Muv-Luv The frayed memory/Carved memory 作:REDALERT
十月、それは浦城京介にとってそれなりに思い入れのある月であった。十月二日は彼の姉である浦城夏希の誕生日であり、更に二日後の十月四日は自分自身の誕生日であったからだ。衛士となってBETAと戦うようになってからは特に祝ったことも無いが、彼の頭の奥には家族四人で最後に過ごした誕生日の微かな記憶が残っている。だが二十二歳となる今回の十月は、京介にとって大きな人生の転機となる月であった。
十月一日を迎えると同時に、アルゴス試験小隊とイーダル試験小隊との間で総合評価試験の開始が宣言された。不知火弐型フェイズ3及びフェイズ2とSu-47Eによる複数の演習を行い、その結果によって日本帝国がこれから先運用していく戦術機が決定する。篁唯依を失ったアルゴス小隊にとっては絶対に負けられず、そしてイーダル小隊に属している京介もまた負ける訳にはいかなかった。彼自身が直接アルゴス小隊と戦う事が無くとも。
日付が十月一日へと変わってまだ二時間と経っていない頃、京介の自室では何時ものように京介とクリスカが寝床を共にしていた。イーニァが
「…………」
月明かりが差し込む自室のベッドの中で、上体を起こしていた京介は視線を窓の外から手元へと動かした。そこでは京介の左手をしっかりと握り締めて眠るクリスカの姿があり、規則正しい寝息を立てている彼女の顔は安らかだった。だがそれは眠っている間の話であり、起きている間の彼女は非常に重苦しい顔をしている。苦しそうで、頼れるはずだった存在に自分から身を引かねばならない状況に追い込まれた、かつての自分に通じる何かを見ているようで、京介にとって彼女のそんな姿を見続けるのは正に拷問にも近い。何故そんな事態になってしまったのか、京介は握られている左手の親指で彼女の手を軽く擦りながら、直接の原因を思い出していた。
(イェジー・サンダーク、全部……全部アイツが……)
オルタネイティヴ3、その単語を京介が初めて耳にしたのは、ある程度怪我が治り本来の職務に復帰する事が決まった日だった。今から一週間と経っていないその日、イワン達が開いた復帰祝いの場に現れたサンダークが全てを滅茶苦茶にした事を京介は一生忘れない。彼の口から放たれた言葉を聞いた瞬間に崩れ落ちたクリスカの姿に、戸惑うイーニァ、そして自身へと告げられた二人の真実。
オルタネイティヴ計画と呼ばれるBETAとの意思疎通を図る事を目的とした計画の第三段階、ESPと呼ばれる超能力を持つ者によるBETAとの意思疎通、情報入手計画の中で生み出された人工生命体。それがクリスカとイーニァの正体だった。第五世代に分類されているクリスカと、第六世代に分類されているイーニァ。クリスカがイーニァに肉親のような愛情を持っているのはその生まれが関係しており、そしてイーニァが京介すら覚えていなかった過去や心境を言い当てる事が出来たのも、そのESP能力が関係していた。また人工子宮から生み出された多量の薬物によって支えられているその命の脆さを、サンダークは京介に警告するかのように伝えている。
------特殊蛋白の供給を断てば、ビャーチェノワ少尉の命はやがて尽きる。
------やがて尽きる。
------尽きる。
脳内でサンダークの言葉が反響した時、京介は思わずクリスカに握られていた左手に強く力を入れてしまった。反射的に彼女から手を離したくないという意志が、無意識の内に筋肉を動かしたからだった。ギュッと握り返された両手から痛みが走ったのか、瞼を僅かに痙攣させた後、クリスカはその深く吸い込まれそうな瞳を開放する。まどろんだその瞳が天井から握られた手へと移り、そしてそのまま腕を通って京介の顔まで達した時、彼は月明かりの中その瞳が揺れ動いたのを確かに見た。
「クリスカ?」
「っ……」
僅かに身を捩じらせて離れようとしたクリスカの手を離さないようにしっかりと握りながら、京介は空いていた右手を彼女の背に回して相手の身体に覆い被さった。右手から感じるクリスカの震えを、京介は何も言わずただ黙ってその背を擦ってやる。ぐずる赤子をあやす不慣れな父親のようなその掌の動きに合わせて、クリスカの震えは少しずつ治まっていった。自分の腕の中にいる弱々しい女が胸板に頬を添えている状態で、京介は小さな声でクリスカに声を掛ける。部屋に監視カメラがあることなど、既に二人共知っていた。
「大丈夫だ、落ち着け」
「……っ、すまない。……まだ私は、怖いみたいだ」
「いいから、もう寝ろ。明日は朝から模擬戦で忙しいんだから。イーニァも心配する」
「ああ、ああ……ありがとう」
自分の腕をクリスカの頭の下に敷いてやってから、京介は自分もシーツの中に入り込んでクリスカと二人で白く大きな布に包まれた。目を閉じて自分の両手を腕枕に添えているクリスカの呼吸が段々落ち着いたものへと変わって行く中で、京介は彼女の発した怖いという言葉を心の中で響かせていた。左腕を枕にしている為に右手で彼女の髪を梳き、頬を軽く親指の腹で拭う。そしてその視線がクリスカの顔の向こう、壁際に無造作に置かれている黒い大きなデイバックに向くと、京介は今自分の置かれている状況に歯を喰いしばった。
ソ連本国から密命を受けてイェジー・サンダークへのスパイ活動を行っていたイワン、ユーリの両名は、上層部から下されたサンダークの暗殺という役目を京介へと背負わせた。良い様に利用して自分達が疑われないようにする為だ。ユーリが知っているかは兎も角、京介はイワンがソ連のみならず他複数の組織と通じている多重スパイである事を知っている。その中の組織の一つが、自分を狙っている事も。
(……クリスカもイーニァも本当は造られた人間だったなんて信じたくない。けどサンダークの言葉を聞いた時の二人の反応に、蛋白の供給を断てばやがて死ぬだなんて話……普通なら冗談で済ませられるが、そんな感じじゃあなかった。もし本当なら俺はどうすれば良い? サンダークを暗殺する話に乗ったのだってクリスカや俺を人質に置こうとした奴から逃れる為だ。けど奴を殺せばクリスカに必要な蛋白の供給を止められてしまう。……分からねえ、どうすりゃ良いんだ俺は……)
黒いデイバッグには、テロ事件後歓楽街にて違法に取引されていた銃火器の一部が入っている。一部の住民達が自己防衛の為に何処からか流れ出した武器を違法に所持し始めていた情報を抑えていたイワンが、事を起した際に自分達の足がつかないように利用したのだ。薄い防弾チョッキや米ソそれぞれで使用されている拳銃にストックを廃したアサルトライフル、更にそれらの弾薬箱が無造作に入れられているそのデイバッグを、京介はずっと部屋に隠している。正確には隠していた、だが、クリスカも良く訪れるこの部屋を態々誰もいない間に探し回るような相手はおらず、結果として監視カメラに映らない位置に無造作に置く事で誤魔化していた。
(そもそも人工的に人間が生み出されるなんて、そんな事が有り得るのか? BETAとの意思疎通だの何だのと、そんな事が出来ていればこんなに戦いは続いていない。いや、失敗したからこそ? ……けどサンダークの言葉を聞いたクリスカの反応……今もそうだ、あの脅えよう、俺に知られたくなかった事を知られて怖がってた。クリスカやイーニァが嘘をつくとも思えない……思いたくない、俺に嘘をつくなんて。だけどじゃあ、あの反応は何だ? 俺に何を黙っていた? 人工生命体? 心が読める? ESP? それが本当なら俺は何なんだ。そんなものが有り得るのなら、俺が死なない事だって有り得るって事か?)
右手をクリスカの頬に添えながら頭を悩ませていた京介は、何度も自分に対して放たれた呪いの言葉を脳内で繰返していた。死なない衛士、因果律干渉能力、ロバート・ギリアム・イェーガーのあの黒い眼球と黒色槍騎兵団のマーク、そしてかつて中国大陸で見た姉の最後の姿。バラバラなものだと思っていた事が全て一本の線の上で繋がっていたという事実に、京介は心の奥底で否定し続けていた考えを再び熟考しなければならなかった。今まで数多の戦いを生き延びてきた事が果して実力なのか、運なのか、それとも本当に自分が死なない存在だからなのか。あまりにも大き過ぎる問題の連続に逃げ出したくなる衝動を抑え付けながら、京介は一先ず眠る事を優先した。何はどうあれ、目の前にいるクリスカの存在だけは嘘では無いと信じていたからだった。だがそれが一種の
翌朝、調整を終えたらしいイーニァと合流した京介とクリスカは、ブリーフィングの為に長い通路を歩いていた。イーニァを真ん中に、左右にそれぞれ京介とクリスカが立っている。傍から見れば中睦まじい家族か姉とその恋人と共に遊びにでも向かう妹のようにでも見える図だが、当の三人の間には笑顔や談笑といった和やかな雰囲気は無く、逆にそれぞれがそれぞれに気を遣っているような重く苦しい雰囲気が漂っていた。
彼女達の調整とは一体どんな事をしているのか、イーニァも京介に明かす事は無かった。それはクリスカから止められていたからなのだが、彼女からすればこれ以上自分達の真実に彼を近づけたくないという思いがあったからだ。だが実際にはそれは京介の不信感を益々増大させるだけであり、事実京介はクリスカの抱く恐怖の一辺たりとも理解出来てはいない。正確には理解しようとはしていても、本題のあまりの大きさに感覚が追いついていないというのが正解である。イーニァはこの時、自分のベッドに友達のミーシャを置いてこなければ良かったと後悔し始めていた。
「ウラキ」
と、ふいに三人の背後から太く低い男の声が響いた。名前を呼ばれた京介は勿論、反射的に振り向いたクリスカとイーニァの視界に映ったのは、イワン・ゲオルギー・レオニード・レズノフだった。彼は何かしらの書類をまとめたファイルを手にしていて、珍しく走って来たのかやや肩で息をしている。その険しい顔つきにイーニァがたじろぐと、クリスカはその頭を撫でてやりながら京介の顔を一瞥した。だが京介は視線を受けたことに気付いていたがそのまま気付かない振りをして、そのまま二人から離れてイワンの下へと向かう。求めていた反応が得られなかったクリスカを尻目に、イワンの目の前に立った京介は差し出されたファイルを受け取るとその場で中身を確認する。そこには、当たり障りの無い戦術機機動に関するレポートと共に一枚のメモ用紙が挟まれていた。京介の興味を引き当てたのは、メモ用紙の方だ。
「これは?」
「見るのは後だ、お前に今から説明する。だがその前にビャーチェノワ達を先に行かせるが、いいな?」
「……ああ」
京介からやや気の抜けた返事を受けたイワンは一瞬顔を顰めたが、すぐにクリスカとイーニァへと視線を移した。二人から訝しげな視線を向けられていたイワンだったが、何の反応も示さずに彼はクリスカへと声を発する。今の彼にとって、二人は邪魔者以外の何者でもなかった。
「お前達はすぐにブリーフィングルームへ行け。午前中の演習はリコとチームを組む、午後はユーリとだ」
「京介を何処に連れて行く?」
「お前が気にするべきは自分の男じゃなく、総合評価試験だろう。下手をすればどうなるか、分かるはずだ。貴様ならな」
そのイワンの物言いにクリスカは一瞬怒りに顔を染め掛けるも、すぐにイーニァの存在にハッとしたように歯を喰いしばった。そして小さく分かったと返事をして、彼女はイーニァを連れて再び歩き出そうと彼らに背を向ける。そしてクリスカはその際に一度だけ京介を一瞥したが、その視線が彼の眼と繋がる事は無かった。彼の視線は、既にイワンから手渡されたファイルの中身に注がれていた。
「……分かった。行こう、イーニァ」
「うん……」
クリスカは落胆を表すかのような僅かな沈黙の後イーニァに声を掛けると、そのまま彼女の手を取って元々向かっていた方向へと歩き始めた。そしてもう一度だけ首を後ろに向けるも、視界に入り込んだ男の背中を見るとすぐに彼女は前を向いて、それ以上背後に振り返ることはなかったのだった。
「……行ったか?」
「ああ」
イワンから短い返事を受け取ると、京介はファイルから取り出したメモ用紙をグシャッと手の中で握り潰した。そして次の瞬間には、彼は廊下全体に響く程の大声でイワンを怒鳴りつけていた。ふざけるなと叫ぶ京介を前に、イワンは冷めた目を向けている。彼が京介に渡したメモ用紙、そこにはただ一言、
「正気なのか!? ついこの間奴に釘を刺されたばっかだって言うのに! お前は!俺に! 奴をやれと言うのか!? このタイミングで、この状況で!」
「ああ、上からはこの総合評価試験が終了するまでに片をつけろと言われている。お前は武器の入ったデイバッグから拳銃だけ持ち出せば良い。後は俺とユーリが奴を誘導してやる」
「お前も聞いてないなんて言わせねえぞ、クリスカとイーニァの事だ。奴が……サンダークが言うには------」
「直接名前を口に出すな」
「ッ! 奴の言っていた
オルタネイティヴ計画、人工生命体、ESP、それらの単語が脳内をグルグルと巡っている中で、京介はイワンに事の次第を問い詰める。もし、仮に、本当に、サンダークの語った内容が事実なのであれば、京介は彼を殺す訳にはいかない。今でこそ第三者から齎された情報から不信感を抱きつつある状況だが、それでも京介の心の奥に根付いたクリスカへの情愛は深かった。イーニァに対しても、彼はクリスカへ向けているのと似たような想いを抱いている。そんな大切な二人を自分の所為で生命の危機に陥らせるなど、出来る訳が無かった。だがそんな京介の目の前に立つ大男は、冷淡に返事を口にする。
「この際言っておくが、お前個人の感情は一切考慮されていない。もうお前やビャーチェノワ、シェスチナがどうなろうと我々には関係無いからだ。寧ろあの二人の存在が抹消されるのであれば、こちらとしても後々の作業がやり易い」
「言っていることが違うぞ。お前は俺達の身の安全は保障すると言ったはずだ」
「状況が変わった、今何よりも優先されるべきは奴の始末だ」
「ならお前から先に殺してやろうか!」
激昂した京介がイワンの胸倉を掴み上げるも、イワンは特に何の反応も示さずただ「落ち着け」とだけ言って無理矢理に京介の手を払いのけた。そして怒る彼の目をジッと真っ直ぐ見つめながら、イワンはただ一言だけ告げる。京介とは正反対に、冷静で、小さく、何かを警戒しているように。
「……今日の夜、ビャーチェノワとシェスチナの自室へ来い」
「何?」
「それと銃を用意しておけ。バックアップガンも忘れるな」
「一体どういう------」
京介が言い終わる前に、イワンは彼の身体を軽く突き飛ばして距離を取らせた。その視線が何故か窓の方に向かっていることに京介が気付くと、彼が振り向く前にイワンが先に口を開く。目だけを窓の方に向けたまま、英語でもロシア語でもなく流暢な日本語を彼はその口から放った。その事実が、少しだけ京介の頭の中の熱を冷ましてくれる。
「見られている、恐らくサンダークの駒だ。……兎に角お前は今日のブリーフィングや演習には参加しなくても良い、俺が何とかしてやる。これから夜までの間にお前がやるべき事は、部屋のデイバックの中から銃を二つ選んで隠し持っておくことだ。監視カメラの配置は覚えているな?」
「……ああ」
少し頭が冷えたからか素直な返事を京介が返すと、イワンは窓から京介の顔へと視線を戻した。そして手元のファイルに指を差して何事かの
「今から十分後にお前の部屋のカメラを全て停止させる。そこから二十分以内に準備して部屋を出るんだ、歓楽街に出ていても構わん。時が来れば呼んでやる」
それだけ伝えると、イワンは京介の肩をその大きな手で叩いてその場を足早に去っていった。そして一人残された京介は、悪態をつきながらもイワンの指示に従う他無かった。その黒髪を乱暴に掻き上げた後、彼はすぐに自分の部屋へと戻る。そうするしか、今出来る事が思いつかなかったからであった。
十数分後、京介は自室のベッドの上に置いた黒いデイバッグの中から二挺の拳銃と複数のマガジン、そして弾薬箱を並べていた。歓楽街で流通していた銃はガラクタと言えるようなものが殆どだが、イワンとユーリが取引の際に高額な報酬を流したことで上質なものが京介の手に渡っている。最初に京介が手に取ったのは黒い16cm程のリボルバー、元はブラジルのタウルス社が開発していた38口径のM85。その五つの穴が空いたシリンダーに、京介は一発ずつ弾薬を込めていく。そしてデイバッグの中に収められていたアンクル・ホルスターと呼ばれる足首に巻きつけるホルスターを取り出せばその黒い銃を収め、ベッドの上にゆっくりと置いた。そして次に手に取ったのはドングリのような大きさの弾丸.45ACP弾を使用するM1911A1だった。元々米軍で使用されていた軍用銃で、今も民間市場で様々なバリエーションが生み出されている傑作。そのグリップから空のマガジンを抜き取り、京介はやや乱暴に.45ACP弾の入った弾薬箱を開いてベッドの上に転がした。
ベッドの上にドングリのような弾丸が散乱すると、京介はそれを片手で掬い上げて一発ずつマガジンに込め始める。一つのマガジンに最大七発、そしてベッドには他に七つの空のマガジンが置かれていた。その全てに弾丸を込め終わる頃にはイワンから伝えられていた時間ギリギリで、京介は左足首にM85を納めたホルスターを巻きつけると、ベルトの腰に装着されていたSOBホルスターにM1911A1を差し込んだ。そして予備のマガジンの幾つかを専用のマグポーチに収めてベルトに引っ掛け、残っていたマガジンやM85用の弾丸をジャケットのポケットやズボンのポケットの詰め込んでいくと、最後にベッドの上に散乱していたものを全てデイバックに収めて元あった場所へと戻す。そして部屋の監視カメラの映像が元に戻る頃には、既に京介の姿はそこには無かった。
自室を出た京介は、ジャケットの裏側に腰のホルスターが隠れるようにトイレの鏡で何度も確認してから、一人復興途中の歓楽街へと繰り出していた。テロリストや研究施設から逃げ出したBETAの襲撃を受けて傷ついたこの街も、今では銃器の裏取引が横行し、人々はまた何かが起こるのではないかと大きな恐怖を胸の内に秘めている。街を歩く軍警察の兵士達も、その家族達も、皆表情は何処か暗い。そんな人達と何度もすれ違いながら、京介はある小さな喫茶店に入った。オープンテラスも何も無いこじんまりとした店で、四つの木製の椅子が並ぶカウンターの奥には、丸眼鏡を掛けた初老の男性がパイプを噴かしていた。他には同じ木造製の椅子に合わせてあるのか、四角いテーブルが三つ程椅子と共に店内に置かれている。喫茶店のマスターなのであろう丸眼鏡の男性は、入店してきた若い男の衛士を一瞥しても表情一つ変えず口から紫煙を吐き出した。カウンター上には新聞や空のカップが並べられ、営業中の表示は出していても朝から来る客は少ないのだと京介は判断する。
「コーヒー」
「ああ」
立ち上がってややゆっくりとした手つきでコーヒー豆の入った袋を取り出したマスターを尻目に、京介はカウンターの一番奥の席に座った。日本では合成コーヒーを飲むことが多かったが、ハイヴの侵攻を受けていないこのアメリカの地では本物のコーヒーを飲むことが出来る。京介自身それ程コーヒーが好きな訳ではないが、現状のムカムカした気分を苦い何かで無理矢理流し込みたいと思っていた。だからこの小さめながらも雰囲気の良い店で暫く時間を潰そうと考えたのだ。だがその考えは、直後に入店した七人の男達によって妨害されることとなる。
(アイツら……)
カウンターに肘を乗せて座っていた京介の視界に入り込んだ七人は、イーダル試験小隊で運用している戦術機の整備員達だった。特に言葉を交したこともなく顔見知り程度の男達だったが、彼らも一度だけ京介を一瞥した後は何事か談笑しながら二つのテーブルに別れて座った。京介が談笑の中身が分からなかったのは彼らがロシア語を話しているということと、狭い店内の中でも聞き取り難い程の小声で言葉を交しているからであった。彼らも口々にマスターに注文を言いつけると、そのまま再び内容の聞き取れない会話を続ける。耳障りな雑音に嫌気が差し、京介はマスターにトイレの場所を聞いた。入口から見て一番左奥、そこが男女共用のトイレだとぶっきらぼうに告げたマスターに礼を言って京介は席を立った。
店自体は小さくとも、トイレのスペース自体はそれなりものだった。ドアを開けてすぐには手洗い場があり、大きな鏡が掛けられている。右手には男性用の小便器が二つ並び、奥には男女共用の洋式トイレが。特に催していた訳ではなかった為にどうしたものかと京介が悩んでいると、ふいに背後で閉めたはずのドアが開いた。振り向いた京介の視界には先程入店したばかりのロシア人二人が立っており、何故か二人共何かを決意したような目で京介を睨みつけている。何か嫌な予感がしつつも、京介は二人が我慢出来ないのだろうと思い、そそくさと二人の隣を抜けようとした。だが次の瞬間、京介は男のタックルを受けて洋式トイレとの仕切り板に思い切り背中を打ちつけていた。
「グッ!?」
肺から空気を強制的に吐き出さされながらも、京介は腹部に組み付いていた男の腹部に膝蹴りを浴びせた。だがガッチリと両腕を腰に回してきていた男は何度腹部に膝を受けても手を緩めることは無く、次に京介は襲い掛かるもう一人の男に注意を向けざるを得なかった。何処からか取り出したのかナイフを持つその男は京介の顔目掛けて腕を振るい、仕方なく京介は組み付いている男共々洋式トイレのスペースに逃げ込んだ。タイル張りの硬い壁に背中を打ちつけた所為でホルスターに入れていたM1911A1がガチャッと音を立てるも、京介は便座に片足を乗せて身体を浮き上がらせるとすぐにもう片方の足で洋式トイレのドアを閉めた。何とか鍵を閉めて一対一の状況に持ち込むも、京介は現在組み付いている男を自分から引き剥がすことが出来ないでいる。
「こいつ!」
背中に何度も肘を振り下ろしながらもビクともしない男に苛立ちを隠そうともせず、京介は締め付けられてしく胴体に痛みを感じながら何度も壁に脇に挟んでいる男の頭を叩きつけて行く。ドアの向こうでもう一人の男がどうしているのかは分からないが、兎に角今の京介は組み付いてきている男の対処が最優先だった。そして男の着ていたシャツを破きながら再び壁に頭をぶつけさせると、漸く男の拘束が緩んだ。すぐさま男の身体を突き飛ばすと、京介は怯んだ男の顎を思い切り殴りつける。そして更によろけた男の腹部に膝を打ち込むと、京介は男の頭を掴んで思い切り閉じている便座目掛けてそれを振り落とす。白いプラスチックの蓋を突き抜けた男の頭部は、中の水を跳ね上げながら気を失った。力無く崩れ落ちている男に対する憂さ晴らしの意味も込めて京介はレバーを引いて水を流してやると、そのまま水の音に合わせて閉じていたドアを思い切り蹴り飛ばした。
蝶番ごと外れたドアは本来開いてはならない外側へと倒れ、そしてドアの前で律儀に待っていたのであろう男を巻き込んで倒れ込んだ。そして京介が倒れた男ごとドアを踏みつけようとした時、店の中から一発の銃声が響く。そして遅れて男の呻き声とガラス製の何かが大量に割れる音が響くと、京介は即座に腰のホルスターからM1911A1を引き抜いてスライドを引いていた。そして続けざまに二発の銃声が響くと、京介もまた足元のドアに向けて二発の銃弾を放っていた。薄汚れた床に赤色の液体がジワジワと広がって行くのを前に、京介は銃を握り締めながらトイレのドアの傍に立つ。そしてドアノブに片手を掛けて回した瞬間、外側から大量の銃弾がドアに向けて撃ち込まれた。木片が飛び散り、手洗い場のガラスが甲高い粉砕音を上げながら散らばっていく。それらから逃れる為に、京介は外れたドアの上に飛び乗った。貫通した弾丸が配水管を直撃したのか、手洗い場の下部分からは少しずつ透明な液体が広がり始めている。
(どうなってるんだ一体。十中八九撃ってきたのはさっきの連中だろうが……何故だ? 何故こんな歓楽街の店の中で俺を襲ってきた? そもそも連中が俺を襲う理由は何だ? まさか……サンダークか? そんな馬鹿な……!)
履いていた黒いミリタリーブーツが血と水で靴底を汚していく中、京介は男が未だ首を中に突っ込んでいる便座の傍まで後退した。状況が分からずありとあらゆる推測を並べるしか出来ない中、京介は自分でも不思議な程次に行うべき事を考えていた。ドアの下にいる男が死んでいるのを改めて確認してから、京介はボロボロで居心地の悪くなったトイレの中からの脱出方法を考える。普通に考えれば出入り口は一つしかなく、それは今銃弾の雨によって穴だらけにされ最早ドアとして機能していない。そして店内には恐らく五人の男達が残っていて、マスターは殺されているはず。自分が襲われた理由も分からず、戦うしかない状況に疑問は尽きないが兎に角やるしかない。京介は便座に顔を突っ込んでいる男の首根っこを引っつかむと、そのままドアの方へと蹴り飛ばした。壁に男の身体がぶつかった瞬間、再び銃弾の雨が降り注ぐ。全身から血を噴出しながら穴だらけになる男を前に、京介は銃を握り締め歯を喰いしばる。そして銃撃が止みドアの殆どが吹き飛んで破壊されているのを確認すると、彼は一気にドアの無くなった大きな穴から飛び出して行った。
(やっぱり、こいつらっ!)
案の定、トイレから飛び出した京介の視界に飛び込んできたのは、銃を手に持った五人の整備員達だった。トカレフ、マカロフ、おまけにスチェッキン・マシンピストルまで持っている者もいる。突然現れた自分に整備員達の空気が固まっていくのを感じた京介は、すぐにカウンターの方へ移動しながらM1911A1のトリガーを引いていた。放たれた最初の弾丸は一人の男の左肩を貫通し、その反動で浮いた右腕に握られていたトカレフが反射的に動いた指にトリガーを引かれ、そこから放たれた弾丸がすぐ隣にいた別の男の首を貫く。そしてまた首を撃たれた男も、反射的に持っていたトカレフのトリガーを肩を撃たれた男目掛けて引いてしまった。血飛沫が舞う中二人の男が崩れ落ち、残る三人から報復の弾丸が放たれる頃には、もう京介の身体はカウンターの向こうに消えていたのだった。