞いた当初イーニァは納得がいっていないようだったが、クリスカからこれから先もずっと一緒にいる為と説得されて、仕方なく折れたようだった。だが去り際にもう少しだけ話をしたいという彼女が相手に選んだのは、クリスカではなく京介。何時か感じた心の中を見透かされているような感覚を受けた京介を、イーニァはジッと見つめている。その視線からまた逃れたいと京介が本能的に感じ始めた頃、イーニァは首を傾げながら問うた。その声は子供が生まれて初めて見たものを母親に聞いている時のようで、何も裏の無い、純真無垢な色をしている。だがその内容は、聞いている者からすれば突飛なものにしか聞こえなかった。
「キョウスケは……ユウヤと
「ユウヤ……?」
イーニァの口から出て来た男の名前にクリスカが問い掛けると、イーニァは静かに頷いて京介の顔を見上げる。
「ねむってるとき、ユウヤとキョウスケがおこってるこえがきこえたの。キョウスケ、ユウヤに
「おい……冗談だろ……?」
昨日の模擬戦で勢いで言い放った殺意の証明、その言葉を、イーニァは知っている。クリスカは何かを察していたようだったが、それを京介に言うべきかどうか迷っている様子だった。だが京介自身は再び目の前で起こった不可解な現象に混乱している様子で、クリスカの様子にまでは気が向いていないようだった。
「けんかは、ダメだよ。キョウスケ」
「っあ、ああ、分かってるよ。イーニァ、喧嘩はダメだ。偉いな、お前は」
自分を見つめる無垢な瞳に何か大きなものを感じながらも、京介は平然を装ってその頭を撫でてやった。緊張に顔が固まりつつあるのを自覚していたからか、次の用事があると断りを入れて、イーニァに検査が終わったらまた会おうと一方的に約束して京介は部屋を出て行く。後ろ手に閉めたドアから数歩離れた後、京介は目の前の壁に額をぶつけた。ひんやりとした冷たさが額から広がっていき、京介は両手を壁に当てて深いため息をつく。
「何なんだよ、本当……一体何がどうなってるっていうんだ……!」
言葉に出来ない何か恐ろしいものに対峙したような感覚に、京介はそう言って悩むしかなかった。まさかクリスカに対してイーニァが恐ろしいと言う訳にもいかず、他にどうしようもない状況は彼にとって苦痛に近い。何か別の事に集中するしかないと、京介はまだクリスカが残っている部屋を一瞥する。その中から別れを惜しむイーニァの声が聞こえ、京介が思わずギュッと拳を握り締めた時、彼は一人ハンガーへ向けて歩き出すのだった。
「意外と早い到着だな。コーヒー、飲むか?」
ハンガー脇にある小部屋の中にいたイワンは、入って来た京介を見るなりそう言葉を切り出した。既に小さなテーブルの上には二つのマグカップが置かれていて、コーヒーポットからは合成ながらも良い香りが漂ってきている。
「ああ、頼む」
京介はイワンにそうぶっきらぼうに言葉を返すと、やや疲れた様子で椅子に座った。両手で顔を覆って深いため息をつきながら手で顔を撫でると、イワンは首を傾げながらマグカップへ黒い液体を注いでいく。
「どうした、疲れているのか?」
「お前には関係無いだろう。……色々あるんだよ、こっちも」
「シェスチナが起きて、またあの目で自分を見られるのが怖くなったのか?」
「っ!」
図星を突かれた京介が思わず身体を仰け反らせると、イワンは笑いながら京介の目の前に湯気を立たせているマグカップを置いた。
「心配するな。あの子の目で見つめられて怖くならないのは、ビャーチェノワかサンダーク大尉だけだ」
「っ、俺は、別に……怖くなんて……」
「強がるなよ。手、震えてるぞ」
そうやってイワンに言われて初めて、京介は手に取ったマグカップの中の黒い水面が激しく揺れていることに気付いた。それに口付けて熱いそれを少し飲み込んでからテーブルにマグカップを押し戻すようにすると、京介は俯きがちにイワンから視線を逸らす。
「自分の心の中を読まれている感覚と言うのかな? 誰にも知られたくないもの、心の奥に鍵を掛けてしまっていたものを抉じ開けられて覗き込まれているんだ。怖い訳が無い」
「何を言っているんだ、お前は・・・…」
フン、と鼻を鳴らして京介の言葉を聞き流したイワンは、自分の持っていたマグカップをテーブルの上に置くとそのまま手を突いて京介へと視線を向けた。
「本題に入ろう。先日の模擬戦、結果としてはお前の負けだ。頭部及び胸部損傷、右腕損失による大破、一方の94セカンドも損傷度合いは近いがSu-37程では無い。どっちにしろ、大破同士でも胸部ブロックを派手にぶっ壊されたのは不味かったな」
「乗り出して一週間と経っていないんだ、それであれだけ動ければ上等だろう」
「動け過ぎたんだよ、お前は。あれじゃあ意味が無い、全ての日本帝国の衛士がお前程動ける訳じゃないのは分かっているはずだ」
「だが機体の性能は出し切れたはずだ」
「あれで出し切れたと思っているのなら、お前は二流だ。機体の損傷を考えずに戦った結果がこれで、何を出し切れたと言うんだ」
イワンの言葉に正論を感じた所為か、京介は何も言えずに再びマグカップに手を伸ばした。砂糖もミルクも入っていない苦いその味を無理矢理喉の奥へと送り込んで、苦々しい顔を誤魔化す。対するイワンは、その様子を前にしても平然と言葉を続けた。
「模擬戦中に通信を一方的に切断して相手と直に顔を合わす余裕はあったようだが、あの時お前はユウヤ・ブリッジスと何を話した?」
「……お前には関係無いだろう」
「残念ながら有る、不穏分子は一掃せねばならんのでな。別に一から十まで全てを話せとは言っていない。端的に、教えてくれれば良い」
「……はぁ。アイツが、何度も唯依がどうのこうのってのがうるさかったのさ。煩わしくて、押し付けがましくて、口では調子の良い事を言ったって結局俺に責任を被せたいだけなんだよ、連中」
京介の言葉を聞いたイワンはそのまま何も言わずに小さく頷いて何か考え込むような姿勢を見せると、すぐに自分のマグカップを取り上げてその少し温くなったコーヒーを飲み干した。
「くれぐれもアルゴス小隊の面々と余計な情報交換を行うなよ。Su-37の修理が完了するまではお前はまたシミュレーター訓練に逆戻り、リコとユーリに指導を頼んであるからこれ以上騒動を起すなよ」
「俺が何時騒動を起したって言うのさ、模擬戦だけだろう?」
「……着任初日にうちの衛士を一人手篭めにしたろう、馬鹿が」
イワンの言葉に黙るしかなかった京介は、バツの悪そうな顔でコーヒーを飲み進めた。何故こうも一日に二回もクリスカとの事を言われなければならないのか、京介としてはあまり面白いものではなかった。そもそも手篭めにしたのかされたのか、そんな細かいところまで考えてみてもどうしようもなく、イワンの言葉を真正面から受け止めざるを得なかった京介はイワンを前に沈黙を貫く。
「……お前はまだ若い、ビャーチェノワも同い年だ。それで色々細々としたものがあるのは俺も分かっているが、あくまでお前は日本からやって来た開発衛士で彼女はソ連を代表するエース。その立場の違いをハッキリと理解してもらわなければ困る。……最も、導火線の短いお前が爆発して彼女を連れて何処かへと逃亡でもされればどうしようもないがな」
「どういう意味だ、それは」
やっと口を開いた京介をイワンが無視し返すと、京介はやや乱雑に椅子から立ち上がった。するとそこでイワンはやれやれと言った様子で京介に止まるようジェスチャーを繰り出す。
「何処がお前の気に触った? 立場の違いか? 導火線が短いと揶揄されたことか?」
「手前にそう言われた事がだ」
「だが事実だろう? 俺が思うに、お前は心が弱すぎる。脆い大きな柱を支柱で支えて何とか真っ直ぐを保っているようなものだ。だから一度支柱を欠けば、すぐに脆い柱が根元から崩れようと揺れてお前の心をかき乱す。違うか?」
「違うさ」
「違わない。もし違うなら、お前はタカムラ中尉が死んだと聞かされた後に異人の女の股座に顔を埋めなかったはずだろう?」
「おい!」
短い怒声と共に繰り出された京介の拳をイワンが片手で止めると、大男はその掴んだ腕を捻り上げるようにしながら京介と顔を近づけた。淀んだ意志が垣間見える茶色い瞳を前に、イワンは言葉を紡ぐ。
「図星だからこうしたんだろう? 俺は前にも言ったはずだ、受け入れろと。だからお前はそうしてビャーチェノワと身体を交えたはずだ。なら次は、自分が後悔しないように何をするべきかを考えろ。一々相手の言葉に目くじら立てて怒っているようじゃ、本当に後悔する時が来るぞ」
「俺が狙われているからか! ロバート、あの男に! 姉さんを従えているあの男に!」
「彼だけではない、お前を狙っているのは。お前がそんな状態のままでは、守るべき者も守れないぞ。威勢や言葉だけでは、心の弱さは庇い切れない」
腕を放されても、京介はイワンに振り上げた拳を解く事が出来なかった。初めは彼を殴ろうと握り締められていたはずのその拳は、何時の間にか自分の不甲斐無さに憤る為のものになっていたからだった。
「シェスチナの事が分からないのなら、怖いのならば、彼女の事を一番知っている人間に聞け。目を合わせるのが怖いなどと言って逃げ続けていても、お前の良い様にはならんぞ。逃げ続けた人間が辿る末路は、お前も知っているはずだ」
「------っ、俺の事を煽ったり助言したり、お前は一体何なんだ!? 俺の敵か!? 味方か!? お前を信じても良いのか!? 信じたらダメなのか!? お前は一体何がしたいんだよ、イワン・レズノフ!」
京介のその叫びに、イワンは眉一つ動かさなかった。ただ彼は怒りでも悲しみでもない感情の篭った瞳で京介を見つめると、テーブルの上に置かれていた空のマグカップ二つを取り上げる。そしてそのままクルッと背を向けると、低く底冷えするかのような声で京介の言葉に答えた。
「俺は敵でも味方でもないさ。ただ俺が動き易くなる為にお前にはもっと働いてもらいたい、そう思っている。……この答えじゃあ、不満かな?」
そして部屋を出て行ったイワンの背に、何かを覚悟したような表情を浮かべた京介は、至極当然とも言える言葉を投げかけるしか無かったのだった。
「不満に決まってるだろうが……。イーニァも、お前も、俺に何を求めているんだよ……!」