主はこう仰せられる
疫病に定められた者は疫病に
つるぎに定められた者はつるぎに
飢饉に定められた者は飢饉に
虜に定められた者は虜に行く
《エレミヤ書 第十五章2節》
「私と二人、深く分け合っていた闇を、君の兄さんははどこかに失ってしまったようだ。引き合っていた赤い糸は切れ、触ろうとしても手からすり抜けていってしまう。紅く燃える熾火も、黒く生温い暗闇も君の兄さんから抜け落ちてしまった…なぜだ…?」
彼は僕を押し倒した。
「また君のせいか…?」
彼の唇が首筋を這い、指が敏感な部分を捕らえる。
「はうっ…」
「君だけは変わらないな。安心する。いや…少し変わったかな? 前より私を受け入れ始めて…」
彼の舌が僕を犯す。
「んあっ!」
「苦痛でなく、快感に震えている」
腰の辺りから蕩けそうな感覚が身体を支配してくる。思わず腰を浮かして回してしまう。
「ストックホルム症候群か…?」
彼はクスッと笑い僕の腰を両手で掴み弄んだ。僕のいきり立ったモノを眺めて息を吹きかけて焦らす。
「はあっ…あ…あ…」
「人質が犯人に好意を持つように自分をマインドコントロールする。それともこの前の調教が効いたのか、どちらにしても私の想定内だ」
「あ…ああ…」
「たまらないだろう…」
たまらな…い。彼の言う通り、やっぱり身体を盗られてる。嫌悪を侵す性感の波紋。徐々に…しかも確実に。苦しむよりマシだから。でも逆にコレで苦しむようになる。ストックホルム症候群? ああ…そうかも。その気持ちわかるよ。心が極限になればわかる。
「とにかく君の兄さんに何かがあった。君のせいだな。私の気持ちがすっかり萎えて…とても虚しいよ…とても」
「んあっ…ああ!」
彼がいきなり押し入ってきた。両手を掴まれベッドに磔になり、されるがまま。縛られてもいないのに、抵抗する気になれない。
「何があった…?」
ゆっくりと責めながら、彼は僕に聞いた。
「別…れた…ん…だ」
僕はまた事実の一方だけを告げた。
「リセッ…トした…ああっ」
僕の話が喘ぎ声で切れるのを楽しむように、彼は僕の身体を嬲り続けた。
「そうか。ようやく邪魔者が消えたのに、邪魔な君と一緒に兄さんの闇も消えてしまったとは…なんて皮肉な話だ…」
「んあああっ…!」
彼は内臓を突き刺すように、深々と僕を貫きえぐった。彼の身体の下で僕の身体が軋んで悲鳴をあげる。
「君なしでは兄さんには闇に堕ち得なかった。そういうことか。確かに君の身体をこんなにした罪は重い。君は兄さんを恨まないのかな…? 人生のスタートを挫かれ、倒錯した異常な快楽を刻みつけられて、私の復讐の犠牲にされ、こんな風に身体を開かされ、よがり狂って。君の苦しみは全て兄さんのせい…そうではないのかな?」
「んっんっんっ…んん」
「こんなに乱れて…可哀想に。私の質問にも答えられないのか。君の身体は本当に狂ってる」
彼の言葉が僕の愉悦に油を注ぐ。兄に…兄に…された…ああ…でも兄が…? なにを?
だけど僕には恨む理由は見つからない。一切。あなたの質問は不毛だよ。でも兄貴のことを聞くと身体が熱くなる。この狂った身体で兄貴に抱かれたいと心の底から思うよ。
「ああっ…あっ…やめ…うっ」
快楽の飛沫が僕自身を汚す。
「勝手にイッたな。こんなこと、この前までなかったのに。君は開ききったんだな」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「くああぁ…あは…あ」
自分でも驚くほどの体感の変わり様。こんなに、こんなに悶えてる。後ろから犬みたいに犯されても、髪を掴まれてひきずられて、されてることは前と同じ。だけど…あの日から、まわされて犯し尽くされたあの日から、僕は自分の中の自制を壊されて、失ってしまったみたいだ。兄貴のいない場所で。
「うああ…あっ…いや…だ」
「どうなんだ? 兄さんを恨まないのか? こんなはしたない身体されて。君だって彼のいけにえだ」
彼は執拗に兄の行為を責めた。僕に恨みを持たせてなんになるんだ。彼は何が言いたい?
「君はなぜ兄さんを諦められた? 君の身体がもう兄さんのものだけでなくなったからか? 君は無意識に保険を得たのか? 私という快楽の供給者を得て、無意識に安心したのではないのか?」
彼は珍しく感情的に僕を言葉で責めた。
「ち…違う。僕は…僕が兄貴を解放した…ん…だ。僕の執着から…兄貴を…兄貴を…自由…に」
「それでは君は私無しで兄さんと別れられたのかな?」
もしかして彼は本当に、今度は僕…に…?
「な…にが…聞きたい…の?」
僕は喘ぎながら彼に尋ねた。
「…復讐は終わっていたんだよ。」
彼は驚くべきことを囁いた。
「おわ…り…?」
「私の中の恋慕が萎えてしまったのに、嫉妬だけが残ると思うかな?」
彼は僕の顔をじっと見つめた。
「だが私は、まだ君の白い羽根をむしり続けたい」
彼は僕の唇を指先でなぞった。
「闇のない君…君の心とは最初から繋がらない運命だ。それでも私は君の羽根を散らし、苦しむ様を見たい。身体を私に取られても、闇に馴染まない君の心を、ただズタズタにしたい。完全な嗜虐が私を支配する。君の身体中を傷だらけにして弄びたい。快楽に喘いでさえ苦しむ君を、更に貶め…切り刻みたい…!」
彼が更に興奮してくるのがわかる。猫が捕まえたネズミで遊ぶように、僕を嬲って弄んで傷つけたいんだ。
「真っ白な新雪に泥靴で真っ黒い足跡をつける。雪が降ればまた白くなる。また私は君を靴で踏みにじる…永遠にそれの繰り返し…なんて気持ちの良い無限のループ!」
これ以上どうやって踏みしだくの? 復讐じゃないだけ。することは変わらないのに。
「おもちゃ…だね…あなたの」
彼は僕の唇にキスをした。
「おもちゃ…良い響きだ。気に入った人形を子供が振り回してボロボロになるまで離さないのと同じようなものかもな。気に入ったのに、どう遊んでいいかわからないから」
彼はまた嬉しそうに笑った。
「気に入ってる…そうか、私は君を気に入ったみたいだ。殺してみたい…この首を掻き切りたくなるな」
彼は激しく僕を掻き抱いて、深く僕の唇にくちづけた。痛いほど舌を吸われ、思わず顔をしかめる。
「君の苦しそうな顔がたまらない」
彼は僕の口に指を入れる。
「君の兄さんは心の隙間を私で埋め合わせた。今度は私の虚しさを君で埋め合わせるんだ」
兄は母の言葉で癒され、彼は兄の闇に寄生出来なくなった。彼は兄の闇を愛していたのだ。なのに僕はまだ解放されない。それどころか今や彼の心を今度は僕が慰めることになっている。重ならない心で? 重ならない身体で? いや…身体は蝕まれていく。今もこうやってビクビク震えて、粘膜の中に閉じ込められてもがいている。輪姦されて、性的な制御を壊されて、身体だけが開いてしまった僕は、あの日から誰に抱かれても感じてしまうんだろう。現に心が重ならなくてもこうやって身体は開いてしまう。それとも心の底では受け入れているからなのか? それとも本当に兄とリセットして、その虚しさを彼に慰めてもらっているから感じているのか、僕の身体に起きていることは、わかるようで僕には理解出来ない。愛がなければ感じなかったはずの僕は、どこへ行ってしまったのか。心の深い傷から逃れるための代償機制? 本当にストックホルム症候群かも。でも症候群はもう一つある。犯人が人質に好意を持つ場合もね…なんて言ったっけ? 前にテレビでやってたのに。
彼が不意に僕から身体を離した。ドアの外に音がする。彼はシャツ一枚で戸口で聞き耳を立てている。やはり変だ。一体何があったのだろう? 音が遠ざかる。彼は少し戸を開けて廊下を見渡しているようだった。僕は裸のままぐったりとベッドに横たわっていた。彼はベッドに戻ってくると、僕の口に薬を押し込んだ。口移しで水が彼の唇から僕の口の中に流し込まれる。飲み込んで、少しむせて、それから彼に聞いた。
「帰るの…?」
彼はなにも言わなかった。いつものように僕は意識を失っていた。
目が覚めても車は移動を続けていた。まるで誰かに追われているみたいだった。いつもならどこか人気のない場所で僕の起きるのを待ってるのに、今日は始めから終わりまでなにもかもイレギュラーな一日だった。彼もいつもと違う。言ってることもなんとなく辻褄が合わないし、彼の冷酷さもいつもの感じと違う。
やはり彼は時折バックミラーを気にしながら、かなり荒い運転で走っていた。まだ夕方にはならない。いつもより早く部屋を出たんだろう。
「舌を噛まないようにな」
彼は僕を気遣ったのか、しゃべらないように牽制したのか不明なことを言った。彼は僕が目を覚ますのがすぐ分かる。
「誰かに…追われてるみたいだ」
僕は思ったことをそのまま告げた。
「ご名答…君が雇った殺し屋か?」
彼の答えは冗談とも本気ともつかなかった。
「本気?」
「半分な」
「マジで…?」
「君には十分な動機があるし…」
彼は自分の言った事のバカバカしさに思わず吹き出していた。
「ククッ…でなければ君の兄さんだ。あはは…君の兄さんから殺されるなら、それも良いか」
彼はまた呆れたように笑った。
「思い込みのレベルは少し越えている。人は時折立場が逆転するのだよ。取るに足らない人物が何かの弾みで変な権力と繋がったり…」
彼は自嘲的に、そして軽蔑的に少し顔を歪めた。
「近いうちに私は行方をくらますか、密かに殺されるか…まあ、いままでになかった経験ではない。それが誰かも察しはついている」
僕にはにわかに信じがたい話だった。
「…そんなこと…本当に?」
「さあね。ただのドライブかもな。君には関係ないことだ」
「…関係、あるよ。僕らの秘密を持ったままあなたはどこかに去って…きっと僕や兄貴の写真とかビデオ…持ってるんでしょ? あなたがどうにかなったら、僕らの秘密は誰かの手に渡ったりするんじゃないの?」
「心配か…?」
「当たり前だよ…!」
僕は危惧していることをそのまま話した。
「心配には及ばないさ。君らを脅迫するメリットはもうないからな。君の兄さんの心を求めていたが、もう取り返しがつかない。彼も亡くなった。手に入れるために何かをするといえば君のことぐらいだが……はは、それとも逃避行に連れて行こうか? ただの足手まといだな。二人とも死ぬだろう。君が凄腕のスナイパーかヘリの所有者とかならともかく。悪いが君を脅迫して縛りつけておくメリットはない。面倒くさいし、自分の命が大事だ」
僕にはその切迫した状況がにわかには信じられなかった。
「君にはもう少し逢いたかったのに残念だな…」
彼は思いもつかないことを告げた。
「せっかくの良いおもちゃだったのに。程よく調教されて、これからもっと楽しく虐められたのだがな。神は天使と悪魔が仲良くするのがお嫌いのようだ」
僕は神という言葉が彼の口から出たことに驚いた。
「本気で…狙われてるの…?」
「70%以上の確率で」
「祈れば良いのに」
「はあ…?」
「なら…祈れば良いのに。神様とか言うんなら」
一瞬の沈黙の後彼は大笑いしていた。
「あはは…! 君…天使だ! 本物だ! この私に…祈れって…! あっはははは!!」
そして彼はバカにしたように僕の顔をチラッと見た。
「君に祈って欲しいな」
彼は意外な返答をよこした。
「悪魔が神に祈るわけないだろう? 言い出しっぺの君が祈るべきだ。私のために!」
彼はしばらく苦笑していた。僕はそれ以上何も言えなかった。彼は僕を嘲笑いながら、独り言のように言葉を続けていた。
「私に“祈れ”って…本当に…自分が何をされたか忘れたのか? バカなのかこの子は。脅されて、犯されて、輪姦されて、自分の愛する兄を陥れた男に…ああ…そうか…悔い改めろっていう意味なのか。ああ、それならわかる。レギオンに出て行けって? 豚の腹に入りなおして、断崖から海に身投げしてやろうか? ふん! お笑いぐさだ。どのみち救われんだろうよ。それでも祈れと…バカか」
途中から僕には、彼が何を言っているのかわからなくなった。車は依然としてものすごいスピードで走っていた。