罪のためのささげ物は
もはやあり得ない
《ヘブル人への手紙 第十章18節》
一日一日と兄が衰弱していく。鶴の機織りみたいに自分の羽根を一本づつ抜いて、父親の死に装束を織っている。帰りも段々遅くなる。食事をしているのかしてないのか、わからないくらい日々憔悴していく。夜中にこっそり風呂場で血のついた下着を洗っている。僕の心も切り刻まれていく。兄は僕と二人きりになるとすぐに部屋から出ていく。僕は夜になると独りの布団のなかでただ縮こまっている。兄がうなされているのが聞こえてくる。いつもうわ言は同じ。
「やめて…もう許して…お願い…助けて…いやだ」
僕はもっと縮こまって耳をキツく塞ぐ。それしか出来ない。叫びだしてしまいたくなる。
僕は一日中爆音のような音楽を毎日毎日繰り返し聞いている。なにも考えたくないし、なにも感じたくない。なにも見たくないし聞きたくない。前より発作が頻繁に起きる。病院の薬が増える。医師からカウンセリングを勧められるが、言えないことが多すぎて話をしたくなどない。
兄に触れたいんだ。それだけでいい。この地獄はいつ終わるんだろう…わからない…きっと兄にも。
兄を失って3ヶ月あまりが過ぎた。期末テストは無惨に全滅で、担任が発作の件もからんで僕に指導が入った。補習と補講と再試験で兄のことを一瞬忘れかけるくらい、学校のことでバタバタした。勘の良い母はとっくに気づいていて、僕に何気なく、
「お兄ちゃんとケンカしたの?」と探りを入れられた。
「別に…兄貴の機嫌が悪いだけだろ。バイト忙しいから」とごまかした。
兄にもきっと母はさりげなく、僕となんかあったのか訊いているんだろう。兄はなんて答えたんだろう? 母に訊きたいと思った。
僕はなんでもないふりをし続けた。苦悩を人に見られないように、怒りはギターだけにぶつけた。でもその苦しみは自分の予想以上に過酷で耐えがたい苦痛だった。抑えこまれた狂気と激情は僕のキャパを越え、その日いきなり暴発した。
父と母はその日親戚の法事で、泊まりがけで出かけていた。僕と兄が二人きりになるのはもう何年ぶりのことだろうか。晩飯のあと僕はいつものようにやりたくもない宿題をたらたらやり、兄が帰る前に寝て意識を無くしてしまおうと風呂に入りベッドに入った。
しばらくして部屋の戸が開く音で目が覚めた。いつの間にか寝ていたようだった。兄が僕を起こさないように静かに入って来るのがわかった。僕はなぜか体をベッドから起こした。なにかしようなんて思わないのに。そのとき僕の頭の中は空っぽだった。ただ意図しないまま、身体だけが勝手に動いていった。僕は二段ベッドから降りていった。兄はすでに布団に潜っていた。僕はなんの躊躇もなく兄の掛け布団を剥がした。兄ははっとして身体を起こし、僕を見上げた。
「どう…したんだ」兄はそう言って僕の顔を見上げた。
僕はなんの返事もせず、兄のベッドに入っていった。兄は僕が近づくのを見ると恐怖に満ちた目であとずさった。
「…来るな…だめだよ」
兄はあの時と同じように僕に言った。けれど僕は兄の言葉の意味すら、その時理解できなかった。
「来ちゃダメだ…俺に触るな!」
兄は怯えた声で叫んだ。僕は兄がなぜ叫ぶのか全く理解できずに兄を追った。僕の行動も異常に見えたに違いない。一言も言わずに向かってくる僕を、兄は両手で押さえていた。
「だめだ…許して…頼むから」
兄は必死で僕を押し戻そうと、僕の両肩を掴み抵抗した。でも僕は止まることはなかった。兄の手を振りほどき、僕は兄の身体に馬乗りになった。
「だめだよ!どうしたんだ!」
兄の叫ぶ言葉は、やはりなにも僕に届かなかった。僕は兄の上半身を押し倒していた。
兄は必死に抵抗したけど、僕の力は有無を言わせなかった。僕はそのまま兄を貪った。まるで飢えた肉食獣が生肉を喰らうような激しさで。兄の悲痛な懇願はすべて、僕には一切理解不能だった。ただ暴力性だけが僕を支配していて、自分が何をしているのかすら僕自身わけがわからなかった。兄が抵抗すればするほど僕は激しく兄を貪った。腕力はいつもと違い異常に強く、兄は易々と羽交い締めになっていた。兄のボロボロの身体を僕は喰らい尽くした。気が狂ったような制御不能な時間…どれくらいの時間かすらわからない兄が涙を流し嗚咽する。僕になにが起きているか、兄はすぐにわかったに違いない。僕が正気を失い逃げ道もないことを。兄の抵抗は途中から止んだ。あとは止まらない兄の嗚咽と、僕の終わらない行為だけが続いた。
どれくらいの時間が過ぎたのか、窓の外がうっすら白みかけていた。不意に僕は意識が遠のいていくのを感じた。まるでスイッチがオフになるように。僕は兄の身体の上で気を失った。兄の腕が僕を抱き止めるのを遠くで感じたのも、束の間の出来事だった。
次の日から、兄は大学の実験を理由に家に帰ってこなくなった。ほどなくして兄は大学の研究室に近いアパートを借り、独り家を出ていった。家族には研究室の実験が続くし、実家の部屋も狭いから、という誰も疑わない理由を作って。
取り返しのつかない僕の罪。もうこれで隠れて血を洗わなくてもいいね。父さんや母さんに苦しい嘘をつくことも…そう…
僕のせいだ。自分の中に鬼を生んだんだ。僕は人間だったはずなのに。弱すぎて弱さが凶器になって、自分を止めることすらできなかった。謝るすべも失って、兄を失って。
父親を死に追い込んだという兄の罪悪感。自分を壊した父親に許しを請う為に、刻まれる血まみれの契約書。許し?
許しを請うのはあいつだろ?
僕は許さない。僕はあいつを許さない。そして僕も。僕自身も。
兄が僕の前からいなくなってから、僕はひっそりと息を殺して暮らした。僕は兄の罪悪感と同じものを兄を凌辱してほんの少し理解した。
僕のせいで兄は出て行った。
僕のせいで兄は兄の父親を捨てた。
僕のせいで兄は追い詰められた。
僕のせいで兄は破滅しかけてる。
僕のせいで
僕のせいで
僕のせいで
兄が自分を責め続けたことが、まるで自分のことのように解るようになった。兄が「死にたい」と口走ったその意味も。僕は自分を責め続けた。音楽すら聴けなくなった。僕は慰められる資格などないと。僕の心は罰せられることを望んだ。取り返しのつかない罪の重さに。僕は兄の心だけじゃなく、牢獄で自分の犯した罪をあがなう罪人の心の重荷すら思った。取り返しがつかない罪を負うこと、一生消えない十字架を背負うこと。
僕は力なくフッと笑うようになった。兄が絶望の淵で微笑む顔が浮かぶ。なぜ笑うのかあの時は解らなかった。だが今ならわかる。自分の無力さとあまりの未熟さを、そしてこの呪われた運命を受けとめて、心が死んで、そんな自分に笑いかけるしかない。嘲笑や冷笑ではないんだ。自分を諦めた時の…言葉に出来ない滑稽さなのか、自分への憐れみ…なのか。
少し笑う。泣く替わりに…少し笑う。そして心は死に、罪と贖罪と罰だけが人生を占めて離れない。
兄貴…ごめんね。わかってなかったよ。兄貴の圧し潰された心…死にかけて絶望して諦めて、笑ってたんだね…今なら少しわかるよ。僕も兄貴と同じように笑ってる…今。なんですべて受け入れられなかったんだろう。あの追い詰められた兄の想いを。選ぶことの出来ないひとつしかない道。戻ることも立ち止まることも許されない一本の道。人はそれを運命と言った。宿命とも。僕は今まで運命という言葉の意味を理解していなかったんだね。兄貴…今なら少し…解るよ…
僕はそれ以来、少し静かな気持ちで兄のことを想うようになった。兄は今心と身体を投げ打って、独り運命の道を歩んでいる。兄の罪…そして僕の罪。償う…僕も独り戻れない運命の道を行くしかない。でも、どうやって…? 僕は僕の重荷の代価をどのように支払えばいいのだろうか?
ほどなく街はクリスマス一色になった。
僕の所属する部活の音楽同好会は、1年に2回校外のイベントに参加する伝統がある。1つは夏に開催の市の野外音楽祭、もう1つは冬のクリスマスイベント。高校の近くのキリスト教会で、クリスマスのチャリティーライブに毎年参加している。かなり上のOBの先輩がそこの教会の神父の息子で、父親のアイデアでバンドでの参加を始めたのが切っ掛けらしい。以来生徒以外に自分たちの演奏を聴いてもらえるという、部活の貴重な時間となった。歴代のOBの先輩達も聴きにくるし、同好会の家族も聴きに来たり、内輪の打ち上げ的な部分もあり、更に教会のクリスマスプレゼントやクリスマスケーキが食べられる。僕たちは毎年のこのイベントを結構楽しみにしていた。
時間は15分、演奏は2曲。1曲はアメリカの有名なロックバンドがクリスマス仕様にアレンジした『もろびとこぞりて』ハードロックバージョン。ギターのフィードバックが快感なチャリティーライブでも人気の定番。もう1曲はクリスマスにちなんだり、クリスマスでなく冬の曲でもいい。部活のメンバーで決める曲。
僕たちは秋になるとクリスマスに向けて練習を始める。今年はギターが僕と2年生の先輩と、二人いるので一曲づつ弾く。僕は『もろびとこぞりて』担当で、週3の部活の練習に重い気持ちで出ていた。
もろびとこぞりて
むかえまつれ
ひさしく待ちにし
主はきませり
主は来ませり
主は主は来ませり
兄と僕に救いなんかないのに、妄想みたいなキリストの救いを僕はクリスマスに演奏するんだ。なんて皮肉だろうか。でも僕は義務のように練習を続けた。
クリスマスライブが近づき、僕らは教会のステージの下見と神父さんへの挨拶のため、顧問の先生と一緒に教会に赴いた。僕には初めてのキリスト教会だった。テレビや雑誌で見た教会とは違いもっと質素で飾り気のない、シンプルな作りをしていた。神父さんはすでに白い髪の毛で、ダンディな白い髭をたくわえていた。
「クリスマスはサンタを地毛でね…暴れても取れない方が良い!」と僕たちに笑って説明してくれた。
「僕はアメリカの教会でずっと布教してきたんで」と神父さんは語った。
「楽しくてフレンドリーな教会こそが僕の理想なんだよ…でなきゃ神はビートルズもストーンズもお造りにはならないからね」
ウイットの効いた彼の話は僕らの“キリスト教の神父”という真面目で厳かなイメージをなし崩し、替わりに“ロック好きの不良中年”という新たな実像に生まれ変わった。良いのやら悪いのやら…でもこの不良神父は良い感じだ。僕は少しだけ演奏する気持ちが持てるような、そんな気がした。
舞台になる演壇を僕らは案内された。いつもならそこで聖書のお話などで、神父さんが礼拝で立つ場所だ。部活のメンバーと電源の場所や舞台の広さなどを手分けして調べ、顧問が当日のボランティアと打ち合わせをしに隣の部屋に入り、意図せず僕の回りから人が離れた。僕は何気なく辺りを見渡した。壁には大きな十字架が掛けられ、十字架にはイエスが血を流して、磔(はりつけ)になっていた。僕は初めてその像をまじまじと見た。頭にはイバラの冠…それは長くて鋭いアイスピックが一面に覆っているような残酷な冠で、よく見るとその針が突き刺さった額から幾筋も血が流れていた。
その時唐突に、僕は兄の姿を思い出した。運命というイバラの冠を被せられ、言われなき罪を贖うための重い十字架に磔にされて、血を流して、自分を売った父親を許して…
僕は今までイエス・キリストなど何の興味も関心もなかった。けれど、兄の姿がそこに投影された瞬間、僕はこの人の十字架の上の姿に溢れてくる涙を抑えることができなかった。
独り呆然と立ち尽くし、涙を流している僕の横に不良神父がいつの間にか立っていた。
「重荷を下ろしてもいいんだ」神父は不意にそう僕に言った。
「君の苦しみは神だけは見てる」
僕はイエスの顔を見続けた。神父は僕と一緒に磔のイエスを眺めながら言った。
「なぜあの人が磔になったかってね、すべての人間の罪をすべて背負って十字架に掛かったんだ」
「すべての人の罪を?」
「そうさ…だから全人類は誰もかれもまったくもって赦されてるんだ」
罪を…赦されて。
なぜ彼が僕に罪と贖いの話をしたか、僕にはわからない。でも僕にはその話があまりにも切なく胸に迫ってきた。僕は崩れ落ちるように演壇の上に座り込んだ。涙は流れ続けた。ああ僕も僕も赦されるのだろうか? この僕も……兄に逢いたい。兄に教えてあげたい。この男の妄想だとしても、兄に言いたい。
兄貴、罪は赦されてるんだよ。誰も裁かれない。そう、イエスじゃなくても僕が言う。もうやめて…帰ってきて。
悪魔の人牢(ひとや)を
打ち砕きて
捕虜(とりこ)を放つと
主は来ませり
主は来ませり
主は主は来ませり
編集しながら、ああ、そうだ…この話は聖書とリンクしてたんだと今更ながらに思い出しておりました。私、小学生1年の春から中3の卒業まで親友に誘われてキリスト教会の日曜学校に通っていて、皆勤賞なんか貰ってました。実は幼い頃から私“無神論者”だったんです。キリスト教の綻びと矛盾を見出そうと虎視眈々と教義の穴を探して毎回熱心に牧師さんのお話を聞いておりました。そんな私も社会に出て辛酸を嘗め、心の修行をしている内に、キリスト教会とは全く違う路線でイエスのことをMy Brotherと呼べるまでになりました。つまり…
「愛だろ、愛っ!」
ご閲覧ありがとうございました。