「お兄ちゃんは…もう…あの人の虜だった。あの子まだ五才だったのよ…でもあの悪魔はあの子を生まれた時から…」
それが兄から聞いた地獄。だが、兄は母に知られていたことを覚えていなかったのだ。
「引き離されたお兄ちゃんはだんだん変になっていった…当たり前よね…なぜ離婚するのかなんてお兄ちゃんに理解出来るはずがないもの。小さくて、自分が何をされていたかも理解できなかったでしょうし…それが私には地獄の苦しみだった。お兄ちゃんの錯乱を私はどうすることもできなかった。うなされながらあの人を呼んで…苦しんで…自分の頭を壁にぶつけたり…夢遊病のようにあの人を探して回った。そして…あの子があまりにも苦しんで…私はとうとうあの子に…父親と…同じ…こと…を」
かすれた声で絞り出した母の声に、僕は思わず耳を塞ぎたくなった。だが塞ぐことのできぬまま、母の告白は続いていった。
「ま…さか」
「ええ…そう…よ…私には…そうするしか…思いつかなかった。発狂しそうだった…その行為も…なにもかもが。でも…でも…あの子は…その行為の間ずっと…私ではなくお父さん…って…お父さん…って言い続けた…あの子…あの子その夜は…眠ったの……もう…私は…耐えられなかった。あの子が寝てから私は何度も吐いた。吐きながら私には…もう…逃げ道がない…と思った」
「母さん…母さん」
僕は母の背中をさすった。誰にも言えず…これを独りで…
「それからは話したわよね。私はその晩…あの子を乗せて車で海に飛び込んだ。あの時はあなたに離婚のショックって話したけど…もちろんそれは事実よ。でもね、それ以上に…私はあの子と私の未来に絶望した…」
やはりそれはパンドラの箱だったのだ。僕は兄と自分のルーツの残酷さに胸の痛みが止まらなかった。
「…お父さんが助けてくれた時ね、私はお父さんを呪ったわ。海から引き挙げられて…あの子も助かって…私はお父さんに泣きながら殺してって頼んだ。でも直に警察が来て、両親が来て、私は半分本当で半分嘘の話をしなければならなくなった。彼は年下の男と浮気した同性愛者…私と息子は偽装結婚の犠牲者…でもお父さんにはほんの少しだけ本当のことを打ち明けてしまった…」
「えっ? 親父…知ってる…の?」
「…本当に少しだけ…まだ助けてもらったばかりの頃よ。自殺未遂して病院に二人で入院してた時、お父さん心配して毎日見張りに来てた。私がまた親子心中しないようにって。あの人まだヤンキーから足を洗う前で、怖かった。でも私達のこと…ただの赤の他人なのにすごく心配してくれた。子供が可哀想だって…なんで死のうとするんだって…私、問い詰められて…仕方ないから、お父さんに秘密にしなかったら死ぬって脅かして…お兄ちゃんが父親から虐待されていて、心も身体も普通じゃないと説明したわ。あの悪魔がなにをしたかは言えるはずもなかったけど。お父さん泣いてた…こんな可愛い子に酷いなって。だからお父さんは、それも承知で結婚したの。お兄ちゃんは結婚する前からお父さんによくなついていた。それで私はすごく安心出来た。でもお父さんはあの子がどんなことをされていたか…そして私があの日あの子にしたことは知らない」
親父はあの人が死んだあの日、星を眺めていた。複雑な思いがきっと往き来したに違いない。
「不思議なことに、あの子は心中未遂してから少しづつ落ち着いてきた。あまりにショックだったからかも知れない…それは何故かはわからない…」
父の話をし始めてから、母は少し落ち着いた様子だった。
「とにかく私たちはその後すぐに離婚した。郵送した離婚届に彼はすぐに判をついて送り返してきた。今まであんなに愛していた彼はもう悪魔にしか見えなかった。私はしばらく鬱で病院に通う毎日を送っていた…」
少し黙ったあと母は僕に聞いた。
「これで…良い…?」
「ごめん。酷いこと…訊いた」
「ううん。あなたは悪くない。知らないのは…辛いもの」
母は泣きはらした目で僕を見た。
「お兄ちゃん…今…どうしてる?」
僕は唇を噛んだ。
「自分が生きてることが罪だって、自分を殺して…自分を罰してる」
「あの子…あの子は何も…何も悪くないのに…」
生まれる前から復讐の道具にされた僕の兄。魂に刻まれた父親の呪咀、父親の渇望を埋め合わせ、自分の母親を生き地獄に引きずりこむように仕組まれた復讐の器…
そんな残酷な生が有るのか。有って良いのか…? 僕は兄の底知れぬ罪悪感の源に触れていた。あんなに知りたかったその原因…だが母の告白のあまりの凄惨さに、それを訊いた僕がしばらく立ち直れそうになかった。母の告白を聞いて僕は、兄が仮にも社会の中で今まで生きていられたことが奇跡のように感じた。
「母さん…話したわ。今度はあなたが知ってること…話して…」
母は僕を見つめていた。
「兄貴にも親父にも…秘密にしてくれたら…話す…」
母の勇気に少しでも報いなければ…と思った。
「兄貴は…母さんが離婚したあとも、あの人に…会わされてたんだ」
それを聞いて母は息を飲んだ。そして嗚咽を手で押さえた。
「まさ…か…あの人…」
「…彼は…兄貴が高校生になるまで、わからないように兄貴連れだしてた。でも兄貴は、高校の時…彼との縁を切った。でも兄貴はそれも罪悪感に思ってた。だから彼がアルコール中毒で肝硬変になって長くないって知って、それは自分が彼を捨てたせいだと思って…それを知らされてから兄貴は自分を親殺しだと責めてた。それでもあの男は…死に直面してようやく兄貴の存在の大きさと愛に最期に気づいた。兄貴は少しだけ楽になったと思う…でもあの人の呪いは…まだ生きているんだ」
それがあの男。でも…それは…言えない。
「僕は…ね…母さん。兄貴に幸せになって欲しいんだ。あんなに苦しんでも…自分を殺して、人を恨まない兄貴がなんで報われないんだろうって…思うんだ。でも、僕ではだめなんだ。兄貴に今の話を聞かせてあげて欲しいんだ。兄貴は自分の身体も心も普通じゃないことに絶望してる。真っ暗な孤独の闇の中にいる…兄貴はこの世界は悪夢だって…僕はもう慰める手がない。もう全部手のうちさらけだしても…兄貴…救えない」
僕は独りでに泣いていた。
「母さんしかいないんだ…兄貴を兄貴から許してあげられるの。もう一秒たりとも兄貴に苦しんで欲しくない…んだ。僕には何も出来ない。苦しくて…辛くて…不甲斐なくて心が潰れそうになる。だって兄貴は自分を殺そうとしてるんだ」
母は指で僕の涙をぬぐった。
「…わかったわ。母さんの罪を償うのは…今しか…ないんだと思う」
「ありがとう…」
「違う…母さんがあなたに感謝しなければ。私は見ない振りをしてた。見たら心が砕け散ってしまうような恐怖にいつも怯えていた。あの子のの心がどうなっているか…聞けなかった。私は気丈で優しいお兄ちゃんに甘えてた…母親なのに…」
言ってしまいたい。一番の秘密を。母さん、僕は兄貴…愛してるんだ。母さん…
僕は言ってしまいそうになっていた。でも此処でそれを口にすることは僕にはできなかった。僕にはまだ言えないことが多すぎた。倒れた理由すらここで言ってはならない。あまりにも生々しく、辛くて、母のキャパシティを越えるだろう。もちろんいまの僕にも…
母は十五年余りかかった。僕がこうやって誰かに話せる日は、いつか来るんだろうか。
賭けは終わった。勝ちも負けもない賭けだった。ただ母と僕の兄への愛が、兄の未来にすべて賭け直された。僕にそれがわかったとき、フッと気が抜けるのを感じた。突然また目の前が暗くなった。冷や汗が吹き出し、心臓が異常な早さで打っていた。頭が痺れる…めまい…
「あ…母さん…めまい…ひどい…」
「大丈夫!?」
「く…苦しい…心臓…へん…だ…」
母が驚いてナースコールを押す。医師が駆けつけた。血圧が異常に低下している。ああ…神様…死ぬなら、兄貴の幸せと引き換えにしてよね。お願いだから…
途切れゆく意識の中で僕は思っていた。兄はもう生きているだけで充分過ぎるくらいにこの世のつとめを全うしてるんだと。脳裏に兄のイリュージョンが、夢魔の誘いのように或るイメージとして浮かびあがる。身体中に赤い血文字で刻まれた呪咀の刺青…それが暗く発光するたび、兄が身体をよじり悶え苦しむ。身体を掻きむしって血まみれになる兄の肌。触れたものが破滅していく指先、誰も俺に触るなと怯えて叫び…泣く。苦しみ過ぎて隠れてしまった魂、空っぽのハート…その空虚を満たす闇。血の匂いに惹かれて集まってくる禍々しい淫魔の群れ。虚ろな兄の瞳から溢れる涙。それすら業火に炙られ、すぐさま蒸発してしまう。
もう…いい。充分だよ。これ以上がんばらないで…他人じゃなく、自分を助けてあげて。
朦朧とする意識。僕も…限界…なんだな。兄貴と違って、全然堪え性がないや。僕のキャパはいつも小さい。すぐ耐えきれなくなる。兄貴には…なれないよ。でもそれが…普通だって思うよ。言い訳…だけど…ね。
身体が苦しい。死にそうな疲弊感。目が開けられない。息苦しい…な。寝ているのか起きているのか、自分でもわからないような時間が長く続いた。その薄い意識の中、いつからか誰かに手を握られているような淡い感覚があった。僕は誰かを問うこともなく、その手の感触に安らぎを感じていた。
長い長い夢魔の誘いが次第に溶け、僕の意識が現実に近づく。誰かの気配をベッドの横に感じて、うっすらと目を開けた。焦点が合わずにぼんやり映る部屋。母がいる…そう思い僕はそちらにゆっくり首を回した。そこに居たのは、兄だった。
僕らは黙ったまま、静かに見つめあっていた。兄の眼差しがただ温かく僕に注がれ、僕はその静けさと平穏に打たれ、涙が溢れ止まらなかった。僕の手の中には兄の温もりがあり、久しく奪われていたその温もりが僕の心を溶かしていった。母さんが…話してくれたんだ。兄の静けさからそれが伝わってきた。こんな安らぎに満ちた兄を僕は初めて見たように思った。そのことが嬉しくて切なくて、僕の涙は止まらなかった。
「大丈夫か…?」
兄の声に身体が震えた。
「お前が倒れて意識がないって…母さん…電話で泣いて…」
兄は途切れ途切れに話した。
「母さん…話したんだね」
僕の問いに兄は微笑んで、ゆっくりとうなづいた。
「俺のために…母さん…独りで…俺のために…秘密を背負ってた」
兄は目を伏せた。
「お前が…ボロボロの身体で…俺のために泣いて…母さんを諭してくれたって…母さん…泣きながら話してくれた…」
兄の目が潤んでいるのがわかった。
「母さんは、普通じゃない俺のことみんな知ってて、普通に接してくれてたんだってわかったよ。俺は自分はゲイだってこと…母さんに話すことができた。母さんは言ってくれた…あなたが生きているだけで…もう…充分って…」
そう言うと、兄は身を震わせて泣いていた。そう、きっと母は僕と同じことを思ったんだ。兄が生きているだけで奇跡なんだと。
「お前はきっとあいつが人の心を取り戻すために遣わされたんだって…母さんはそう言って俺を抱きしめてくれたよ。ほんとは母さんがそれを望んでいた…あの人が癒される日を。母さんはまだ心の底であの人を…愛してたから」
うん…そうだね。きっとそれが正解なんだ。兄貴はあの人の心を癒すために、その身を犠牲として払ったのだ。ただ愛のために、ただ愛だけのために。過酷な運命というイバラの冠を被り、呪われた身体と戦い、それでも愛することをやめなかった。だからあの人は最期に気づき、悔恨の涙を流すことができたのだ。あの姿には悔い改めの光が宿っていた。でなければ僕は彼を決して赦したりはしなかっただろう。たとえ兄に生き写しだとしても、僕はその光を見ずに、彼を赦すことはなかっただろう。今も全て赦せたわけじゃない。あの人の呪いは、まだあの男を通じて生きている…兄を処刑する者、僕の地獄巡りの案内人。だが彼はあの人の替わりに、僕を正確に兄と同じ地獄へ導いた。僕が兄の苦しみを理解するために。そしてすべてが動いた。母の秘密に隠された時間という名のそれは“鍵”。兄の閉ざされた心を開くための…
闇が光を呼ぶ。光が闇を照らす。どちらも見せて、僕に。全部愛してる。
いい最終回だったとか字幕出そうですが、まだ終わる気配はないですすみません。