思えば、あの一通の手紙から始まったような気がする。兄の父が僕にくれた手紙。もし、あの手紙がなかったら、僕たちは今ごろどんな道を歩いていただろうか? そんなもしもの話は考えても意味がないかも知れないけれど…ただ僕たちはいまだ、兄の父親の影から逃れることが出来ない。
「…あの日、窓の、カーテンの隙間から僕は兄貴とあの人を見てた…悲しくて悲しくて、僕はそこから逃げようって思った。そのとき僕の携帯に兄貴から電話が掛かってきて…でもそれは…罠だったんだ…」
自分の浅ましさ、彼の恨みの深さ…兄の絶望の深さ…その頂点に君臨している死んだあの人。最後に播いた種を刈ろうとして、僕に託したあの手紙。深入りするなって…無理なこと書いてあったっけ。僕にそんなこと、守れるわけ…ないだろ。
「…だけど彼は…無理矢理薬で僕の身体の自由を奪った…それからこの部屋で…彼の復讐が始まったんだ…」
兄の父親は彼に姿を変えてまだ生きてるのかもしれない。愛によって書かれたはずの手紙が、僕の悪夢になったように、兄の父親の恋人が僕を愛して、愛によって約束し返してくれた脅迫の証拠が、また今度も兄と僕の悪夢になる。
「…それ以来知らない場所で…何度も…犯された。僕を殺したいけど、兄貴が死ぬから殺さないって…それで…」
復讐から始まった二人が、最後には心の明かりの中で愛した者を不器用に慈しみ、愛された者の涙の中で別れた。だが復讐という狂気の凶悪な力は宿主を離れて成長し、命を宿してしまったかのようだった。
「…彼はずっと言ってた。僕を汚したい…って。闇に犯される僕を見たいって。彼は僕を薬で狂わせて…知らない男達に僕は…輪姦された…それがあの動画。僕は…堕ちたんだ…戻れないんだ。身体がおかしくなって…だから…僕の身体…もう前とは違っちゃってるんだ…」
ここで告白を終えられたら、どんなに楽だろう。だが…僕は、まだ最悪の出来事を告げなければならない。僕と彼が、愛し合ったことを。
「…最後に会った時…彼は追われてた。他人の秘密を食べ過ぎた…って、まずいことが起きていて消されるかも知れないって…」
そう…こうやって話していると、ゾッとするほど死に際の兄の父親に状況もなにもかも相似してる。そして兄と僕も、その同じ二人がこうやって愛の中で引き裂かれてる。経験の双子みたいに同じ悪夢を夢に見ながら。
「…そう彼に言ったら、僕は偽善者って言われた…彼は…愛を…知らなかったって言ったんだ」
もうやめたい。もう降りたい。これを言うくらいなら、自分の舌を咬み切ってしまいたい。
「……彼…僕に…」
僕はその後を続けることができなかった。長い沈黙が訪れた。僕は両膝を抱えて顔を伏せた。ダメだ。僕はこれ以上、何をどう言っていいのかもうわからない。
「…愛し…合えた…の?」
突然兄が僕の告白を継いだ。僕は驚いて兄を見た
「……」
「彼と…その時、愛し合った…の?」
兄は初めて僕の目を見た。僕はそのことに返事も出来ず、兄を見詰めるだけだった。
「…愛し合ったんだね。彼、お前に開いたんだね…心…」
兄は返事をしない僕から、答えを読み取っていた。
「うっ…うう…」
僕はこの日初めて涙を落とした。兄が僕に近づいて来る。なぜ…? 怒ったの? そうだね…僕は兄貴を裏切ったんだ。殴って罵倒してくれたらどれだけ楽になるだろう。僕は目をつぶった。
その瞬間、兄は僕を抱きしめていた。
僕は兄の腕の中にいた。最後に兄に抱かれて以来、もう幾月が過ぎただろうか。離れて久しかった兄の匂い。抱かれていることがまるで夢みたいに思えた。でもなぜ? なぜ僕を責めないの? なぜ絶望しないで僕を抱きしめてくれるの? 兄の体温が伝わってくる。あまりに愛しくて身体が痺れてくる。なぜ僕を?
「こんなに…こんなに苦しんで…俺のせいで…あんな惨い目にあって…それでも独りで…耐え…て」
兄は僕を抱きしめたまま、頭を震える手でなでてくれた。
「お前に…あの人…愛されたんだ」
兄はうっすら涙を浮かべていた。
「…怒ら…ないの? 僕は兄貴…裏切ったんだよ…?」
兄は僕を強く抱きしめた。
「違うよ。全部…親父と…俺のせいだ。お前に…責任なんか…ない」
兄の涙が僕の頬に落ちた。
「…こんな…惨いこと話させて…辛かったろうに…俺を許して…」
その後は兄は嗚咽で言葉にならなかった。
「兄貴のせいじゃない…兄貴のせいじゃないんだ。お願いもう、自分を責めないで…お願いだから…」
いつも届かない懇願だけど、僕は何度でも願うしか術がない。
「僕はあの人に…兄貴と同じ地獄を見せてもらったんだ…兄貴の孤独も…兄貴の狂気も…それまで本当にわかってなんかいなかった。あの人、正確に僕を兄貴のところまで連れて行ってくれた…それから…」
僕の目に一気に涙が溢れてきた。
「愛したら…許してしまえる…ことも…それから…別れ…も」
そう…兄が父親を許して、その後すぐ看取ったように。
「ごめん…ごめんね…だから…僕は…辛かったけど、大事なもの…もらった」
だから。
「だから兄貴…僕は彼に…ありがとうって…思う…よ」
僕は兄の顔を見た。
「兄貴も…親父さんに…きっとそう思った…よね…」
兄は僕を切なそうに見た。
「…ああ…そ…うだ」
兄の目は優しかった。
「そうだ…よ…」
「だから…自分を責めないで。母さんも…ずっと自分を責めてた。私がバカだったから兄貴…あんな目に会わせたって。でも兄貴の親父さん、救えたのは…兄貴だけだったんだよ。母さん…それで…救われたんだよ」
同じだ。兄貴のあとを追って、兄貴と同じように。
「彼…動画も写真も返すって…約束してくれたんだ。なんで兄貴のとこに送ったのか…わからない…けど」
兄はそばに落ちていた茶封筒を拾いあげた。
「SDカード…二枚送られてきた。一枚は俺が脅迫された時の、もう一枚が…あれ…だったんだ」
兄は今までのことを噛みしめるように目を閉じた。
「きっと…実家に送ったら親父らに見られる危険があるって思ったのかも知れない。それとも、今までの告白をしたかったのか。お前は俺に絶対話さないって…彼は思ったのかも知れないな…」
当たり前だ。少なくともさっきまで話そうなんて思ってなかった。
「兄貴は…自分を責めていつか自殺してしまうかも…って、いつも不安で不安でたまらないんだ…だからこんなこと…言えるわけ…ないよ。ごめん…ほんとにごめんなさい…僕は…兄貴裏切った…」
「逆だよ」
「えっ…?」
「違うよ…」
思わず僕は聞き返した。
「違うって…」
「お前がいるから…死ねない…死なない」
兄は僕の顔を見て微笑んだ。
「お前が悲しまないために…それだけのために…俺は死なない」
誤解してた。なんて浅はかな僕。そんなふうに思ってたの? 僕のために、僕のためだけに。
「決めてるんだ。いつも死にたくなる。でも何があっても…お前のために死なない。だから、彼に支えてもらった…お前と別れて…空しくて死にそうだったから…」
兄は額を僕の肩に押し当てた。兄は死なない、死なないん…だ。脱力するほどの安堵。愛されてる。僕は本当に愛されてる。一度止まっていた涙がまたぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
「彼にはそうしてもらう義務がある。彼の策略で俺もお前も苦しんだ…」
兄はいつもなら滅多に言わない事を言った。
「…でも…ほんとは死なないためでもそんなこと…しちゃいけなかった。かわりにお前を…こんな目にあわせてたなんて…」
兄は封筒を握り潰した。
「またお前を傷つけた。お前が彼の心を開いてくれたから、お前が彼を愛してくれたから、俺は今辛うじて正気でいられるんだ。俺はこんな時でさえ、お前の愛に救われてる。どうすれば…いい? 俺がすることは、全てお前の苦しみになっていく」
兄の呼吸が苦しげに聞こえる。
「一緒でも…離れても…苦しめる。答えが…出ないんだ…」
兄の両手が僕の肩から滑り落ちていった。その時僕は感じた。あのことを打ち明けなければならないと。
「…兄貴」
僕は兄の左手を握った。
「僕…聞いて欲しいことが…ある」
兄は伏せていた顔を上げた。
「なに…?」
僕の心は一瞬のうちに、違う苦痛の中に戻った。
「僕は…もう…戻れないんだ」
兄は僕の暗い声に顔を曇らせた。
「戻れない…って…?」
僕は握った兄の手を更に強く掴んだ。
「…僕は…彼を…また…男の人を愛したんだ」
「……」
「僕は…ノーマル…じゃない」
僕は膝を抱えて固まっていた。
「僕は…女の子を好きになったこと…ないんだ」
兄は黙っていた。
「僕…気づかなかった。僕は兄貴を愛してることだけしかわかってなかった。彼を愛しても、すぐには気づかなかった。でも…別れた悲しみが少し薄れてきたら、僕は…彼が男だったってことに気がついちゃったんだ」
僕は何を言えばいいかわからなくなった。兄はずっと黙っていた。
「ほんとは…彼に酷い仕打ちを受けたことなんか…もう僕は…いいんだ。それより僕は…もう…普通の世界の普通の人生が…なくなったこ…とが…なくなったことが…」
壊れそうだよ。
「…僕は…兄貴が僕に戻れって言った意味が…初めてわかっ…た…」
自分の身体を自分で支えていられない。兄の指から僕の指がスルッと抜けて、背中が壁にぶつかった。僕はそのままもう動けなかった。
「…わかった…? もう兄貴のせいじゃ…ない」
視界がブレてる。焦点を合わせる気力もなく、僕は壁にもたれたまま虚空を眺めていた。
「僕が…もし…兄貴の言う通り…ノーマルだったら…彼の…あんな…受け入れられるはず…ない」
そう…その上、愛するなんて。
「親父と母さんに…もう…どうしていいか…わかんない。それが一番苦しい。昨日…苦しくて…吐いた。吐いて…親父が背中をさすってくれて…母さんが心配してくれて…なのに僕は…僕は…辛くて…二人ともう一緒に…食卓を囲めない…普通の結婚をして…親父と母さんを安心させること…できない…」
僕はこの二日の間の無限ループをうわごとのように虚空に話し続けた。
「…この半年…僕は…気が狂わないことが不思議なくらい…泣き続けて、心も身体も…ボロボロになって…でも…倒れても…なんとか自分で立てたんだ…でも…今回は…もうダメなんだ…もう…立て…ない」
気が狂いそうな空虚が襲ってきた。壊れる。も…う…壊れてもいい?
「あははは…はは…は…は…ああ…ああああああ…」
僕は両手で頭を抱えた。うわごとみたいに言葉が口から漏れていった。
「壊れそうなんだ。僕にはなにもない…どうすることもできな………どうやって…どうやって…これから…生きていけばいいの? 自分を…支えられない…僕…もう…壊れていいか…な…」
その時兄が僕を抱え上げた。僕は兄の首にしがみついた。兄は僕を抱えたままベッドに運んでいった。僕の耳元で兄が小さな声で、でも有無を言わせぬ強さで、僕に囁いた。
「いまから…抱くよ…いいね…」
僕は目を閉じてうなずいた。何度も。
「今度は俺が…支える」
兄と僕はベッドに倒れこんだ。
「もう俺は…神から許されなくても構わない…お前が独りで歩けるまで、俺はお前を…支える。ごめん…こんなになるまで何もしてやれなくて…俺はお前にすがってた…ごめん…ほんとうに…」
君がこの愛をくれた
大事な初めての愛を
僕に愛を教えてくれた
それが僕のすべてなんだ
それが僕のすべてなんだ
それが僕のすべてなんだ