主は彼らの願いをいれて
彼らをいやされる
(イザヤ書 第十九章22節)
「お帰…り…」
僕と一緒に帰って来た兄の顔を見て母はそう言い、絶句した。兄の痩せこけた顔はとても衝撃的だったらしい。
「…死ぬかも」
兄は玄関で母に向かってとても真面目な顔で言った。
「この飽食の現代社会で…飢えて死にかけるとは…メシ…」
母は呆れた顔になった。
「もうっ! 何があったかと思ったわよ!」
僕の退院以来久しぶりの兄の帰宅に、母はとても嬉しそうだった。
僕は帰還した。もう二度とまっすぐには見れないと思っていた母を見ている自分がいる。二日前には罪の重さに吐いて倒れ、もう生きていけないとさえ思っていたのに…
昨日、あの部屋で兄は僕をベッドの上でただ抱きしめた。長いこと重なりあったまま、僕たちはずっと静かに互いの存在を確かめあっていた。互いの身体を貪ることもなく、心と心を重ね合わせ、兄は僕を守ることで自分の存在を受け入れ、僕はその愛を受けとめることで兄を必要とした。兄はわかっていた。すぐに僕が抱けるような状態にはないことを。僕もわかっていた。兄が僕を情欲で抱こうとしているのではないということを。壊れて打ちのめされた僕の心を兄は大事に拾い上げ温め、抱えようとしてくれていた。ほとんど完全な理解の中で、僕たちは互いの求めているものを分かりあっているようだった。兄の腕の中は、広くて暗い虚空に浮かぶコロニーのようだった。その中で僕は久しぶりに息をした。あの雷雨の夕暮れから止まってた呼吸。愛は酸素だ。それがなくては虚空では生きていけない。僕はかつて無意識に酸素を吸って、無意識に吐いていた。だが僕は酸素を失い、初めて生きていけないことを知った。愛されてる。僕は愛されてる。
「兄貴に…酸素…もらってる」
僕は目を閉じたまま呟いた。
「息が…出来る」
「俺も、だ」
兄も静かに囁いた。僕たちはいつの間にか眠りに引き込まれていた。きっと兄も僕と同じように眠れてなどいなかったのだろう。
僕がぼんやりと目を覚ました時には、部屋は真っ暗だった。僕は自分がどこに居るのか朦朧としてすぐには分からなかった。夢…かな、となりに誰か居る。兄が…いる。兄貴が、僕の横で…
夢か幻か現実かわからない境を僕の意識はさまよっていた。兄がこちらに寝返りをうつ。兄は無意識に僕の肩を抱いていた。
「…ん」
何か甘く切ない衝動が身体に広がった。兄の手が触れている肩が感じて痺れてきて、その痺れはたちまちのうちに抗い難く身体中に拡がっていった。
「んあぁ…」
僕は耐えきれず喘いでいた。身体が弓なりにしなる。だんだん呼吸が荒くなる。ああ…墜ちた時の…あの…感じだ…。目覚めきらない意識が性感に拍車をかける。愛撫も薬もないのに、ただ兄に触れられただけで。
「どうした…?」
暗闇で兄の声がした。兄の声が僕の身体を震わせる。あの時のように、僕の身体は触らなくても声や視線によって快楽を埋め込まれてしまう。身体が勝手にがビクッと痙攣する。
「…見ないで」
兄が僕を抱く時に必ず言う言葉を僕は無意識に告げていた。
「どうしたんだ? 過呼吸か?」
荒い息を繰り返す僕に、兄が心配そうに尋ねた。
「違う…か…身体…が…た…たまらな…い」
僕は朦朧としていた。深い眠りの余韻が僕を捕らえていた。さっき兄が無意識に僕に回した手が、暗闇で僕の肩をそっとつかむ。
「くあっ…!」
「感じるのか…?」
その言葉…あの時の車の中…で…。兄が…彼と重なる。がくがく震えるほどの高まりが、僕を襲った。兄に見られたくない。知らない男達に無理矢理ほどかれてしまった身体。でも…隠す気力もありはしない。
「ああっ…あっ…あっ…」
「我慢…するな…苦しいから…」
同じ身体を持ってる兄は全部わかっていた。
「わからない…どうしていい…か」
兄は僕の身体に覆い被さった。
「狂ってもいいんだ。俺がお前…受けとめるから」
兄の身体の重みがすべて、快感に変換されていく。
「んあああぁぁ…」
「大丈夫だ…大丈夫…お前は敏感だから感じやすいだけだ」
「違う…狂ってるんだ…あの日から僕の身体…墜ちたんだ」
「敏感じゃなきゃそんなにならない。お前が自分を守ったんだ。苦痛で気が狂わないように…身体に替わってもらっただけだ」
兄は優しく僕を諭すように話した。
「死にたくなるほど辛い思いをしたんだ。当たり前なんだよ」
僕は少しづつ思い出していった。そうだ…あんまり苦しいから…僕は願ったんだ。
「…僕は弱くて…耐えきれなくて、せめて…気持ち良くして欲しいって…願ったんだ…」
兄は僕を抱きしめた。
「だから、だめだ。まだこの身体を心の替わりに狂わせておかないと。お前のあの日のトラウマがまだ癒えないうちはこんなふうに狂っていていいんだ…でないとお前が本当に崩壊してしまうから…」
あの残酷な体験から僕の心を、この身体が守ってくれていた…?
「狂って…誰にでも感じてしまうんだよ? それでも…いいの…?」
「ああ…いいんだ…今は俺がここにいる。だから俺に求めればいい。そのために俺がいる…嫌なことはだめだとすぐ言えよ。して欲しい事は我慢しないで…全部ぶつけろ」
だが僕の中の高まりは、ある異常な要求を密かに告げていた。なぜ…そこまで? ひどい…。頭の中に見知らぬ誰かの言葉がよぎる。
(この子は調教のしがいがある…)
いやだ…こんな異常な身体を見られるなんて…どうすればいいの?
僕の身体が覚えてしまったこと。それはあの人が僕を飼い馴らすのに、始めから終始していた、ある行為だった。
縛られて犯されること。僕の身体が望んだのは、それだった。言えない…兄に言えない。自分の求めていることに僕は激しい恥辱と恐れを感じていた。僕のすべての羞恥心がその要求を拒絶したがっていた。にも関わらず僕の腕は、自由の不安定さにわなないていた。縄を…手錠を…はめて、縛りつけて…自由を奪って。まだ僕は僕の身体を許していない。だから無理矢理犯して。僕のせいじゃないって言って。兄が僕をそこから救い出そうと僕が自分の身体を許せるように、100%受けとめてくれることもわかっているはず。なのに僕はマゾヒズムという倒錯を受け入れることを拒絶したかった。もう…無理だよ。兄弟で同性愛という二重の桎梏に、畳みかけるように刻まれた異常な性癖。それを彼に埋め込まれてしまったことにここで気づくなんて…。僕はとっくに闇に飲み込まれてる。だけどいまこの身体で何度拒絶しても、この縛られたい欲望を退ける術が、ない。兄が傷つかないか、どうしても反射みたいに考えてしまう。兄も彼に縛られていた。僕がまた同じように調教された、と知ったら兄はどう思うだろう。彼に歪められて開いた僕の身体を兄がどう感じるんだろう。怖い。兄が罪悪感と嫉妬で壊れないかと、僕は震える。でも…もう、限界だ。僕の理性なんて、この体の前には何の役にも立たないと知った。
「どうして欲しい…?」
兄が僕に囁く。耳に声と吐息が触れる。
「そこはっ…ダメっ…!」
耳が一番弱い。兄がよく知ってるように…理性が弾け飛ぶ。
「だめっ…ああっ!」
手が…手が…もう、耐え切れない。
「ああ…縛って…僕を…手を縛って犯して…!」
僕は狂ったように兄にしがみつき、腰を回して兄にこすりつけながら懇願していた。
(この子は…調教したら良い奴隷になりそうだ)
(ええ…そうでしょう。縄が似合う。縛られて見られただけでこんなによがり狂って…)
「調教…されたのか。あの人に」
兄は動きを止めた。その声はとても暗かった。
「わからなかったんだ…こんな風に…なってた…なんて…」
僕ははち切れそうな欲望を兄の身体にこすり続けていた。もうなにかを留めようという判断は一切働きを止めていた。僕の中の獣のような衝動だけが、僕を衝き動かしていた。
「お願い…手を…縛って…手が…どっかに…連れて行かれそうなんだ。ベッドにつないで…お願いだから…いやああああぁぁぁっ…!」
手首の異常な感覚と不安感。脱力とも痙攣ともつかない浮遊感。不安と空虚感が手首から先を飲み込んでいく。僕は思わず自分の手首に噛みついた。
「やめろっ!」
僕の手首を兄が僕の口から剥がす。
「だめっ!だめっ!」
僕は兄に抵抗した。
「僕がいなくなるっ! 怖いんだ…助けてよ…! つないでてよ!」
僕は焦燥感で半狂乱になっていた。
「大丈夫だ! お前はどこにも行かないよ」
「ダメだよ! 手錠でもいいからっ! つないで! 早くぅぅっ…!」
兄は一瞬凍りついたように絶句した。そしてのたうちまわる僕の身体を羽交い締めにして、両手で僕の左右の手首をつかみ、ベッドに押しつけた。
「待ってろ…いま…つないでやる」
悶えて泣き叫ぶ僕に兄はそう言うと、身体をずらしてベッドの下に片手を伸ばした。カチャリと金属同士のぶつかる音が部屋に響いた。兄の手にはあの時ベッドから吊るされていた手錠が握られていた。兄は頭上のベッドの柵に手錠を通した。兄が僕の手首を片方づつ、すばやく手錠で繋いでいく。僕の両腕は頭の上で繋がれ、身体が無防備に開かれた。
「んはあああぁっ…」
懐かしい冷たい手錠の感触に僕は身体をくねらせて震えて悶えた。手首の異常な感覚がこの感触の中で、快感へとすぐさま変わっていく。僕のせいじゃない…これで繋がれて無理やり犯されたんだ…僕のせいじゃない…僕は壊されたん…だ…。手錠の鎖が金属の柵に当たり、カチャカチャと音を立てて鳴る。それが殊更に僕の耳を鋭く犯す。
「あっ…あっ…だめ…だめ!」
僕の性感はもうギリギリまで追い詰められていた。
「これで…良いのか?」
兄が耳元で問い掛ける。耳の中を兄の声が犯す。
「いやあああっ!」
声で唐突に突き上げる淫らな衝撃が、囁かれた耳から過半身に走った。
「だめぇぇっ!…出る…出るっ!」
僕はそう叫びながら、兄の身体の下で全身を引き吊らせて絶頂のしぶきを飛び散らせた。射精の後、僕は不意に我に返った。全部見られてしまった。もうダメだ。兄貴に嫌われる。
「ごめん…ごめんなさい…こんなの…見せたくな…」
最後までいう気力もなかった。気が遠くなるような、沈んでいく感覚が全身を包んだ。
「僕の…身体…」
兄は無言だった。
「…戻れないん…だ…ヒドいでしょ…?」
嫌わ…れた。でも…まだ始まった…ばかりだ。また僕の頭の中を、淫らな快楽が飲み込んでいく。すぐに錯乱し始める。兄の腕を掴んで悶え始める自分がいた。
「…ああ…また…来る…また…あに…き…ごめんなさい…」
やっぱり、終わらないよ。身体がビクンと跳ねた。なにも入っていない後ろが虚ろで、そこを大きな固いもので塞がれたくなった。その欲望で頭の中がいっぱいになっていく。満たされなくて狂いそうになってくる。思わず僕は口走っていた。
「挿れて…ダメ…おかしくなる…もうガマンできない…挿れて…あそこ…早く…」
「…お前」
兄は思いつめた顔で僕を見下ろしていた。何を考えているのか僕にはわからなくて、どうしてもそれを訊いてしまった。
「兄貴…僕を…嫌いに…なる…?」
僕は焦点の定まらない目で朦朧と宙を見ていた。僕の首筋にポタリと水滴が落ちた。
「好きだよ…お前が…大好きだ…どんなになってたって」
それは兄の涙だった。
昨日僕は、兄に愛され、狂った。僕は兄に抱かれて初めて声を上げた。手首を繋がれたまま何度も欲しがって、気が狂ったみたいに兄にねだって、そのたびに僕は何度も深く満たされた。兄の腕の中で。僕たちは明け方まで愛し合い、気を失い、今日は昼前に二人で目が覚めた。
目覚めて二人で改めて部屋の惨状を見回した。二人で笑わずにはいられなかった。…到底、兄は言った。ここでメシを食う気にはならないな。確かに…と、僕も感想を述べた。近くのファミレスまで行き、ランチを取りながら話をした。僕は家に帰りたくないと訴えた。ここに居たい…と。兄は少し考えていたが、僕に向かってこう言った。俺が帰る。お前はまだあそこを出ちゃだめだ。俺がお前と一緒に帰る。また一緒に暮らせばいい。俺が居ればお前はお袋達となんとかやっていける。違うか?
僕はまた夢を見てるような信じられない想いで兄を見た。兄は毅然としていた。あの罪悪感に打ちのめされてた兄は、微塵も感じることがなかった。
「一緒に…暮らせる…の?」
僕はうわ言みたいに呆然と訊いた。
「そうだ。お前に嫌われるまではな」
兄はそう言って笑った。昼飯をとり、ゴミの山に挑み、兄と二人実家に戻った。僕にはそのすべてが奇跡だった。
「就職するまでうちに居なさいよ。大学院卒業するまであと二年でしょ? 少し遠いけど…この前までここから通ってたんだし…」
「…考えとく」
「あー…こんなことなら多少なりとも家事させれば良かったわ」
「片付け…大変だった」
僕も話に加わることにした。
「緊急事態だったよな」
兄が言う…間違いではない。色んな意味で。
「あれは驚きの大惨事だよね…母さんには絶対見せられない」
「写メでもとってきてもらいたかったわ」
「無理…写メに収まらない」
本当に片付けは大変だった。まだ完パケではないし…何枚ゴミ袋使ったかな? しかも45リットルのでかいヤツ。彼が居なくなった後からの兄の荒みようが良くわかった。
父はレースの打ち上げでレースチームのメンバーと飲みに行っていた。僕たちは母と三人で食卓を囲んだ。早めの夕食だった。
「研究所そんなに忙しいの?」
母は心配そうに聞いた。
「実験が始まるとね」
兄は答えた。
「忙しいから…でもないか…」
「何が?」
「考え事してると…メシ食うのをふと忘れる」
「やだ…ちゃんと食べてよ」
兄はそんなに大食ではない。
「…コンビニの弁当は飽きた」
母はまた「もう!」と言った。
「少しは自炊したら?」
兄は笑った。
「自炊…無理だ」
ついに母は言った。
「身体でも壊したら研究も出来ないのよ? ほんとに帰ってきたら? 明日にでも」
母は僕を見て言った。
「ほんと良かったわ…お兄ちゃん連れてきてくれて。放っておいたらミイラになっちゃう」
「ミイラ…はないよ。まぁ、帰ってくるかな。自炊はほんと、無理だから」
兄はいつもよりよく話してくれてた。僕をカバーしてくれてるのがひしひしと伝わってきていた。本当だ。兄貴と一緒にいると、僕はここに居ることが出来る。不思議だった。兄は僕の「家」になっていた。
それがすべて、僕たちの祈りの答えなのだった。あの人の心に明かりを灯し、兄の心に決意をもたらし、僕に兄を返してくれた。そのあまりのダイナミズムに、僕は深い畏怖と畏敬とを感じずにはいられなかった。宇宙の叡知が僕たちを包んでいる。僕には考えもつかない方法と展開で完全な愛の中へ導かれる。本当に…信じられないほどの正確さで。
そして、あの部屋を温存しておくと兄は決めていた。実験の時は家まで帰るのはほんとにちょっと大変だし…と、実家に帰る電車の中で兄は言った。建前は、それ。実質はお前と俺との部屋だ。今のお前の状態だと、あの部屋がないとマズい。声出せるし、道具は揃ってる。それを聞いて僕は昨日の自分の痴態を思い出し、顔が熱くなった。こんなとこで言うなよ、兄貴。でも兄は気にもせず続けた。
「あの部屋は昨日を最後に、俺の墓場改め避難シェルターと役割を変えるんだ」
兄は真面目な顔でそう僕に宣言した。
「なんか…狭くて地下っぽい感じはあまり変わらないが」
兄は自分で言って苦笑した。
「でも…死ぬための場所じゃない。生き抜くための場所だ…お前と…」
兄は少し眩しそうな顔で、新緑の木立を車窓から眺めていた。
「俺は生きようとしてるんだな…」
兄が誰に言うともなく呟いた。僕はその言葉に、胸がいっぱいになった。
こんな理解してくれる人があの時いたらな…という叶わなかった願望ダダ漏れの回です。書いた後、自分で書いたにも関わらず、主人公に激しい羨望を抱いたっていう、作者にあるまじきある意味神回。