翌日の放課後、ヤツは解せない顔で部室にいた。
「オレはなぜ…ここにいるんだ?」
「いや…こっちが驚くよ。まだ無理かって思ってたし」
それは本当だった。昨日あのデモの締切の話をヤツに切り出した直後、ヤツの混乱はピークに達した。そして前と同じようにいきなり立ち上がり、「帰って寝る」と言い、勝手に帰った。さすがに今回は僕は足を固いものにぶつけはしなかったが、いきなり帰ったヤツに取り残され、気がつけば全く手付かずになってた、氷が解けてかなり薄くぬるいアイスカフェオレを飲み干し、またしても独りで喫茶店を後にした。始めと終わりにデジャブかよ。昨日はそこで終わった。
そして今朝は実はこちらがパニックになりかけていた。正確にいうと昨日の夜からだ。カミングアウトした後に訪れたのは、妄想と恐怖感だった。あの時はヤツは混乱していて、僕の話をあまり理解していなかったとしたら? あのあとヤツはゆっくり考えて、僕が告白したことの意味をリアルに想像する…やっぱり気持ち悪いという結論で、再び会ったらもう近寄りもしないんじゃなかろうか? と、僕は一晩そんな妄想に悩まされていた。そんな日に限って兄は大学院の実験のシフトが明け方にかかり、うちには居ない、実験が忙しいのか暇なのかさえわからない。兄を実験中に悩ませるのもいやで、結局不眠。
「そんなゲイと一緒にデモ作れる?」「バンド組める?」。脳内で妄想が炸裂する。まだ聞いてもいないヤツの言葉が僕の耳の中でこだまする。そして、僕のカミングアウトのせいで始まったばかりのLOVE天使爆裂Kissが空中分解する…かも知れないと思うと、もう世界が終わったような恐怖感に苛まれた。僕の存在自体が悪、というような深い闇の中に久しぶりに気持ちが墜ちて行った。自分の卑屈さに驚く。ヤツを信じたいのに…。自分のしたことへの後悔が襲ってきた。そのこと自体に嫌気がさした。
翌日、朝の教室は晴れているのに暗かった。ヤツの席は空いていた。始業のチャイムが鳴った だがヤツは来なかった。みぞおちにボディブローをガツッと食らったような、息も出来ない苦しさ。身体を起こしているのが辛くて、僕は机に伏せた。その途端、出席簿を読みあげる先生の声を破り、ドアをガラガラッと開ける音がした。ハッと振り向くとそれはヤツだった。一瞬でヤツと目が合った。振り向いた形のまま、僕は引き吊った顔でかたまっていた。
「すんませーん! 見ての通りの遅刻でっす」
ヤツはペロッと舌を出し、僕に“マズった”と言うような苦笑いをして見せた。
あああ! ヤツに嫌われてないっ。しっかりしろ自分。まだ生きてるぞ! 僕の身体は再び極度の脱力状態となった。大丈夫だ、兄貴。やっぱりヤツは良いヤツだ。僕は安堵の中不眠を取り戻すべく 机の上で完全な熟睡を体験した。まあ不可抗力というやつである。
そして放課後、奇跡の相棒と僕は、今部室に居るのだった。
「オレ…まだ歌えないかもな…」
ヤツがマジな声で呟いた。
部室では焦りまくった先輩がヤツの到着を待ち構えていた。
「このバカ! このテイタラクは一体なんなのよ! いつも減らず口叩いてこんな肝心な時に病気だって…もぉー信じらんない!」
「すんません」
ヤツはさすがに謝った。
「キモッ…お前謝れたのかよ!」
非難した先輩が一瞬引いた。ヤツの雰囲気がいつもと違うのを、先輩も感じたみたいだった。
「と…とにかくさ、今日録音して先生に編集してもらわないと…マジ間に合わないからっ」
「とりあえず練習シマセンか?」
パンダ後輩がフォローする。僕はチラッとヤツの顔を見た。ヤツの目が虚ろに床を見ている。辛そうで見てらんないな。とりあえず僕は時間稼ぎに出た。
「あ…あのさ、ナヲさん最初だけ、一回歌ってよ」
「え?ワタシ?」
「あ、うん。あのスゲエ上手いのをこいつだけ聴いてないだろ?」
「ああ、ホントはハモり付けたいくらいだよね。お前が下痢ピーしてなかったらもっと完成度高い曲に仕上がったのになぁ」
と、先輩が悔しがった。
「聴きたいな…」
ヤツは呟いた。
「お前…そこは“オレのマイクを返せ!”だろ?」
先輩がまたビビる。
「お前まだ熱でもあるの?」
「ハーイ! ではやりましょ」
うちの後輩は素晴らしい。
「はい! 位置に着いてー」
先輩の指示で僕はストラップを急いで被った。パンダ後輩のスティックが合図を出す。
「1、2、3、GO !」 前奏のメロが僕の指から流れていく。パンダ後輩が歌い始めた。
君にこの愛をあげる
誰にもわからないように
君に愛の言葉を告げる
君だけに届くように…
その声を聴きヤツがいきなり。驚いたように伏せていた顔を上げた。ヤツは呆然とした顔で、ドラムを叩きながら歌うパンダ後輩の顔を見ていた。
どうしたんだ? ヤツに何が起きたんだ? ああっと…演奏に集中しなきゃ。僕はミスりそうになりながらヤツの突然の変わり様を見ていた。その時ヤツの目から涙が一筋伝うのが見えた。そして演奏中の僕らの前で、両手を掲げて“やめー!”の合図をした。
「なな…なに? 間違えた? え? お前泣いてるのっ?」
予想外の事態に演奏を止め、驚いた先輩がヤツに訊いた。
「ごめん。オレ…歌うわ」
ヤツはパンダ後輩の顔をじっと見てそう言った。
「スミマセン!代役失格ですか」
「違うんだ…一緒に歌ってよ」
「え~っ?」
今度は彼女が慌てた。
「…はは…驚いた…そっくりだ」
ヤツが呟いた。えっ…それって、もしかして…まさか音楽の先生…と、そっくり?
「な…なに?」
先輩がヤツの呟きを聞き返す。ヤツはそれには答えなかった。
「ねぇ、一緒に歌ってよ」
「ええ…良いデスけど」
ヤツはスタンドのマイクをつかんだ。
「じゃあ…はじめからやって」
「ハイッ」
「ま…あ…良いけど。泣くほど感動したわけ?」
先輩は不思議そうな顔で僕の顔を見ながらスタンバイした。再び前奏が始まる。ヤツは目を閉じていた。マイクに手をかけたままのその姿は、まるで祈ってるようだった。ヤツがマイクを握って歌おうとしてる…奇跡だ。僕は胸が熱くなるのを感じていた。ヤツは歌い始めた。
君にこの愛をあげる
誰にもわからないように
二人の声はユニゾンなのに、融け合うように響いていた。ヤツの歌う声が前と違う。それは僕だけではなく、メンバーの皆がわかったみたいだった。最後まで切れること無く音は響き、演奏が終わったと同時に先輩が満面の笑みを浮かべてヤツの背中をバン! と叩いた。ヤツは叩かれるまま、マイクスタンドを握って突っ立っていた。
「先生呼びに行ってくる!」
先輩が嬉しそうに部室を走って出た。録音出来る。ヤツはマイクスタンドにつかまったまま、まだ放心した顔で立ち尽くしていた。僕の目も潤んできそうになり、あわててまばたきをしてごまかした。 (ありがとう)
僕は奇跡を見せてくれた、大きな何かに心の中で囁いていた。
デモはギリギリで間に合った。消印は1日前、マニア顧問が1日で仕上げて、明くる日は朝練と称して始業前収集。仕上がりを皆で聴いた。
「荒削りだけどなんとかまとまった感じするよ」
顧問がわりと前向きな感想をくれた。自分の演奏を聴いてもあまり客観的にはなれないが、ヤツのボーカルが一皮むけたのは良く分かる。パンダ後輩とのユニゾンをサビに入れたことで、曲にメリハリが生まれた。
「だけどこんなスリルは二度と味わいたくないですし!」
先輩はヤツの方をチラッと見ながら、キツい一言を放った。
「悪かったっすよ」
ヤツは素直に謝った。
「…下痢が脳に入ったのか」
先輩はまたもや肩透かしをくらい、遠い目をしながらつぶやいた。
「じゃ、これを郵送しまっす!」
メンバーの承認を得て、先輩が発送をしてくれた。ピンチが終息し、僕らは山場を越えた。
放課後僕とヤツは校門まで、いつものように一緒に歩いていた。ヤツはポケットをゴソゴソしながらふと僕を引き留めた。ポケットからイヤホンを取り出し、僕に渡して言った。
「これ…聴いてよ」
「ああ…うん」
イヤホンを耳に押し込むと、ヤツがプレーヤーの再生を押した。
それは多分オペラ…とか言う、クラシックの一節だろうか? ソプラノの女性の声(ソプラノは全部女性だと後から知る)がオーケストラをバックにソロで聴こえてきた。えっ? これ…パンダ後輩の声? びっくりしてる僕の顔を見てヤツは言った。
「驚くだろ…」
「マジか」
その声は音楽の先生の歌声だった。
「音大の卒業記念コンサートのCDだって…オペラの主役でさ」
プッチーニの『蝶々夫人』とかいうオペラだとヤツは説明した。
「先生さ…この曲好きだって」
「そうか。なんて曲?」
「『ある晴れた日に』っていう曲。遠くに行った恋人の帰ってくる船を待ってる歌だって」
「驚いた…」
僕はそう言ってその曲に聴き入った。
「ありがと」
曲が終わり僕はイヤホンをヤツに返した。
「じゃあな…いろいろ心配させて悪かったな」
ヤツは下を向いてボソッと言った。
「今までのを返しただけだし」
「今までの…?」
「こっちも少し前までピンチだったから。お前には声掛けてもらって、本当感謝してるし」
「よく…覚えてねーよ」
ヤツはちょっとだけ手を振り、そのまま帰っていった。
ヤツの大事な歌を聴かせてもらった。聴いてる間、正直泣けてきそうで困った。僕にもある、それ。 偶然かシンクロかわからないけど、しばらく聴かないようにしてた。忘れたいことのひとつだから。不意に思い出してしまうけれど…生きているのか死んでいるのかさえわからないから。でもこんな風にいつか、その結果をつきつけられたら…。辛いだろうな…ヤツは。でも少しづつ癒され始めている。糸が切れるような安堵の気持ちと…そして…またこれが忍び込んでくるのか…
僕は再び考えるのをやめた。本当に忘れたい。苦しいから。今夜は兄と眠りたい。いまなぜ安堵が、この空虚を呼ぶのだろうか?