朝ではない時間に起きた。起きてもなにも変わっていなかった。休日だし、親は家に居て、僕は生きていたくない。雨戸の隙間から眩しい五月の光が僕の目を射る。光が辛い。話したことだけが救われ、秘密にしていることが僕を殺す。なのに言えないことだけが次々と増えていく。告白して苦しむのと、秘密に苦しむのと…どちらが辛いだろうか。
トイレに行くために階下に降りる。母がめざとく僕を見つけた。
「気分どう?」
母は心配そうに聞いた。
「治った…みたい」
「もう吐き気しない?」
「うん。大丈夫」
「熱とかないわよね」
母が僕の額に手を当てる。その自然な動きに僕はビクッとした。
「あ、手が冷たかった?」
「…ううん」
優しくされるのが堪らなく辛い。
「熱はないみたい。お腹すいた?」
すいていない。食欲が奪われている。
「なんか…食べる」
それでもなにか食べたほうが気が紛れるかと、僕は憂鬱な気持ちで居間へ行った。父はいなかった。母が今日はレースの日だと教えてくれた。父が家にいないことで少しだけほっとした。もう午後一時を回っている。母は先に昼食を済ませていて、僕にトーストとカフェオレを出し、茹で卵とサラダを要るかと聞いた。僕は要らないと答えた。母は洗濯物を干しに二階へ上がり、僕は食卓に一人になった。大丈夫…これで食べられる。僕は冷蔵庫からイチゴジャムを出し、トーストに塗ったくって食べた。カフェオレを飲み干した後、皿やカップをシンクに置き、シャワーを浴びに浴室へ向かった。昨日風呂に入らなかったので、寝起きの自分が汗臭かった。初夏を思わせるような陽気。いつものゴールデンウイークだ。
裸になり浴室に立った。タイルが素足にひんやりしている。乾いた浴室が次第に飛沫と水滴で濡れていく。頭からシャワーをかぶっていると、兄が生還し初めて発作を起こした冬の日のことを思い出した。あの時もこうやって、身動きも出来ないまま頭からずっとシャワーに打たれていた。兄を思いながら…。あの頃さえ懐かしく感じる。まだあの頃は兄がそばにいた。そしてまだ、僕を抱いてくれた。だがもうそれを願うすべがない。こんなに誰かに縋りたいことは今まで一度もなかったのに、その兄はいない。今までで一番兄と遠い時間と距離。理解してくれる人はきっと兄だけ。なのにその兄を一番傷つけるだろう。それがあの人との関わり。あなたに凌辱されても愛されても、苦しむのは変わらなかったね…。抱かれたいくつもの場面が走馬灯のように胸を過ぎると、シャワーの中で涙が溢れてきた。
また悲しみに刻まれる。水流が涙を巻き込み、地の底に吸い込まれていく。ぐったりしながらまた自分の部屋に引きこもることにした。
部屋は明るかった。雨戸は開けられ窓は空き、布団はすべて干されていた。母がやってくれたのだろう。ありがたいが、横になりたかったのに布団がない。仕方ないのでまた昨日と同じく、椅子に座り机に突っ伏した。母がベランダから戻ってきた。開いているドアから僕を見て下に降りかけたが、ふと戻ってきた。
「あ、さっきケータイ鳴ってたわよ」
「え? あ…そう」
ケータイのことなんかすっかり頭の中から消えていた。どこにあったっけ? 母は下に降りていった。トントンと階段を降りる音が響いてそのうち消えた。僕のケータイは脱ぎ捨てたジーパンのポケットの中から発見された。確かに着信ありになってる。2つ折りのケータイを開き、履歴を見た。
兄…貴。
心臓の音だけが鳴り響く。頭の中が真っ白になった。そして瞬間的にゾッとした。あの時のメールが頭をよぎる。滅多にくれないメールを、あの時兄は動かない身体で送信した。いま…着信があった。僕は未読メールが入っているのにその時気づいた。
やはり兄…だった。しかも昨日の夜中に、たったひと言『うちに来て』…と。メールの返信も電話も僕から無かったから、しょうがなく電話したのだ。僕はその事実に凍りついた。いったい何が起きてしまったのか? だが僕の指は恐怖とはうらはらに、ひとりでに兄の着信のリダイアルを掛けていた。アドレナリンで身体が震えている。兄のケータイの呼び出し音が耳の中で繰り返される。兄はなかなか出ない。とてもとても長い時間に感じる。早く…早く出て、お願いだから。祈るような気持ちで呼び出し音を聞き続けた。出てよ…どうしたらいいんだよ。その時呼び出し音が切れた。
「…はい」
兄が出た。
「あ…兄…貴」
「……」
なぜか兄は黙ったままだった。
「兄貴…なにか、あった…?」
僕はそれをどう問い掛けたら良いのか分からないまま、途切れ途切れに兄に言葉を並べていた。だが兄は依然として黙ったままでいた。
「兄貴…? 聞こえてる?」
「…ああ」
ようやく兄は口を開いた。
「どう…したの? なにかあったの?」
長い沈黙のあと、息を呑む音が聞こえ、兄は短くつぶやくように言った。
「メール…した」
「さっき見た。ごめん…ケータイ見てなくてさ。今から行くから」
「来て」
「うん」
「待ってる…」
兄はケータイを切った。僕はなにも聞けなかった。なにがあったんだろう? 兄の沈黙が怖かった。兄が僕に来いなんて、今の状態では有り得ないことなのに。僕の心は、兄に逢える切なさと、待ち受けているかも知れないまだ見ぬ最悪の事態への恐怖とで、まるで嵐の中の紙屑みたいだった。あの部屋に行く。僕の砕け散る場所。常に最悪しか起こらない、呪われた部屋に僕はまた兄に呼ばれて行く。
僕の身体を心配する母には、兄貴が片付け手伝ってくれたら数学見てくれる…ということにした。泊まるからご飯はいらないと言うと、「たまにはお兄ちゃんに顔見せてって伝えてね」と母はちょっと不安そうな顔になり、気をつけるのよ…無理しないで、と僕に釘をさした。無理しない…はあの部屋ではあり得ないけれど。
フェイクの教科書とノートをカバンにいれて家を出た。母の言ったことはあながち間違いではなく、身体が思いのほかキツい連休のせいで電車は混んでいて、座れないのがこたえる。こんなときに限ってついてない。身体のキツさと相まって、とても不安で嫌な気分が心を支配する。逢えるのに。兄貴に逢えるのに…こんな気持ち、いやだ。電車のドアの脇のスペースに、身体をもたせかけながら兄の居る町まで耐える。時折座りこみたくなるのをなんとか抑えていると、動物園のある駅で半分くらいの乗客が降り、空いた座席になんとか滑りこめた。日が少し傾いた時間に、僕は兄の部屋の前に立っていた。
本当に僕は片付けに呼ばれたんじゃないだろうかと思ってしまうくらい、兄の部屋は散らかっていた。脱ぎ捨てられた服や紙屑、書類の山が崩れその下にはタオルやコンビニのレジ袋…パンの空き袋、キッチンの回りにはペットボトルと紙パックや缶が散乱して、スペースはパソコンの回りとベッドの上しかなかった。
兄は憔悴し切っていた。細い身体がまた細くなっていて、すごく痛々しかった。鍵の掛かったドアを開けたのも無言のままで、兄は僕の目を見なかった。来て…と言ったはずなのに、兄自身が途方に暮れているようで、僕も兄の沈黙に押されて一言も言えないまま、ゴミだらけの部屋の中で立ち尽くしていた。
「…何があったの?」
沈黙に耐えきれず僕は兄に尋ねた。兄は下を向き目を閉じた。苦しそうな兄の横顔に僕はたまらなくなり兄に問い掛けた。
「何か…言ってよ。黙ってたらわからないよ。どうしたの? なんでも聞くから…言ってよ…」
それを聞いた兄は顔を両手で覆い、かすれた声を絞り出して言った。
「なんで…なんで黙ってた?」
「な…なにを?」
その言葉に僕は凍りついた。
「なんで…あの男と…あんな…」
な…ぜ? 彼…ばらし…た?
「なに? あの…男って」
僕は必死に取り繕おうとした。だがそれは無駄な抵抗だった。
「何が…あった…?」
再びかすれた声で兄は僕に訊いてきた。
「なに…って、なんの…こと?」
兄が何を訊いているのか、僕には分かりすぎるほど分かっていた。だがなぜ兄が知ってしまったのか、何をどれだけ知ってるのか、それが分かるまで隠し通せるなら隠し通すしか、僕には道はない。兄はパソコンのデスクに両手をつき、しばらくうなだれたままその形のままで固まっていた。
「…本当は…お前に聞きたくもない…」
兄は重い口を開いた。
「知りたくない…こんな…ひどい…」
兄の声は震えていた。
「…だけど…なぜこんなことになっているのか…わからないことに耐えられない。なんで…こんなことに…」
兄は話の核心を避けていた。だが兄が何を知ってるのか、僕には聞く必要があった。
「…兄貴…あの男って…誰?」
兄は初めて僕の顔を見た。
「俺がお前と一緒に…幸せを祈った、あの男だ」
「その人…が…何を?」
兄は不思議そうに僕を見た。
「なぜ…? なぜ…隠すんだ?」
兄の顔が苦悩でゆがんだ。
「見なきゃ…言わないのか? あれ見せなきゃ…打ち明けてくれないのか? 俺にあれをまた見ろと…!」
「兄貴…」
「ここに…来い…」
僕は恐怖で凍りついたまま兄のパソコンデスクのそばまで来た。
「昨日…送られてきた…」
兄はパソコンのフォルダを開いた。画面にはアイコンがひとつ…動画?
「俺は…もう見れない」
兄はそう言うとそのアイコンをクリックした。
暗い部屋の中で、何人かの男がいる。真ん中に裸の男の子。目隠しをされ、縛られて。一人の男が近づき、耳元で囁く。
『今日はキツいよ。だから少しだけ楽にしてあげよう。私の慈悲だ』
男の子は悶え始める。喘ぐ声が大きくなっていく。叫んだと同時に触られもしないで射精した。
僕だ。
兄は画面に背を向け、頭を抱え椅子に座りこんでいた。
「止めて…」
あの時の悪夢と狂気が、僕の身体に一瞬のうちにフラッシュバックしてきた。耐えきれず僕は叫んでいた。
「やめてぇぇぇっ!」
僕は何度も叫んだ。その隙に男の話す声が重なる。
(ちょっとした実験…成功ですね。前もって申し上げていた通り彼は家族から近親相姦、つまり幼い頃から猥褻な行為を受けていた。そんな身体を感じないようにコントロールし続けていけるのかどうか? これはプラシーボを用いた簡単なトリックです)
見知らぬ男達がつぎつぎと立ち上がり、僕を押さえつけ輪姦し始める。
(くはっ…ああぁ…あうぅ)
僕の喘ぎ声と叫ぶ声が切れ切れに響く。
(あああっ…やめてっ! いやだあああああっ!)
僕は両耳を塞いで叫び続けた。
「やめて! お願い…やめてぇぇ!!」
兄は叩きつけるようにパソコンを本体の電源ごと切った。僕は震えながら後ずさっていった。だがすぐに背中が壁にぶつかり、そのまま僕の身体は床に落ちた。
約束…守ってくれたんだ。画像…返すって。あの人言った…だか…ら…でも…こんなのって…ひど…すぎる。なぜ彼は、僕に届けてくれなかった? なぜ…兄貴に…? どうなるかくらい、分かっていたろうに…
僕はあまりの仕打ちになすすべなく床に座りこんだまま、ひと言も発することが出来なかった。
「…お前に…話させたくない。でも…聞かなきゃ…俺が…どうしていいかわからない…」
兄はすがるように僕を見た。
「お願いだから話してくれ…! どんなことでも…黙って聞くから…もうこれ以上……耐えられない…」
喉から絞り出すような兄の悲痛な声がすべてを物語っていた。もうだめだ。隠しようがない。でも、これを…本当に話さなきゃ…ならないの…? 僕は再び秘密の脆さを刻まれた。どんなに隠しても、ほころびて、漏れて、もう…隠せない。
「僕は、絶対に…言わない…って決めてたんだよ…」
戦慄に全身の震えが止まらない。もう僕は涙すら出なかった。