その日の放課後、なぜかヤツと僕は再びあの人の来ない喫茶店のあの奥の席に座っていた。二度目の会合の発起人は僕ではなくヤツだった。
「あ…アイスカフェオレ2つ」
ヤツがウェイターに注文した。僕たちはこの前と逆の席で向かいあって座っていた。僕たちはまたもや沈黙の中にいた。
「メール見た?」
「メールありがとな」
僕たちはまたもや相撃ちをかました。
「デジャブかよ」
ヤツが呆れたように呟いた。
「それで…もう大丈夫なのかよ?」
僕は休み時間には聞けなかった事をすぐさま尋ねた。
「…大丈夫…か…どうかなんて…わかるかよ…」
ヤツは言葉を切った。少しの間があり、ヤツは話そうとしている何かの糸口を考えているように見えた。やがてヤツは口を開いた。ヤツの話の要点はこうだった。“オレと先生のこと、絶対に秘密にしてくれ。頼む。 ”当たり前だ、と僕は答えた。なぜヤツは敢えてそんなことを念を押すんだろう? するとヤツは再び重い口を開いた。
「昨日…先生の友達と会ってた」
「えっ…?なんでまた」
ヤツは話しにくそうに頭を掻いた。
「どっから話せばいいんだ?」
「…思いついたとこでいいよ」
ヤツは何度かうなずいて話し始めた。
「あのさ…DVってわかるよな」
「あ…うん。あの、旦那とかの暴力…だろ?」
「まあ…そんなアレだ」
「まさか…」
もしかして…音楽の先生が? ヤツは黙ってうなづいた。その目に一瞬殺意の火が閃いた。
「やっぱり…事故じゃ…なかった」
ヤツはそう低い声で僕に告げた。ヤツの声は押し殺した分、とても不気味に聞こえた。
「おとといの夜に先生の友達っていう人からメールがきた。『私は彼女から君への伝言を預かってる』って。話さなければならないから会おう…って書いてあって」
ヤツは昨日その人に会い、事件のあらましを知った。それは傍観者の僕でも寒気がする、悲惨な話だった。旦那にいつものように殴られて倒れた先生は、たまたま頭を部屋の段差に強く打ちつけ、その時は起き上がれたもののだんだん吐き気と頭痛がひどくなり、自分で夜中に救急車を呼んだという。救急車が来るまでの間に親友にメールを打った。今からこんな事情で病院に救急車で 向かうけど、もしかすると重傷の可能性があるから、あなたに連絡した。もし入院することになったら早めに病院に来てね…と。そしてすぐ二通目のメールが来た。例の“彼”に事情を説明してほしい。バカなことはしないように言って。この二通目のメールはすぐ削除して欲しい。そしてヤツのメアドがそのメールに貼ってあったという。
そして先生の危惧は当たった。次の日の夜明け前に、彼女は帰らぬ人となった。死因は脳内出血による脳幹ヘルニアだったということだった。だがその旦那は自分のしたことを隠していた。
「彼女…親友な、朝すぐ先生の携帯に電話入れたら、先生の妹が出て…亡くなったって聞かされて…メールのこと妹さんに話したら驚いて、事情話して、すぐ病院行って、医者に昨日先生が旦那に殴られたこと話して…遺体から打撲の痕がたくさん見つかって…医者が旦那のこと警察に通報して…」
それからその事故は《事件》になった。
「彼女、DVのこと今まで言わないでって先生に止められてたんだって。だけどもう遅いけどあの男に自分のしてきた事を分からせてやるって…親友なのに助けらんなかったって、後悔して…俺の前で泣いててさ」
ヤツの目がみるみる潤んでくるのがわかった。
「だか…ら…君は絶対に彼女との関係を…言ったらダメだって言われた。このことは旦那には全くバレてないから。知ってるのは、私と君だけだからって」
ヤツの目から涙があふれてきた。
「彼女に不利な証言はダメだって。君にも不利だ、あの男が言い逃れするのに役に立つだけ…って」
ヤツは喫茶店のおしぼりで涙を拭き、それを握りしめた。
「悔しいけど、その通りだ。オレは不利なファクターでしかない」
ヤツは泣きながら苦笑した。
「それでオレ…気づいた。お前も知ってるんだって」
ヤツはテーブルに置かれた僕のグラスを見ていた。
「オレは、その人にお前が知ってることを…言えなかった」
そう言うとヤツは僕に深々と頭を下げてもう一度繰り返した。
「お願いだから…黙っていてくれ」
この事態を前に、僕の脳裏に昨日兄の言った事がリフレインしていた。これでは明らかに、圧倒的な立場の有利さが僕の側に一方的に生まれてしまう。兄が言ったように、僕たちが友人として、バンドの相棒としてこれから信頼関係を深めていくのに、この有利さははっきりいってとてもよくない。ヤツが僕に意識的にも無意識的にも負い目の中で気を遣いながら、僕と対等に付き合っていく? ヤツの性格は強気で、人の都合など気にしない直感野郎で、ゴーイングマイウェイの申し子 のような人間ではあるが、こと彼女に関していえば、きっと人格が変わったような捨て身の対応をするんだろうと、屋上でヤツを止めた時にその気持ちが伝わってきてしまった。ヤツに頭を二回下げられた。驚きと、やっぱりという思いが交錯した。互いに秘密を捧げ合うこと…兄の生まれつき刻まれた、不利な秘密の傷痕が、僕にきっとバランスを失わないよう、ヤツとの信頼に応えられるよう、警告を与えてくれたに違いない。
こんな事態を見越して…だったのか。本当に兄の言ったことが、僕たちの絆を左右する。
(そういう場面が来るさ…きっとね それが今かも知れないけれど)
その場面は確かに今だった。
「言わないよ…誰にも。約束する」
「借りを作っちまったな…お前に」
ヤツはなんともいえない顔でテーブルを見詰めていた。それを見て僕は心を決めた。
「…そうだよな…不公平だよな」
「え?」
ヤツはその言葉に不意を突かれたように僕を見た。
「うん…これは《等価交換》じゃないよな」
思い出せ、あの時お前が言ったんだ。お前に何度も救われた。だから…僕はヤツの眼を見た。
「まさかお前、オレを脅迫するつもりかよ?」
「逆だ!バカ!」
僕は驚いてヤツを怒った。
「お前な! 僕は!」
「なんなんだよ!」
僕は目を閉じていた。
「…お前の秘密と僕の秘密を…交換する」
「……」
ヤツは絶句した。
「お前に借りなんて…似合わない」
「お前…バカか」
「バカで悪かったな!」
わかってないのか? 僕がこの駄天使が大事だってこと。
「悪いけど、僕はお前に貸しを作るつもりないから。お前が言ったんだ。オレの秘密はお前の秘密と取引だって」
ヤツは“はぁ?”という顔で僕を見ていた。
「いい。お前が覚えてなくても」
「い…いいの…かよ」
ヤツは困ったような顔で僕に聞いた。
「だから…お前が大事なんだ。弱味は関係を変えるんだ。僕はその怖さには耐えられない」
ヤツは顔をしかめて低い声で僕に尋ねた。
「お前…弱味握られて脅されたことでもあるのか?」
そうだ。
「あれは…地獄だ」
ヤツはまた言葉を失った。僕は構わず続けた。
「だからこれは信頼の証だ…お前と僕との」
僕はヤツの目を見た。ヤツは無言でゆっくりとうなずいた。
「お前に嫌われるかもしれないな…だけど本当の僕を知っていて欲しいんだ…」
声が震えた。怖い。怖くて怖くて心が折れそうだ。
「僕を…嫌わないでくれたら…助かるよ。でもダメなら…それでも構わないから…」
背中に冷や汗が流れた。
「僕は…」
同時にヤツも息を詰めているのがわかった。
「僕は…ゲイ…だ」
うつむいたまま、絞り出すように僕は告げた。ヤツの顔を見ることが出来ない。背中を冷や汗が流れた。パニックを起こしそうな苦しさ。ヤツの沈黙に耐えられずに僕はため息をついた。
「気持ち悪いよ…な」
身体から力が抜ける。
「…言っちゃった」
僕はテーブルに両肘を突き、脱力したまま額を両手で支えていた。
「あー…良かったぁ」
そのヤツの返答に、僕の喉から変な声が出た。
「へ…?」
良かっ…た…?
「あー緊張した…お前犯罪でも犯してんのかと思った」
ヤツの言葉に僕は腰が抜けていた。
「ゲイなんて、今どき珍しくもない。オレはお前がヤバい橋でも渡ってるのかと思ったぜ」
「いや…だって…お互い恋愛の秘密だってことはなんとなく察してたような…」
「だからさ…ストーカーしてるとかさ。好きすぎて手足切って箱に入れてるとかさ」
「猟奇…過ぎる…」
「アーティストには多すぎるからな…ゲイは」
「隣にいても…かよ?」
「だって…多いから隣にもいるんだろ?」
一気に緊張の糸が切れた。僕はしばらくテーブルに突っ伏して、さっきとは違う脱力を味わっていた。
「…まあな…確かに普通のクラスの 連中には言えないかもな」
ヤツも何か張りつめていたものが解けたような声を出していた。
「取引…成立…した?」
僕はそのままの姿勢で訊いた 。
「ああ…成立ってことにしよう」
ヤツが呆けたように呟いた。
「オレさ…なんか…わけわかんねぇ。たぶんお前のせいだ」
「ああ…そうだな」
「納得すんなよ」
「だって…事実そうだし」
そしてヤツは少し黙った。多少の沈黙のあと、ヤツは僕に問いかけた。
「ひとつだけ…訊いていいか?」
「何を?」
ヤツが一瞬ためらったのを見て、僕はヤツが何を聞きたいのかすぐにわかった。
「ああ、大丈夫! お前には恋愛感情、 全くないから。好きな人いるし」
ヤツは目を見開き、びっくりしたように言った。
「なんで俺の訊きたいことわかった?!」
「想定内」
「あ…そう」
「選ぶよ…普通はさ」
「それどういう意味だよ!…ってオレ、なにか期待してたのかっ?」
ヤツはこの非常時にも関わらず、かなりナチュラルなボケ突っ込みを華麗にかましてくれた。ヤツの気遣い…なんだろうな。
「助かるよ。お前の方が大変なのにな。ごめん」
「いや…オレもわからねー…なにが助かるんだ?」
ヤツは同じことを再び口にした。
「いろんなことありすぎて…収拾がつかねーよ」
「悪いな」
「…いや…発端はこっちの頼み事だからな。オレはほっとしたし、どうしようかと思ってた。でもなんかよくわかんなくなった。大丈夫かオレは?」
あ…。こんな時に僕はもうひとつの大事なことを確認しなくてはならなくなった。
「…こんな取り込み中に申し訳ないんだけど…」
「なに?」
ヤツが不意をつかれたような地声を出した。
「デモの締切…今週中」
ヤツは再び愕然とした顔になった。
「…マジか」
「お前…今週中に部活復帰出来るのか?」
歌える気持ちにヤツはなってるんだろうか?