それからしばらく、脱け殻のような日々が続いた。独りになりたかった。授業の時以外は彼のくれたデジタルプレーヤーで、ブラームスのバイオリンソナタを繰り返し聴いているだけだった。本当にそれだけだった。部活もサボった。彼と別れた次の日の教室で、パンク野郎は僕の顔を見て、ひとこと“死んだな”と言った。僕は黙って頷いた。みるみるうちに目が涙でうるんで、僕はそれを彼に隠すことすらできなかった。彼は僕の肩に片手を乗せた。
「生き返るまで待ってるわ」
僕はまた黙って頷いた。
食欲もなく、よく眠れない夜が続いた。この半年以上、僕の心は安らかな日というものがほとんどないことに気づく。ひどい…よく生きてこれた。それでも最後には救われてしまう。破滅したくてもできない。でも少し休息くらいくれてもバチは当たらないと思うけど。
限界。限界だ。何も感じたくない。そう思う矢先から、彼の安否が心配で心が潰れそうになる。毎日祈るしかない。ずっと祈ってばかりいる。それしか不安をまぎらわせるすべがない。忘れたい。目の前にいない人のことなんか、忘れ…た…い。また涙が溢れてくる。忘れられないから。あのたった4時間の彼との時間が、すべての苦痛と恐怖の日々を一瞬で塗り変えてしまったから。どうやってこの出来事を受け入れたらいいのかわからない。ずっと願っていたのに。彼から解放される日を、ずっと。本当にこの世はうらはらだ。また僕は僕に裏切られる。そして奇跡の切なすぎる代価に、打ちのめされている。
家では部屋にひきこもっていた。なにもせず机に突っ伏したままずっと考えていた。誰にも話せないし、話したところでこの異常な事態は誰にもわかってはもらえないだろう。いつもの通りの孤独と非日常。吐き出したい。思いが溢れて収拾がつかない。どうしたらいいのかわからない。
ふと壁に立て掛けてあるギターが目に止まった。しばらく弾くことを、いや、ギターがあることを忘れていた。毎日弾かないと上手くなんないのに。僕は久しぶりにギターを膝の上に乗せた。しばらくフレットを押さえながら、どうしようもない気持ちでパラパラ爪弾いているうちに、ヤツの書いた歌詞のことを思い出した。曲つけろとか言ってたな…歌詞まで作れとか無茶な要求。気持ちを紛らわせたくて、僕はカバンから汚いルーズリーフを取り出した。そういえばあいつも吐き出したくて、これを書いたんだよな。切ない、誰にも言えない思いをしたんだろう。僕も今なら書けるかな? だってこんな…
僕は引き出しからルーズリーフを一枚取り出した。それから机に転がってるシャーペンを握った。
君にこの愛をあげる
誰にもわからないように
君に愛の言葉を告げる
君だけに届くように
切ないな…改めてそれを読んで僕は思った。僕は何を吐き出したいのだろうか。悲しみ? 孤独? いや…この歌は悲しみを越えて《君》にあげる歌だ。秘密で誰にも言えないどうにもできない切なさの中で、それでも愛がこの世界で最強だ、と言いたいんだ。僕の中から溢れてくるもの、それはなんだろう? 逢いたい。なぜ逢いたいの? なぜ逢いたいんだろう? 好き…だから? それだけじゃない。彼のそばに居てあげたい。なぜ…? 彼にあげたい。彼を抱き締めたい。彼が言ったから。
(愛なんて知らない)
あげたいんだそれを。
(君にこの愛をあげる)
僕はその気持ちが、まさにこの冒頭に込められていることを知った。
そうなんだ。彼にあげたいんだ愛を。そして届けたい。でももうそれが叶わない。だから僕は悲しい。僕は…彼のために祈ることしかできない。
僕はその時気がついた。祈りのような歌を歌いたい。僕はそんなことをあの時思ったんだと。この歌をあの人のために歌う。兄をクリスマスに帰してもらった、あの『もろびとこぞりて』のように。できることがそれしかないなら、僕はあなたに届くように歌うんだ。僕のギターで。
(君は音楽を聴くか?)
ああ…聴くよ。何度でも聴く。そして僕は、それを創る。あなたがくれたプレーヤーの中のバイオリンソナタのように、僕もあなたに歌を捧げるから。
(君にこの愛をあげる)
メロが心からこぼれ落ちてくる。コードがそれに乗る。始まりはAm、切なく…だが希望の明かりに照らされている心の悲しみと救いを表すEmからGへの移行。安らぎのCが微かに現れ、またAmの中に沈んでいく。マイナーともメジャーともつかない、水が流れるようななだらかなメロ。だが中間部からは起伏を持ちながら、一気にサビへ登りつめる。そして最初のテーマが繰り返され、間奏に入る。その時はもう夢中だった。
歌詞が終わった。曲としてはもう一ユニット欲しい。サビとテーマがもうひとつづつ、でないと曲が終わらない。だから奴はそこを書けと言ったに違いない。僕は初めて詩というものを書き始めた。心に渦巻いている言葉にならない大事な苦しい思い。ひとつひとつ名前をつけて掬いあげたい。名もない星を星座にするように…
君にこの愛をあげる
誰にもわからないように
君に愛の言葉を告げる
君だけに届くように
君にこの心をあげる
深く傷ついている君に
僕を君に全部あげる
君だけを愛している
ただ悲しみの時は流れ
閉じた獄の壁は厚く
君と僕はつかんだ指を
どのくらい固く結べばいい?
許されぬ罪があるからと
君は泣いた、僕は答える
愛という名の星の下に
それに敵うものなどないと
強く強く想ってるよ
君が何処にいようとも
神様に祈り続けるよ
愛でこの世界を満たしてと
君がこの愛をくれた
大事な初めての愛を
僕に愛を教えてくれた
それが僕のすべてなんだ
それが僕のすべてなんだ
それが僕のすべてなんだ
「お前…すげぇ」
部室の隅でヤツは机に両手をつき、そう言って固まっていた。
「歌詞が良いから…メロが勝手に出てきた…自分でも驚いた」
歌いながら弾き終わった僕は、ギターを抱いたまま放心していた。何かが終わったような気分だった。それはそんなに悪くない気分だった。寝ないで一晩で曲を作って覚えて、詩を書いた。何かにとり憑かれたような、異様な集中。それを持って久々に僕は部室に顔を出した。見た目(中身も)ボロボロで…
サビのフレーズは彼のために。ラストは兄のために。僕の大事な大事な思い。これで良かったんだろうか? 自分で評価するのはおそらく無理…だ。
「他人が書いた続きとは思えねぇ。お前も恋か?」
ヤツは最後の方は声を落として僕に訊いてきた。そうだ、苦しいほどの恋だ。僕は答えの替わりにフッと笑った。
「ねぇねぇ~それ誰の曲?」
女子の先輩が訊いてくる。
「オレらの曲ですよ」
「えっ、マジ?」
「マジっす」
ヤツは自信に満ちて言い切った。
「なんか…切なくて良い」
「まぁ、切なさにかけてはオレらの右に出れるのは世界でも50人ぐらいだと思いますよ」
「いやホント、不覚にも聴き入ってしまったわ…お前のとは知らず」
「うわー! 天才だねって素直に言ってくれれば良いのに」
「バカか! この自意識過剰男!」
「慣れて下さい、いい加減」
いつもの部活のヤツと先輩の応酬を聞きながら、僕は心が少しづつ平穏を取り戻していくのを感じていた。
この件で僕はひとつ大事なことを知った。心の中の苦しみや声にならない叫びを、こうやって音と文字で形にしてやる。素直にありのままを外に出せれば、心が何かを納得するみたいだ、ということ…
いままで何気なく聴いていた歌は、そんな風に創られているのかも知れないと、僕はブルーハーツの『ひとに優しく』を頭の中で思い出していた。確かに気が狂いそうになるよね、愛して愛して思いが届かなくて、自分の孤独に耐えて、人の孤独にも苦しんで。でも、歌の最初から“気が狂いそう”って言えるのはすごい。一晩心の声を拾い続けても、手のひらからこぼれていく経験をした。言葉を心のそのままつかんで取り出す…それは並みじゃ出来ない技だ。でも良い作詞家はきっとそれが出来るんだな、と。僕はヤツの出来上がった詞を見てどうにかこうにか作ったわけで、作詞の才能はヤツが上だ。
でも驚いたのは、良い詞には最初から音符がついてるっていう恐るべき事実だ。
僕はヤツにそれを話した。ヤツはそれを聞くと変な顔をした。
「普通はそんなことは起こらないぞ。お前がヘンなんだ…なんだその“最初から文字に音符がついてる”ってよ。お前はミケランジェロか?」
残念ながら僕がミケランジェロについてさっぱりわからなかった。
「ミケランジェロはな、有名な彫刻家だぞ…ああ、お前世界史選択じゃないから知らないか。世界史の授業で聞いたんだよ。『私は石の中に入っている像を掘り出しているに過ぎない』とかって。歌詞に音符が着いてるとか、モーツァルトなら言っても信じるがな。もしお前がホントにそうならそれが『天才』ってやつだぜ?」
ヤツはしばらく腕組みをして黙ったまま何か考えていた。そして遠くを見つめながら呟いた。
「オレ達組んだら、日本のジョンとポールになれるかも」
残念なことに、僕はそのジョンとポールが誰かにわかにはわからなかったのだった。
外は暗く、雨が降り始めている。遠くに雷の音がする。時々ぼんやり窓が光る。夕暮れなのに真っ暗な空だ。部屋に一人で居る。風で雨粒が窓にバラバラと当たる。さっきから心がざわざわと狂おしさをまして落ち着かない。今日の部活のひとときで回復したかのように思えた精神の疲弊が、まだ深く僕の中を占めて離れない。雨音が激しさを増す。不気味なほど暗い窓に稲光が閃く。気が狂いそうな不安を抑えて机に突っ伏して耐える。僕はあることに気がつく。
僕はまた、男を愛した。
僕はゲイじゃないと兄貴は言ったよね。僕はまだ引き返せるって。だけど兄貴、僕はまた男の人に恋したんだ、僕は。僕も兄貴と同じ、同性愛者かも知れない。
事実と想像はいつも異なる。そうなるまでわからない。兄貴に言われたとき、僕はそんなことどうでもいいと思った。僕は兄貴が好きなんだと、男だから好きになったんじゃないと。あの日彼に惹かれた自分を、さっきまで兄を愛したのと同じように感じていた。でもそれは、普通じゃない。僕は気が遠くなりそうな、意識が遠のくような感覚を覚えた。
僕はゲイかも知れない。本当に。
愕然とした。なんてディレイな気づき。自分が本当にそうなのかもと、いままで考えたことがなかったのだ、一切。ごく普通の、皆が普通と言ってる人生が本当に消えようとしている。その消えかたは前に感じた日常の喪失とは、比べようもないほど深刻であり、現実であり、現実的なほどに絶望的だった。本当に人並みの人生が消える。普通に結婚し会社に通い、子供を育て夫婦で年老いていく、そういう人生が本当に消えるんだ。どんなに兄が恋しくても、父と母というモデルが僕には生まれた時からあった。兄と僕の愛と、父と母の愛。2つの相反する愛の形は、僕の中で当たり前に同居していた。それはただひとつ、僕はゲイではない、という無意識の前提が僕自身にあったからなのだと、たった今、ここで僕は知る。その前提がいつの間にか崩壊してたことに気づく。彼を愛した。それに気づいてから知る。僕は普通に生きていくことを疑いもしなかったということを。
雷が近づいてくる。稲光と同時に雷鳴が窓を震わせる。大地はなくならないと思っていた。いまその地面が足元から崩れていく…支えられているという安直な思い込み? いや違う。僕の支えは普通の家族という形。それはあまりにも無意識に蓄積され、疑うことすら忘れていた僕の拠り所。そしてそれはこの世界の拠り所でもあるのだ。だから人はこの世界で生きるためにそれに寄り掛かる。無意識にそれが生まれた時から刷りこまれていく。
僕はそれを喪った。僕はもう、その場から立ち上がれなかった。
『私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫ったのだ。』
by ミケランジェロ