Muv-Luv The frayed memory/Carved memory 作:REDALERT
2001年5月8日、各試験小隊による合同テストを翌日に控えた日。京介はステラを連れて街の一角にある公園に来ていた。正確にはステラを連れて来たのではなく、彼女がドーゥルから指示を受けて付いて来たのだったが。要は彼女は、京介の見張り役だった。
「傷はどうなの? まだ痛む?」
ベンチに腰掛けて呆けた表情で噴水を見ていた京介にステラがそう問うと、京介は気だるそうにその絆創膏だらけの顔を彼女に向け、そしてまたゆっくりと噴水へと視線を戻す。あのユウヤとの壮絶な殴り合い以降、時折京介は何処かをジッと見つめる事が多くなっていた。何かを考えているかのような、感情の読めない瞳で。ただそれでも、聞かれた事に対して答える事はしてくれていた。
「マシにはなった方だとは思う。まだ口の中も顔も沁みるけど」
そう言って再び黙り込む京介に、ステラはどうしたものかと頭を悩ませた。特に何かをしそうには見えないし、そもそも基地施設外で他国の人間と騒動を起せば大問題になるというのは彼も分かっている。ただこのままここで時間を潰すというのも味気ないと、少しばかりの茶目っ気を出したステラは飲み物を買ってくると言って一度その場を離れた。そうしてステラが両手にコーヒーの入った紙コップを持って帰って来た時、彼女は自分の行動を後悔することになる。
京介が一人の衛士と至近距離で睨み合っていたのだ。相手のジャケットにはソ連軍所属であることを示すワッペンが付いている。ソビエト連邦陸軍の実験部隊・イーダル試験小隊のメンバーだ。短髪を赤色に染めて逆立てているその男の名前を、ステラは知っていた。多国籍の人間が集る場所ともなると、必ず各国一人くらいはやんちゃな人間がいるものだ。そのロシア人、ユーリ・ミン・エゴロワ少尉もその一人だった。自らをブリヤート人だと自称している以外に彼を象徴していたのは、その赤い髪と猪突猛進な戦い方である。ステラが一度イーダル小隊の演習を見学した時、彼は本来突撃砲で撃ち落すべき無人ドローン群に対して正面から突っ込み、近接戦でその殆どを撃墜して見せた。勿論撃ち落しも多く成績は悪かったものの、近接戦に優れたソ連製戦術機を操る衛士としては概ね正しい立ち回り方だ。相手がドローンで無ければ。
そのユーリと京介が睨み合っている状況にステラが割り込もうとするのと、別の二人組が割り込んだのはほぼ同時のタイミングだった。黒い短髪をした背の高く大柄な男とプラチナブロンドの髪色のベリーショートの女性、その二人のジャケットにも同じイーダル小隊のワッペンが付いていることに、ステラは内心舌打ちする。こっちは二人で相手は三人、仮にコーヒーを足元にぶちまけて逃走したとしてもすぐに追いつかれるだろう。京介とユーリがどういう理由で睨み合っていたのかは分からないが、ステラの頭の中では今現在対峙している三人からどうやって逃走しようかというルートが何十と浮かび上がっている。すると、相手の中で一番大柄な男が真っ先に口を開いた。彼はユーリの肩に右手を置いているが、それは宥めようとしているのではなくただ彼を止めているだけといった様子だ。
「一体何の騒ぎか、教えてもらえるかな」
ロシア鈍りで早口気味の英語を何とか聞き取ったステラは、京介の顔を一瞥した。彼は変わらず、ジッとユーリと睨み合っている。男の問いに答える様子は全く見られない。次に睨まれたステラも男をジッと見返すも、何も事情を知らない彼女は頭を左右に振るしかなかった。勿論男もそれが分かっていたのか、一度ため息をつくと掴んでいたユーリの右肩に思い切り指を食い込ませた。途端にユーリの顔が苦痛に歪み、バタバタと手足を振るわせる。隣に立つ女は、何故かそれを楽しそうに眺めていた。
「いって! 痛い痛い痛い! 痛いってイワン! 指を押し込むなって!」
「ならお前から説明するんだユーリ。じゃなきゃリコのボルシチを食わせる」
「おいおいおいただの拷問じゃねえかよ……分かった分かった、言うから! 言うから手ぇ離せって!」
イワンと呼ばれた男がユーリから手を離すと、ユーリは掴まれていた右肩をグルグルと回しながら京介を一瞥した。少しだけ落ち着いたのか、京介はステラから受け取ったコーヒーを普通に飲んでいる。その姿に顔を顰めながらも、ユーリはバツの悪そうに頭を掻きながら口を開いた。
「そこの日本人に、XFJ計画の開発主任と会えないかって聞いたんだよ。まだガキだけどスタイルは十分だし、今のうちから唾付けとくのも有り------」
そして言い掛けたユーリの頭を、リコと呼ばれた女性が思い切り殴り飛ばしたのはすぐの事だった。心底呆れた顔で、少なくともステラには本気で怒っているようにも見えた。リコはユーリの胸倉を掴むと、そのまま激しく前後に揺らしている。何時もの事なのか、イワンが呆れきった表情で片手を額に当てていた。
「アンタ馬鹿じゃないの!? そうやって此間も大東亜のとこに声掛けてMP呼ばれたんじゃない! 次は庇わないからってイワンも私も言ったばかりだって言うのにアンタはもう!」
「ちょ、ちょっ、リコ、待っ」
「……うちの馬鹿がとんだ失礼をした、謝ろう。イーダル試験小隊、イワン・ゲオルギー・レオニード・レズノフ少尉だ。こっちはリコ・ヴォルフ少尉で、問題の彼はユーリ・ミン・エゴロワ少尉。本当に申し訳ない」
「い、いえ、こちらも失礼しました。アルゴス試験小隊、ステラ・ブレーメル少尉です。こっちはキョウスケ・ウラキ少尉」
イワンとステラが互いの紹介を済ませた時、京介は自分のコーヒーを飲み終えていた。傷だらけの顔が痛むのか、険しい表情のままだ。実際のところ本当に痛むから険しい表情だったのだが、ステラからすれば別の意味で険しいのだと連想した。だから彼女は一度悪戯っぽい笑みを浮かべた後、イワンにだけ聞こえるように口を開いた。ユーリは未だに、リコに振り回されている。
「ウラキ少尉が怒っているのは、その例の開発主任が
「ああ、そういうことか。これは益々申し訳ない」
ステラが見せたあるモノですぐに事情を察したイワンは、京介を一瞥した。そうしてこれ以上この場に留まる必要も無いと判断したのか、彼は敬礼を交した後リコと共にユーリを無理矢理引き摺って行ったのだった。「明日の合同テストで会おう」と言い残して。
「……迷惑掛けたな、ステラ」
公園からの帰り道、ステラは突然京介から言われたその言葉に思わず飲んでいたコーヒーを噴出しかけた。結局イワン達と別れた後、京介はそのまま帰ろうとステラに提案していた。流石に他所の衛士と問題を起こしかけた後、そのまま外でゆっくり出来る訳がない。若干咽ながらも、ステラは気にしていないと返事を返した。基地に向けて歩きながら、京介は言葉を続ける。
「あれがソ連の試験小隊か。四人目がどんな奴か知ってるか? ステラ」
「四人目? ああ、違うのよ少尉。イーダル小隊は全部で五人の衛士がいるの」
「五人?」
「ええ、さっきの三人のうちエゴロワ少尉は有名だったから名前は知っていたけど、他の二人は初めて名前を知ったわ。それ以外に名前が知られている衛士はね、
言われて初めて、京介はアラスカに来た当初そういった類の噂話を聞いていたことを思い出した。ソ連製戦術機Su-37チェルミナートル、その中でも紅の姉妹と呼ばれる二人組が駆る機体は、時折何かが乗り移ったかのような機動を見せるという。所詮噂だというのと、その時は不知火の組み立てが遅れていたという事情があった所為か、京介は今の今まで忘れてしまっていた。
「……兎に角、あの二人は同じ部隊のメンバーとの仲は宜しくなさそうね」
「どんな奴なんだ? その紅の姉妹ってのは」
「そうねぇ、しいて言うなら……あら」
突然立ち止まったステラに京介が首を傾げると、彼女は黙って正面に向かって指を差した。それに釣られて京介が視線を動かすと、その先には二人の女性と少女が並んで歩いていた。二人共国連軍のジャケットを着ていて、その肩には先程のイワン達と同じイーダル試験小隊のワッペンが付いている。京介がその二人を見た時、彼は目を疑った。女性の方は見覚えがあり、少女の方は衛士としても軍人としても幼すぎる。その見た目を例えての姉妹かと考えた京介の前で、紅の姉妹と思われる二人組はその足を止めた。女性の方は初めてアラスカに来た時に見た謎の女だが、少女の方が何故か京介の顔を見るや否や脅えた様子で女性の後ろに隠れてしまう。
「キョウスケ、顔」
「顔? あ、ああ、絆創膏……」
ステラに指摘されて漸く、京介は自分の顔が傷と絆創膏だらけなのを思い出した。確かに小さい子からすれば、顔中傷と絆創膏だらけの男が歩いてくれば怖いに決まっている。だがこればっかりはどうしようもない為、京介は足早にその二人の隣を通り過ぎることにした。自分が近づけば近づく程その少女の脅えた様子がハッキリと分かるのが辛いが、元々面識があった訳でもないし仕方が無い。そうして彼女達の隣を通り過ぎた時、京介は何か言葉では言い表せない、得体の知れない恐怖を感じた。まるで何かに心の中を一方的に曝け出されたかのような、何処からか奥底まで勝手に覗かれているかのような気持ちの悪さ。
「キョウスケ?」
急に立ち止まった京介を心配するステラとは反対側から、その気持ちの悪さはやってきている。ゆっくりと京介が視線を動かすと、紅の姉妹の大きい方がその鋭く冷たい視線を京介に向けていた。間に脅える少女を挟んだまま、京介とその女性はジッと睨みあい続ける。ステラがもう行こうと京介の腕を掴むが、何故だか彼は目の前の女性から視線を逸らすことが出来なかった。言い様の無い気持ちの悪さが胸の中で渦巻いている中、京介は同時に何処か懐かしさのようなものも感じていた。まるで昔から知っていたかのような、そんな感覚。それがどうしてか分からない事が、余計彼の中の気持ち悪さを加速させている。
刹那、京介の頭を鋭い痛みが貫いた。平衡感覚が失われる程の痛みに彼が膝から崩れ落ちた時、目の前の女性もまた苦しげな表情を浮かべて崩れ落ちた。目の前がグルグルと歪んでいく中、京介はステラによって身体を引っ張り上げられる。目の前の女性には、少女が彼女のものであろう名前を必死に呼び掛けていた。
「ちょっと大丈夫!? 急にどうしたの!?」
「クリスカ! だいじょうぶ? クリスカぁ!」
ステラに身体を支えてもらっていた京介は、頭を押さえながら荒い呼吸を繰返していた。さっきまで感じていた気持ち悪さは既に無く、今は頭痛と吐き気がその思考を占拠している。目の前でクリスカと呼ばれた女性もまた、頭を押さえて苦しそうに呻いていた。傍らに寄り添う少女の呼び掛けに反応する余裕も無いのか、クリスカは片手を地面についてその身体を支えた。そしてその長い髪に遮られていた顔が動き、その目が京介の方を見ようとした瞬間、京介は脱兎の如く駆け出した。
「えっ、ちょ、ちょっと!」
残されたステラは目の前にいるロシア人と駆け出していった京介とを交互に見比べるも、仕方なく彼女は自分の仲間の方を追い掛けたのであった。その二人の背を険しい表情で見ていたクリスカは、やがて自らに寄り添う少女------イーニァの頬に手を添えると、そのまま倒れ込んだのであった。
ステラが京介を見つけた時、彼は地面に座り込んで上空を向いて呼吸を整えていた。途中何処かで買ったのか、飲料水を手にしている。大量の汗を掻いている所為で、その絆創膏だらけの顔が酷く痒そうだった。ステラがすぐに傍に駆け寄ると、京介はその充血した目を彼女に向ける。
「わ、悪い……急に頭痛がしたかと思ったら、気持ち悪くなって……」
「見たら分かるわよそんな事……。もう、目も充血してるし……早く基地に戻りましょう、休んだ方が良いわ」
「アイツらは、どうしたんだ?」
ステラの肩を借りて立ち上がると、京介はふいにそんな事を聞いてきた。突然頭を押さえたかと思えば走り出し、慌てて追いかけてみれば会ったばかりのロシア人の心配をする。ステラは呆れたのやら優しいのやら複雑な心境で、例の二人はそのままにしてきたと正直に話した。そうかと京介は気にするような素振りを見せたものの、それを気持ちの悪さが上回ったのかすぐに黙り込む。ステラはそんな京介にため息をつきながら、自分達の基地へと帰る為に一歩踏み出した。
自室に戻った京介は、上着を脱いだ状態でベッドに寝転んでいた。目の周りにはステラの用意してくれた濡れタオルを被せており、その冷たさが彼の気持ちの悪さを僅かながらに解消してくれていた。
「少尉? 起きているか? 入るぞ」
京介が返事をする前にドアが開けられると、京介が次に聞いたのは深いため息だった。またか、と言外に言われているのを悟ると、京介は僅かに寝返りを打つフリをして唯依に背中を向けた。濡れタオルは張り付いている為か、そのまま京介の視界を覆い隠している。彼が寝ていると思ったのか、唯依がズカズカと部屋の中へと入ってくる足音が振動として京介の耳朶を打った。それからポスッとベッド端が沈むと、京介は唯依が座ったのだと分かった。そのまま頬に彼女の手の甲が添えられると、京介はそのヒンヤリとした感覚が少しくすぐったくて、僅かに身を捩らせる。
「体調が優れないのなら……言っていて欲しかった」
そうして唯依の呟きが聞こえたかと思うと、京介はベッドが大きく揺れるのを感じた。そしてすぐに、ベッドと身体の間を細い何かが通り過ぎて行く。それが唯依の腕だと気付いたのは、ギュッと背中に大きくも柔らかい二つの感触が広がってからだった。
「ブレーメル少尉から話を聞かされて、正直またかと思っていた。貴方がまた何処かの誰かと問題を起したのかと。けど聞いてみれば、それは向こうが私の事について色々言っていたからで、貴方はそれに怒っただけだと……。最近、貴方がジアコーザ少尉に部屋へ運ばれてきてから……はっきり言って私は貴方の事が分からなくなっていた。何を考えているか分からない、何にイラついているのかも分からない、先日のブリッジス少尉との殴り合いだってそうだ。ドーゥル中尉に止められていなければ、私はすぐにでも貴方を止めるつもりだった。けれど貴方は真っ直ぐに彼の問題点を上げて、結果として彼の意識を少しでも変えることが出来た。知っているか? 今日、あのブリッジスが明日の演習の為に私に質問をしてきたのだ。嫌味も何でも無く、ただ純粋にあの吹雪を少しでも操れるようになる為に」
少しばかり彼女の腕の力が強くなる。背中に彼女の額が押し付けられる。京介は寝たフリを続け、唯依は言葉を続けた。
「男というものは、みんなああやって殴り合えば心が通じるものなのか? いや、そんな訳はないか。……私も貴方と本気で言葉を交し合ってみたい。貴方の考えている事を全部知りたい。なのに貴方は何時も何処かへ行って全てを有耶無耶にしてしまう。こうして眠っている時でもなければ、私は貴方に何も言えない。貴方も聞いてくれない。貴方にとって私は一体何なのだ?」
「……大事な仲間だよ」
京介が思わず彼女の言葉に応えると、一瞬彼女の全身が跳ね上がった。そしてすぐに離れようとしたが、京介が咄嗟に彼女の腕を掴んだ。ベッド上で向かい合うように並ぶと、京介は目元からずり落ちたタオルを外して唯依の顔を真正面から見つめた。顔を真っ赤にした少女が目の前にいる、その状況が何処かおかしくて、京介は思わず笑った。
「な、何がおかしい!? そもそも眠っていたのではなかったのか!?」
「あんなにくっ付かれて囁かれたら、起きるに決まってるだろ」
「そ、それでも------」
「ごめんな」
京介はそう言うと、黙って唯依の頭を撫でた。その黒く艶やかな長髪を指先で梳くと、京介はそのまま言葉を続ける。その顔は何処か悩んでいるようで、唯依は髪を触れられていることにくすぐったそうにしながらも彼の声に耳を傾けた。
「今日の件に関しては、ステラがいなかったらまた手を出してたかもしれない。ソ連の衛士がお前に目を付けてたとか言ってな、ふざけんなって言ってやったよ。結局向こうの仲間がまとな連中っぽくて、また有耶無耶になったけどな」
「それは……」
「別に
そう言って自分の顔に張られた絆創膏に触れた京介の手を、唯依はいきなり掴んだ。力強く、けれど優しく包み込む。一瞬戸惑いに揺れた京介の瞳を、強く唯依は見つめる。その透き通る瞳の奥に、京介は力強い意思を感じた。
「私は貴方にとって、そんな悩みすら打ち明ける必要も無い存在なのか? 肝心な事を何も話してもらえず、ただ傷ついていくのを見る事しか出来ないのがどれ程辛いか……。私は何なのだ、子供か? 子供扱いしないで欲しい! そんなの、私は嬉しくとも何とも無い!」
「じゃあ、大人扱いすれば良いのかよ」
「え……」
思わず声を荒げた直後に放たれた一言に唯依が驚いている間に、京介は彼女を押し倒すようにベッドに手を突いていた。その左手で彼女の着ている軍服のネクタイに手を掛けながら、グッと顔を近づける。突然の出来事に脅えている様子の唯依の耳元まで口を近づけた京介は、そのまま囁くように言葉を吐きながら唯依のネクタイを解いた。
「こうやって全部曝け出しあって、俺の嫌なところも含めた全部を吐き出してもらいたいのかよ。自分の恥ずかしいところも全部見られても良いって言うんなら、そうしてやる」
唯依の耳元から離れた京介は解いたネクタイを床へ放り投げると、そのまま右手で彼女の腕を押さえたまま左手を彼女のスカートの中へと滑り込ませた。タイツ越しに手を腿の下から上へと這わせていく。それだけで唯依は全身を震わせて、その目に涙を浮かべていた。
「俺の全部を受け止められるって言うんなら、このまま続ける。こうでもしないと胸の内を全部出し切れない俺が嫌なら、嫌だと言ってくれ」
その言葉に唯依は涙を零しながら頭を左右に振ると、京介は俯いたまま彼女の上から退いてネクタイを拾い上げた。それから僅かに乱れた着衣の唯依にネクタイを差し出すと、彼女はベッドから降りるや否やそれを受け取り、そして乾いた破裂音が部屋に響いた。頬を叩かれた京介を前に、唯依は叫んだ。
「あ、貴方は最低だ! っ……そんな事をする人だとは思わなかった……!」
「
「っ……!」
渡されたネクタイをギュッと胸元で握り締めたまま、唯依は京介の部屋から走って出て行った。叩かれた頬に貼られていた絆創膏を京介が剥がすと、廊下から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。京介が呆然と立ち尽くしていると足音は彼の部屋の前で止まり、そして勢い良くドアが開かれる。
「おい! お前一体中尉に何したんだよ!」
現れたのはタリサ・マナンダルで、彼女は部屋にズカズカと入ってくるなり京介の胸倉を掴んだ。小柄な彼女がそうすることで、自然と京介は膝を曲げざるを得ない。そうして京介が答えないでいると、開かれたままのドアの向こうにステラとヴァレリオが見えた。そして次の瞬間、京介の鼻っ柱にタリサの拳が叩き込まれていた。
「タリサ! 止めろ!」
「うっせえ! お前、何とか言えよ! 何したんだって聞いてるんだよこっちは!」
「タリサ!」
再び拳を振り上げたタリサをヴァレリオが羽交い絞めにして京介から引き剥がすと、ステラはベッド上に合った濡れタオルを京介の鼻に当てた。京介はそれを受け取ると、定まらない視線のままベッドに座り込む。暴れるタリサを抑え込むヴァレリオに代わって、ステラが京介に事の顛末を問い質した。
「キョウスケ、一体何があったの? タカムラ中尉に貴方のことを教えて上げて、私達も様子を見に行こうとしたら……服を乱した彼女が走っていったのよ。知っているのは貴方しかいないの、どうしてこんな事に?」
「……何にもしてないさ。唯依が嫌だって言ってくれたから、止められたんだ。……何してんだろうな、俺」
「キョウスケ……」
そこで初めて、ステラはキョウスケの肩が震えている事に気付いた。何があったかは大体予想はつくが、それは彼にとっても不本意だったのではないかと。結局彼女が下した結論は、時間を置くということだった。現状では京介も唯依も落ち着いた話は出来ないであろうし、そもそも唯依が彼の下を訪れたのはステラがそうさせたからだ。自分なりの責任を感じていたステラは京介に今は休むように言い、何とかタリサを宥め終えたヴァレリオと共にタリサを連れて彼の部屋を出た。
一人残された京介は、左手に残る女の身体の柔らかさを消し去るかのように壁に叩き付けた。何度も何度も掌を壁に叩きつけ、しまいには壁を殴り始める。皮膚が裂け血が滴り落ちても京介は拳を止めず、止めた時には既に傷口は乾燥し、灰色の壁の一部が赤く染まっていた。
「っ、はぁ……はぁ……クソッ……」
肩で荒い呼吸を繰返す京介の脳裏には、彼が最も思い出したくない光景が浮かび上がっていた。上空を蛍が飛んでいる光景を月が照らし、耳元では川の水が流れる音が。水に濡れた服が身体にへばりつき、動かせない身体には一人の少女が覆い被さっている。
「……
京介は呟いた。かつて川に落ちた自分を助ける為に、川に身を投げた少女の名を。自分の所為でこの世から去ってしまった、彼女の名を。
「俺は……っ!」
その眼から透明な雫を大量の零しながら、京介は嗚咽を洩らし泣き崩れるのであった。
同時刻、イーダル試験小隊が使用している施設内では、ユーリ・ミン・エゴロワが同じイーダル小隊のメンバーであるクリスカ・ビャーチェノワによってその腕を捻り上げられていた。その傍には彼女が唯一心を開いているイーニァ・シェスチナの姿があり、彼女の背後には既に捻り上げられた腕を庇うリコ・ヴォルフの姿もある。クリスカに腕を捻り上げられていたユーリは、その理由に関して何とか声を絞り出して答えた。
「し、知らねえんだっ! 俺もリコも、あの日本人に関しては何の情報も持ってない! 本当だ! ぐっ、いででででででで!」
「なら誰が知っている、あの男の事を。答えろ」
感情の見当たらない声でクリスカが言い放つと、ユーリは更に捻り上げられた腕に悲鳴を上げた。もう少しだけクリスカが力を入れれば、彼の腕は簡単に折れてしまうだろう。これ以上耐えられないと、ユーリは思わず声を張り上げた。
「イワンだ! イワンが向こうの衛士と話してた! アイツなら何か知ってるはずだ!」
「ならレズノフ少尉は何処にいる」
「ここだ」
ユーリの腕が嫌な音を奏で始めた時、イワンが現れた。その右手には何かの書類を手にしている。イワンの姿を認識したクリスカはユーリの腕から手を離すと、真っ直ぐにイワンに向けて歩き出した。だがその彼女に向けて、イワンはスッと左手を前に出した。
「待てビャーチェノワ少尉、君が知りたい情報はこれに書いてある。国連軍のデータベースから抜き取ってきたものだ、全て渡すが処分はキチンとしてくれ」
そう言って差し出された書類をクリスカが訝しげな表情で受け取ると、その一枚目に載せられていた顔写真を見るや否や目を見開いた。その顔は確かに、日中街中で遭遇した際に自分に嫌悪感を与えてきた男のものだった。浦城京介、日本人。年齢は自分と同じで、XFJ計画開発主任補佐を務めている。
「この男が、私とイーニァを……」
手の中の書類にいる謎の男。その存在に対して言い知れぬ怒りを抱いていたクリスカは、その顔写真の部分を引き裂いた。その様子を見ていたイワンは床に蹲るユーリを立たせながら、内心、今日会ったばかりの日本人について心配していた。
(何をしたのかは知らないが、あの男も厄介な奴に目をつけられたものだな……)
イワンの呟きを他所に、まるで全ての人間が複雑な運命の糸に手繰り寄せられるかのように、各試験小隊が集う合同テストの準備は着々と進んで行くのであった。