ほっとした瞬間は、魔の時かも知れない。虚無の中で兄と再び結ばれたあの日から今まで、僕は兄というシェルターに抱かれ、不思議に日常すら取り戻したように感じていた。家にいてまるで普通に両親と話し、学校ではコンテストの応募を通して仲間ができ目標ができ、音楽が僕にとって何かがわかり、社会(ものすごく狭いけど)に初めてカミングアウトした。全てが建設的でクリエイティブで、そんななか唐突にやってきた今回の試練にもなんとか耐え、ヤツとの絆は強くなり、兄との信頼と感謝も心から感じた。
なのに、いま感じてるこの空虚な気持ちはなんなんだろう。無我夢中で積み上げてきたものを、ふと我に帰ったとき、僕の心の中のどこかはこんな風に囁いた。
(だから…なんなの?)
そう、この気持ちに理由はない。危機を抜けた安堵の中で、一瞬の無風状態が見せた心の裂け目から見えたそれは、ガランとした空虚。なにを積み重ねても消えないような空虚。僕はまだなにもない場所にいる。不意になにもかもが幻にすら感じる。砂漠だ…蜃気楼に向かってるみたいに。僕はいつの間にか走り出していた。まるで砂漠で水を求めるように、兄の帰還する家へと。焦躁か緊張かわからない切迫感。ああ…苦しい。なぜこんなになってる? まるで発作。兄貴…早く帰ってきて。自分の脆さに心が折れる。兄貴しか僕を支えられない。その愛しか幻ではないと確信出来ない。
家に着いた。ドアの前で息を切らして、バカみたいだ。でも崩れそうになる。心の中で何度も繰り返す。兄しかいない。兄貴しか…いないんだ、と。そしてドアを開けた。
「ただいま…」
絞り出すように家の奥に告げる。応答はない。母は買い物だろうか? 今日は居間にいないみたいで、鍵開いてるし…無用心過ぎる。僕は逃げるようにすぐ階段を上がっていく。あ…部屋のドアが開いてる。今日は暑いから…? 寝息…? 部屋から寝息が聞こえる。まさか兄貴…帰ってるの? こんな時間に? 僕はあわててベッドを覗いた。兄が寝てる。居た。すぐそこに兄が…。僕の緊張が、そこでプツッと切れた。
「う…あ…」
兄のベッドの足元に崩れ墜ちる。僕は嗚咽していた。
「ん…あ…? 誰…?」
その声に兄が眼を覚ました。 僕は身体も起こせず嗚咽を繰り返した。
「どうしたんだ、お前!」
兄が驚いて布団をはね飛ばし、足元にいる僕を見つけた。兄はベッドからすぐに降りてきて僕の背中をさすってくれた。
「大丈夫か? なにかあったのか?」
驚いて心配そうな兄の問いに僕は首を横に振った。
「友達…大丈夫だった?」
僕はなんと言って良いか分からず、無言でうなずいた。
「具合悪いのか?」
「…近い…か…な」
ようやく泣きながら僕は答えた。
「近い…?」
「全部…全部うまく…いったんだ …カミングアウトも…デモの録音も。ヤツは…友達は死なない…すごくピンチだったよ。でも…みんなも頑張って…」
兄は少し和らいだ声になった。
「そうか。良かった、良かった」
「ダメなんだ…」
「どうして…?」
とても優しい声で兄が聞いた。
「なんでか…わからない。危機を抜けたら安心して…安心したらなにもかも空っぽに見え…て…」 背中をさすっていた兄の手がそこで止まった。
「なにもかも…なにか積み上げても…なんか…なにもかも無駄なんだって。“それがどうした?”って…それがどうした?…って思うんだ。気がつくと不意に空っぽなんだ。あの日みたいに…頭がおかしくなりそうに…なって…兄貴しかすがれる人がなくて…」
もう言葉がない。だめだ…顔を両手でおおう。
「おいで…」
兄のその囁きが一瞬で僕の心を包みこんだ。
「ご…めん」
柔らかく抱き締められる。
「お前のベッドに行こう」
兄から下から支えられながら、上のベッドに上がる。兄が戻ってドアと窓を閉めた。僕は布団に倒れこんだ。兄が隣に滑り込む。
「疲れてるよ…とても…体も心も」
兄が僕の肩を抱き締めながら囁く。
「ん…気が付かなかった」
「明日日曜だから…俺のアパートに行こうか」
「…うん…行きたい」
「ここんとこの実験で部屋も散らかったし…」
兄が少し笑った。
「言い訳は完成だ。俺の片付けられないのも役に立つ」
兄は舌を出して苦笑した。
「宇宙に無駄はない。お前の空っぽも…大事だ」
兄は僕の涙を指先でぬぐった。
「あのさ…今日なんで早かったの? 帰るの」
そういえば兄はなんでこんな時間に家にいるんだろう?
「ああ…徹夜明けで昼過ぎに帰ってきた」
「ごめん」
「いいよ…ちょうど良い…」
胸が温かい。兄の愛で空虚が満たされて。疲れてるだけ…なのかな。それだけではない。それはなんとなくわかっている。ずっと、このしばらくの間、辛かった…な…。でも…眠くなってきた。
「晩飯まで、寝たらいい」
「うん…」
そう言うと僕は眠っていた。
兄と居る時だけ、なにもかも忘れていられる。久しぶりの隔離シェルターで、僕と兄は狂ったように愛し合った。二つのものをひとつにしたいと、融けあう束の間の時を重ねる。声を出して喘ぐ。それが許される幸せと切なさ。空っぽ…は確かに無駄じゃないよ。この時間をくれたのは確かに僕の空虚。僕は兄に抱かれながら、この空虚の意味を追い求めていた。
「ああっ…あに…き…も…だめっ」
「融ける?…狂う? もっとするよ…もっと…深く」
「はうっ…!」
「お前の声で…もうイキそうだ」
快楽が欲しいだけなのか? 壊れて制御のきかない身体が震えて激しく身悶える。兄も僕もそれが悲しい。いつの間にか縛られることをねだっている。ベッドに吊るされたままの手錠に今夜も繋がれる。なんでこんな身体になっちゃっ…たのかな。兄の愛撫がだんだん激しくなる。たまに出る兄の嗜虐性。今日は兄も理性が飛びかけてる。激しさに手錠に擦れた手首の皮膚が剥けて、血が滲み始めた。だが、前は受けとめきれなかった兄の激しい愛撫を、壊れた僕はなぜか受けとめられる。互いが開ききってる。悲しみの中にすらなぜか解放がある。でも…終わらない。暴走してる身体…心…どちらも燃やし尽くしたい。灰すら残らないくらいに。
「あっ…あっ…あああっ!」
「死にそう…だ…」
「んっ…死にた…い…よ」
兄の切ない喘ぎ声にまた僕も高まる。とめどなくうねり弾ける波涛。エンディングはまだ、当分見つからない。気が狂いかけたような行為の中で、次第に時間の感覚が曖昧になる。ともすると場所の感覚すら。現実か夢かとか、自分か兄かとか、何か感覚まで崩壊していくみたいに。ただ一瞬一瞬の 閃光のような兄との融合感がそこにあるだけ。心? 身体? 違う…なんだろう…? ここにある…何か それをなんと呼ぶのだろう?
ふたりしていつの間にか意識がなくなっていた。目覚めなければ気づかない。いつものエンディング。不意に僕だけ目が覚めた。夜明け前のまだ暗い部屋、隣に兄の裸の身体。抱き合ったまま眠ったみたいだ。その身体が隣にあると思うだけで、胸が震える。他に欲しいものなんてない。心の底からそう言える。そうか…すべてだからか。空っぽじゃなければ入らないんだ。だから兄にしか埋められないんだ。そう…兄が居なければ、生きてる意味がない。そうやってこの部屋で僕は手首を切ったのに。思い出して僕は可笑しくなった。当たり前だ。何かで埋まるはずがない。他の何かで。僕は暗がりで左手の手首の傷をじっと見つめた。そうなんだ。きっとこれ、忘れないように刻んだんだ。そのことを、ここに…こうやって。これから先、昨日みたいに心が空っぽで狂いそうになっても、この傷を見るだけで僕は答えを思い出すんだ。傷に血がにじむほど爪を立てる。痛みと共に、そのことをインプットした。
いつもと音の違う目覚ましが鳴った。一瞬ここがどこだかわからない。隣で寝ている兄が目覚ましに手を伸ばして止めている。あ…そっか。兄貴の部屋だった。まだ半分寝ている兄が、僕の身体をギュッと抱き締めてくる。
「ねむ…い」
兄が寝言みたいに呟く。
「兄貴…おはよ」
「おやすみ」
多分徹夜続きで眠いんだろうな。僕の相手もしなきゃならないし。だがしかし…
「兄貴…朝だ!」
「知ってる」
「僕…早めに出なきゃ」
「そうだな」
兄はまだ起きる気はないみたいだ。いつもと逆の朝。僕の方が早くベッドを抜け出して、シャワーを浴びてる。身体のあちこちにできた傷や噛み跡、アザとキスマークも。それらが点々と残っているのが嬉しい。ダメだ…思い出して欲情する。部屋に脱ぎ散らかした服を拾い集め、着替え完了。兄のまだ寝ているベッドに腰掛ける。
「お兄さま…朝ですよ」
「おお…弟よ。朝など来なければ良いものを…」
そう言うといきなり僕を布団の中に引きずり込んだ。
「あっ…」
「服を着ている…! 俺は裸なのに」
僕は寝ぼけた兄が可愛くて思わずキスした。
「そんなことしたら…襲うよ」
「兄貴…今日はいつも通り帰ってくるの?」
「うん…バイトあるから少し遅くなるけど」
「うちで待ってるよ。じゃあ行くからね。続きはあっちで…」
「なんか…見送るの寂しいなあ」
兄は布団をかぶった。
「見ない…」
それで布団から右手だけ出した。
「行ってらっしゃい」
兄の振る右手をパシッと叩き、僕は部屋を後にした。結局部屋の片付けはする間がなく、また週末片付けに来ることになった。この前とは言わないまでも、かなり散らかしたよね。
(片付ける気力がない…)
兄貴はそう言って笑ってた。前はそんなだったっけ。兄が一人で過ごす時の様子ってどうなんだろう? なんか…考え過ぎか。僕は駅に向かって歩いていた。