彼らはわが民に
聖と俗の区別を教え
汚れたものと
清いものとの
区別を示さなければならない
(エゼキエル書第四四章23節)
僕は待っている。兄が此処に帰って来てくれるのを。
僕は待っている。夜の暗い部屋で、独りで…
結局、結論は出なかったことに気づく。兄の罪悪感。産まれた時から積み重なって、解けない根雪のように圧し固められて冷たく兄自身を拒絶する氷の壁。僕がどれほど泣いても喚いても、手首を切ってもどうすることも出来ない。
なぜこうなってしまったのだろう? 僕が若すぎるからだと兄は言う。なんの理由にもならない。僕にとってそんな理由は、ただの言い訳にしか聞こえない。あの時僕と離れて生きてる理由がなくなった、兄貴はそう言ったじゃないか? すべてが空虚でなんの意味もないと。兄貴がそうであるように、僕も…いや僕こそ、兄と同じ空虚が残るだけ。
生きてる理由がない。兄のいない世界など…
それなのに。それなのに罪のために生きる意味を捨てるの? なぜなんだ? なぜ!?
また同じだ。いつもここに戻ってくる。結論は出ない。何かが足りないんだ。何かが。兄の罪の意識の深さを僕が理解出来てないからなのか。
僕はその堂々巡りの中で思った。兄には僕にも話せないことがまだあるのかも知れない、と。兄の父の負の遺産。あの人の謎はまだ解明されてはいない。兄の凄惨な告白をいくつも聞いた。それともパンドラの箱はまだ開ききってはいないのか? 僕は自分のその仮説に身震いした。これ以上…なにを? 想像のつかない闇の深さを、僕は理屈以外の場所で感じていた。
暗い窓から冬の夜空を見た。兄貴はどこで泊ってるんだろう。あの部屋じゃなければいいけど…。僕は帰らない兄を待つ自分の気持ちにいたたまれなくなった。ベンチコートを羽織って、訳もなく夜中外に出た。
スニーカーをつっかけて外に出ると、玄関を出てすぐ脇のブロック塀に寄り掛かって父がタバコをふかしていた。いつも晩酌が終わるとすぐ寝てしまう父が、この時間まで起きていることにちょっと驚いた。
「なんでここ?」僕は少しふざけた感じで父に言った。
「10年に一度の途中覚醒だぞ」父はまだ少し酔っていた。
「お前は珍しいものを見たと思え」
「うん…そう思うよ」
僕は可笑しくて笑いながら答えた。父は遅くまで起きている僕を咎めることなく、二本目のタバコにジッポのライターで火をつけた。オイルの匂いがプンと香ってきた。僕の好きな匂い。
「あいつが…死んだってなぁ…」
父は思いもかけないことを口にした。
「あ…うん」
父は少し黙っていたが、夜空を眺めたまま僕に聞かせるともなしに話を続けた。
「お前の兄ちゃんは…エライぞ」
兄の話が父の口から出て、僕はドキッとした。
「人の運命はどうすることも出来ないけどな…あいつは一生懸命生きてる…小さい時から自分のことより人のことばかり考えてな…」
父は言葉を選んで話しているみたいに思った。
「なぁ…親父」
僕は父に思いきって尋ねた。
「なんであの人は母さんと結婚したのかな…」
父は黙ってうつ向いた。
「俺が知るわけねぇだろ」
父はサクッと答えた。
「それは俺にも謎だ」父は付け足した。「母さんも知らないかもな」
僕は驚いた。
「知ってるとしたら兄ちゃんぐらいかもな…それもわからねぇけど」
父は三本目のタバコに火をつけた。
「僕…最期に会ったよ…あの人」
僕はふと父に言いたくなった。
「そっか…」父は咎める様子もなく言った。
「兄貴に謝ってた」
「当たり前だ…あの世からも兄ちゃんに謝り続けろ」
父は少し怒った。
「謝ってたか」
「うん」
「良かった…兄ちゃんが救われる」
父はちゃんとわかっていた。
「でもあいつはひとつだけ良いことをした」
父は意外なことを言った
「え?なに?」
「俺と母さんを逢わせてくれた」
父は下を向いて小さく呟いた。
「あいつがいなかったらお前もいない。悔しいが事実だ」
父は小さく"クソッ"と言った。
「兄ちゃんにも逢えなかったなぁ」
「そうだね」
それは破滅的だ…僕もいないけど。
「俺は兄ちゃんと友情の約束をしたんだ」
父は不思議なことを言った。
「出逢った時あいつは小さかったけど、俺なんかよりずっと大人びてたな…俺は母さんを守ってくれと兄ちゃんから頼まれた」
それは初めて聞く話だ。
「だから俺たちは友情の約束をした。男同士の誓いだ。二人で母さんを守ろうってな」
僕が感じていた二人の友達みたいな感じはそういうことだったのかと、僕は改めて思った。
「でもな…良いやつにも程がある」
父は悔しそうに言った。
「それが心配なんだ…俺は」父はマジな顔になった。僕は思わず言った。
「兄貴を…守ってよ」
父は言った。
「俺たちも友情の誓いをするか?」
僕は答えた。
「うん…今度は兄貴のために」
僕たちは拳と拳を合わせた。
親父は気づいているはずだ。兄貴の心の中に潜む闇を。だけど、僕たちのことは言えない。言えないけど今日父と話ができたことが、ほんの少し僕の気持ちを救った。
「寒みぃ…寝るぞ」
「うん」
僕らはそれぞれ部屋に戻った。
知りたい。僕の中でそれが増大する。知りたいんだ。それがきっと今の苦しみの始まり。全ての謎をしまいこんだまま、僕たちの前で死んでしまった彼。そしてその謎に苦しんでいる兄と僕。そしてなぜか兄の父親も知らない謎。誰が兄を陥れたのか、なんのために。
知りたいんだ。彼の手紙が頭の中に翻る。そしてなぜか見覚えのある電話番号。その番号に掛けてみたい。つながったその先に、なにが待つのだろう。あの人の彼…なにを知ってるんだろう。なにをしたんだろう。
(危ないことはするな)
そういう彼の声が聞こえる。わかっている。これは犯罪。犯罪なんだ。明かすことの決して出来ない秘密を僕らは人質に取られ、法を犯したやつらに陽の当たる場所では手も足も出ない。兄が地獄から帰還してまだ半月余り。本当に何もかも終わったのだろうか…
翌日、学校から帰った僕に、母が兄が帰ってきたと告げた。僕は母の話も終わらないうちに、たまらずに二階の僕達の部屋にダッシュで上がって行った。
兄は部屋に居なかった。僕は母に兄がどこにいるか聞いた。
「話を途中までしか聞かないから」
母は呆れたように話を続けた。
「向こうよ…あっちのアパート」
僕が学校に行っている間に…
「お兄ちゃんあんたに…」
あの部屋に戻って行ったと?
「…ってことで…聞いてるの?」
母の言葉が耳に入らない。
「聞いてるの? お兄ちゃんしばらく独りにしといてって…伝言」
取り繕うにも言葉が出ない。
「あんたもいい加減お兄ちゃん離れしなさい! それと…勉強!」
母の追撃を全く無視して、一言の反論も口にせずに、僕は幽霊のような足取りで自分の部屋へと戻った。パタンとドアの閉まる音と共に、僕の心もなにかを遮断したようなそんな感覚にが生まれた。
決められちゃったんだ…兄貴に決心されちゃった。もう反論の余地無しなんだ。こんなのって、こんなのってあるかよ…! 悲しいを通り越し、捌け口のない怒りが胸の奥からこみあげてきた。泣くのは…泣くのはもう厭きたんだ。もう泣くのは…あんなに泣いて泣いて泣いて…懇願してすがって、血を流してもそれでも行くのか? 僕から離れて、また去るのか?
僕はその時自分を見失っていた。取り乱してたと言ってもいい。僕はカバンの中からあの手紙を取り出した。僕は封筒が破けるのもかまわず、手紙の束を引っ張り出した。例の紙を取り出す。前の手紙が床に散らばる。それは一種の破壊願望とも言える凶暴な感覚だった。混乱と怒りの中にも僕は自分の行為を見ていた。またやってしまう…と。追い詰められたとき、僕には自滅する選択はないんだ。未来と日常を棄てて兄を選んでから、僕はパニック発作を全く起こさない。ギターの中だけに発散されていた凶暴性。僕の血は元ヤンキーの親父から正統に受け継いだ、破壊衝動の血だ。いつも通り策なし、出口なし。でも兄貴、自分を殺すくらいなら、僕は…
携帯を取り出す。怒りと緊張で震える指で番号を押す。何度か間違える。間違えているうちに気づく。ヤバい。こっちの番号も知られる。番号非通知に設定する。そして発信ボタンを押す。
呼び出し音…自分の心臓が違う生き物みたいに跳ね上がる。
「はい…もしもし」
で…出た…本当に出…た。
「もしもし?…聞こえてます?」
本当につながってしまった。声が出ない…どう対応したらいいか、なにも思いつかない…!
「どちら様ですか?」
まったく何も思い浮かばなかった。
「もしもし、聞こえてますか? もしもし?…もしもし…」
駄目だ。どうしよう。僕は黙ったまま、その電話を切っていた。
寒い部屋で僕はびっしょり汗をかいていた。落ち着いた若い男の声。ヤクザじゃない。落ち着いた…しかも丁寧な。僕はその印象に面喰らっていた。想像と違い過ぎて、しかもどう切り出したらいいかも、電話した目的も分からなくなるほど頭の中が真っ白になってしまい、まったくお話にならない。番号間違えたのか? 発信履歴を確かめる。合ってる…
僕の怒りはすでに萎えていた。策なしって。自分のお粗末さにほんとに萎える。バカそのもの。こんなので兄に届くのか。僕の気持ちも現実も、完全に暗礁に乗り上げた船みたいだった。
冬休みの宿題をほとんどやらなかった僕は、またしても新年早々から補習の嵐で、夕暮れにとぼとぼと学校の門を出る。しばらく部活にも出られない暗い日々が続いた。担任には頼むから進級してくれと言われるほどのこの半年、出来れば引きこもりたかったが、そんな消極策が許される家庭では決してない。心優しい父のポジティブなパンチが飛んでくる…健康的だ。
今日も夕日を見ながら兄の居ない我が家へ帰ろうとすると、校門で例の部活のパンク仲間が僕を呼び止めた。最近部活来ないけど? ああ…"補・習"。僕は暗く答えた。人生吹き飛んで今度は自分まで消えそうな顔してるな…お前。例によって勘の良いヤツは僕の心を読めるかのようだった。お前人の心が読めのるか? そう尋ねるとそいつはフフッと不敵に笑った。オレ様がいま将にそんな感じなんだ。同病相哀れむということだ。こいつもなんか重い物背負ってるな…僕はそう思った。お前はなに背負ってるんだ? 僕は逆に聞いた。ヤツは虚無的に笑った。オレの背負ってる荷物は極秘事項だ。取引はお前の秘密と引き替えだな。僕はうっ…と来た。駄目だ…僕の秘密は特Aクラスだ。話したら破滅する…僕だけじゃない。一族郎党壊滅だ。ヤツは言った…それはオレも同じだ。関係者は社会的に抹殺される。二人は黙って顔を見合わせた。なんでそんなことに? 僕は自分のことを棚にあげて思わずヤツに訊いた。自分がこんなことになるなんて一年前まで知らなかったよ。小説とか映画とか…非現実だ。でも戻れないし戻る気もない。ヤツは僕の顔を見た。オレに秘密があることをバラしたのお前が初めてだ。お前はどうだ?…とヤツは言った。僕も…だ。礼を言うぜ…とヤツは言った。なんで?…と僕は聞き返した。ちょっと煮詰まってたんだ。だけど少しガスが抜けた。お前もガンバレ…じゃあな!
ヤツは勝手に去って行った。僕もだ…僕は心の中でヤツにエールを送った。
取引はバーター。つまり等価交換だ。情報にはそれに見合う情報をもって、秘密にはそれに見合う秘密で…。幸いなことは僕の情報量は、兄よりも兄の父よりも多いことだ。二人からの情報が入っている。二人は互いに知らないことが、僕の中で統合される。もし仮に電話の男も知らない情報を僕が持っていて、それが彼にとって重要ならば、彼は情報の取引に応じる…だろうか? 普段このような思考など一切したことのない僕は、何が目的かよく分からなくなった。僕はなにがしたい? 何が目的で電話を?
何をしても兄が帰って来ない。だから自暴自棄になった。出来ることがないから…電話を? 座礁。なすすべがない。絶望より悪いこの感じ。だって謎を解いたとしても、なにも変わらないかもしれないんだ。破局ってこういうことなのかな…終わるってこういうことなのか…な。母の「風呂に入れ」という声が下から聞こえてくる。僕は風呂場のカミソリを思い浮かべながら着替えを掴み、浴室に下りていった。
着替えを脱衣カゴに放り込み、浴室に入った。脱衣場の棚にあるカミソリ。僕の手首はまだ傷は治らない。長袖で包帯を隠しているから親にはバレないが、冷えると痛い。風呂には浸けられないし、意気地がないが今はもう一度切る気にはなれない。僕は片手で頭を洗い、湯船にぼーっと浸かった。自分の血で真っ赤な湯船に浸かって死んでいく自分を想像した。家族が悲しむ。兄の罪悪感をこれ以上増やすのか? それを考えると死ねない僕がいる。のぼせ気味で風呂からあがった。
身体を拭こうとして脱衣カゴのバスタオルを引っ張る。いつものことだがやはりカゴがひっくり返った。カゴを台に戻すと着替えの山が床に築かれていて、その上に僕の服からはみ出た携帯がぽつんと乗っていた。あっ…
僕の脳裏をデジャブがよぎった。そして僕はその記憶に凍りついた。あの電話番号を見たのは、ここだった。それも兄の携帯の履歴の中に。僕はバスタオルを取り落とした。
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