「…何から話したらいいか…わからない…ずっと今まで封印してたから。あなたのお父さんと出逢って…離婚して…あなたが生まれて…私はあの悪い夢から解放されたと思っ…思おうとしてたから…」
母は兄と同じように"悪夢"と言った。
「私は世間知らずのお嬢さんで…あの人は年上で魅力的だった。そう、とても…ね」
母は少し淋しそうに笑った。
「あの人は私の年上の従兄弟の高校時代からな親友で、二人はとても仲が良かったの。私のいとこは私の実家の近くに住んでて、私が小さい頃から可愛がってくれてた。親戚なんて大きくなれば自然に付き合いも減るのが普通だったけど、そのいとことはなぜか高校、大学と良く遊んだわ。いとこが高校の時、友達だ、ってあの人を紹介してくれた。それからは良く三人で出掛けたの。あの二人はいつも一緒だった。大学を卒業しても、ね。そして私は…」
母は少し口ごもった。
「あの人を好きになってた」
母は後悔と憧れと悲しみの入り混じった複雑な表情をした。
「あの人は頭が良くて、繊細で…どこか悲しげだった。彼の翳りに私は惹かれてしまった…どうしようもなく、ね。それに彼は同世代の若い男性と違って私を女扱いしなかった。それが私には嬉しかった。私が一人の人間として見られているような気がした。彼に逢えるのが待ち遠しくて、従兄弟の電話をいつも待ってた。でもいとこは私の期待にいつも応えてくれてた。それはね…」
そこでも母は言い淀み、辛そうな顔で俯いた。
「彼は、いとこは私のことが好きだったから」
僕の驚きに合わせるように、母は少し沈黙した。辛そうな顔はそのままで。そして顔を上げて僕に問い掛けた。
「わかる? こんなパズルみたいなすれ違いが現実に起こると思う? まるで小説か映画…違うの。これが私の現実だった。私はいとこの気持ちに気が付かなったの。馬鹿よね。私はいとこが私を好きだということを、あの人と離婚した後から知らされた」
母の声が次第に暗くなっていった。
「そしてついにあの日が来たの。私の無惨な運命の幕開けの日がね」
僕はその声に寒気を覚えた。それほど母の声は恐怖に満ちていた。過去のことなのにも関わらず、その恐怖はまだ生々しく感じられた。
「…あれは私の大学の卒業式の次の日だった。前からいとことあの人はその日に私の卒業祝いをしてくれるって約束をしてたの。私は浮かれていた。彼に逢えるから。彼に人生の節目を祝ってもらえる…とても楽しみで、ドキドキしていた。洋風の居酒屋で大人みたいに飲ませてもらって、二人にこれからの事を気分良く聞いてもらって、私はあの人がいつになく無口でいるのを気にも留めてなかった。いとこは逆にいつもよりはしゃいでいるようだった」
母の声は話の内容に反比例して鬼気迫るものに変わっていった。
「しばらく飲むといとこはだんだん朦朧とし始めたの。お酒はそんなに弱くなかったはずなのに変だわと…少し感じた。あの人はいとこを介抱していたけど、いとこはだんだん立てないくらいに酔って、とうとう眠ってしまった。でも私はそのとき不謹慎にも嬉しかった…だって…彼と二人で話せるから。寝ているいとこに彼は自分の肩を貸して私と彼は少し話をした。そのうちに今度は私に急に眠気が襲ってきた。彼は『二人とも疲れているんだね』と言い、俺が送るから大丈夫と私に言ってくれた。その後すぐに私も意識がなくなったの」
母は途中から僕ではなく、まるで独り言のようになっていった。母は急に僕が聞いていることを思い出したように我に返った。
「これから先は…あまり詳しくは言えない。あなたもまだ高校生だし…でも…分かるわよね…今の子は早いから…」
母は言葉を濁した。
「気がついたら私はあの人と二人きりだった。いとこは家に送って行ったって言われた。そこはもう居酒屋じゃない場所でね…あの人は初めて私にキスした。その時の気分といったら…天国のようだったわ。彼が私を愛してくれていたってね。私は告白したわ。今までの気持ちを全部。彼は私の気持ちを知ってた。それから心も身体も彼にその日差し出した」
母は息子にはとても言いにくい事を無理して言ってくれた。そして次の言葉に僕は戦慄を覚えた。
「私はその日…妊娠したの」
母はそう言うと脱力したように首を項垂れた。母の右手が膝から落ちていた。
「…お兄ちゃんよ」
「そん…な」
僕は思わずそう呟いた。
「妊娠したとわかった時…私はね…本当に嬉しかったの。信じられないぐらい、こんな幸せはないって…心から思った。出来ちゃった結婚だったけど、互いの親も祝福してくれた。いとこはあの日以来私にも親友だったあの人にも距離を置くようになった。親友と従姉妹が結ばれて少し嫉妬しているんだとあの人は言って、私も納得したけど…」
母の目に涙がにじんだ。
「それは…違ったの…全部…全部…仕組まれて…た。あの人は私のことなんか…まったく愛してなんかなかったのよ…まったく。あの人が…愛していたのは…彼の親友…私のいとこだった」
僕は耳を疑った。母の話が母のいるであろう世界とは、全く違う世界の話だった。母の口からこんなことが語られてることが、不思議でならなかった。
「彼は…同性愛者だった。いとこも私も気付かなかった。いとこは私と逢う口実に彼がいて…私は彼に逢うのをいとこに頼っていたから。そして彼はいとこが私を好きなこと、そして私が彼を好きなことも雰囲気でわかっていた。あの日…いとこはあの人に宣言したのよ。『卒業したら彼女に結婚を申込む』って…今日のお祝いの席で告白するって。だから君は立ち会ってくれないかって。あの人は高校で出逢った時からいとこに恋してきた…あんなに純粋な想いをしたことがないって…そのいとこが私に結婚を申込むの。彼は絶望と嫉妬に狂った。いとこはノーマルで普通の人よ。あの人がどうやっても告白なんか出来ない。それどころか間違えばいとこは彼を避けるようになる。そうしたら親友ですらなくなり、彼を永久に失う。だけど親友のままいとこと私が結婚して、夫婦で彼と付き合っていくには、嫉妬で苦し過ぎて生きていけない、と。彼は私がいとこと結婚することになったら死ぬつもりでいたの。それくらいいとこに恋焦がれていた。でも彼は私が好きなのは自分だとわかっていた。そのことが彼の計画に火をつけた。私をいとこから奪おうと。いとこの心を奪った私に復讐するため、自分に背を向けたいとこにも復讐するため…そしていとこと同じ血の流れている私と交わるために」
それはまるで魔界をこの世に移してきたかのような、凄惨な計画だった。
「いとこは睡眠薬を酒に混ぜられて、私に告白する前に眠らされた。彼は私のお酒にも後から睡眠薬を入れて意識のない私をホテルに連れて行った。それは彼の賭けだった…負けたら死ぬっていう賭けをね。そして彼はその賭けに…勝ってしまった」
僕は心臓が苦しくなってきた。あまりの皆の無惨さに心が折れそうだった。
「私達は結婚した。彼は大手の新聞社の記者をしていたからとても忙しい毎日だった。残業はしょっちゅうだし、帰らないこともあった。でも彼は頑張っているからと、私はそれをなんの疑いもなく受け入れていたわ。でもあの子が生まれて…彼は変わった。彼は記者の仕事を内勤に変えて、子供のためにと言って早めに帰って来るようになった。私はそれも嬉しかった。彼が子供を可愛がってくれて、お風呂や、寝かし着けるのさえみんなしてくれた。休みにはあの子と二人で遊びに行ってくれた。息抜きに私の一人の時間を作った方が良いって。私はそれを真に受けた。とても良い夫だって幸せだった。慣れない育児から少し解放されて…その時間は大学の友達と会ったり、実家で両親と寛いだりして過ごした。いい旦那さんってみんなから羨ましがられて…私は幸せだった」
母はフッと笑った。
「…何も…なんにも気付かなかった。人の良い真面目な親から、私は人を疑う事を教えられなかったの。分かるでしょ? おじいちゃんもおばあちゃんも、人並みに真面目に生きて、それで周りの信頼を得て暮らしてきたって。こんな世界とは無縁に実直にね…」
祖父と祖母は堅実で優しい人達だった。この世のどす黒い部分とは無縁な生き方の二人。
「でも私の夫は違った。彼はあの子を自分の息子ではなく…いとこの分身として愛し…た…そして…私を生き地獄に墜とすために…」
そう言いかけて母は口をつぐんだ。みるみる母の目に涙が溢れ、母の膝に涙が滴り落ちた。
「母さん…」
「母さ…ん…ね…これを思いだすといまでも…パニック…になりそう…に…なる」
母は僕の発作のように過呼吸になりかけていた。
「辛く…て…苦しくて…お兄ちゃんが無惨…で…」
母は突っ伏してベッドに顔を埋めた。僕は茫然としていた。人はこんなに残酷になれるのか…と震えた。そして今僕に復讐しているあの男が、兄の父親に重なりあっていった。
「…あれは…冬の寒い日曜日だった。私は風邪をひいた母に頼まれて年末の買い物をしに出掛けることになった。彼があの子を見てるからって、いつものように快く送り出してくれた。駅まで行って切符を買おうとしたら、お財布を忘れたのに気がついて、すぐに家に戻ったの」
母はベッドに突っ伏したまま、布団をギュッと握りしめた。
「普通はね…玄関で“ただいま”って必ず言ってたの。でもその日初めて、ちょっと二人を驚かそうって…私はほんの軽い気持ちで思った。玄関をそっと音がしないように開けて中に入った。居間の扉が少し開いていた。私のいない時にどんな風に二人で遊んでいるのか見たくて、私はその隙間からそっと居間を覗いた…」
母の声はかすれて消えそうだった。
「そこで…私は…見ちゃいけないものを…見てしまった」
母は再び泣き崩れた。長い長い固い封印してとどめていた涙が、一気に流れ出してきたかのように。
「私は最初、何が起きているか分からなかった。いえ…分かりたくなかった。長い間私は二人を見てた。どうしていいか…頭の中が真っ白で…身体が硬直して…そこから一歩も動けなかった。しばらくして、私は何もなかったようにそっと玄関を開けて外へ出た。何もかもが異常で、自分が見たことが現実のことだなんて信じたくなかった。悪寒とパニックで自分が何をしているのかさえよくわからなくて、私は冬の町を幽霊みたいにさまよい続けた…」
僕はずっと母が兄とあの人の関係を知らないと思いこんでいた。きっと兄もそうだろう。だが僕はまたしても自分の認識の誤りに自分が裏切られたことを知った。
「歩きながら私は少しづつ正気に帰っていった。私は迷わなかった。をこれ以上あの人に触れさせないと。私はカバンの底に入っていた十円玉で母に買い物に行けないことを連絡した。そして家にもう一度帰った。彼と話し合うためにね」
「でも…私の地獄はそこから更に深くなっていったの。私が事実を告げると、彼は笑ったの。あの人は嬉しそうに笑ったの…これで君に俺の見た悪夢をようやく見せてあげられる…って。彼はこの世を憎んでいた…愛した者と結ばれないこの社会そのものを。そしてなんの後ろめたさもなく当たり前に結ばれ当たり前に祝福される男女の普通の愛を、彼は激しく憎んでいた。彼は全ての計画を私に語って聞かせた。この時を待っていたとばかりに。私ではなくいとこを愛してたこと…あの日の残酷な策略のこと…復讐…そしてお兄ちゃんに何をしたか…お兄ちゃんが今どうなったか。彼は言ったわ。この子は復讐の申し子だ…お前はこの子と共に一生地獄を味わうんだ。俺と離れてもお前は許されない。この子がいる限りお前は死ぬまで地獄と悪夢に生きるんだ。俺の影につきまとわれて一生苦しむんだ…と。あの人はいとことの愛を奪われて悪魔に心を売ってしまったようだった。私はすぐにあの子を連れてそのあと出て行った。二度と戻らないと自分に言い聞かせて。あの子をこれ以上この家には置いておけなかったから。でも…両親にどうやって説明したらいいか…分からなくなった…あの子がどんなふうに虐待されてたかを誰にも言えるわけがない。何日かホテルで過ごして…でもそのホテルに居た数日、すでにあの人の刻み込んだ悪夢は、私達を襲っていた」
母はベッドに顔を埋めたまま、もう身体を起こすことができなかった。