Muv-Luv The frayed memory/Carved memory 作:REDALERT
「キョウスケ、わたしもうすこしだけ……」
「ダメだ」
イーニァの頼み込む言葉を即座に拒否した京介に、彼女は悲しそうに俯いた。その事に対しユウヤが口を挟もうとすると、それよりも先に京介の右手がユウヤの顔の前に伸ばされる。相も変わらず冷たい瞳が、ユウヤを見つめている。
「お前……」
「俺達に口出しするな。……クリスカが待ってるぞ、イーニァ」
ユウヤの言葉を遮らせて、京介はイーニァにそう声を掛けた。少し迷うような素振りを見せたイーニァだったが、京介がゆっくりと松葉杖をついて歩き出すと、結局すぐにその傍らに寄り添って歩き出す。途中イーニァはユウヤを一瞥したが、すぐに前を向いてしまった。そんな二人に対して、ユウヤは思わずもう一度声を掛けていた。
「キョウスケ! ……今噂になっているSu-47の墜落事故、もしかしてそのパイロットって言うのは……!」
カッ! と一度大きな音を立てて松葉杖が地面に突っつかれると、京介は少しだけ首を動かしてユウヤに振り返る。より一層冷え切った二つの茶色い眼が、彼を睨んでいた。ゆっくりと動かされた口から放たれた京介の言葉は、ユウヤを煽るようでもある。
「……お前には関係無いだろう。そんな事を心配する余裕があるなら、次の俺達との模擬戦じゃあさぞ良い結果を出してくれるんだろうな」
「っ、お前!」
「キョウスケ、だめ」
イーニァに袖を引っ張られた京介は一瞬だけ表情を綻ばせると、右手で彼女の頭をガシガシと撫でてやった。その行為にイーニァがくすぐったそうにしている中、京介は再び冷たい視線をユウヤやその奥にいるタリサ達へと向ける。そして一度だけ嘲笑するかのように鼻を鳴らすと、彼はイーニァに付き添われながらバーを出て行くのであった。バーの正面にある道路には一台のジープが止まっていて、その運転席には赤い髪のユーリが退屈そうに座っている。彼はハンドルに腕を乗せて暇そうにしていたが、京介とイーニァが出て来たのを見るとすぐにエンジンを掛けた。
「どうよ、首尾は」
「上々だ。三日以内には用意出来るらしい」
後部座席にイーニァの手を借りながら座った京介の言葉に、ユーリはそうかと短く答えてアクセルを踏み込んだ。一気に加速したジープの後部座席、自分の松葉杖を腕の中で抱えているイーニァを尻目に、京介は数日前出来事を思い出していた。
三日前、表向きには夜間飛行訓練中の事故として処理された京介、クリスカとサンダークとの戦いから二日後。全身をボロボロにしていた京介が目覚めたのは、何時かの医務室のベッドの中だった。最早何も感じない包帯に包まれている感覚を鬱陶しそうに思いながらも意識を覚醒させていた京介が最初に思い出したのは、クリスカの事だった。
「っ、つ……!」
上体を起こすだけで全身が激しい痛みを訴えかける中、京介は歯を食いしばってベッドから降りようとした。だが思っていた以上に足が動かなかったことから、京介は立ち上がり様にそのまま床に身体を思い切り叩きつける。大きな音を立てて顔や胸を打ちつけた京介が激痛に身を悶えさせていると、やや乱暴に医務室のドアが開かれた。
「ウラキ……何をやっているんだお前は!」
現れたのはイワンで、彼は珍しく焦っているような表情をしていた。彼はすぐに京介の身体を仰向けにするとその身体を抱え上げて、ベッドの上へと戻す。そして続けざまに味わった痛みに顔を歪ませていた京介の顔を覗き込み、何処かから取り出したペンライトで彼の瞳孔を確認した。
「まだ動いてはダメだ。幸い骨折はしていないが右肩を脱臼していたから包帯で固定している、それ以外には内臓にもダメージを受けているんだ。無茶はするな」
「っ、そうかい……。イワン、クリスカは……アイツはどうした? 無事なのか?」
「ああ、奴も無事だ。後で呼んで来てやるから、今は休んでいろ」
「俺達はどうなる……? サンダークは俺達を殺すのか? なら、俺は------」
「休んでいろと言っている! ……大丈夫だ、サンダーク大尉はお前達を殺さない。少しばかり厄介な状況にはなるが、お前達の身の安全は保障されている」
イワンの言葉に口を閉ざした京介は、そのままベッドの上で打ちつけた身体の痛みに顔を歪めながらイワンが差し出した水入りのコップを口にした。乾いていた口内が潤っていくのと同時に身体の中の痛みを段々と自覚していき、京介は自分の不甲斐無さを恥じる。それはまた傲慢なものであったが、彼からしてみれば割り切ることの出来ない部分でもあった。
「……サンダークは、どうして俺達を生かすことにしたんだ? 俺が覚えてる限りじゃ、アイツは俺やクリスカを殺そうとしていたはずだ」
水を飲み干してから、京介は医務室の壁に寄り掛かり何かしらの書類に記入していたイワンに問うた。大柄の男はその問いを受けても視線をベッドの上に動かすことはなかったが、ペンを動かす手を止めることなく口を開いた。
「強化装備も無く、十分とは言えないビャーチェノワのサポートの中お前はSu-47で大尉のSu-37に一撃を加えてみせた。そして管制ユニットの中でカクテルが如くシェイクされても……また生き残った。奴さんも本格的に考え始めたそうだぞ、お前の利用方法を」
「また何時もの死なない衛士か……よ。アイツが下手だっただけじゃないのか? はっ」
「普通の人間なら強化装備も無しに戦術機に乗り込む事もしないし、戦闘もしない。すれば強烈なGで自分を殺すからな。全身がバラバラになったっておかしくないんだ。それをお前は肋骨三本に右肩の脱臼、あとは交通事故相当の怪我しかしていない。十分異常だよ」
「俺を化け物とでも言う気か?」
「少なくとも、まともな人間じゃあないな」
イワンはそう言って口を閉ざすと、書いていていた書類を脇に抱えて医務室を出て行った。数分か数十分か、時間の経過する感覚も曖昧な中で京介は包帯で包まれた右腕や胴体を左手でなぞっていく。何処か痛んで痛まないのかを自分で判断しようとしての事だったが、結果として何処を触っても痛むのであれば何の意味も無かった。打ち付けた時のジンとした痛みが少しずつ引いていっているのを良しとしながらも、京介は昨夜------正確には二日前------の出来事を思い返していた。
サンダークと一戦交える事を覚悟した時、彼は間違いなく強化装備を着ていない状態で戦う事の愚かさを認識していた。クリスカがいるからと高を括っていたのか、それとも強化装備無しでもサンダークを倒せると慢心していたのか。後者は有り得ないと自分でも分かりつつも、京介は自分の心の中から浮かび上がってきている第三の選択肢を自覚しようとはしなかった。それを自覚してしまえば、自分が自分では無くなってしまう気がして。だから京介は自分のことではなく、クリスカの方へと思考を切り替えた。
(……あの時、サンダークの言葉を聞いてからクリスカは動きを止めた。脅えてたみたいで……弱みを握られている? なら、それはイーニァだ。けれど、そもそもアイツが俺を連れ出したのはイーニァについての話をするからって事で、その時にアイツが来て……クリスカが俺のサポートをしたのは咄嗟の事だったから? もし彼女に余裕があれば最初から……? 何がどうなってるって------)
頭の思考がグルグルと回りだした時、京介の耳朶を強くドアが開かれる音が打った。反射的に身体がビクッと反応するや否や全身を激痛が走り、新たに入って来た人物が誰かを確認することも出来ない。だが京介が漸く頭を起そうとした時、嗅ぎ慣れた柔らかい匂いが彼の鼻腔を突いた。その人物は正面から京介に抱き着いていて、ギュッとその両腕を彼の首に回している。締め付けられる身体が痛みを訴えかけてきているのを我慢しながら、京介はその人物------クリスカの後頭部に左手を這わせた。長い髪が指の隙間を通って、彼女が確実に腕の中にいるのだという事実を京介に実感させる。
「無事、だったか。クリスカ」
思っていたより震えていた自分の声にどんどんと顔が熱を帯びていくのを京介が感じていると、次にその顔に広がったのは何故か冷たさと水気だった。顔の左側、クリスカと触れ合っている頬に広がるその人肌とは僅かに違う冷たさ。そして左手と頬から彼女が身体を震わせていると気付いた時には、クリスカは既に嗚咽を洩らしていた。肩越しの天井しか見えない視界の中で、京介は微かにドアが閉じられる音を聞く。そしてそれが誰かがこの場所から出て行ったのだと根拠の無い確信を得ると、京介は後頭部に添えていた左手をそのまま彼女の背に回すのだった。
「……大丈夫だって、泣くなよクリスカ。見た目が派手な怪我はしてるけど、ちゃんと俺は生きてる」
「けど、私の所為で……私の所為で京介がこんな目に合って……こんな酷い怪我、させるつもりじゃなかった……!」
強められる腕の力に息苦しさと痛みを感じながらも、京介の左手は赤子を宥めるかのように彼女の背をトントンと優しく叩いていた。色々と頭の中で考えていた事も、今目の前で泣いているクリスカを見てしまえばどうでも良く、京介は彼女の嗚咽を耳元で受け取りながらただジッと彼女が泣き止むのを待った。これも結局は数分か或いは数十分か、クリスカが落ち着きを取り戻す頃には京介の左頬は濡れに濡れて、同じようにクリスカの右頬もそうなっている。おまけに彼女の両目は、真っ赤に腫れていた。何故だかその姿が、京介にはとてもおかしなものに見える。まるで目の前にいる人物が顔が似ている別人のような、中身が違うとでも言うような、そんな感覚。だがそんな馬鹿な事がある訳ないと、京介は左手でクリスカの右頬の涙の痕を拭いながら声を掛けた。
「……落ち着いたか?」
「……っ、すまない。……情けないところを見せてしまった」
「今更だよ、俺がどれだけお前に情けないところ見せてきたと思ってるんだ」
ガシガシとやや乱暴にクリスカの頭を撫でてやってみるも、実際京介は自分の心の中の違和感を拭う事が出来なかった。匂いも感触も何もかも同じなのに、目の前の彼女は何かが違う。言葉に出来ない何かが。だから京介はクリスカに上体を起こす旨を伝えてから手を借りて、そのまま自分の唇を彼女のソレに宛がった。胸元に添えられる彼女の手を左手で上から押さえ、二人はそのまま舌を交わらせることなく軽いキスを繰返す。そうまでしても、まだ京介の中の疑問は解消することはなかった。啄ばむようなそれを繰り返していると、ふとクリスカは京介と額を合わせながら小さな声で言葉を紡ぐ。それは何処か悲しげで、空虚で、彼女がどうしてそうなっているのかは、すぐに本人の口から語られた。
「……大尉に基地に連れ戻されてから、私……身体を洗われて、身体の中まで見られて……折角愛してくれたのに、子供……いなくなっちゃった。もしかしたら、出来たかもしれないのに……」
自分の下腹部を押さえながらそう呟くクリスカを前に、京介は何も言わずにただ片腕で彼女を抱き締めた。子供、その言葉と存在がどれ程のものかを京介はまだ理解出来ていなかった。誰かと夫婦になるという考えも無ければ父親になるという未来予想も無く、ただ何時かは戦場で死んでしまうのだろうというボンヤリとした考えがその脳裏にはあった。ただ目の前にいるクリスカが、あのクリスカが喪失感を持って傷ついている顔を見ると、京介もまた自らの認識を改める必要性に追われてしまう。だから何も言えずに、ただ彼女に寄り添うしか選択出来なかったのであった。
それから暫くの間黙って寄り添い合っていた二人の下を訪れたのは、最初に京介と顔を合わせたイワンだった。普段よりも遥かに険しい表情をしていた彼はクリスカの手を借りて上体を起こしている京介ら二人を前に、手に持っていた書類を一瞥する。そしてその口から放たれた言葉は、彼らに現状を伝える上で端的に要約されていた。
「……これから先、貴様らにはそれぞれ人質という立場になってもらう。ウラキはビャーチェノワを人質に取られ、ビャーチェノワはウラキを人質にされている。もっと簡単に言えば、これから先どちらかがサンダーク大尉に少しでも害の有る行動を取ろうとすれば、即座に人質の命を奪いその本人も殺されるということだ。お前達の関係を無理矢理引き裂くようなことはしないようだが、これから先貴様らの行動には一定以上の監視が付くと考えておけ」
「……イーニァは、あの子はどうなる」
「変わりは無い。今まで通りに接してくれて構わんが、彼女を使って何かをしようとしても同じ事だ。ウラキには怪我がある程度治り次第すぐにSu-37でJIVESを使用した演習訓練を受けてもらう。ビャーチェノワもまた、持ち出したSu-47の修理が終わり次第XFJ計画との相互評価試験を行え。……俺が大尉から伝えろと言われた事はここまでだ」
イワンはそう言って一度口を閉ざしたが、それを会話の終了と捉えた京介は彼に噛み付いた。彼から伝えられた内容に、過去に聞いた話との矛盾を見つけたからだった。
「それはおかしいんじゃないのか、イワン。さっきお前自身が言っていたことだがよ、アイツは……サンダークは俺を死なない人間として手元に置いておこうとしていたはずだろう。それを人質にとって、クリスカが何かをすれば俺を殺す? あの話を結局、アイツは本当に信じているのか? ならさっきお前が言った俺達の身の安全は保障されているというのは真っ赤な嘘か? ソ連らしくよ」
「……言い方を変えよう。ビャーチェノワに対しての人質は確かにお前だが、何もお前から先に殺す訳じゃない。どちらにしろお前達のどちらか、或いは両方がまた問題を起せば結局二人共殺すようになる。……つまり、お前には自分の存在の所為でビャーチェノワが死んでしまったという精神的苦痛を味わい続けてもらう。その中で死んでくれるのならばそれで良し、そうならないのであれば死亡事故を捏造して歴史の闇に消えてもらうだけだ」
「このっ……!」
思わずイワンに詰め寄る為に立ち上がろうとした京介だったが、身体が痛むのとクリスカに止められたのもあって結局ベッドの上から動く事は出来なかった。そんな彼の姿を前に、イワンはやれやれと言った様子で頭を掻いてみせる。そしてため息混じりに手に持っていた書類を適当に折りたたんでズボンの尻ポケットに差し込むと、ゆっくりと二人に近づいて膝を付いた。
「落ち着け、ウラキ。さっきの話はあくまでサンダーク大尉が考えている事だ。これから先の話は、俺個人の意志でさせてもらう。お前達の身の安全の保証も、そこに掛っている」
「お前個人の……?」
静かに京介の言葉に頷いたイワンは、一度ドアの方を一瞥してからゆっくりと京介とクリスカに向かって語り始める。その内容は、サンダークへの反抗を示すものだった。
「ああ、奴はやり過ぎた。完全に個人の意志で計画の内容を好きなように修整しようとしている。お前には言わなくても分かっているだろうが、俺の背後にいる連中はそれを良しとしていない。どうにかして、サンダークの愚行を終わらせる必要がある」
「終わらせる……暗殺でもする気か?」
「そうだ」
即答したイワンに驚愕の表情を浮かべたのは京介も同じだったが、それ以上の反応を見せたのはクリスカだった。彼女は京介の身体から手を離したかと思えばイワンの胸倉に掴みかかり、怒りの篭った目で彼を睨み上げている。イワンもまた何故彼女がそうするのかを分かっているのか、強引に腕力で彼女の手を離させると肩を押して無理矢理ベッドへと座らせた。それでも尚イワンに噛み付こうとしていたクリスカを、京介は咄嗟に左手で腕を掴んで止めていた。息を荒くしているクリスカを前に、イワンはやれやれと言った様子で髪を掻く。
「落ち着け、ビャーチェノワ。お前とシェスチナに関しても対策は考えてある。……だがそれ以上に重要なのは、ウラキ、お前だ」
「俺……?」
既にイワンからサンダークを暗殺するという話を聞いてから、京介は今から自分がどうなるのかを頭の何処かでは理解していた。だがそれはまだ可能性の話で、確定していないとも考えて思考の中から自然に外へと追いやっていた。だがイワンから京介自身が重要だと言われた段階で、京介はもう彼が何を言おうとしているのかを受け入れるしかなくなってしまっていた。そしてイワンから放たれた言葉が、彼の心の奥に深く突き刺さる。
「お前には、イェジー・サンダークを暗殺してもらう」
「------スケ? キョウスケ? おきて?」
「ッ!?」
「だいじょうぶ?」
ふと自らの名を呼び身体を揺らされる振動に京介が目を覚ますと、目の前には顔を覗き込むようにしているイーニァの姿があった。既にジープは軍施設内に帰って来ており、運転席には退屈そうに後頭部で腕を組んでいるユーリの姿がある。何時の間にか服の中で嫌な汗を掻いていた所為で、酷く肌着が肌に張り付いているのが気持ち悪かった。京介は一度息を吐いてからイーニァに心配無いと伝えると、彼女から松葉杖を受け取ってジープから降り立つ。そして振り返れば、京介は自分の顔を見上げているイーニァの頭に手を乗せた。
「イーニァは、午後からクリスカと訓練だろう? 検査も終わってすぐだし、あんまり無理しないようにな」
「キョウスケも、だいじょうぶ? けが、いたいんでしょう?」
「俺の事は良いの。……それよりも、クリスカの事、頼むな。最近アイツ、元気ないからさ」
「うん……」
「ほら、さっさと行く。付き添い、ありがとうな」
そう言って京介が優しくイーニァの背中を押すと、彼女はそのまま流されるように駆け出した。時折背後を気に掛けるかのように首を動かしていたが、結局そのまま彼女は京介と目を合わせる事なくその場を離れて行った。小さな少女の姿が見えなくなったところで、運転席に座っていたユーリが京介の背に声を掛ける。
「本日の報告その一、監視対象は歓楽街をリハビリがてらシェスチナ少尉と散歩した後、見事にお兄さんぶって彼女を送り出すものの結局は自分の恋人の方が心配で仕方のない模様……ってか?」
「茶化すなユーリ。これ以上、俺の所為であの二人を危険に晒す訳にはいかない。お前だって、イワンと共謀してリコを巻き込まないように手を尽くしているだろう」
京介の言葉にフンと鼻を鳴らした後、ユーリはジープから降りて松葉杖をついている京介をわざと下から見上げるようにして挑発するように口を開いた。
「俺達と手前じゃ状況が違うんだよ、状況が。同じ祖国を持つ人間同士なら、俺達の行動理由もまだ説明が付くさ。だが手前は、ただ惚れた腫れたの男女の話だろう? 日本人が、惚れたロシア人守るからって汚れ仕事に手ぇ出すなんてよぉ。 あっはははははは!」
下世話な話を笑いながら垂れ流すユーリに嫌悪感を示しながらも、京介は彼の言葉を受け流そうとしていた。イワンから提示された暗殺者としての大役を遂行するには、イワン以外に目の前のユーリの協力が必要不可欠だったからだ。元々イワンとユーリはサンダークの行動を上層部へと報告する役目を受けていたスパイだったらしく、彼の下世話な性格もそうとは悟られない為の演技であると言う。だが京介はそんな事は到底信じられず、イワンが本当は何処と繋がっているのかを知らない彼の姿を逆に滑稽に思っていた。だからこそ彼の自分に対する侮蔑の言葉には耐えられたが、その矛先がクリスカに向かう事には耐えられない。傍から見れば日本人の男に何かジョークでも飛ばして一人で笑っているように見えたユーリは、京介の痛めている右肩に腕を乗せながらその耳元で囁いた。
「聞いたぜ? お前、ビャーチェノワと二人で出て行った日に、ナマでヤっちまったらしいな。けど良かったじゃねえか。捕まってからあの女、股の中洗浄された挙句アフターピルまで飲まされたんだろ? 子供の出来た女ってのは面倒だもんな? 次に遊ぶ時にはちゃんと------がっ!?」
京介の拳がユーリの頬を捉えた時、鈍い嫌な音と共に赤い髪を持つ男の身体はジープのドアへと叩きつけられていた。そして彼が一瞬閉じていた目を咄嗟に開いた時、既にその真正面には次なる拳が迫っていた。鼻っ柱に拳が叩きつけられると同時に、ユーリは即座に片足を思い切り前に突き出していた。それは京介の胴体に命中し、怪我の完治していない彼は激痛に顔を歪めて後ずさる。鼻の奥から垂れてくる生暖かいドロッとした液体の感覚に苛立ったユーリは、目の前で腹部を押さえて蹲っている男の顔目掛けて思い切り足を蹴り上げた。
「この野郎!」
顔を蹴り上げられて地面に倒れ込んだ京介に覆い被さると、ユーリは鼻血を散らしながら振り上げた拳を京介の胸部へと叩き込んだ。声にならない悲鳴を上げて激痛に悶える京介を前に口の端を歪めながら、ユーリは再び拳を振り上げる。だが次の顔目掛けて繰り出された拳を京介が避けると、今度はお返しとばかりに繰り出された左拳がユーリの顎を真横から殴り抜けた。グラッと一瞬視界が揺れたようになると、ふらついたユーリの身体は容易く京介に押し退けられる。軽い脳震盪の所為で足元がふらつくユーリに追撃を加えようとした京介だったが、怪我の所為もあって玉の様な汗を浮かべて地面に伏せるしかなかった。
鼻から垂れる血を乱暴に拳で拭ったユーリはふらつきながらも京介に近づこうとしたが、突如背後から何者かに肩を捕まれるとそのままクルッと背後へと向きを変えさせられる。その目の前に立っていたのは、珍しく怒りの表情を浮かべているイワンの姿だった。大きな拳を握り締め、ジッとユーリの顔を睨みつけている。
「お、おい、待てってイワン。待っ------」
鼻の骨が折れる音を自分の頭の中に響かせながら吹っ飛んだユーリを尻目に、制裁を加えたイワンは倒れ伏していた京介の身体を無理矢理立たせた。そして京介に対しては、イワンは軽いビンタ------それでもすぐに頬が真っ赤になる威力の------を与えてその意識の消失を妨害する。
「馬鹿野郎共が、たった三人の仲すら保てずに何が出来ると言うんだ。ユーリ、お前の怪我は上手い事誤魔化しておいてやる。次のミーティングに参加するまでに鼻の骨をどうにかしておけ。いいな」
それだけ言ってイワンが京介に肩を貸して歩き出すと、それから伸びていたユーリが身を起したのは数分が経過してからだった。既に血は止まっているものの歪な形に歪んでいる鼻を指先で摘むと、彼は歯を食いしばりながら折れていた鼻の骨を無理矢理元に戻す。痛みに悪態をつきながらも立ち上がると、彼は乗っていたジープに背を預けるようにして寄り掛かった。
「……チッ、そんなにあの日本人がお気に入りか。どうにも気に喰わねえが……勘弁してやるか。……クソッ、この鼻の事は何て言えば良いんだよ……イワンの奴思い切り殴りやがって……」
片腕の男一人満足に叩きのめせなかったという物足りなさと、今までずっと共に仕事をして来た男が離れて行く焦燥感と、ユーリの頭の中では自分を苛立たせていた要因が次々と浮かんで来ていた。その中で最も大きく、最もくだらなく、最も子供染みていたのは、やはり浦城京介という存在だった。自分達と同じ部隊に配属になってから、彼はただ自分の仕事だけを行っていれば良かった。それを立場上最も面倒な女と心を通わせ、その結果本来有り得ないはずのクリスカ・ビャーチェノワによる脱走及び機体強奪未遂へと発展してしまった。今まで守られてきていた自分達の仕事と空間を乱されているのが気に入らないという要約された自分の感情に呆れつつ、ユーリは折れた鼻をどうにかするべく行動を開始する。
不確定要素を多く孕んだイェジー・サンダーク暗殺計画の第一歩は、こうして不穏な空気を纏ったまま、ゆっくりと踏み出されたのだった。