※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

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19.来たるべき者

 苦しみに一晩さいなまれて、兄は幽鬼のような顔で朝を迎えていた。朝食の時間はすっかり過ぎて父は仕事にとっくに出掛け、母は部屋の掃除中で、僕たちは出かけると母に言って昼前に家を出た。

 僕たちは無言で歩いていた。春休みももう少しで終わる。今年の冬は寒くて長く、三月というのにまだ肌寒い。街行く人たちもあまり冬と変わらないいでたちで皆歩いていた。兄は無言のまま僕の横に並んで、肩をすくませてマフラーに深く顔を埋めていた。いつもなら自転車で行く道を、二人で修行者のように歩いた。兄は僕が何処に行くかも聞かずついてきてくれた。

 30分ほど歩き僕の高校の校舎が遠目に見えてきた。そこから少し通学路から離れしばらく歩道を歩くと、尖塔に十字架の先が見え、兄もどこに連れて来られたかわかったようだった。それは兄と再会した教会、僕が初めて奇跡を見た場所だった。

 教会の階段を上がり、木のドアをそっと開ける。あの不良神父は“いつでも来い”と僕に言ってくれたが、実際来たのは例のクリスマス・ライブ以来だった。

 

 久しぶりに此処に来た。教会の中は誰も居なくて、ステンドグラスと窓から明かりが中に差し込んで、薄暗い教会の中は光の帯が何本も天の光のように床に降りていた。僕たちは一番後ろの席に並んで座った。目の前の磔のイエスが、僕たちを見守っているようだった。

「前から思ってた。兄貴が自分を裁くのは不公平過ぎないかって」

 兄貴は机に目を落とし、黙って一点を見つめていた。

「もっと公平な人が裁くべきだと思うんだ」

 僕は思ったことをそのまま話した。

「クリスマスに僕が祈ったら兄貴は帰ってきた。病院で祈った時母さんは兄貴に、あの時の秘密を話してくれた。神は兄貴を救いはしても、一度も裁いたことは…ないんだ。兄貴は宇宙の完璧な美しさを知ってるんだろ? 兄貴も僕も宇宙にならそしてそれを作った神になら、裁かれても納得できる……そう、思わない?」

 兄は目を閉じていた。僕は続けた。

「僕は…キリスト教の信者じゃない。でも、僕を超えた力を見てしまった。兄貴は自分で全部背負い込んで、自分を責めて…こんなに苦しんで……僕は兄貴の苦しむ姿に心が引き裂かれる。痛いんだ…自分のことみたいに、痛くて苦しい」

 泣きつくしたはずの兄の目に、またみるみる涙が溜まるのが見えた。

「昨日も言ったけど、僕はどんな答えも受け入れる…それがリセットだ。でも兄貴が苦しむような選択はアウトだ。兄貴が苦しいなら…僕は幸せにはなれないよ。絶対に」

 僕はすでにその時心の中で必死に祈り続けていた。神さま…兄にはあなたが必要なんだ。こんな過酷な運命、あなたなしにやって行けるわけないでしょ?

「僕と兄貴が幸せになれるように…今度は兄貴が祈る番だ」

 わかってるんでしょ? 兄貴の前に早く顕れて、あなたが兄貴愛してるって早く教えてあげて。

「僕は兄貴の…兄貴は僕の幸せをいつも願ってる。なら二人とも幸せにならなきゃ嘘だろう?」

「ああ…そう…かも知れない」

 兄はこの日初めて口を開いた。でも兄は途切れ途切れにこう言った。

「それでも…神は許さないだろうよ。俺には、幸せになる権利なんて…あるのかな…」

 兄の心の中で余りにも長い間かけて固まってしまった罪の意識は、兄の感覚に入り込み、容易には離れそうにもなかった。僕は反論した。

「僕は人間の裁きなんか信じない。祈って本当に天罰が下るまで…僕はそれは信じない」

 兄は大きくため息をついた。そして僕に真剣な目でこう言った。

「わかった。でも今の俺は…お前の幸せしか祈れない。それで良いか」

 僕は頷いた。

「うん。兄貴の幸せは僕が祈る」

 僕たちは一緒に目を閉じた。

 

 ほとんど同時に僕たちは目を挙げた。長かったのか短かったのか、時間が感覚から抜け落ちていた。だがそれは互いに自分を捧げる様な、心の奥底からの願いだった。兄は放心したよう椅子にもたれて祭壇を眺めていた。しばらく僕たちは無言で、黙祷のような祈りの後の時間を過ごした。

 しばらく時間が経ち、僕はポケットを探った。あの人からの手紙を兄に渡す…それは何か最後の使命というような、僕たちにとっても大事な何かだった。いつもの通り僕は、それが何をもたらすかなどわかってはいなかったけれど。僕は手紙を取りだし、そっと兄に差し出した。兄は不思議そうな顔でそれを受け取った。

「読んで」

 僕はそう一言だけ言った。封筒から手紙を出して読み始めた兄の顔がみるみる変わり、驚いた顔で僕を見つめた。

「これって…」

「うん…あの人から。なくなった後届いた。僕…驚いたよ」

 兄は驚いた顔のまま手紙を読み進めていった。

 

 だが読み終えた兄の顔は安らかだった。それは兄が、あの男があの人の恋人だったことを、そして兄を陥れたあの忌まわしい陰謀もすべて何もかも知った上で関係を続けていたことを暗示していた。

「お前…これ読んで、どうしたの?」

 兄は少し不安げに僕に尋ねた。僕は途中までの真実を語った。

「僕…この電話番号…知ってた」

「えっ…?」

 兄はまた驚いた顔で僕を見た。

「兄貴の携帯見たって、病院行く前に謝ったでしょ? 実はその時、兄貴が着信履歴を消してなかったから、その番号がたくさん残ってた。手紙読んでからだいぶ経って思い出して…兄貴の話とつながっちゃった。部屋に来てた人なんだなって」

 そう言ってから僕は兄に確認した。

「兄貴…知ってたの? 彼がどんな人か」

「ああ…知っていた。彼、親父の恋人だった。そして俺を、あの男達に引き渡したのも…多分…彼」

 そこまで兄がわかっていると知って、僕は驚いた。

「そんなことわかってて…なんで」

 兄は暗い顔をした。

「お前を、あきらめるためだよ。そして俺はハメられた時、“俺がお前に犯した罪が全て返ってきた”って思わずにはいられなかった。だから父親の犯した間違いを代わりに払うんだと、どこかで俺は納得していた。彼に追い回されていた時でも、これは何かの罰なんだって…」

「でも…好き…なんだよね…その人のこと」

 僕は聞かずにはいられなかった。

「身体は求めてしまう。でも、心はお前から離れない。どうやっても。彼を愛せれば良かった。そうすれば父の罪も軽くなるのにって。彼が間違えて父の名前で俺を一度だけ呼んだことがあった。俺の名前は父の名前と最初の漢字が一緒で、音が似てるから、つい間違えてしまうんだろうな。それですぐ俺はわかった。親父に彼氏がいるのは前から薄々わかっていたし…まだ親父が死ぬ前だった。きっと親父が俺の様子を探りたいのかと思って。でもお前に病院に連れて行かれて、事が明るみに出て、俺はこの陰謀のすべてが彼の計略だと想像出来た。多分それは間違いじゃないと思う。だから俺は父が死んだことを彼に知らせた。彼は俺と父の名を呼び間違えていたことを気がついていないことがわかった。彼はショック受けていたようだった。でも知らないふりをして取り繕っていたけどね…俺が何も知らないと思ってたから」

 残酷だ。兄は僕の名を、彼は兄の父の名を…。人は心を込めて名前を何度も呼ぶから、前は心に刻まれてしまうのだ。

「二人とも…報われないね…それが、悲しくてたまらないんだ」

「ああ…報われない。彼は親父の影を追い求めて俺を求め、俺はお前の影から逃げようとしてその求めに応じた。でもその時は俺は気付かなかった。あの母の告白を聞かされて、俺ははっとした事がある。彼は…母のいとこに似てる。小さい時に一度だけ会ったことがある。だから、初めて彼と会ったとき…妙な既視感があった…それがなぜかわからなかったけれど。母の話を聞いて、俺はこの関係の本当の報われない悲劇を知って、既視感の源を思い出した。母といとこは似てるんだ。だから俺達の母親に、彼は似てるんだよ…」

 ああ…みんな報われない幻影を追って、悲しみを連鎖させて、悲しい原因が悲しい結果を産み、その悲しい結果が次の業を生む。なぜ人の世はこんなに報われない悲しみに満ちて、流れ続けているんだろう。皆が苦しみの中にいる。もうやめたい。僕はそう願わずにいられなかった。

「ね、兄貴。二人でもう一度だけ…祈って欲しい」

「なにを…?」

 兄は僕に聞いた。

「その…彼のこと」

 兄は頷きながら大きく息を吸った。

「そう…お前の言う通りだ。彼が一番悲しいかも知れないな」

「彼にも幸せを」

「ああ…彼にも幸せを」

 僕たちは再び祈りの時を歩いた。彼の闇を光が癒すように、彼の渇きを愛が癒すように。もう誰も悲しまないで…と、すべての運命のねじれた糸が、ほぐれて真っ直ぐになりますようにと。

 彼はまた、僕を貪りに来るんだろう。兄は身体を慰めに彼に逢うのだろうか。僕の中に何度も彼の姿が浮かび上がり消えていった。彼から犯される苦しみがこの先も続いていくのか、僕にはわからなかった。

 

 数日して、始業式を迎えた。また僕の生活は学校に支配され、先の見えない人生は一向に変わらないままだった。だけど僕の心はなぜか少し軽く、それは兄が癒されたことがすべてだった。兄は大学院に行き始めた。あの部屋で…

 あの男の呼び出しはまだない。兄は逢ってるのか? 聞きたくないし聞けなかった。そして二年になりクラス変えがあり、なんの因果か僕とパンク野郎は同じクラスになっていた。

 うわ…陰謀じゃね? ヤツは笑いながら僕を肘で小突いた。きっとC組にパンクを蔓延させろというパンクの神の差し金だな…! と、僕は笑いながら答えた。お? お前…前よりマシになった? そんなふうに僕に尋ねるヤツの直感は今月も冴えている。

「分かるかぁ…笑ってるもんな。うん…お前笑えなかったもんな」

「お前はどうなんだ?」

 僕は聞いてみた。

「ほぼ変わりなし…風通し少し良し。お前とクラス一緒になったからな」

 パンク野郎は珍しく殊勝な事を言い、僕に笑って見せた。僕はその殊勝なセリフに応え、こちらこそよろしくたのむ…と、長い一年の始まりの挨拶とした。

 校舎から遅咲きの桜が見えた。寒さの中でも屈託なく咲く花は、過酷な運命にも荒まない人を思い出させるようだった。そして寒い年の桜は美しい。少し切なくなるくらいに。

 

 




 先日は、編集半ばで予約投稿されてしまい、大変失礼いたしました。ちゃんと予約時間までに編集が終わるはずだったんですが、あまりのプライベートの紛糾具合に、嵐の中の葦舟のごとき数週間で、PCに触れることさえ忘れるといった有り様。ええ、言い訳です。もともと出来の悪い作品なのに…とほほ。
 それでも根気よくお読み頂いた皆様、本当にありがとうございます!! 今後共、精進してゆく所存です。
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