風景が揺れている。冬の陽炎のように。視界がいやに狭い。足がもつれ、上がらない。真っ直ぐ歩くことが難しく、きっと周りからみたらただのジャンキーみたいだろう。神経が激しく消耗している。車から降ろされた場所がどこだかわからない。雑踏にこづかれ舌打ちされてる。僕はどこを歩いているんだろうか…
行き交う車の赤いテールランプが目ににじんで煩いほど連なって、薄暗い夕暮れの歩道には人が溢れている。電気店のBGMが頭の中で鳴り響き、自分が何をしようとしているか分からなくなってくる。
(い…えに…帰…る? 僕の家は…どこ…だ?)
不意に改札が見えてくる。駅の名前がわかる。
(知…ってる…こ…こ)
切符を買う。エスカレーターでホームに昇る。急行がすごい勢いで通過していく。急に視界が暗くなる。
(停…電?)
平衡感覚がスッと消えかける。目をこすっても暗い。
(暗…いよ…)
風景の上と下がなぜか入れ替わる。
「えっ…?」
身体に衝撃が走った。固くて冷たいものが僕の下で身体を支えている。それがホームのタイルだと気づいて、僕は自分が倒れていることを知った。周りから人が集まってくる。急いで起き上がろうと身体を起こす。大丈夫? どうしたの?と尋ねてくる女性の声。
「大丈夫…です…」
答えた途端、身体がグラッと揺れた。また上と下が分からなくなる。ゴツ…と鈍い音がした。頭に衝撃が走る。立てない…意識はあるのに。頭から生ぬるいものが顔に伝う。駅員らしい人の声。
「救急車! お客さん頭打ってます!」
(ああ…やばい…病院は…行きたく…ない…の…に…)
意識が朦朧としてくる。言葉が出ない。救急車のサイレンの音が遠くから近づいてきた。
(行きた…く…ない…んだよ)
手足を掴まれてタンカに乗せられている。目を開ける気力がない。救急隊員が僕に何か話し掛けている。
「君! 名前は? 聞こえてるか?」
「きこえ……す…」
なんども僕に話しかける。口は動くが声が出ない。タンカは移動している。ザワザワと聞こえてくる駅の喧騒。
(この状況…は彼の…ミス…?…崩れる…均衡…悪夢と…日常…の干渉…し合わな…い…ラ…インが…)
僕は病院に運ばれた。
救急車で搬送されて、どこかの病院に着いた。頭のCTとレントゲンを撮り始める。僕の意識の反応が鈍いため、医師がナースに大きな声で指示する。バタバタしてる…僕のせいだな。検査室からどこかに移される。何か夢を見ているような、判全としない感じが意識の全てを覆っている。医師が何か話し掛ける。身体は微かに反応するが、何を言われているのか既に意味がわからなくなってる。変だ。人の言葉を翻訳する頭の中の機械が壊れてしまったみたいな。
病室に居るような気がする。母親の声が聞こえている。僕の名前を呼んでいるのか? 僕は応えようとする。
(大丈夫…大丈夫…大丈夫…なんでもない…)
口を動かしたい。聞こえているのだろうか? 分からない。目の前が暗い。ぼやけた視界に母の顔が見える。母の顔が…
「うああああああああぁ!」
母の顔を見た途端、僕は目を見開いて叫んでいた。精神の崩壊していく感覚。悪夢のフラッシュバック。すべてを母に知られてしまう恐怖。隠さなくては破滅してしまう恐怖。死。それは母の自殺未遂するような脆い心のため。兄のため。兄と僕のため。父の平和のため…
日常というマシンガンで、全身に銃弾が撃ち込まれる感覚。自分でも気づかない精神の崩壊。母が僕を抱き締めて押さえている。僕が兄にしたように。
「どうしたの?!…何があったの!」
母の問いただす質問に、僕は更に切迫して叫んでいた。
「うあああああああ!」
訊くな! それを訊くな! 医師が飛んでくる。
「鎮静剤…入れますから」
(殺して欲し…い…誰か僕の口を封じろ…)
「何があったんですか?!」
母が医師に訊いている。
「駅のホームで倒れて頭を打ったようです。今息子さんは意識が混濁していて…私たちにも状況はそれしかわからない。息子さんの意識が戻れば詳しい状況も解ると思われますが。お母さんは心当たりはありますか?」
「息子はパニックの発作があって…だいぶ起きなくなってはいたのですが、ひどいときは過呼吸で倒れたりします。でもこんな状態は私も見たことありません!」
「頭を打っていますのでね。精密に検査しないと万が一ということは起こりえるんで…脳外科の場合…」
「入院ですか?」
「この意識状態では入院は必要だと思います。内出血の危険性ありです。CTでは問題なしですが、MRIはやらないと」
そして医師は付け加えた。
「駅員さんの話では息子さんは人とぶつかったり、つまづいて転んだのではないらしいのです。不意に倒れたのだと。ですからなんで倒れたのかも調べなければならないんですよ」
鎮静剤がそこで一気に意識を奪った。僕は束の間の休息を得た。
ゆっくりと目が覚めた。車の中…じゃないのか。昨日と今日がごちゃ混ぜになって、此処が病院だと気がつくまで数分かかった。人の気配があった。思うようにならない瞼をようやく開き、気配の方を見るとコートも脱がずに母が立っていた。泣きながら。
「ようやく…気がついたね」
母が僕の顔を覗きこんだ。昨日と違って母の顔を見てもパニックにはならなかった。「おはよ…」と言って、母は泣きながら笑った。僕は泣いている母を初めて見た。喉がカラカラで声が出なかった。
「みず…欲しい」
母は急いで枕元の吸い口を取り、僕に飲ませた。
「気分…どう?」
「…ぼーっとしてる」
「痛いところない?」
「…今は…ない」
母がナースステーションに、僕の意識が戻ったことを急いで知らせに行った。検査と問診が再び始まった。
医師は僕の倒れた日の前後について、詳しく尋ねてきた。僕は買い物の帰りに、急にパニックになり倒れてから何も覚えていないと嘘をついた。僕は平衡感覚に問題があるらしく、今のところまっすぐ歩けないが昨日撮ったCTには異常はない、と医師は説明した。血液を取られ、頭部と頚に問題がないか詳しくMRIでの検査をすることになり、入院は少し長引きそうだった。
病室に戻った。母がいつもと違う思い詰めた顔をしていた。ナースの押す車椅子からベッドに移されて、再び僕はベッドに横たわった。
僕らは無言のままでいた。しばらくして母が口を開いた。
「話しても大丈夫?」
「…うん…いいよ」
「なにか…あったんでしょ? この頃…ん…もっと前から…なんか張り詰めてる感じがしてた」
母は当然だが察知していた。僕ははっきりしない頭で、言い訳をしばらく考えた。
「…先が見えないんだ」
「先?」
はっきりしない頭で出てくるのはそんな言葉だった。それは嘘ではなかった。
「進路のこと…って…人生のことと今のところ同じ…僕にはね」
僕はいま感じている事実を片方だけ説明することにした。
「僕は何になりたいかとか、なにがしたいかとか、あんまり…考えたことなかった」
確かにそれは自分にとって、とても心に負担のかかる問題だから。
「…僕は…正直ギターのことしか考えたこと…ないんだよ」
ギターと、兄と。
「兄貴はずっと物理やって…研究室入って…きっと大学に残って、物理を教えながら研究していく人になる。兄貴もそう言ってたし」
母は無言で聞いていた。
「僕にはそんなはっきりした将来はない」
「…そうか」
母が呟くように言った。
「高校生になったら…この三年間はそのことを考える時間なのかなって思うほど、なんだかのしかかるんだ。もう一年経っちゃった。あと少しでもう二年生になる…」
僕は母の顔をちょっと見た。母は僕を見ていた。
「切迫感が…ずっとあるんだ」
「そうだったんだ。初めて話したねそのこと」
母は僕の顔を見て、少し安心したような表情になった。
「私はね…お兄ちゃんとなにか有ったかと思ってた…」
正解だ。
「いつ…だったっけ? お兄ちゃんが引っ越したの。あれの前後から、なんか二人ともおかしくて。心配だった…すごく」
そう…やはり母はわかっていた。
「そのあと…あの人が…死んだ」
僕は母の顔つきが再び険しくなるのを感じた。
「あの子も…あなたも…あれからもっと…」
母の目が少し焦点を失っていた。
「あの人と…あなた達が会ったって聞いたわ」
親父が話したのか、兄が話したのか。
「あの子に謝ってたって…」
そう言うと母は下を向いて身体を震わせていた。
「もう…遅いのよ! いまさら…いまさらなにを謝ってなにが許されると思うの!?」
母は両手で自分の顔を覆っていた。母の取り乱す姿に僕は驚いた。なにかある。そしてまだこんなに傷ついたままで、母はこれをずっと圧し殺していたのだろうか?
「母さん…」
「ごめんね…こんな…あなたの方が辛いのに。ごめんね…私が…私がバカだったばっかりに…」
「どう…したの?」
母は僕を見た。その目はいつになく切迫していて、怖いくらいだった。
「お願い…正直に答えて。私はずっと不安で不安でしょうがないの。不安で夜中に目が覚めるのよ。あなたはさっき…先が見えないって言ったけど…もっと他に理由があるんでしょ? 私はお兄ちゃんとあなたが心配で心配で仕方ない。心配は…不安は今に始まったことじゃないの。もっとずっと前から」
母は少し錯乱しかけていた。
「ああ! わかっているんでしょ? あなた…にも…きっと…」
僕はそれを聞いて一瞬凍りついた。母はなにかあの秘密を、知ってる? 母は何を知ってる? もしや兄とあの人の関係を? それ以上に? もしかすると…僕たち…?
「…母…さん」
僕はその時感じた。今を逃してこの先そのことを聞くすべがないと。怖い。でも今しかない。聞かなければならないことがある。きっと母は…知ってる。
「…母さん…知ってるの…?」
そう、僕はこの瞬間に賭けた。その言葉に。母の顔面がみるみる蒼白になっていった。
「…な…何を…なに…を?」
狼狽える母に僕は畳み掛けた。
「知ってるんだね…兄貴のことも」
恐怖と絶望を突き破って、何かが僕を突き動かした。僕はじっと天井を見つめながら母に言った。
「僕は…知ってるんだ…あの人が……兄貴の父親が何をしたか」
母が息を飲む音が聞こえた。僕は続けた。
「母さん…話してよ」
僕の声は緊張で震えていた。
「僕は…兄貴を救うって約束した」
全ての言葉が一か八かの賭けだった。兄との秘密を未来を…僕は有り金をすべて賭けた。絶体絶命の賭博師みたいに。だが母は“兄貴の父親が何をしたか”という僕の言葉を聞いて、自分の罪悪感の限界をおそらく、越えた。
「そ…それ…は…言えない」
母の声も震えていた。
「言ったら…私が…耐えられない」
僕はそれを聞くと、そのまま爆発した。
「兄貴はもうとっくに壊れてるよ! 母さんが知らないわけないだろう!? 僕は苦しんでる兄貴をずっとずっと見てきたんだ! 誰にも言えない苦しみを…こんな年下の僕にしか話せないで、なんの解決もなく自分がすべて背負いこんで!」
「ああぁ…やっぱり…あの子…あの子…」
崩れそうな絶望感を伝えるように母は小さく口走った。そして囁くように尋ねた。
「聞いたのね…お兄ちゃんから…」
僕は黙ってうなづいた。
「倒れたのも…? それが…原因?」
僕はもう一度うなづいた。そして母の顔をじっと見た。
「母さんは僕に話す義務がある。それが僕たち家族のすべての始まり…兄貴の苦しみの始まりなんだ。ごめん。でも話してくれなきゃ誰も救われない。あの人はもう話せない…もうこの世に居ないんだ。だから…お願い…母さん」
聞いてもなにも変わらない、かもしれない。でもそれでいい。
「なぜ…あの人と結婚したの…?」
それが全ての元凶。僕の最後の疑問。
「僕は…誰にも言わない」
まためまいがする。ベッドごと回転しているような平衡感覚の喪失、恐怖感。思わず布団の中でシーツを握り締める。これ以上無理出来ないのかな…ここまで来て…もうちょっと…もう少しなのに。でもこの機会を逃したら、僕は一生後悔する。震えてうつ向いていた母に、めまいの中で僕は目をつぶった。そして母に有無を言わせないような気持ちで要求した。
「兄貴が破滅する前に…話して」
母はしばらく黙っていたが、意を決したように僕をまっすぐ見た。母は静かに話し始めた。めまいの後の吐き気が襲ってくる。最後まで持ちこたえろ、僕の身体。