※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

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12.見えない檻

 その時僕の背後からいきなり彼が僕を抱き締めた。抱き締めた…と思った。だが次の瞬間、彼は布の様なもので僕の口を塞ぎ、物凄い力で僕を後ろから拘束した。余りに突然のことに僕は抵抗する間もなく、彼に羽交い締めになっていた。

「君が覗くのをやめた後、兄さんには眠ってもらった」

 僕は身体から力が抜けるのを感じた。僕は塞がれた口で呻いた。

「んんんん!…ん…んん」

「強い睡眠薬でよく寝てる。君が騒いでも起きない。バスルームに移動して休んでもらってる。休憩タイムだ」

 僕が窓を覗いていたのが彼にはわかっていた…わかっていて気づかない振りをして、僕を油断させて…

 すぐに薬は効いてきた。これは…兄があの時やられた薬と…同…じ? いくらも経たない内に、もう僕の身体は自分の意志では動かせないほど麻痺していた。意識と感覚だけが残されていたが、それも少し鈍かった。

「これで君に私の話をゆっくり聞いて貰える」

 そう言われても、僕の身体はほとんど何も反応できなかった。ただ恐怖と後悔だけがあった。男は淡々とさっきまで兄の寝ていたベッドに僕を引きずり上げた。僕はベッドに寝かされていた。彼は僕の服を次々と手早く機械的に脱がしていった。そして全裸にすると、兄と同じように頭の上で両手に手錠を掛けた。僕の身体は足を除いて、さっきの兄と同じようにベッドに磔になっていた。

「なんでかな…私はいつもこうだ」

 彼は小さな声で虚無的に僕に語るともなく話し始めた。

「求めても与えられない…肉体は貪るのに私の心を誰も振り向かない」

 彼は僕の身体の脇に腰掛けた。

「私はいつも誰かの替わりだ。いつも私は誰かの淋しさを埋め合わせるだけ」

 彼は僕の顔を不思議そうに眺めた。

「みんな誰かを愛してる。許されない誰かを。君の兄さんも…その父親も…」

 僕の顔に彼の指が触れた。

「君もね」

 そう言うと彼は僕の髪を撫でた。

「嫉妬で死にそうだ」

 彼の無表情な顔に怒りの色が走った。

「君たちの関係は世間的に許されるものじゃない。それには同情する。だが、思いきれないなら破滅するまで愛し合えば良いだろう?」

 彼は僕の髪をつかんだ。

「私はあの人の死に目にも逢えなかった。私は君の兄さんのためにあの人からいともたやすく拒絶された。愛されてはいなかった。一度もね」

 ぼんやりとした視界に彼の顔が炎に揺らいでいた。

「私でなくあの人を捨てた息子をあの人は選んだ」

 そう言うと彼は僕の手首の包帯を取り始めた。

「私の彼を…君の兄さんは奪った」

 彼は僕の手首の傷を指でなぞった。

「君の兄さんへの復讐は完璧だった。私は彼を生き地獄に放り込んだ。誤算はたった一つ、君の兄さんに私が直接手を下してしまった事だ」

 長い指が僕のまだ癒えていない傷を少しづつ押し開いていった。鋭い痛みが走ったが、もう呻き声すら出せなかった。

「君の兄さんは私の彼にあまりにも似ていた。顔…声…仕草…身体……眼差し…」

 生暖かいものが手首を伝った…血だ。

「私は復讐の成果を確認したかった。彼の地獄の苦しみを破滅をこの目で確かめ、復讐の甘い果実をこの舌で味わうためにだ。それなのに…それなのに私は君の兄さんを前に、失った彼と再び繋がったとすら感じた。嫉妬に狂い殺してやろうとさえ思ったはずの私が…」

 ああ…ぼくと…いっしょだ…あのひとにあったあのときと…

 ゆるして…しまった。あにを愛してるから。かれも…あのひとを愛した…から。

 彼の指先が僕の血で濡れているのがぼんやりと見えた。

「たった一度の邂逅で私は君の兄さんが欲しくなった。狼狽えたよ…失態だ…最悪だ」

 彼は頭を横に振りながら苦笑した。

「自分の心ほど当てにならないものはない。私はそういう不確かさが我慢ならない…でも現実はこうだ」

 彼は僕の顔を見つめた。

「君のことも愛せれば良いのに…」

 彼は凍りつくような冷たい目をした。

「君の兄さんの心には君しかない。君の幸せのために私と此処にいる。最悪だ…闇を受けとめて闇だけが手の中に残る。愛というものは神聖なんだろう。私にはそれは…いつも手に入らない」

 彼は再び僕の手首の傷に指先を這わせた。そしてその爪の先を傷口に割り入れた。叫んでも声が出なかった。激しい痛みにもピクリとも動かない僕の身体…

「君の心も君の兄さんのもの。この傷口…彼の手の平が庇ったのだろう?」

 この人は兄の手の平もその指で開いたのだろうか。

 

 それは長い長い夜だった。眠った兄のいるアパートの兄のベッドで、僕は初めて兄ではない人間に犯された。彼はありとあらゆる穢し方を知り尽くしていた。兄に使われた様々な道具でも、僕の身体は歪んで押し潰され無理やり開かされ弄ばれ、汚辱にまみれた。激しい責めに打ちのめされた僕の心は空白になり、魂はどこかに隠れた。僕は彼のされるがまま、彼の凌辱に耐えた。途中少しづつ薬が切れてきたけど、僕はもう抵抗すらできなかった。僕の顔が苦痛に歪む度に彼は嬉しそうに口角を上げ目を細めた。地獄? 拷問? 嗜虐? 苦痛? どれでもない。空虚…そう、空虚。

 彼が悲しいから僕も悲しかった。苦しい涙以上に、悲しくて泣いた。たぶん、彼のせいで。これからも僕はこうやって彼から犯されるのだろうか? 兄は知るんだろうか。僕のこの長い夜を? できれば…知って欲しくないな。兄のほうが傷つく。僕よりも苦しむ。自分のせいだと。

 深く深く墜ちていくような感覚。終わりのない深い絶望という穴に…これも重ねていけば、少しは気持ち良くなるのかな…せめて気持ち良くなりたい。狂えるなら狂ったほうがマシかも知れない。なぜ今日は意識を失えないんだろう。

(君を愛せれば良いのに)

 僕もそう思うよ。でも僕には、あなたにあげられる闇がない。手持ちはカード一枚だけ。兄を愛してる。

 

 明け方、僕は解放された。一晩中苛まれ、その上まだ薬が抜けきっていない身体は泥のように重かった。帰り際に彼は言った。兄さんには言わない。君の身体が気に入ったからまた会おう。どこまでも堕としてあげる。兄さんの狂った身体と同じように、君の身体に闇を刻みこんであげる。君から私を求めるようになるまでね。嫌でも私からは離れられない。もし誰かに私の事を言ったら……解るだろう? 君たちの秘密は私たちの秘密になったんだ。言っている意味はもちろん解るね? 逢いたくなったらメールする。楽しみに待っていて欲しい。ではまた。

 破滅的な弱みを握られて、僕は彼の操り人形となった。兄が知らないまま同じ男に犯される。脅されて犯され続ける…あの時の兄と同じ。僕は早朝の町を夢遊病者のように歩いた。今日もいつも通り学校に行かなきゃ。家に一度帰って、学校の教科書…取って…

 電車に乗る。心が何も感じない。吐き気がする。手首が…痛い。包帯…血が…にじんで…

「うっ…」

 手首の痛みが夜の記憶を全て連れて戻ってきた。フラッシュバックに身体が震え始めた。恐怖、嫌悪感…いやだ…いやだ…心…を…閉じたい。耐えていたものがなし崩しに心と身体に雪崩れこんでくる。気が狂いそう…だ。この記憶を閉じ込めたまま日常を過ごすの? いつも通り普通を振る舞うの? 耐えきれない。でも…どうすることも出来ない。言いなりになるしか…それでも、家に戻った。

 前もって兄のアパートに泊まると母に昨日から言ってあったので、何事もないかのように僕は家に入り、母と目を会わせずに学校の支度をし家を出た。まるで何事もなかったのよう…異変は地下室に隠されたまま。誰か気づいて…と耐えきれない僕の心が囁く。だめだ…それは許されないよ。これしか答えはない。誰も気が付かないで。いつもより学校が遠い。薬で体がだるい。やっとのことで校門が見えた。遅刻ギリギリの時間。間に合ったことに安堵と絶望を同時に感じていた。

 教室へ向かう階段の途中、手すりを握った左手首が疼いた。またフラッシュバックが起きる。恐怖感と震えと吐き気。心が砕けそうな絶望感が蘇る。不意に気が遠くなった。その瞬間、足が後ろに滑った。

「わ…」

 僕は無抵抗に階段から落ちていた。近くにいた生徒の誰かが数人駆け寄って来たが、僕の意識はすでに遠のいていた。ザワザワと人の声がして、僕を誰かが揺すっていて…  

 気がつくと保健室だった。知らない生徒が保健の先生に話をしていた。僕はベッドから起き上がった。自分がなぜここにいるのか、一瞬理解できなかった。

「あ…気がついたね」

 僕にはお馴染みの保健の先生がこちらにやってきた。保健室の時計はまだ一限目の始めを指していた。僕はそんなに長くは倒れてなかったらしい。

「どこか痛いとこある?」

 僕はベッドから下り、足踏みをしてみた。関節は痛くないが、脛と尻が打撲の痛みがあった。

「足とケツ…痛いです」

「頭痛くないかな?」

「いいえ…痛くないです」

「階段から落ちたの…覚えてる?」

「あ…はい…」

「頭打ったか覚えてるかな?」

 落ちる時の記憶は辛うじてあった。

「あ…えと…大丈夫です…打ってないです」

「どうしたの? 踏み外したかな…それともいつものパニック出たの」

「…はい」

 僕はウソをついた。正確にはウソじゃない。“いつも”のパニックじゃないだけだ。パニックより悪い。

「最近あんまり保健室来てなかったのにね」

 保健の先生は少し残念そうに言い、僕の打撲を治療した。メンタムの匂いがツンと鼻孔をつき、貼られた湿布がヒヤッとして、うう…とうめき声が出た。保健の先生はパニックの心療内科を紹介してくれたり、カウンセリングを勧めてくれたりと、僕には担任よりむしろこの先生の方が親近感があった。

「血圧だけ測らせてもらうわね」

 先生はそう言うと、僕の左手の袖をスッとめくりあげた。僕はぼーっとしていて、自分の左手に隠さなければならない傷があることを、すっかり忘れていた。

「これいつの怪我? ちょっと、血がにじんでるわよ!」

 先生は僕に構わず包帯を外した。手当てのない裂けた傷口が血まみれになっていた。

「わぁ…ひどいね…これ」

 彼女は僕の顔をいぶかしげに見た。

「切ったの?」

 ヤバい…見つかった。

「ああ…はい…あの…家のガレージの掃除手伝ってて、車の部品でうっかり切っちゃって」

「ああそう? ずいぶんまたヤバいとこ切ったのね」

 とっさに出たウソはきっとバレてるだろうと思わせる、彼女の疑わしい顔を僕は見ないようにして取り繕った。僕の父が車の修理工だというのは先生も知っているのだが。

「リスカじゃないですよ。切る前にパニクりますから」

 先生の訊きたいことを先に言うと、彼女の顔が少し安心した感じに変わったように見えた。これは完全に嘘だけど。ケガの救急用器具の入っているワゴンを引っ張り、彼女は僕の傷口を手当てしながらヤレヤレというように言った。

「びっくりした。まーさかって疑っちゃったじゃないの」

「まさか…そんな」

 僕は続けて真逆のことを言った。

「傷口…開いてるわね」

「治りかけてたんだけど、さっきそこちょうど階段でぶつけちゃって…痛かったんで、開いてるかもって」

「あれま、ついてないね」

「あぁ…ですね」

 ついてないでは済まないけど。僕はウソが突っ込まれないことを祈った。

「まだ一限目始まったばかりだけど、少し休む? 二限目からにする?」

 出来れば半日くらい眠りたかったが、そうします…ととりあえず言って僕は保健室のベッドで休んだ。僕は初めてパニック障害に感謝した。不思議なことに、他人に傷口の手当てをしてもらったそのことが、ほんの少しだけ僕の気持ちを緩めたようだった。ベッドに横になるとすぐに眠りについた。操られている恐怖から、その一瞬だけ僕は解放された。目覚めるとそれは悪夢ではなく、やはり現実のままだった。絶望感で押し潰されそうになったまま、僕は教室へ戻った。

 

 僕の孤独はまたその深さを増した。兄が言う“悪夢の中の人生”。僕もその中にいた。兄を追いかけて、いつの間にか兄と同じ悪夢の中へ入り、その闇に取り込まれる。アリスがウサギを追いかけて穴に落ちる。落ちた先は不思議の国じゃなくて、復讐の廃墟。この世から隔絶された悪夢の世界に僕は居た。

 僕の中で夢と現はとうとう逆転した。この世で"暮らしている振り"をし続けなければならない。秘密を人質に取られているため、この世での破滅は選択出来ない。なにもなかったようにこの世を息を殺してやり過ごす。僕は愛する人達を絶望させない為に、悪夢と日常を往き来するしかない。それは誰も知らない。知られてはならない。この悪夢がいつ終わるか誰もわからない。

 孤独。兄と共有していた頃には感じることのなかった感覚。いま僕は独りきりだ。楽しげに笑う同級生、部活でふざけあう先輩たち、町行く親子連れ、普通の生活の中にいる両親。僕は誰とも共有出来ない。共有しようがない。僕自身ですらこの乖離をまだ受けとめられない。いつか受けとめられる日など、この僕に来るのだろうか。

 兄が言っていた意味が僕にようやくわかったのだ。生きている振りをする。そしてそれを理解したのに僕の隣に兄はいない。いや…いないから、理解したのだ。

 夜のベッドの中で独りで眠る。兄に抱かれていた暖かさと、あの男に弄ばれた冷たさが入れ替わり僕を苛む。そしてまた僕はあの男に呼び出される。彼からのメールが来た。

 

 




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