わたしをつかわして
心のいためる者をいやし
捕われびとに放免を告げ
縛られている者に
解放を告げる
《イザヤ書 第六十一章1節》
それが僕の心に芽生えたのは何時だったろうか? 最初は完全に否定したそれ。だけど時間と多くの出来事が、少しづつ僕の理解と気持ちを変えていった。変えるには充分な試練だったと思う。病院のベッドの中で次第に起きた気持ちの収束。母が解放され、兄が癒され、そして僕は…
僕はひとつの静かな確信に到った。以前なら完全に否定していたこと。それが今なぜか静かに告げていた。
兄を解放する。僕から…
ひとつの宿業の終わりを僕はこの目でまざまざと見た。僕の愛する二人が変容を遂げ、不思議だが僕の心の中もその変容を共有したようだった。
ひとつの終わり、悲しみの終わり、贖罪の終わり。兄の静かな平穏は、悲しみに暮れていた僕に深い心の平和をもたらした。この静寂と平和の中で僕の心は、ひとりでにそこに向かった。兄を解放する。今度は僕の番だ。
僕の愛は変わらない。それは変わらない。きっと兄もそうだ。それがいま僕にはわかる。僕らは非常事態を解かれた。生まれつきの非常事態を初めて。僕は兄の心と共に居る。僕らは離れることはない。一緒に居たい。それも変わらない。でも後先も考えず、僕はいま静かに思う。リセット。あとは…
僕はふとあの教会の不良神父を思い出していた。あの人ならこう言うだろう。"神の御心のままに"と。
兄はまた人の心の闇を癒す旅に出るかも知れない。あの男のために。それは兄の決めることなんだ。誰にも止めることは出来ない。いつも通り策はない。そのかわり僕は兄に、あの人からの手紙を渡す。それで僕は仕事を終える。僕とあの男のことは、兄には言わないと固く心に秘めて。
その日は退院の日でもあった。僕と兄の約束の日。それは新たな終わりの日。僕が空中に足を踏み出すその日、だった。
我慢じゃなく、諦めでもなく、自棄でもない、逃避ともちがうそれ。僕のいわば義務、なすべきこと。欲望を越え恐れを退け、愛着を手放して行き着いた先。今日兄に告げようとしてる。僕のその答えを。
久しぶりに四人の和やかな食卓で、僕の退院の日は彩られた。僕の家族の底に固まっていた氷のような悲しみが、溶けて流れているような穏やかな食卓だった。お互いが何の話を大声で騒ぎ立てるでなく、それぞれが互いの存在を喜んでいた。こんな日が来るなんて想像もつかなかった。皆が緩やかに時間を楽しみ、微笑んでいた。今までの悪夢が全て相殺されていく。僕はこの一日が僕の人生を飾り、きっと死ぬまで忘れないだろうと心に深く感じた。
夕食は終わり、僕と兄は約束通り二階の僕たちの部屋へ上って行った。
兄と僕は少し黙ったまま、部屋の中のいつもの居場所にそれぞれ座っていた。僕は自分の勉強机の椅子、兄は自分のベッドに腰かけて。何から切り出そうか僕にはまだ決められなくて、頭の中で言葉を探していた。
「この部屋…少し広く感じるな」
不意に兄はそんなことを呟いた。
「自分の心かな…違って見えるんだ。秘密で苦しいほどここは濃縮された空間だったはずなのに。今なぜか、少し広く思える」
僕にもそれは少しわかった。
「うん。いつもの電気が、なんか明るくなったみたい。不思議だね」
僕らは互いの目を見た。想いは互いの胸に苦しいくらいいっぱいなのに、それは言葉には少ししか変換されず、僕はまだ言葉を見つけあぐねていた。兄は言葉を継いだ。
「お前に…なんて言ったらいいか。またお前に救われて、俺は感謝の言葉が見つからないよ…」
兄はそう言って視線を落とした。その言葉を聞いてようやく僕は話す言葉を決めた。
「兄貴」
その声に兄は目を挙げた。
「何から話していいか…分からないけど…聞いて」
兄はゆっくり頷いた。僕は話し始めた。
「それが僕の心に芽生えたのって、何時だったのか…な…」
いつものように支離滅裂で、いつものように要領を得ない、いつもの僕の話だった。僕が兄貴に告白した時も、あの人の病院にあなたを連れて行く時も、そして今も、なにも変わらないな。何も変わらない。愛してることが一番変わらない。
何も変わらない。変われない。でも。僕の答え、それしか見つからない。愛してることと、一緒に居れること、違うって知った。僕の答え、この道しかない一筋の答え。あの日見た同じ風景。選ぶことの出来ない、ひとつしかない道。戻ることも立ち止まることも許されない一本の道。それを運命と言ったよね、兄貴。僕はいまその答えを歩いてる。話しながらひとりでにまた涙がこぼれていた。
「…だから兄貴を、僕から解放しようって…決めたんだ。これは…リセット…なんだ」
なんだろう…この張り裂けそうな悲しみは。あはは、心がズタズタじゃないか。
「初めて僕は、兄貴と母さんを安心して見ていられるんだ。今、この時でも。よかった…って、心から思うんだ…だからもう、僕は兄貴に必要ないって…今ならようやく思える。進歩でしょ? あんなに拒否してたのにさ…わかってなかった。わがまま言って困らせてたこと。ごめんね…兄貴…」
泣きながら笑った。終わったんだ。僕の役目はもうおわっ…
「……なぜ…だ」
その時兄の絞り出すような声が僕の耳に届いた。その声が嗚咽に震えているのを感じると、僕には一瞬それが幻聴に聞こえ、驚いて兄を見た。兄は茫然とした顔で、僕の足元を見つめていた。
「兄貴…いま…なんて…?」
兄は答えなかった。ただ兄の目からはらはらと涙が床の上に落ちていった。
「なんで…? 泣かないでよ…だって…兄貴が…兄貴がそれを望んでたんじゃないの?」
僕は兄の反応にうろたえた。兄は黙ったまま涙を落とし続けた。
「僕が泣き喚いても、手首を切っても…兄貴は僕を解放するって…だから」
僕は椅子から立ち上がり、動きもしない兄の足元に座りこんだ。
「兄貴…泣かないでよ」
兄の止まらない涙の意味が分からない。目を見開いたまま一言も言わないで、ただぽたぽたと涙の粒が頬を伝って落ちていった。
「…僕がようやく兄貴の気持ちがわかったから? 安心したから?」
それを聞いた兄が手で顔を覆った。指の間から涙がこぼれて兄の手首に伝い、シャツの袖を濡らした。そうか…ようやく僕が理解して、兄貴は心の底から安堵したんだと、そのとき僕はこんなにまで兄に負担をかけていたことにようやく気づいた。僕は兄貴を引き止めようと手首まで切って、自分を傷つけることで兄貴を脅して関係を迫っていたも同然だった…と。ああ…僕はひどいことをしていた。兄貴はどれほど怖かったろう…僕が自分のせいで破滅していくんじゃないかって。僕はその申し訳なさに胸が痛んだ。
「ごめんね兄貴…僕がずっと困らせてたんだね」
僕は手で顔を覆いながら泣きつづけている兄の両肩にそっと手を置いた。こんなに張り詰めて、悲しみに暮れてた。僕のせいで…
「もう僕は大丈夫だよ…兄貴にこんな気持ちにさせてた…ごめんね。最低だよね僕は」
「どう…したら…いい」
「えっ…」
「どうすれば…どうすれば俺は…お前から…離れられる…?」
ようやく口を開いた兄の苦痛に充ちた言葉に、僕は自分の耳を疑った。
「あ…にき?」
そのまま兄は嗚咽で肩を震わせて、誰に話すともなく呟き続けた。
「なんでだ…? なんで…こんな……だめだ…決めたのに…俺は…決めたのに…!」
そこで言葉は途切れた。嗚咽でそれ以上話すことは兄には出来なかった。僕は意味も分からぬままどうすることも出来ず、ただ兄の肩をつかんでいるだけだった。兄の嗚咽はしばらく続いた。そのうち涙の中で兄は途切れ途切れに呟き始めた。
「…お前があの時…手首切ったのがようやく…わかった」
兄は自分の手のひらの傷痕をじっと見つめていた。涙が手のひらに落ちていった。兄は泣きながら笑った。自嘲という笑いのように。
「俺は…お前を解放することしか決めてなかったんだな。俺はお前から手を離される覚悟なんて…なかったんだ」
兄は本当に笑っていた。
「俺はバカだ…どうしようもない。お前から言われなきゃわからなかった。お前を自由にすることのリアリティを全くわかってなかったんだ…あははは…どうするんだ…俺は」
兄は涙を落としながら笑っていた。
「悲しすぎて、自分の言ったことが茶番にしか見えない…茶番にしか…どんな覚悟?…聞いて呆れる…!」
兄は笑うのをやめた。
「こんなに悲しかったら…生きていけない」
兄はベッドから床に崩れ落ちた。
「なぜ…? なぜこんなに愛しい? なぜ…自分の心を叩き潰してまで決めたことが…なぜ…」
終わらない兄の慟哭。僕は何をしたの? 兄と同じことを。
「いつも…同じイメージが俺の中に繰り返し顕れる。小鳥がいて…可愛い小鳥がいて…手の中で包んでいつも胸に抱いているうちに、いつしか小鳥は手を離しても飛ばなくなって…あんまり長く手の中にいたから…飛びかたを忘れ…て…」
兄は両手で頭を抱えた。
「俺はいつもゾッとして考えるのを無理矢理やめる。でもそれは…また浮かんでくる。お前にした俺の取り返しのつかない間違い…でも小鳥は…初めて飛び去る…こうやって。そして俺が本当に恐れていたのは…」
兄は顔を挙げることもなく床に崩れたまま話し続けた。
「俺が本当は…お前を手放せないことだ」
僕はそれを聞いて茫然とした。あんなに頑なに僕から離れようとしていた兄の言葉とは到底思えなくて。
「俺の半分が…もぎ取られてい…く。どうしたら…どうしたらいい? 俺は…俺は…一体何をすれば…お前を手放せる…?これ以上…何を…何を選べば…許される…?」
それを聞いた僕の心は、なぜか急にシンとして静かになった。心の中で僕は呟いていた。いや、正確には僕でない、もっと深いところからの確信に満ちた言葉だった。
(心を殺してもダメだよ兄貴。きっと僕を幸せにしたいと祈ったんでしょ…? 僕が兄貴の幸せを祈ったみたいに…それは宇宙の完璧な力だ。間違いはないんだ。知ってるよね。兄貴も見たんでしょ、それを。僕が心折れ力尽き神に祈るたび、宇宙は完璧に作動する。それは兄貴を癒し救う力なんだ。僕は奇跡に目を見張る。その流れの中にいる兄貴と僕。これは偶然なんかじゃない。今僕らは宇宙の胎動の中に育まれて眠っている幼子のようだ。罪を赦し本当の愛に生きろと。日常という幻から、愛が支配する本当の世界へと産み落とされる前夜のように。僕らは自分でも知らない自分に向き合わされる。何度でも何度でも。本当の想いと頭で考えた正しさが、ふるいにかけられ選り分けられる。容赦なく…限りなく正確に。幼稚な予想は正され、妄想は木葉微塵。僕たちは真実に打ちのめされて気づく。愛に。ただ愛に)
「兄貴…明日一緒に行きたいところがあるんだ。付き合って欲しいんだけど…いいかな」
何度でも、僕は愛する人のために。