母のリクエストに応える形で、しばらくして兄は再び僕たちと共に暮らし始めた。僕の狭い部屋が再び“僕たちの部屋”になった。
問題はなにも解決していない。にも拘らず僕は安らかだった。長い過酷な日々を越えて、僕の心はようやく休息を得た。それは兄も同じだった。
「なあ…走りに行かないか?」
ある日の、夕食もとっくに終わった夜中、兄はそんなことを僕に言った。
「え?走るって…ジョギング?」
「そう…最近筋力落ちてヤバいし」
兄は高校時代は陸上部だったので、大学受験中も毎日走っていた。大学に行ってからは三日に一度は走っていたが、この一年あまり、つまり兄の父親が倒れた頃から兄は走らなくなっていた。
「うーん…確かに兄貴痩せたよね」
「あのふくらはぎが懐かしい」
兄はスエットの裾をめくり、自分の脚をしげしげと眺めた。
「張りが…ないね」
「ああ…悔しいがお前の言う通り」
そう言って兄はやおら立ち上がると、おもむろに押し入れからジャージの上下を引っ張り出した。
「本気?」
「ああ…お前も付き合え」
「僕も?」
「ミュージシャンは体力が命」
「そうだけど…」
「二人で走りたいんだよ」
兄は僕を見上げた。その目が妙に可愛くて僕は吹き出した。
「兄貴…おねだり?」
「いけませんか?」
兄貴がおねだりした! 僕に!
「わかった…行きます…走ります」
「おぉ…やった!途中でスポーツドリンクおごってやる」
僕はスエットとパーカーに着替え、ウキウキとメンド臭いの両方を半々に従えて兄と夜中のジョギングに出かけた。
「初日だから…3キロにしとくか」
兄は一人で勝手に決めて 、走る前のウォーミングアップを始めていた。あわてて僕もアキレス腱のストレッチに入った。兄と走るのは意外にも初めてのことで、僕は球技は得意だけど脚が速いわけではなく、持久力の要るマラソンは好きじゃないし得意でもなかった。兄は短距離の選手だったが、ジョギングは好きだったのと、多分…例の理由で、毎日5キロは走っていたらしいが…
「ゆっくり行くから。ついて来れなかったら言えよな」
「3キロってどこからどこまで?」
僕は兄に訊いた。
「S公園まで往復」
「…あっ、そう」
まあ、行って行けない距離ではないけど。僕は兄の我慢強さの源をかいまみた。僕なら“絶対に”自分から走らない。続かない自信はある!
「さて、行くか」
軽くステップを踏んで膝をほぐす兄の顔が、スッと修行僧みたいに禁欲的な透明感を帯びる。その変化が妙に僕をドキッとさせた。
「じゃ、行くぞ」
「OK…」
僕らはS公園目指して走り出した。
公園までの道のりは遠かった。走るって…過酷…。僕は何度も立ち止まりそうになり、兄はそんな僕を見て笑っていた。
「あーダメ! もーダメ!」
「せめて公園まで止まるなよ!」
言いながらも兄はかなりテンポを落として伴走していてくれたはず。
「先に…行けば…良い…のに」
息も絶え絶えに僕が言うと、
「いや、一緒に行くよ。お前は目を離したら歩くだろ?」
「なぜ…わかった…」
「はいはい!もう少し!」
堪え性の無さは兄にはバレてるし、噴き出す汗をパーカーの袖で何度も拭いながらヨロヨロ走り続け、そうしてる間にも公園の森の黒いシルエットがようやく現れ、次第にそれが近づいて来た。
三分後、僕は公園の舗装された道路に仰向けに倒れていた。星を見ていた。つまりゴール。もう限界。
「ホントはここ…折り返し地点なんだけど…」
兄が傍らで膝に手をついて呼吸を調えている。
「今日は…コースを覚えるってことで…特別に休憩な」
「ええーっ…休みなし?」
「3キロで休み入れたら鍛練にならないから」
兄はそう言ってニッコリ笑った。
「その笑顔は…反則だ」
かわいい…なぜだろ? 今日の兄貴なんかかわいい。変だ…と僕はなんとなく思った。
「兄貴?」
「ん?」
「なんかあったの?」
「……」
だ…黙るの? そこで?
「あった…の?」
兄は黙ったまま身体を起こすと、僕に背を向けてしまった。マジで…?
「早く起きろよ…」
後ろを向いたまま兄が言った。僕は思わず半身を起こして兄の背中を見上げた。
「どうしたの?」
兄は背中を向けたまま声を落とした。
「…襲いたくなるだろ」
う…うわぁぁ。ダメでしょ…それも反則だし。
「飲むもんおごってやるから…早く立て…歩け」
僕は猛然と起き上がり、スエットの砂利を払いながら自販機に向かう兄のあとを追った。まばらに街灯が灯る広い公園の、屋根付きのあずま屋のベンチに座り二人でスポーツドリンクをゴクゴクと飲んでいた。兄は僕とあまり目を合わせずに、ベンチにもたれ遠くを眺めていた。兄のシルエットが弱い外灯の光にぼんやりと照らされている。憂いのある横顔、それが何か物言いたげに、切れ長の目が少し伏せられ、何かを切り出したいのを兄自身が自分を待ってるような、そんなためらいを感じていた。見とれてしまう…苦悩すればするほど美しく見える。あの人も知ってたんだろうな…なぜかいきなり彼を思い出して少し戸惑った。初めて見たあの日のあの部屋の二人。蝋燭の炎が妖しく揺れる中で、二人はとても悲しげで、綺麗だった。不意に兄が呟いた
「…ダメだな」
「…なにが?」
僕も咄嗟に尋ねていた。
「ひとつ苦痛が終わるとまたひとつ、違う苦痛が始まって…それが終わってもまた…思いもしない苦しみが待ち受けていて…」
兄は顔を伏せた。
「終わらない…」
兄がフッと苦笑した。
「なにを…苦しんでるの…」
僕は急に不安になり兄に尋ね直した。兄はベンチの上で片膝を立て、その膝を両腕で抱え顔を埋めた。
「嫉妬」
顔を伏せたまま兄はひと言そう言った。
「兄貴…」
「ん…?」
「彼の…こと?」
兄は無言でうなずいた。驚いたことに僕はそれを見て、とても意地悪な気分になっていた。
「じゃあ、さ。兄貴…ずっと嫉妬しててよ」
兄はびっくりしたような顔で僕を見た。
「やきもち妬いてる兄貴は、たまらないほど…かわいい」
僕は今日の兄の見せたプレミアの笑顔を思い出しながら、下を向いて本気でにやけていた。兄はいつの間にか耳まで赤くなっていた。
「兄貴、恥ずかしいの?」
「なっ…なっ…なにみてるんだよ」
「赤くなってる。なに?」
「ばっ…バカ」
かっ…かわいい…。
「乙女だ…」
「やめろって!」
「だってたまんないよ。ここで押し倒したい」
僕はベンチの上で兄に詰め寄った。
「こっ…ここは…マズいって」
「キスしたい」
「俺の苦痛はどうしてくれるんだ」
「だから、ずっと嫉妬しててよ。かわいい」
「あーっ!もうっ!」
ヤバい。本気でそそられる。
「俺は本気で苦しんでるのに…!」
それを聞いて僕はもっと意地悪なことを言った。
「兄貴が手を離したからじゃない」
「…そ…それは」
「僕が泣きわめいてお願いして手首切っても、兄貴は僕を手離そうとして僕から離れて行ったのに…」
僕はわざと兄に寄り掛かるようにして手首の傷を見せた。意地悪な気持ち以上の何かが、僕に生まれていた。
「この傷…裂けて傷痕がツレて、グチャグチャになってるでしょ?」
「なんでこんな…あっ…」
その時兄は何かに気づいたみたいだった。
「あの人に初めて会った日に、兄貴の部屋でここ引き裂かれた。指でこじ開けられて。塞がりかけてたのに」
僕は止まらなくなっていた。
「僕…聞きたいことがある」
「な…に?」
「あの人、兄貴の手のひらの傷にも指を入れたの?」
「……」
僕は兄の右手を掴み、手のひらを押し拡げた。やはり兄の傷もカミソリで切ったとは到底思えないほど太く引きつれ、皮膚が盛り上がっていた。その傷を指でなぞりながら、僕は言い続けていた。
「僕も…嫉妬した。二人が見つめあって、悲しみを分かち合って、二人は同じように兄貴のオヤジさんを好きで、僕だけ…外にいて」
僕の目から突然涙がこぼれてきた。
「だからわかるよ、兄貴が辛いの。僕も…ずっと…辛かったから」
僕はボロボロ泣いていた。ずっと、兄の父にも、彼にも嫉妬し続けて。
「兄貴が嫉妬できっと辛い思いするって…だから僕は…あのこと絶対に言いたくないって思ってたんだ」
僕は今まで言えなかったことを兄に言った。
「でも僕は…彼の中に…いつも兄貴を見てたよ。辛い時も…受け入れた時も。優しい彼は…兄貴に似てて…すごく似ていて…僕は…切なくて…でも、ごめん…ごめんなさい」
僕はパーカーの袖で涙を拭いた。
「もう離れないでよ…絶対」
「ああ…そうだ…な」
「僕たち離れると不幸になるんだ」
それは実感だった。すると兄が、ためらいがちに僕に訊いた。
「俺には封印してる言葉があるんだ。だけど今だけ、一度でいいからお前に言いたい。一度だけ言わせてくれ」
「言ってよ…」
僕は兄の手を握った。兄はその手を握り返してこう言った。
「お前は…俺の…ものだ」
兄は目を閉じて僕の両手を包んだ。
「これだけは…絶対言うまいって… 思ってたのに」
兄はスルッと手を離した。
「…言っちまった」
兄は脱力したようにベンチの背もたれに寄り掛かった。僕はその言葉に震えた。僕が一番欲しかったもの、それがその言葉だった。
「兄…貴」
僕は痺れるような切なさの中で、兄に再びそれを求めた。
「もう…一度」
「もう一度…?」
「もう一度、言って」
「えっ…?」
「僕は兄貴のものだから。もう…ずっと前から…」
「だっ…て…」
「あげた…でしょ? 僕を全部。思い出して」
「…でも」
「兄貴も言った。お前に全部…やるって…」
「そうだ…だけど…」
「だから、言って。もう一度言って。お前は俺のものだって。お前は…俺だけのものだって」
「そうしたいよ。だけど…俺は…」
「帰ってきてくれたのに? 嫉妬でそんなに苦しんでるのに?」
「ああ。そうだよ…俺は…嫉妬に耐えられなかったんだよ! お前を縛りたいんだ。本当は束縛して離したくないんだ。俺のものに、俺だけのものにしたいんだ! 最低だ」
兄はそう言って拳でベンチを叩いた。僕はもうじっと座っていられずに兄の前に立ち上がっていた 。
「じゃあそうしてよ! なんで言っ てくれないの? 僕はずっと待ってたんだ!兄貴がそう言ってくれるの…ずっと待ってたんだ! 僕は縛られたい…束縛して欲しい…離さないってずっとずっと言い続けて欲しいのに…なぜそう言ってくれないの?」
兄も立ち上がっていた。
「そんなわがまま…許されるはずないだろう!」
わが…まま? 僕は兄の言葉に驚いた。
「わがままって…そんな…だってこんな…一生懸命お願いしてるのに」
僕は兄がまだ僕の未来を奪う恐れにおののいていることをその時知った。
「僕をまだ小鳥だって思ってるの」
兄は思い詰めたように告げた。
「今は…俺は…自分のすべてを賭けてお前を守る。だけど、お前が自由なのは…変わらないんだよ」
「兄貴は僕の傷が治ったら、また去ってしまおうとしていたの? あの時みたいに、僕を自由にしよう として…身を引くつもりなの?」
「俺はずっと側にいるさ…どのみち俺はお前のためにしか生きていけない人間なんだ。それはこの半年で叩きつけられたよ…俺はそれを一度失わなければ分からない大バカ者だったからな!」
兄は珍しく声を荒げていた。
「俺は決めたんだ! あの日お前が叫ぶのを聞いて! お前が生きていけないくらい壊れて俺に支えろと叫ぶのを聞いて…俺はお前のために人生を全部差し出すと決めたんだ!」
兄は急に片手で口を覆い僕から目を背けた。
「だけど…もしかして…お前はあの人と愛し合うのがまだマシじゃないかって…俺がお前支えるのは…完全に…矛盾してるんだから。だってそうだろ? 俺が壊したものを俺が支えてるなんて…こんな卑劣な人間がお前の何を救うのか。夜中にお前を抱きながら…身の毛がよだつんだ。俺は何をしてるんだろうって」
兄は両手で顔を覆った。その長い指先が震えていた。