「感じたのか」
彼は少し驚いたようだった。僕は恥ずかしさに声も出なかった。身体だけじゃ…ない。気持ちが…心が彼に。それもまた僕を戦のかせた。
「欲しいのか?」
彼は明け透けに聞いてきた。僕は恥ずかしさと欲情とで、身体が更に熱くなるのを感じていた。だが何も言えることはなかった。
「言ったらどうだ…私が欲しいと」
彼は僕の耳元で囁いた。
「君の身体はもう普通じゃない。それでは辛いだろう?」
僕はまたキレそうになった。
「あなたがそうしたんだろ! あんな…ひどい…」
「だから君も言っただろう。これは犯罪者と人質の異常な心の交流だ。君が私のキスで震えるのが悪い。私を憎まない君がね」
彼は僕の耳元で囁き続けた。
「や…やめ…」
あまりのことにパニックを起こしそうになる。
「私も同情している自分が理解できない。こんな気分…自分とは思えない。なんという居心地の悪さなんだ」
彼は低い声で呟いた。耳にその声が響き頭がクラッとした。
「…も…もう…やめて」
「何を止めるんだ? 声だけで感じているのか?」
彼は僕の耳にフッと吐息をかけた。
「あう」
僕はたまらずのけぞった。
「こんなになってまだ強情をはるつもりか? 早く欲しいと言えば良い。君は壊れてるんだ。私が壊したからな」
彼は僕をそそのかしているのか、それとも楽にさせようとしているのかわからなかった。それより車を出さないと。こんなところで時間を浪費していていいのかと、彼の危険の方が心配になってきた。
「だめだよ。早く逃げないとあなたが危ないよ…もう行かなきゃ」
僕は彼の両腕を掴み、肩で息をつきながら彼にそう言った。
「……」
なぜか彼は黙りこんでいた。僕は彼に頼んだ。
「大丈夫なの? 僕のことなんかどうでもいいから…早く安全な場所に行けばいいのに。僕は一人で帰れる。あなたの都合のいいところで降ろせばいいじゃない」
彼はじっと黙ったまま、彼の腕を掴んだ僕の手を見ていた。
「なに黙ってるの…?」
僕は彼が車を出さないことに焦った。
「生きていたいんでしょ…だったら逃げ延びてよ!」
それを全部言うまもなく、彼は僕を押し倒していた。
「うわっ…な…なに?」
僕は驚いて彼に問い正した。
「こんなことしてたら…あなたが逃げ…」
「いいんだ!」
言葉を遮るように彼は大声を出した。
「なんでだよ…」
「君を最後に抱きたい。こんな気持ちで誰かを抱いたことがない」
「駄目だよ! あなた逃げなきゃ」
「いいんだ…いい…ここで君を抱かなければ悔いが残る」
「そ…んな」
「いいか…このまま帰っても殺されない保証はない。逃げられても海外だ。帰れるかはわからない」
彼は真剣な顔で僕を見つめた。
「映像も写真も全部返す。今日で最後なのは変わらない。だから君を今から抱きたい。昼の私と今の私は…どう言ったらいいんだ…くそっ! 違うんだ…」
彼は僕の髪を撫でた。
「一度でいい。無理矢理犯すんじゃなくて…君に」
彼は今まで見たこともない目をしていた。その眼の奥から初めて彼の想いが伝わってきて、僕の胸にあまりにも切なく響いた。
「君に…良いと…言って欲しい」
彼は懇願しているかのようだった。有り得ないその言葉に、僕は取り乱しそうになった。
「なん…で…?」
「君が…もし…私を許すなら…」
僕はそれを聞いて彼にしがみついた。彼が支配を…やめ…た…。独りでに涙が溢れていた。
「ダメだよ…逃げてよ…死なないでよ」
「君が祈ってくれれば…死なない。だろ?」
呆然としたまま僕はうなずいた。そして僕たちは同時にくちづけていた。
そのくちづけは砂漠の水のように甘く、甘いほどに僕の胸を焦がした。互いに舌を求め合い、激しく身体を掻き抱き、心を求め合った。いままでの苛め抜かれた苦しみをすべて洗い流すかのように、彼の唇が指が僕の涙を拭った。不思議なほど怒りや恨みはなかった。僕たちは闇の中でなく、初めて差した心の明かりの中で抱き合っていた。最後なのに。いや…それは最後だから。この時以外に、僕たちを包みこめる時間はなかった。最後だから、兄の父も、兄と最後だから結ばれた。本当の思い遣りと心の絆で。だからこの人も、死を賭けた最後というたった一度しかない優しい時間を神が与えてくれたのだと、僕は泣きながらそう思った。
彼は優しかった。優しい彼は兄に似ていた。悲しいほど兄に似ていた。互いを貪ることなく与え合って溶け合って。心が寄り添う…身体が熱を増す。熱い彼の肌に初めて触れる。その熱が僕の熱になる。彼の吐息を初めて聞いた。苦しそうな嗚咽のようなその声に、僕の心が痛み高鳴った。感じてる…彼が僕を、僕が彼を。この一日は僕とあなたの織りなす完璧な宇宙のひとつの美しい彩り。とても美しく、そして切ない。たった一日の中に凝縮された僕たちのすべて。僕は初めて兄でない魂に心を預けた。でもそこにまた同じ愛を見つけてしまう。何度でも僕はその愛に触れるだろう。名前のない、その大きく深いものに。
夜の電車の一番端の座席に寄り掛かり、僕は脱け殻のように虚空を眺めていた。耳に音楽が流れていた。僕の耳の中だけで。ブラームスのバイオリン・ソナタ第3番。イヤホンから繰り返し繰り返し、短調のバイオリンとピアノが空ろな心を埋めるように流れ続けていた。
帰りの車の中で、彼は泣き止まない僕に、音楽を聞くか? と聞いた。僕は言葉にもならずうなづいた。彼はスーツのポケットから携帯用のデジタルプレーヤーを出した。君にあげるよ。私の好きな曲しか入っていないが。そう言って彼は僕の手の平にそれを置いた。君の好きに使えばいい…。僕はそれを握りしめた。
車はあっけなく去っていった。最後に彼は僕を助手席から押し出した。押し出した彼は僕を見なかった。ただ僕の腕を掴んだ手がかすかに震えていた。僕は道に茫然とたたずみ、彼の手がドアを閉めるのを見ていた。別れの言葉を二人とも一言も言えなかった。普通の恋なら今日のこの日が始まりになるはず。だけど僕らは苦しみと優しさを、今日、両方終えた。
車が走り去り、僕は彼のくれたプレーヤーのイヤホンを泣きながら耳に入れた。再生ボタンを押すと、悲しくて美しく激しいメロディが僕の両方の耳から身体の中に流れ込んできた。夜の道で涙が止まらぬまま、僕は小さなプレーヤーを握りしめた。路地の電信柱に背中を預け、しばらく僕は歩くことも出来ず、彼の好きなその曲に彼を重ねていた。バイオリンとピアノが踊る。互いを導き重なりあい、時に責め時に戦い、切なく抱き合い、刹那の時を疾走していく。まるで今日の彼と僕のように。なんて痛み。なんて悲しみ。
(こんな気持ちで人を抱いたことがない…)
不意に彼の言葉が頭をよぎり、僕はもう立っていることも出来ずその場にうずくまった。このまま倒れて朽ち果ててしまいたいと思った。泣いて泣いて涙で溺れて死んでしまいたい。そしてもう一度、もう一度だけでいい。彼に逢いたい。それが叶わないなら、ああ…神さま。どうか彼を死なせないで。お願い…お願いだから。彼を、彼を助けて。
僕はアスファルトを拳で叩いた。今までの苦しみがすべて報われた。なのに…なんだ…? 僕はすべてを与えられ、そしてたった一日で全てを奪われた。僕の拳はアスファルトを叩き続けた。なぜ? なぜなん…だ? わかってる。これしか道がないことを。この鋭い剣でしか、闇を切り裂くことができないことを。わかってるんだ…わかって…るよ…わかって…る…。だけど…僕もズタズタなん…だ。喉を切られて血まみれの供物の羊みたいに。これが宇宙の意志なのか? 愛の無限と運命の過酷さをたった一日の中で僕に叩きつけて、彼の心を光で踏みしだいて…
アスファルトに涙が滴り落ちた。
「うあああぁ…!」
僕は声をあげて、道路を叩きながら泣いた。いったい何度泣いたらこの過酷な運命を終え、約束の場所へ辿り着くのだろう? いったい何度泣いたら。いったい何度…泣いたら。
「あの…」
誰かが僕に声を掛けた。
「大丈夫?」
大丈夫…じゃない。病気のほうがマシかも
「…大丈夫…です」
僕はうつ向いたまま身体を起こし、イヤホンを耳から外した。
「具合悪いのかしら?」
見ると70歳も後半くらいのおばあさんが、心配そうに僕をのぞきこんでいる。僕は泣くのも止められず、なぜか見知らぬ彼女に話していた。
「好きな人と別れたんです…愛し合ってたのに…愛し合ってたのに」
彼女はカバンを探るとハンカチを取り出し、僕に差し出した。
「悲しいわねぇ。でも愛し合えたなんて幸せだわよ。別れるときに泣いちゃうほど愛し合えたなんて」
彼女はニコッと笑った。
「あなた素直な子ねぇ。きっとお相手も幸せだったわよ」
ハンカチで目を覆うと、ようやく立って帰れるような気がした。僕はそのままフェンスにつかまり、のろのろと立ち上がった。
「ありがとう…ございます」
僕はハンカチを彼女に返そうとした。
「あげるわよ。まだあなた泣けるでしょ?」
「ええ。そうですね…すみません。ありがとうございます」
彼女の言う通りだった。宇宙はやはり、今日も完璧だった。僕は駅に向かって歩き始めた。