嘘だ。僕は自分の記憶に呆然としていた。あれはたしか…たしか、バイト先のグループだったはず。名前は……僕は物凄い勢いで記憶をたどった。それには名前がなかった。そして最近の履歴に何度となく繰り返して現れていた番号。だから覚えているんだ。だからどこかで見たと。兄のバイト先の家庭教師派遣の事務所? いやそれは違う。では派遣先の? 名前がないのに派遣先? これは…カモフラージュ。兄は隠したのか? わからないように? だがなぜ? あの人の彼に電話をかけるんだ? 兄はそんな話は一度もしなかった。兄を脅したヤクザっぽいヤツらか? だがあの静かな声は、そいつらの声とは…
あっ。
その時僕はあの部屋を思い出した。まさ…か。だが僕の予想が正しいなら。ああ…なんてことだ。もうそれしかない。なんという悪意。あの傷、あの火傷、あの手錠…兄貴…破滅させられる! 兄貴はあいつが誰か知らない。嫉妬だ。あれは復讐なんだ。ああそうじゃないって誰か言って…
僕はがくがく震えていた。両手で口元を覆って叫ばないように。だけど…あああ…
どうしよう。あの部屋はまだ業火の中だ。兄を切り刻み肉を焼いて、なぶり続けて、破滅させる。兄に逢わなきゃ。早く、早く! あいつはまたやって来る!
僕はその夜、何度も何度も兄に電話をした。祈るように何度も何度も、リダイアルを押し続けて。だけど兄は僕の電話に出ることはなかった。もしかして、もうすでに遅いのか。それとも、ただ音を切って眠っているのか。遠く離れたあの部屋には、今は僕の手は届かない。終電は終わってしまった。明日…明日になれば…僕はあの部屋に飛んで行くから、だから僕の電話に出て。お願いだから…兄貴。
恐怖が胸の中を占領している。怖い…怖い…なんでこんなことに…
僕が追い詰められると破壊衝動となるように、兄が追い詰められたとき、それは自滅の衝動となる。兄の発作がすでに出ていて、兄からあの男に被虐を求めて…もう…遅いのかも知れない。兄はいま父を喪い、僕の元から去った。それに乗じてあの男がまた兄の心に、悪魔のように甘く忍び込むとき、兄はその悪意に気づけるんだろうか。そうだ…、と僕は重大なことに気がついた。あの男にとっても兄の父の死は大きな喪失なんだと。あの男はあの人を愛していた。あの人にとっては愛のないただれた関係のはずだったのに、あの人はあの男の心を理解していなかった。そうしたらあの男はあの人を二度、喪失していることになる。空虚な二人が互いの闇を互いに埋め合わせる。被虐と嗜虐と…鍵と鍵穴のように噛み合う闇。ああ…ただの推測で終わって…こんなの…いやだよ。
疲れはてた僕は明け方近くに、携帯を握りしめたままベッドで意識を失っていた。
学校が終わり、アパートに着いた時にはもう夕方を過ぎていた。金星が一つ惶々と光っていた。一度しか行ったことのないそこは昼とは違う夜の風景も手伝って、焦っている僕は道に迷っていた。その時間でさえ僕の携帯からの発信は兄の電話には届かなかった。迎えに来てもらうことも出来ず、僕は正解と違う道を迷い歩いた。焦れば焦るほど僕と兄の心の迷路をそのまま歩いているようで、暗い道を歩きながら泣きそうになっていた。
三…四十分も迷っただろうか。見たことのある四ツ辻に出た僕は、不意に兄のアパートの前に立っているのを知った。一階にある兄の部屋は角部屋で、あの寒いあの人の最期の日に二人で閉めたドアの前に、今は独りで立っていた。兄が居るかどうか確かめるために、窓の灯りが見えるはずの南のベランダ側に回った。窓にはカーテンが掛かり、部屋の中は良く見えないが光が隙間から洩れていた。僕は窓に近寄りカーテンの隙間から兄の姿が見えるかも知れないと思い、こっそりと隙間を探した。すぐに呼び鈴を鳴らすのを、なぜか僕はためらった。もしあの男か違う誰かが兄と居ても、何をしているのかバレないように僕に隠すかも知れないと疑った。南側の窓はベランダ越しで近くには回れなかった。では西の窓に…と思ったが、柵があり乗り越えなければ側の窓にはたどり着けない。僕は辺りを見回し、人が居ないのを見計らってこっそり柵を乗り越えた。
西側の敷地は狭く、猫の通り路にしかならないような枯れた夏草がまだボウボウと刈られもせず残っていて、足元が悪く柵から下りるのに思ったより時間が掛かった。後ろはビルの白い壁が迫っていて、そこは死角となっていた。カーテンが少し開いているらしく、窓から光が南側より太く洩れていた。僕は音をさせないようにゆっくりと窓に近づいた。兄の部屋を思い出してみると、その窓の真下に兄のあの忌まわしいベッドがあるはずだった。僕は身を屈めて窓の下に入り、少しづつ膝を伸ばして窓の中をこっそりと覗いた。
窓の中の光は揺れていた。まるで生き物のように影が揺らぎ、昼に見た兄の部屋とは思えないほど不思議な色をしていた。揺れているのはロウソクの炎だった。部屋の電気は消されていた。テーブルに置かれた二本のロウソクの光だけが、不気味に部屋を照らしていた。揺れる影の源を追って僕は窓の下へと視線を落とした。
ベッドの上に兄が横たわっていた。だが兄はただ寝ているのではなかった。兄は全裸にされ、頭の上で手を手錠に繋がれ、縄でベッドに足を縛りつけられていた。それはまるで磔のようだった。僕の視界の外から兄の横に移動していく誰かの姿を、僕の目が捕らえた。
黒い髪に痩せた白い顔、白いシャツと黒いスーツのズボンに長身を包んで手には革の黒いベルトを握っていた。端整な顔は冷酷で無表情だった。彼はベルトを振り上げ、そのまま兄のみぞおちに振り下ろした。兄の顔が痛みに歪む。ベルトを打ち下ろす音が窓の外にかすかに洩れてくる。良く見ると兄の身体にはもう無数のベルトの痕が赤く刻まれ、皮膚が切れ血が滲んでいた。男はなおも兄の身体を打ち据えた。何度も、何度も兄の身体が反り返りしなる。だが兄の顔は次第に恍惚として、その仕打ちを受け入れているかのようだった。
やっぱり
やっぱり
やっぱりそうなんだ。
やっぱり兄は自分を棄てて、空虚を苦痛で埋め合わせてた。そしてやっぱり、あの男に絡め取られていた。まるでカマキリに捕らえられた蝶のように。魂を貪られて生きたまま葬られるかのように。
ベルトが兄を激しく打擲する。男は悶える兄の顔を見ている。男の視線を兄が捉える。二人が見つめあっている。すると兄は、かすかに微笑んだ。
あ…あ…ち…がう。ちがう…これはただの埋め合わせじゃな…い。だってこの部屋は悪意ではなく、悲しみで満ちてるからだ。兄はこの男がいたから僕から離れようと決めたのか。兄は罪を背負って僕と生きるより、虚無と狂気に生きることを、この男がいたからこそ選んだのか。だってこの男が兄を打ち据える姿は、まるで復讐を超えた深い悲しみ。失ったものへの静かな慟哭。そして裏切りと拒絶への怒り。兄が諦めの中で破滅する快楽を、深い罪悪感への罰と安らぎを、この男が満たそうと兄に与えて…
いくら打ちのめしても終わらない喪失の悲しみ。どれだけ打ち据えられても拭えない罪の絶望。ああ…この二人は、悲しみと空虚を共有し合ってしまったんだ。
男からどす黒い悪意をはっきりと感じられないまま、僕はこの光景に言い知れぬ均衡のようなものを感じていた。兄の父親に初めて会った時に感じたあのまだ見ぬ悪意の罠が、彼の死によってなにか違うものに変容しているのを僕は感じ取った。永遠に続く罪と罰の無限のループ。完結したまま閉じた永久機関。終わりは、あるとしたら…死。そう…死しか思いつけないぐらいに。
それは闇の姿を借りた、ある犠牲。そして、ある献身? 僕は…僕は、ここで何をしてるの? この二人はいずれ深く愛し合うだろう。同じ人を喪った悲しみを互いに慰め合うだろう。あの男の愛した人に似た兄を憎み続けることなど出来はしない。僕があの人を兄の面影の中に許してしまったように。僕に兄の言う“人並みの幸せ”と“未来”というモノを返すために、兄はその男にのめり込む。きっと兄ならそうする。僕の望んでいないものを、兄は僕に返そうとする。なぜなんだ。なぜ兄はそこまでして僕にそれを返そうとするんだ。僕は要らない…そんなもの要らない! でももうこれ以上、僕のことで苦しむ兄を僕自身がもう見れない。愛の中…罪悪感の刃で身を刻むか、虚しさと悲しみの中で贖罪の痛みだけを安らぎとして生きるか。兄には幸せという選択肢が、無いのか?
産まれた時から罪と秘密と死に覆われて生きている兄には、幸せや未来なんて言葉は無かったのだと、僕はその時気づいた。もしかして兄は、自分が奪われたものを僕に返そうとしてるの? 本当は兄が送りたかった、もっと普通のささやかな人生を。普通の家庭…普通の親子関係…ノーマルの男女の付き合い…そして結婚。兄には始めから無かった、それらのごく普通の人の営み。本当にそれを欲しかったのはきっと…兄貴自身なんだ。
僕は枯れ草の中にうずくまった。もうどうしていいのかわからない。この場に居ることも、この二人の行為を見続けるのも、僕が僕自身を傷つけていた。理解はした。なにか理解はした。余りにいろんなことを感じ過ぎたし、今のどうにもならない状況も絶望的に示された。いつもそうだ。現実は僕の予想に応えた振りをして、その予想を簡単に凌駕する。僕は誰を恨むことも、憤怒に身を任せることも禁じられているに違いない。
わかった…兄貴。僕は帰るよ。きっとそれが正解だね。僕も時間が欲しい。あまりにいろんなことが一度に起きて、頭も心も混乱して打ちのめされてる。いつ立ち直れるか見当もつかないくらいに。自分の痛みをなにで慰めたら良いか、それすら思いつけないくらい。此処を立ち去っても、どうなるわけでもないんだ。だけど…もう…此処には居られない。闇のほうが、兄貴に優しい。
僕はのろのろと立ち上がった。この柵を越えなければ帰れない。僕はそのことにも打ちのめされた。脱力した身体を起こして僕は柵に手を掛けた。独りでこんなことをしている自分が馬鹿みたいで悲しくなった。涙で滲む視界を手の甲で拭き、僕は柵を超えた。
その時突然、僕の携帯の着信音が鳴り響いた。僕は慌てて柵から飛び降りた。携帯はまだ鳴り響いていた。僕はベンチコートのポケットから慌てて携帯を引っ張りだし、急いでディスプレイの番号を見た。頭の中が真っ白になった。それはなぜか、兄の携帯の番号だった。
言葉にならない衝撃のような激情が僕の胸元を走った。兄が僕に電話を掛けてくれている…! 僕は夢中で通話ボタンを押した。部屋の中で起きていることの何もかもをその激情が吹き飛ばしていた。兄がベッドに縛り付けられていることも、あの男がその部屋にいることもなにもかも。僕は両手で携帯をつかみ、耳に押し当て叫んだ。
「兄貴!…兄貴!」
だが、しばらくの沈黙の後なぜか電話はプツリと切れた。僕は携帯を耳に押し当てたまま茫然と立ち尽くした。その1…2秒後、背後でガチャッとドアの開く音が聞こえた。僕はビクッとして反射的に音のした方を振り向いた。その開いた戸口には、あの男が僕を見据えて立っていた。
「やっぱり…」
彼は僕を見てそう言った。
「見てたね。私達のこと」
その落ち着き払った声は、あの電話の声だった。僕は振り向いた形のまま固まり、彼を愕然と見つめていた。
「彼の弟くん、だね」
彼は僕が誰か知っていた。だが僕は首を横に振った。
「隠してもだめだ。君の兄さんの携帯で君に電話を掛けたんだから」
彼の右手から兄の携帯がストラップにぶら下がって揺れていた。
「君の携帯が鳴ると思った。此処を知っているのは多分私たち三人」
彼は僕に近づいて来た。僕は思わず後ずさった。
「君が"兄貴"と呼ぶのもドアの向こうから聞かせてもらった」
逃げるまもなく彼は僕の腕をつかんだ。
「さあ…部屋に入ったら?…兄さんにも逢いたいだろう?」
僕はなすすべなく部屋に引きずりこまれた。
蝋燭が赤々と燃える部屋に、僕までが入り込んでいた。さっきまで隔絶していた別の世界に自分が属していることが信じられなかった。短い廊下を曲がると、ワンルームの兄の部屋のベッドがすぐに現れた。しかし兄のいるはずのベッドには、なぜか誰も居なかった。
ご閲覧ありがとうございます。“日暮れて道遠し”感満載です。
*蟷螂:カマキリ