伝道者は言う
空の空 空の空
いっさいは空である
(伝道の書 第一章第2節)
翌日はあの嵐から一転してゴールデンウィークらしく晴れ、青空が広がっていた。僕は心が崩壊したまま朝を迎えた。何から何まで世界が違って見えた。僕の居場所は何処にもない。誰の期待にも応えられない。いつもなら休みの解放感で少しは楽しいはずの連休も、僕にはその意味すらわからなくなるほどの喪失感だった。世界が裏返ったような、取り返しのつかない空虚が僕を支配していた。それはいままでのどの感覚とも違っていた。この虚無感…なんと言えばいいんだろう。兄が彼の復讐に巻き込まれた時とも、僕が兄を犯してしまったあの拭い難い罪悪感とも、兄に手離され、手首を切り裂いた絶望感とも、あの人に復讐の標的にされ凌辱され続けた悪夢とも、その彼と愛し合い別れた悲しみとも、まったく違っていた。いままでの僕の苦しみは、苦しみだがまだ地上で行われていた。だが今そのステージ自体が消えてしまった。なすすべのない喪失感。僕は同性愛者だ。戻ることも変わることもできない。僕はいままで女の子を好きになったことがない。初恋は兄。それ以来兄しか見てない…正確には見ていなかった。彼に惹かれるまでは。
僕は昨日とまったく同じ格好で椅子に座り、昼間から雨戸も開けず、真っ暗な部屋で机に突っ伏していた。この喪失の中で、僕は兄があの時言った『お前は今なら戻れる』という言葉の意味が、ようやくわかった。そして兄がなぜこんなにも僕に罪悪感を抱いているかということも。
僕はそれを考え、ハッとした。とうとうここまで来たのだ、と。兄の本当の絶望と、悪夢の源へ。人並みの人生を喪うこと、その本当の意味と空虚。兄が自分を殺してしまいたいと願ったほどの僕への罪悪感。僕は兄の恐怖に身震いした。兄が彼に対して身体だけを求めていたことを、僕は兄の犯した唯一の間違いだと密かにずっと思っていた。だがそれは、僕が兄の見かけの気丈さに惑わされていたに過ぎなかったのだ。兄は本当に失っていた。この世で当たり前に生きていく当たり前の人生を。それがどういうことか、現実にそれを失わない限り、それを知ることは不可能だ。この空虚…この絶望感。暗闇さえ懐かしいほどの“空白”。死ぬ気力すら起きないほどの虚脱。兄はなぜ生きている振りすら出来たのだろう? この生きながら死んだような感覚で。
だから兄は力なく笑うのかと、僕はその気持ちを寒々とした耐え難い温度で感じた。なすすべがないから、だから兄は虚無より身体の狂気を選んだ。まだその方が生きているような気がするから。兄は身体の死でなく彼と…生きた? なんのために?
僕たち、家族のために。
僕は兄がどのくらい自分の存在を忌まわしく思っているのか、いまならわかるような気がした。生まれた時から復讐の器として実の父から身体中に呪咀を刻まれ、母を壊し、家族を壊したと。そして僕を愛したことで、兄の新しい家族を再び壊しかけていると。なぜなら僕自身が、父と母に対して、どのようにしていったら良いのかもうわからないからだ。父と母は当たり前に僕の幸せを願っている。多分それは普通の幸せ。ささやかで暖かい普通の人並みの、家族という幸せ。でももう二人の願いには届かない。届かないばかりか彼らをどれほど悲しませることになるのだろうか? 兄はゲイであることをようやく母に告白出来た。そのことがどれだけ兄を許し解放しただろう。兄の闇が消えてしまうほどの解放。あの時とは比べようもないほど、あの告白の切実さが今は身にしみてわかる。だが兄も僕も言えない秘密によって、再び罪悪に引き戻される。今度はもう許されない。兄と僕が、心も身体も愛し合っていると両親に知れたら。
恐ろしくて想像すらしたくない。兄が僕にしたことを僕が受け入れれば受け入れるほど、兄の罪は他者にとって重さを増すだろう。母は嘆き悲しむだろう。そしてまた母は自分自身を責め続けるだろう。そしてあの離婚の時のように再び精神を病んでしまうかも知れない。父は兄を許すだろうか? 血の繋がらないゲイの息子が、自分の実の子を幼い頃から犯して同性愛の快楽を教え込みその子から人並みの人生を奪った…と考えるとしたら。父と兄の絆は、一体どうなってしまうのだろう? 凍り付くような恐怖に襲われる。僕が父から責められるならいい。だが父は兄を、どこまで許せるのだろう?
大好きな二人の大切な家族の信頼が、僕のことで崩れていく。誰も互いを憎んでいないのに、心から慈しんでいるのに。だがどんなに純粋に愛していても、僕らは同性愛で兄弟だ。世間から見たらなんとおぞましく異様で病的で陰湿で気違いじみて見えるだろう。父と母にも同じように世間の目が注がれるだろう。僕らの今の平穏は瓦解する。愛と優しさで結ばれていた家族が、憎しみあい悲しみに満ちるかも知れない。あの時手首を切った僕すらも手離そうとした兄の気持ちの中には、僕の後ろに父と母を見ていたからなのかも知れないと、今なら想像が出来る。今まで両親への罪悪感を言葉に出さなかったのは、僕が理解しないと思ったからか。僕に両親を恨ませないためか、それは兄に聞かなくてはわからない。
兄の父親の呪いは兄を通して僕に忍び込み、この世の当たり前の家族の幸せを正確に破壊していくように見える。兄の父が恨み尽くした男女の愛。その愛を土台とした家族。それが支える社会。そしてその社会は再び普通の男女の愛をサポートし続ける。この閉じた循環からこぼれ落ちた兄の父。落ちたそこは、虚無。そしてその中で兄の父の一途な愛は、うたかたのように消えた。僕の母の存在によって。このなんの手掛かりもない空白の世界で、愛がなければ生きていけないのに。
愛がなければ生きていけない。僕は昨日からの虚脱の中で初めて涙ぐんだ。あまりにもこの数日間泣き尽くしたから、もう涙は涸れてしまったと思ったのに。そう愛のために此処に来た。愛がなければ此処にはいられない…居られないんだ。兄の父は死ぬ直前に兄の愛を理解し受け取ることができた。それはきっと命と引き替えだった。それでも彼はあの死に際が一番幸せだったに違いない。初めて彼の空虚が満たされた。兄の愛によって。それは兄を産んだ母の愛でもあったそしてあの人は亡くなり、呪いだけが残った…? 違う…違う。これは呪いなんかじゃない。これは呪いなんかじゃ…ないんだ。
だけど…どうしよう。昼飯すら父と母の二人と一緒に食べることが出来ずに、呼びに来た母に寝た振りをした。ウソをつく気力がもうない。僕の退院した日のあの食卓がまるでマボロシのようだ。親父に、母さんに、顔をあわせたくない…あわせられない。こんな深い溝を僕は今まで知らなかった。僕と兄が形の上だけは関係をリセットしているにも関わらず、状況はなにひとつ良くはならない。だけど、たとえ僕があの人を選んでも、なにひとつ好転はしない。僕が同性愛者だという証明にしかならない。僕のいま一番の苦痛は、これからすぐ夕飯で両親と食卓を囲むことだ。なぜ連休なんだろう。兄とは逢えない。彼は去った。なのに時間と重荷だけがある。重荷? そんな生易しいものじゃない。焼き印…そう兄が言った、消すことが出来ないから、だから焼き印なんだ。
僕の心と頭の中は無限ループに陥っていた。家族への罪悪感と、兄への封印しかけていた想いと、兄と父の関係がどうなってしまうかという恐怖と、人生の虚無とが果てしなく巡り、また元の場所へ繰り返し繰り返し悪夢のように戻ってくるのだった。戻ってくるそれらには、どこにも出口がなかった。
僕の頭と心が押し潰されていく。本当に気が狂いそうだ。突然吐き気が僕を襲った。僕の限界はいつも早い。口を手で押さえ、手すりにすがるように階段をおり、トイレに入りそのまま嘔吐した。胃の中は空で、朝から水さえ飲んでいないことにようやく気づく。胃液しか出ない喉と口の中が酸で焼ける。吐くものもない苦しい嘔吐がしばらく続いた。洗面所で水を飲む。だがその水をその場で吐いた。
「お前…具合悪いのか?」
いつの間にか後ろに父が立っていた。
「…!」
僕は凍りついた。それも束の間、激しい吐き気が再び僕を襲った。
「大丈夫かよ」
親父が、戻している僕の背中をさする。温かい良く知ってる大きな手の感触。やめ…て。僕に優しくする価値なんか…ない。お願い、僕を見放して。
「母さん!」
父が母を呼ぶ。だめだ…来ないで。でも嘔吐は治まらなかった。
枕元に温かい麦茶が置かれていた。寝起きしやすいようにと、母が兄のベッドに僕を寝かした。胃薬をもらい少し楽になる。
「連休終わったら検査に行こうね」
母は僕が先月に頭を打ったことが気になると言った。
「ねえ、なにか…辛いことでもあるの? 最近元気がないから…」
母親は本当に子供に敏感だ。でも、言えるはずがない。
「…ただの…寝不足だって」
それは間違いではない。
「少し…寝るよ…ごめん」
「気分悪くなったらいつでも呼んでちょうだいね。食卓に何か用意しておくから。今日は昼も食べてないし、お腹空いたら好きな時に食べなさいよ」
「わかった…」
僕は急に眠りに引き込まれた。意識がなくなることが今は救いだった。父と母の優しさが心に刺さっている。悶えるようなその痛みから、早く逃れたかった。
真夜中に目が覚めキッチンに降り、母の作ってくれた食卓の上のおにぎりを二個食べ、冷蔵庫にあったオレンジジュースをコップにあけて飲んだ。そしてそのまま誰もいない暗い食卓の椅子にに座り、しばらくぼーっとしていた。
ただ僕はひとつのことに思い至った。僕たち三人の幸せのためには、宇宙はこんな道を通れと言った。僕の今の心をただひとつ慰めるものが在るならば、それは僕と兄のあの教会での祈り、それしかない。互いが互いを深く想い、幸せになれるようひたすらに祈った。そして彼にもまた神が恩寵を下すようにと、兄と僕、二人の心を分けた。すべてその祈りの果てに今の僕たちがある。僕の今の支えはただそれだけ、なのだ。
僕は食卓にに突っ伏していた。身体を起こしているのが辛い。兄に逢いたい。でも崩壊した僕を兄は受けとめてくれるだろうか? いまの僕の状態を話したら、兄も壊れてしまうのだろうか? この崩壊の発端があの人の僕への復讐で、あの人との出来事を話さなければ僕の今を理解してはもらえないとしたら。犯されて脅迫されたことも、彼と心を惹かれあって別れた最後の日のことも、兄に言わなければならない。兄は話しを聞いてどうなってしまうのだろう? 僕が彼にされたことも、僕と彼が一瞬でも心を重ねたことも、兄には絶対に話したくないとずっと思っていた。だけどこんな状態では、僕はもうこのまま生活していく気力すらない。
縋りたい。兄に縋りつきたい。そしてすべて話してしまいたい。もう…独りで立てる気がしな…い。だけどそれは、今の僕には出来ない。僕と兄の関係のリセット。それは生木を裂くような白紙撤回。二人とも立ち直れないほどの傷…こんなに心を互いに置き去りにしてリセットなんかしても、それは形だけにしかなり得ないのに、僕たちはその形だけのリセットで互いに動きもとれなくなり、次の景色を見失ってしまってる。互いに手放そうとしていても、お互いがまるで半身のように互いを求めているのに。その形と想いの裏腹なねじれの上に、晴天の霹靂のようなあの人と僕の物語がある。きっと兄は僕への重い罪悪感をまた重ねる。そして兄は今度は新たに、凶悪で手に負えない“嫉妬”という感情に心を灼かれる。僕が兄と兄の父に感じたあの心をえぐられるような悲しみと焦燥。それを兄は罪悪感の上に重ねる。死んでしまう。そんなことになったら、兄が自ら命を断つかも知れないという、常に僕の心を脅かす恐怖がまた僕に襲いかかる。
なぜ? 同じ人間に生まれたのに、よりによって兄と僕はこんな運命を生きなければならないんだ? 僕は手に握ったガラスのコップを壁に投げつけそうになった。心の中ではそれはすでに粉々になり、その破片は僕の手を血で汚していた。兄が僕の血に染んだガラスの破片を拾いあげる。その破片で兄の首の頸動脈が真っ赤に切り裂かれる。想像の中ですら兄を救えない。僕はコップを片付ける気力もなく、食卓に放置してそのまま自分の部屋に戻った。
これから死と戦わなければ…。自殺の甘い衝動。死にたい。死にたい。死にたい…ベッドが棺のように僕を閉じ込めてくれたら良いのに。僕はベッドに腰掛けた。そして顔を両手で覆ったまま、しばらく動くことが出来なかった。