※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

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35.心の裂け目

 ほっとした瞬間は、魔の時かも知れない。虚無の中で兄と再び結ばれたあの日から今まで、僕は兄というシェルターに抱かれ、不思議に日常すら取り戻したように感じていた。家にいてまるで普通に両親と話し、学校ではコンテストの応募を通して仲間ができ目標ができ、音楽が僕にとって何かがわかり、社会(ものすごく狭いけど)に初めてカミングアウトした。全てが建設的でクリエイティブで、そんななか唐突にやってきた今回の試練にもなんとか耐え、ヤツとの絆は強くなり、兄との信頼と感謝も心から感じた。

 なのに、いま感じてるこの空虚な気持ちはなんなんだろう。無我夢中で積み上げてきたものを、ふと我に帰ったとき、僕の心の中のどこかはこんな風に囁いた。

(だから…なんなの?)

 そう、この気持ちに理由はない。危機を抜けた安堵の中で、一瞬の無風状態が見せた心の裂け目から見えたそれは、ガランとした空虚。なにを積み重ねても消えないような空虚。僕はまだなにもない場所にいる。不意になにもかもが幻にすら感じる。砂漠だ…蜃気楼に向かってるみたいに。僕はいつの間にか走り出していた。まるで砂漠で水を求めるように、兄の帰還する家へと。焦躁か緊張かわからない切迫感。ああ…苦しい。なぜこんなになってる? まるで発作。兄貴…早く帰ってきて。自分の脆さに心が折れる。兄貴しか僕を支えられない。その愛しか幻ではないと確信出来ない。

 家に着いた。ドアの前で息を切らして、バカみたいだ。でも崩れそうになる。心の中で何度も繰り返す。兄しかいない。兄貴しか…いないんだ、と。そしてドアを開けた。

「ただいま…」

 絞り出すように家の奥に告げる。応答はない。母は買い物だろうか? 今日は居間にいないみたいで、鍵開いてるし…無用心過ぎる。僕は逃げるようにすぐ階段を上がっていく。あ…部屋のドアが開いてる。今日は暑いから…? 寝息…? 部屋から寝息が聞こえる。まさか兄貴…帰ってるの? こんな時間に? 僕はあわててベッドを覗いた。兄が寝てる。居た。すぐそこに兄が…。僕の緊張が、そこでプツッと切れた。

「う…あ…」

 兄のベッドの足元に崩れ墜ちる。僕は嗚咽していた。

「ん…あ…? 誰…?」

 その声に兄が眼を覚ました。 僕は身体も起こせず嗚咽を繰り返した。

「どうしたんだ、お前!」

 兄が驚いて布団をはね飛ばし、足元にいる僕を見つけた。兄はベッドからすぐに降りてきて僕の背中をさすってくれた。

「大丈夫か? なにかあったのか?」

 驚いて心配そうな兄の問いに僕は首を横に振った。

「友達…大丈夫だった?」

 僕はなんと言って良いか分からず、無言でうなずいた。

「具合悪いのか?」

「…近い…か…な」

 ようやく泣きながら僕は答えた。

「近い…?」

「全部…全部うまく…いったんだ …カミングアウトも…デモの録音も。ヤツは…友達は死なない…すごくピンチだったよ。でも…みんなも頑張って…」

 兄は少し和らいだ声になった。

「そうか。良かった、良かった」

「ダメなんだ…」

「どうして…?」

 とても優しい声で兄が聞いた。

「なんでか…わからない。危機を抜けたら安心して…安心したらなにもかも空っぽに見え…て…」  背中をさすっていた兄の手がそこで止まった。

「なにもかも…なにか積み上げても…なんか…なにもかも無駄なんだって。“それがどうした?”って…それがどうした?…って思うんだ。気がつくと不意に空っぽなんだ。あの日みたいに…頭がおかしくなりそうに…なって…兄貴しかすがれる人がなくて…」 

 もう言葉がない。だめだ…顔を両手でおおう。

「おいで…」

 兄のその囁きが一瞬で僕の心を包みこんだ。

「ご…めん」

 柔らかく抱き締められる。

「お前のベッドに行こう」

 兄から下から支えられながら、上のベッドに上がる。兄が戻ってドアと窓を閉めた。僕は布団に倒れこんだ。兄が隣に滑り込む。

「疲れてるよ…とても…体も心も」

 兄が僕の肩を抱き締めながら囁く。

「ん…気が付かなかった」

「明日日曜だから…俺のアパートに行こうか」

「…うん…行きたい」

「ここんとこの実験で部屋も散らかったし…」

 兄が少し笑った。

「言い訳は完成だ。俺の片付けられないのも役に立つ」

 兄は舌を出して苦笑した。

「宇宙に無駄はない。お前の空っぽも…大事だ」

 兄は僕の涙を指先でぬぐった。

「あのさ…今日なんで早かったの? 帰るの」

 そういえば兄はなんでこんな時間に家にいるんだろう?

「ああ…徹夜明けで昼過ぎに帰ってきた」

「ごめん」

「いいよ…ちょうど良い…」

 胸が温かい。兄の愛で空虚が満たされて。疲れてるだけ…なのかな。それだけではない。それはなんとなくわかっている。ずっと、このしばらくの間、辛かった…な…。でも…眠くなってきた。

「晩飯まで、寝たらいい」

「うん…」

 そう言うと僕は眠っていた。

 

 兄と居る時だけ、なにもかも忘れていられる。久しぶりの隔離シェルターで、僕と兄は狂ったように愛し合った。二つのものをひとつにしたいと、融けあう束の間の時を重ねる。声を出して喘ぐ。それが許される幸せと切なさ。空っぽ…は確かに無駄じゃないよ。この時間をくれたのは確かに僕の空虚。僕は兄に抱かれながら、この空虚の意味を追い求めていた。

「ああっ…あに…き…も…だめっ」

「融ける?…狂う? もっとするよ…もっと…深く」

「はうっ…!」

「お前の声で…もうイキそうだ」

 快楽が欲しいだけなのか? 壊れて制御のきかない身体が震えて激しく身悶える。兄も僕もそれが悲しい。いつの間にか縛られることをねだっている。ベッドに吊るされたままの手錠に今夜も繋がれる。なんでこんな身体になっちゃっ…たのかな。兄の愛撫がだんだん激しくなる。たまに出る兄の嗜虐性。今日は兄も理性が飛びかけてる。激しさに手錠に擦れた手首の皮膚が剥けて、血が滲み始めた。だが、前は受けとめきれなかった兄の激しい愛撫を、壊れた僕はなぜか受けとめられる。互いが開ききってる。悲しみの中にすらなぜか解放がある。でも…終わらない。暴走してる身体…心…どちらも燃やし尽くしたい。灰すら残らないくらいに。

「あっ…あっ…あああっ!」

「死にそう…だ…」

「んっ…死にた…い…よ」

 兄の切ない喘ぎ声にまた僕も高まる。とめどなくうねり弾ける波涛。エンディングはまだ、当分見つからない。気が狂いかけたような行為の中で、次第に時間の感覚が曖昧になる。ともすると場所の感覚すら。現実か夢かとか、自分か兄かとか、何か感覚まで崩壊していくみたいに。ただ一瞬一瞬の 閃光のような兄との融合感がそこにあるだけ。心? 身体? 違う…なんだろう…? ここにある…何か それをなんと呼ぶのだろう?

 ふたりしていつの間にか意識がなくなっていた。目覚めなければ気づかない。いつものエンディング。不意に僕だけ目が覚めた。夜明け前のまだ暗い部屋、隣に兄の裸の身体。抱き合ったまま眠ったみたいだ。その身体が隣にあると思うだけで、胸が震える。他に欲しいものなんてない。心の底からそう言える。そうか…すべてだからか。空っぽじゃなければ入らないんだ。だから兄にしか埋められないんだ。そう…兄が居なければ、生きてる意味がない。そうやってこの部屋で僕は手首を切ったのに。思い出して僕は可笑しくなった。当たり前だ。何かで埋まるはずがない。他の何かで。僕は暗がりで左手の手首の傷をじっと見つめた。そうなんだ。きっとこれ、忘れないように刻んだんだ。そのことを、ここに…こうやって。これから先、昨日みたいに心が空っぽで狂いそうになっても、この傷を見るだけで僕は答えを思い出すんだ。傷に血がにじむほど爪を立てる。痛みと共に、そのことをインプットした。

 

 いつもと音の違う目覚ましが鳴った。一瞬ここがどこだかわからない。隣で寝ている兄が目覚ましに手を伸ばして止めている。あ…そっか。兄貴の部屋だった。まだ半分寝ている兄が、僕の身体をギュッと抱き締めてくる。

「ねむ…い」

 兄が寝言みたいに呟く。

「兄貴…おはよ」

「おやすみ」

 多分徹夜続きで眠いんだろうな。僕の相手もしなきゃならないし。だがしかし…

「兄貴…朝だ!」

「知ってる」

「僕…早めに出なきゃ」

「そうだな」

 兄はまだ起きる気はないみたいだ。いつもと逆の朝。僕の方が早くベッドを抜け出して、シャワーを浴びてる。身体のあちこちにできた傷や噛み跡、アザとキスマークも。それらが点々と残っているのが嬉しい。ダメだ…思い出して欲情する。部屋に脱ぎ散らかした服を拾い集め、着替え完了。兄のまだ寝ているベッドに腰掛ける。

「お兄さま…朝ですよ」

「おお…弟よ。朝など来なければ良いものを…」

 そう言うといきなり僕を布団の中に引きずり込んだ。

「あっ…」

「服を着ている…! 俺は裸なのに」

 僕は寝ぼけた兄が可愛くて思わずキスした。

「そんなことしたら…襲うよ」

「兄貴…今日はいつも通り帰ってくるの?」

「うん…バイトあるから少し遅くなるけど」

「うちで待ってるよ。じゃあ行くからね。続きはあっちで…」

「なんか…見送るの寂しいなあ」

 兄は布団をかぶった。

「見ない…」

 それで布団から右手だけ出した。

「行ってらっしゃい」

 兄の振る右手をパシッと叩き、僕は部屋を後にした。結局部屋の片付けはする間がなく、また週末片付けに来ることになった。この前とは言わないまでも、かなり散らかしたよね。

(片付ける気力がない…)

 兄貴はそう言って笑ってた。前はそんなだったっけ。兄が一人で過ごす時の様子ってどうなんだろう? なんか…考え過ぎか。僕は駅に向かって歩いていた。

 

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