半分わけのわからない彼の呟きを聞きながら、僕はとても複雑な気持ちに陥っていた。
禍々しい彼の行為の全てを越えて、幸せになって欲しいとあの時兄と二人、彼のために祈りを捧げた。その彼がいつの間にか兄への気持ちも萎え、同時に誰かに狙われている。これが祈りの結論なのか? 兄が闇との繋がりを失い、彼から自由になった。こんなにもあっさりと兄に対する執着が彼から消えるなんて、僕が戸惑うくらいだった。兄はどう感じているのだろう。彼は兄の所へはもう行かないのか? 兄の方が逆に困りはしないだろうか? 自分の身体をもて余して。それなら僕を抱いてくれたらとはかなく願ってみるけれど、兄の僕に対する罪悪感は深過ぎて、僕らの関係がまた取り戻せるか否か、それは神さましかわからないとしか僕には言えない。そしてこの闇を抱え、人の心を閉ざしたまま自分を悪魔と呼んで笑い、他人の闇を喰べ秘密を餌に生き続けようとする彼。そして呑み込んだ誰かの秘密の毒に当たり、命の危険にさえ曝されているという。
彼は自分を過信している。だけど僕にはこの変な一日を彼と共に過ごし、彼の今までのやり方では危険を回避出来ないのではないか、というなにか嫌な予感がした。言葉にはならない感覚。強いて表現するとしたら、宇宙からの最後通牒のような。すると、彼の嘲笑に反論するかのように、僕は彼にずっと感じていることを吐き出したくなった。
「あなたは…酷い人だと思うよ。僕は苦しいし、死にたくなることもある。でもそれ以上に…あなたが悲しくて…たまらないんだ。初めて窓からあなたと兄の関係を見てしまったあの日から。あの部屋は悲しみの海みたいだった。だから僕は…あなたには逢いたくないけど、恨むことが…出来ないんだ」
彼は笑うのをやめた。
「若いのに偽善者が板についてる」
彼は苦々しい顔をした。
「なぜ“殺したいほど憎い”と言わないんだ?」
彼は僕をにらみつけていた。だがそれを聞いて僕はキレた。
「憎悪の前に悲しみがあったんだ! 悲しみを感じなけりゃ憎みも恨みもするさ! あなたが自分を見ないからだ…だから放ったらかしてる悲しみが溢れて漏れてるんだろ!? 自分のほんとの気持ちも見ないで人を操って…悲しくて虚しいから人の闇につけこんでとりこにして! なんで普通に優しく人を思いやるような愛し方をしないの!? あなたは人一倍愛して欲しいのに、なんで本当の気持ちをあげないの!?」
彼は無表情に前を向いた。そして呟いた。
「愛なんて、知らない」
彼はなぜか不思議そうな顔をした。
「それはなんだ?人は自分の欲望を果たすために生きているんだ。愛なんていう戯言を本気で信じているなんて…さすが君だ。私に愛について説教したヤツは初めてだ。君は教会の牧師にでもなれ。私の使命は悪魔への教誡です、とでも言ってな」
彼は感情のない声で、当然のように付け加えた。
「私は母親にさえ愛されなかった。父親は誰かもわからない。愛を知らないのは私の運命だ。神がそう望んだからだ。知らないものを知ってる振りをするのを嘘つきという。私は正直に生きてる…それだけだ」
やっぱり、やっぱりそうなんだ。
僕の中に彼の悲しみが溢れてきそうになった。彼はきっと幼い頃から絶望的な悲しみの中で、自分の心を封殺して生きてきた。初めて彼は自分の過去を漏らした。彼にとってはこんな告白、事故も同然だったろう。だがこんな形で僕は、彼の悲しみの源を垣間見てしまった。兄の凄惨な過去と、この人の悲しい生い立ちがオーバーラップした。
「…ごめん」
僕の心は暗く沈んでいった。彼の傷を癒せるはずもない僕が、無責任に愛など語る資格があるわけがなかった。兄ならわかってあげられるのだろう。それなのに僕は。
「正論を言ったのに謝るのはナンセンスだな」
彼は無表情に答えた。
「君の言うことは正しいのだろう。正しいからどうにかなるわけじゃないがな。君は愛されていて、敏感で、無謀で、私に抱かれてよがり狂っても何も変わらないで、その上私に神に祈れと囁く。私はそういう嫌な人間とだけは関わらないようにしてきたのに、まったく。はた迷惑なアトラクションだ」
そして彼はなぜか自分に呆れたような顔をした。彼が怒らないのが予想外過ぎて、意味がわからなかった。僕がそんな嫌なことを言ったのに、出会った時から絶え間なく僕を執拗に痛めつけていた彼の返答とは思えなくて、このあと僕はどんな報復をされるのかと、その無表情な顔が逆に不安になった。
彼はまたいきなり方向を変えた。いつの間にかかなり山に近い場所に僕たちは来ていた。そして初めて見る広い公園の裏手にあるパーキングに車を寄せた。僕の不安は現実化しようとしていた。
「疲れた…休憩する」
彼は車を降り、近くの自販機で温かいコーヒーを2本買ってきた。そしてその一本を僕に手渡した。また薬を飲まされるのかと、僕は身体を固くして身構えていた。彼は再び運転席に座った。そして自分の缶コーヒーをプシュと開け、口をつけた。いくら待っても薬は渡されず、彼は僕に缶コーヒーだけをくれただけみたいだった。本当にただの休憩なんだ…と僕はいつもの意地悪をされないことに、当惑した。
「バカみたいなドライブだ」
そう言うと彼はシートを少し後ろに寝かせて深く身体を埋めた。
「そうでも…ないよ…」
缶コーヒーを開けながら、僕は思わずそう答えた。今までの彼との逢瀬で、一番マシな日だと思った。ケンカ腰で互いに言い合ううちにいろんな事がわかってしまい、そんな気は毛頭ないはずなのにも関わらず、彼との距離が近くなったようにさえ感じて、僕は戸惑いすら覚えた。彼は運転席に深くもたれたまま、手の中の缶コーヒーを飲み干した。
「君は大馬鹿なんだな」
笑いもせず彼は呟いた。
「君は本当に…私のために祈るんだろう」
彼はしばらく黙り、空き缶をダッシュボードに置いた。僕は飲み終えた缶を足元のゴミ箱に捨てた。
「コーヒー、ありがと」
僕は彼の顔を見ずに、うつ向いたまま礼を言った。その時彼の手がいきなり僕の腕を力任せに引いた。僕は彼の胸の中に倒れていった。
抱きしめられた身体がなぜか熱くなっていく。彼の鼓動が僕の耳に響く。初めて聞く彼の心臓の音。少し早く聞こえるのは僕の錯覚? 初めて嫌悪に触れてない彼との抱擁…いや抱擁すら初めてかも知れない。
「どうしたらいいんだろうな…」
僕を抱きしめたまま、彼は耳元で囁いた。
「君のようなバカな子は殺してしまいたいはずなのに。こんな最後の日に、私の心の中に君が残ってしまうとは…憂鬱だ」
彼は信じられないことを囁いていた。あまりのことに僕の頭の中が真っ白になった。
「自分の頭を疑うが、この非常事態だから仕方がないとしても…自分に機嫌が悪くなる」
そう言うと彼は黙りこんだ。沈黙の中で彼は僕を抱きしめたまま、じっと動かなかった。僕は心臓の動悸が止まらなかった。沈黙が痛い。どうしていいかわからずにいると、唐突に僕はもうひとつの症候群の名前を思い出した。
「リオ症候群…だね」
沈黙を破り彼は吹き出した。
「それは君、“リマ症候群”だ」
博学な彼から訂正されて、僕は恥ずかしくて真っ赤になった。沈黙に耐えかねて良く知らないことを口にするのはやめようと、そのとき深く反省するほど。しかし彼は笑いながら僕に言った。
「そうだな…そういうことにしよう。君はストックホルム症候群で、私はリマ症候群。二人とも病気だ」
彼は笑いながら僕にキスした。だが信じ難いことに、そのキスで身体が疼いた。僕は自分の反応に狼狽えた。いやだ…彼に身体の反応を気づかれたくない。僕は上がっていきそうな息を、喉の奥で殺した。でも僕の身体の一部が硬くなっていくのはどうしても止められなかった。
「私の好きな闇は反撃してくる。接点すら見い出せないはずの君が心に足跡を残す。お互い病気とはいえ、私も焼が回ったのか…」
彼はそれに気づかずに、再び呆れたように苦笑した。
「さて…行くか。最後のドライブをしよう」
彼はもう一度僕の唇にキスをした。
「んっ…」
飲み込んだ息が耐え切れずにかすかに漏れた。そして同時に僕の身体が勝手にピクッと痙攣した。
「君…」
さすがに彼はその反応を見逃さなかった。僕は唇を噛んで横を向いた。