気をつけるがよい
もし、互いに噛み合い
食い合っているなら
あなた方は互いに
滅ぼされてしまうだろう
《ガラテヤ人への手紙 第五章15節》
珍しく兄から携帯にメールが来た。
兄は大学に行きながら夕方からバイトで家庭教師をして、最近は帰りが遅い。メールが来たのは夜も10時を過ぎ、もう帰宅する頃なのに。メールには簡単に一行、こう書いてあった。
『電話して 今すぐ』
僕は胸騒ぎがした。何かはわからない…でもおかしい。兄は僕にメールをしない。メールが来ること自体がおかしい。内容はもっと。いやな予感をぬぐうために、急いで居間から自分の部屋に戻り兄の番号にかけた。電話はすぐつながった
「ごめん…迎えにきて欲しい」
「…兄貴…どうしたの?」
「体が…動かない…説明はあとで」
「どうしたんだよ!」
「とにかく…迎え…よろしく」
「迎えって…どこに?」
「ああ…そうか…言わなかったっけ。○○駅まで…北口のベンチのあるところ…わかるかな…本屋の前の」
「わかった!すぐ行く」
自転車で10分ぐらいのところだった。いつもの最寄り駅じゃないのが気になった。体が動かないってなにがあったんだよ? 兄の言葉では全く予想がつかないその事態を僕は考えたくなかった。発作が出そうだ。
「母さんらには言うなよ」
なにかあったことは間違いない。部活の友達から相談のメールが来たと母にウソをつき家を出た。
兄はベンチに横になっていた。
「兄貴」
僕は兄の肩に手を置き少し揺さぶった。
「あぁ…悪い…起きるの手伝って」
「何があったの?」
「聞くな…吐きそうだ」
兄は笑っていた
「誤魔化すなよ…どうしたんだよ」
「…今は言いたくない」
「助けるからあとで話してよ」
「…ん…わかった」
僕は兄の体を起こした
「自転車乗れる?」
「ダメだな」
「じゃあどうすれば…」
「タクシー呼んで…あと酒買ってきて」
「え?…酒?」
「うん…飲んだことにする…かあさんに」
「なんなんだよそれ!」
「いいから。お願いだから」
もう笑っていない兄の尋常でない様子に気圧されて、混乱したまま近くのコンビニで缶入りサワーを買い、戻って兄に渡した。
「タクシー呼ぶよ」
北口にはタクシーはなかなか来ない。僕は駅の架橋を走って渡り南口のタクシー乗り場に並んだ。順番を待って乗り込み、それから北口の兄のいるベンチまでタクシーの運転手を案内した。
「じゃあ先にいく。ごめん…あとは出来る」
「本当かよ…絶対話してよ」
「わかったよ」
兄をタクシーに移し僕はコンビニでコミックを読んで時間を潰した。タクシーなら10分もかからない。僕はタイミングを見計らって自転車で家に向かった。くそ…なにがあったんだよ。よく発作が出なかったと我ながら感心した。きっと火事場のなんとかってやつだ。僕は兄から聞き出せるだろうか。良いことでは絶対ないはず。
家に帰ると、兄はもう部屋で寝ていると母がなんともなく言った。うまくごまかしたな…ちょっとだけ安心した。さあ…次は兄が話す番だ。僕は階段を上っていった。
兄は頭の上まで布団をかぶり、寝たふりをしていた。僕は静かにドアを閉めて兄の布団を顔が見えるように少しずらした。兄の顔が見えた時僕はその手を思わず布団から放してしまった。兄は両手で顔を隠し体をこれ以上ないくらいに丸めて震えていた。
「あに…き?」僕はそう言いかけ言葉を失った。
「ダメだよ…見たら」兄はいつものようにそう言った。
「どう…したの?…具合悪いの?」
「ああ…いや」
「…ほんとに話せるの?」僕は恐る恐る聞いた。
「話したくは…ないな」と兄はゆっくり言った。
「でも約束…だから…お前と」
僕は少し躊躇った。話したくないことを聞いていいのかって。
「約束だけど…今じゃなくても」
「今じゃないと…きっと一生お前に話せないよ」
兄は顔から手を離して僕を見た。母に似た切れ長の大きな瞳が僕を虚ろに見上げていた。
「……」僕は黙って彼の言葉を待った。緊張で自分の鼓動が聞こえてくる。
「…死にたくなった」
兄はそう言うと少し笑った。兄の唐突な言葉に僕はパニックを起こしそうになった。兄は片手で口もとを押さえながら話し始めた。
「あいつ、病気になってた」
「えっ?」
「アル中で肝硬変だって言うんだ」
「あいつって…もしかして」
「死ぬかも…って…」
「あいつなのかよ!!」
「お前に捨てられて淋しいって」
なんて…兄の弱点を知り抜いた手を。
「ズルい!そんな…兄貴は断れるはずないじゃんか!」
僕は切れそうになった。悪どい手を使いやがって…僕の身体は怒りで震えていた。
“あいつ”とは兄の父親だった。まるで兄は自分の淋しさをまぎらわす道具。僕の家族を苦しめ、まだこれ以上兄を僕を苦しませるのか?
「兄貴…兄貴はどう…」
「俺のせいなんだ」
「兄貴のせいじゃない!!絶対に兄貴のせいじゃない!!」
「あんなヤツでも親なんだ」
「なんで…」
だがそれを聞いて僕は力が抜けてしまった…兄の気持ちがわかってしまうから。子供は無条件で親を受け入れてる。たとえ虐待されても。
僕は兄のことで虐待された子供の心理学や医学書を学校の図書館で出来るだけ読んでいた。それらには決まってこう書いてあった。子供は虐待されてもそれが自分のせいだとずっと思っている。自分が悪いからこんな風にされるんだと。
「じゃあ…なんだったんだよ…今日の…体が動かないって…僕を迎えに呼んだのって」
兄が息を詰める音が聞こえた。その次に出た兄の言葉は、僕の耳を疑うような言葉だった。
「…親父の借金のカタにされた」
「どういう…こと…?」
僕の頭の中は一瞬凍りついた。
「今日いつも通りあいつのマンションに行った」
「いつも通りって…」
兄はあいつに頼まれて通ってたのか?
「部屋にあいつは居なかった…少し待ってたら知らない男が二人入ってきて…ヤクザみたいな柄の悪いヤツで…」
「兄貴…もしかして」
「……いきなり薬を嗅がされて」
すーっと血の気の引くのがわかった。兄が…奪われた。
「…抵抗する間もなかった…意識が朦朧として…やつらに二人がかりで代わる代わる…長かったな…」
僕はあまりのことに声も出なかった。ただ寒気が全身を包んでいた。
「…死にたい…と本気で思った」
兄はまた少し笑った。
「もうこんな世界…うんざりだ…って…でも…」
「…でも?」僕の声も震えていた。
「終わったあと這うようにしてあいつの部屋からタクシー呼んで…家に帰る時…お前のことだけ考えてた」
僕は崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。
「死ぬのはやめた…お前に迎えに来て欲しくてメールしたんだ」
「兄貴…もう話さなくて言いから」
「生きていていいかな…俺は」
「兄貴が死んだら僕も死ぬ」
僕はそう口走っていた。
「…あいつは多分…長くない」
しばらく黙っていた兄はゆっくりと口を開いた。
「俺は甘いな…憎しみしかないって思ってたあいつがもうすぐ死ぬって突きつけられて…そうしたら」
僕の胸はまた苦しくなり始めた。
「…明日死ぬかも知れない人を憎むことって…難しいんだな」
産みの親を憎む苦しみが兄を蝕んでいたことを僕は知ってる。そして父親を捨てたことの罪悪感、しかも捨てたことによって自分の父を破滅させた…と今、兄は自分を責めてる。
「…どうしたいの?」僕は兄に訊いた。
「憎みきりたい…それができなきゃ尽くすしかない…葛藤はもう苦し過ぎる」
兄は再び両手で顔を覆った。だから泣いてたんだ。僕を抱いた後…苦しくて堪らなくて。
「俺は…あいつの借金を返そうと思う…薬代もない…だから」
「…だから?」
「あいつの為に体を売る」
「な…なんで!」
「復讐…かな…贖罪かな…? 俺の罰なのかもな…」
「兄貴!言ってることめちゃくちゃだよ!支離滅裂だ…兄貴、訳わかんなくなってるよ!」
頭の良い兄の言うこととは思えないほどのめちゃくちゃな結論。
「まだ薬が抜けないからおかしいんだ…それに兄貴…こんな目にあって…あんまりだよ…今はショックが大き過ぎるよ…もう寝たほうがいい」
「……」
「ね、僕も一緒に寝るから」
それを聞くと兄は身を絞るように両手で自分の頭を抱え、首を激しく横に振った。
「来ちゃだめだ!」
「なんで!?」僕はびっくりして兄の腕を掴んだ。「一体どうして?」
「もう…お前抱けないんだ」
その言葉に僕は呆然となった
「イヤだ…そんな…なんでだよ! なんでそんなこと…」
兄は震える声で言った。
「もうダメなんだ…俺は悪魔に鎖で繋がれてる…俺は…もう戻れない。お前は俺とは違う!だから駄目だ」
兄は完全に錯乱していた。
「ダメだ…ダメなんだ…うぅぅ…」
完全な混乱…僕はこのまま兄の気が狂ってしまうんじゃないかと怖さに怯えるほど。
「悪魔って…なんなんだよ…兄貴は変わらないよ!…兄貴が誰にけがされようが…何も変わらないよ! 僕だって…変わらないよ!」
「ダメなんだ…もう写真もビデオも撮られた。言いなりになるしかない…俺は親父の借金を返すまで毎日あそこで客をとらされる。もう他に選択の余地なんかないんだ…」
ウ…ソだ。
「…あ…あ…そん…な…」
息が苦しい…ウソだ…ウソだと、お願いだからウソだと…言って。兄貴…? 意識が遠くなる…発作だ。ごめん。もう耐えられなくなっちゃった…ごめんね…兄貴…
僕は兄の膝にに倒れこむように意識を失った。
夜中目が覚めた。意識が戻ったみたいだ。僕は兄のベッドに寝かされていた。あの身体で僕を引きずり上げ、兄はきっと上の段の僕のベッドで寝てるんだろう。
すると上のベッドから小さな声が聞こえてきた…兄の声だ。僕は下のベッドを出て、木製のハシゴを静かに上っていった。豆電球の小さな光に目が慣れてきた。兄は苦しそうに喘いでいた。僕の過呼吸の発作のようだった。掛け布団を抱いて顔をしかめ、小さくうわ言のように呟く。
「たすけて…やめて…やめて…」と。
兄はうなされていた。ハシゴの途中に立ちつくしたまま僕は凍りついた。壊れちゃうよ…兄貴が壊れちゃうよ。僕には今どうすることも出来ない。僕が起こせば兄はもっと苦しむかも。今兄は夢の中で見ず知らずの男達に犯されているんだろうか。それとも兄の父親に…?
「あ…もう…許して…お願い…もう…ああ…いやだ…駄目…だ…め…お願いだから…やめて…痛い…痛い…やめ…」
兄貴…起きて…早く覚めて。そして僕に言って。ただの悪夢だって。俺が悪い夢を見ただけだって。
だが、兄が苦しげに寝返りを打った時、グレーのスエットにまだ鮮やかな血糊が滲みていて、それがシーツにも点々と着いているのを見た。
これ…血が止まってない? 兄貴…どんだけ酷いことされた? きっと酷い裂傷になってる。兄貴…病院行かなきゃ。どうしよう? 起こさなきゃ。でも…今からどこの病院に? どう説明したらいいのかわからない! ああ、これは夢なんかじゃない。
僕はもう現実に抵抗できなかった。悪夢に現実が侵されていく。僕は耐え切れずに目を閉じた。止められないよ…兄貴…
「…お前…意識戻ったのか」
兄が僕の気配で目をさましていた。
「泣いてるのか?」
「……」
僕は何も言えなかった。今口を開いたら、声を上げて泣いてしまいそうで。
「ベッド替わる?…寝られるか?」
こんな時に兄は僕を心配していた。僕は泣き出しそうになるのを必死でこらえながら兄に尋ねた。
「兄貴…血が…シーツに」
「ああ…知ってる。ひどくやられて…痛い」
「血が止まってないの?」
「もう止まってる…止まりかけてたのが酒が入ってまたちょっと出た。でももう大丈夫。はは…明日見つからないように洗濯しなきゃ」
僕はほんの少しだけほっとした。
「病院行かなくていいんだね」
「大丈夫だから…お前は寝ろ」
「大丈夫じゃないよ」
「心配するな」
「うなされてた…聞いてて辛くなるようなひどいうわ言言って」
「俺の夢なんて昔からいつも悪夢だ」
兄はまた少し笑った。
「笑わないでよ」
「絶望した時はつい笑ってしまう」
兄はうつろに微笑みながら言った。
「生きていくことが俺には悪夢…」
「そんな…」
「救いはお前だけ」
「僕だってそうだよ」
「俺の心はお前のものだ…それは変わらないから」
僕は堪らず言った。
「一緒に寝て…側に居させて」
兄は少し黙った。そして囁くような小さな声で言った。
「だめだ」
「なぜ?」
「俺が壊れる…お前に触れたら」
「なぜ?」
「心を殺したいから…」
兄は静かに言った。
「欲望の道具になったら…心が死なないと…俺が俺自身を殺したくなる…お前に触れたら俺の心が開く。開いたら…俺の精神はきっとこれから始まる日々には耐えられない…。誰かを殺すかも…自分か…誰か…全部終わったら…また俺はお前に生きて帰りたい…全部終わったらまた…戻ってくる…死なないで戻ってくるよ」
「あ…あに…」
もう声にならない。誰か僕に兄を返して。あにをかえして…
「気が狂ったほうがマシかもな」
そうだね…兄貴。僕も狂ってしまいたい。
僕たちの蜜月は、唐突に幕を閉じた。
こんにちは。架空線です。正月っぱらからこんな鬼畜な展開のR-18を移植してると、すっかり正月気分が抜けてくる気さえ致します。しかし、この携帯小説風味付け…何とかならんものか…自分でケータイ小説サイトに書いておいてそれはないですが、過去の作品って不思議なテイストですね。最後まで引っ越しできるかしら? 頑張ります(←自分の為以外の何物でもないエール)。ではご閲覧本当にありがとうございます。