おのれを撃つ者に頬を向け
満ち足りるまでに
辱しめを受けよ
主はとこしえにこのような人を
捨てられないからである
《哀歌 第三章30・31節》
兄は自分が何の研究をしているのかについては、僕に自分から話すことはあまりなかった。かなり高度に専門的な分野だし、あまり理数系の得意でない僕には詳しく話されてもさっぱりではあり、普段からあまりしゃべらない兄は敢えて話さなかったと思う。
僕が兄にそれを尋ねたのは、今のところ何を研究してるか、ではなく、なぜこんなにすぐ部屋がゴミだらけになるのかを聞きたかったに過ぎない。僕と兄はこの週末、再び掃除をしにあの部屋に向かった。今度はホントに掃除がメインだ。もう梅雨も終わりに近づいていて、蒸し暑い日が続いている。今日も雨は降らないが厚い雲が朝から隙間なく空をおおっていた。駅からの慣れた道を二人で歩く。こんな外出でも僕たちにはデートの替わりだ。午前中かけてまずゴミをまとめた。分別がうるさいので時間がかかる。いつも問題はキッチンだ。腐りかけたコンビニ弁当の残りとか、カビたパンのカケラとか、飲み残しの缶コーヒーとか…
「僕は独り暮らししたことないから、わからないけどさ…」
僕は何気なく聞いた。
「これ…腐る前に片付けるのって至難の業?」
兄はなにも言わなかった。
「ねぇ、聞こえてる?」
「ああ…」
それだけ答えて無言でゴミを集めて、兄は袋をしばった。
「とりあえず中身入ったままでも捨てる、とかさ…」
「ああ」
「カビとか…身体に悪そうだし」
「……」
「聞いてる?」
僕は何も答えない兄に確認した。
「…無理」
兄がボソッと呟いた。
「なんか…大変なの?」
僕は兄の「無理」という言葉に、なにか気になる影を感じた。
「研究の方とか…?」
「まあ…そう」
兄は僕に目も合わせず言葉を濁した。
「秘密?」
僕は何の気なしに聞いた。
「秘密…って言えば質問終わる?」
兄は逆に質問してきた。別に怒ってる風もなくただ淡々と。僕はその言葉を聞いて急に不安になった。
「ごめん。大変…なんだね」
僕はこのところ自分の大変さしか見えてなかったのかも知れない。
「あ…うん…」
兄は今度は考えこんでいた。なにかあるのかな。
「僕は知らない方がいいんだね」
その言葉を聞くと、兄はハッとした様子で僕を見た。
「あ…俺が心配か?」
「う…ん」
僕はそう答えるしかなかった。
「心配するな…俺が心配になる」
僕のことを気遣ってくれてるのがわかった。僕に心配させたくないからだ。大学院でなにかあったのか? もしかしたら兄は、僕やあの人のことの他に大学院の問題まで一緒に抱えて今まできたのだろうか? ふとそんな憶測が生まれる。それを僕はいま兄に聞くべき? 僕に話さないってことは 話したくないのだろうか? それとも話せないこと? 今度は僕が黙りこんでいた。
「…こと言ったな」
「え?」
兄の言葉が半分だけ聞こえた。
「いや…悪いこと言ったな…って」
「あ…いいよ」
何が一番兄には負担になるだろう?
「兄貴は僕が心配するから言えないんでしょ。だから…聞かない」
きっと聞いても僕では役に立ちそうにない。
「その代わり、兄貴の替わりにここの掃除する」
兄はフッと気の抜けた顔をした。少し悲しそうにも見えた。
「ねぇ、どうすれば兄貴もっと楽になる? 僕を支えてるのは辛い?」
兄はシンクの中をスポンジでゴシゴシ洗い始めた。
「お前を支えていなければ…俺が倒れる」
兄は袖口で額の汗をぬぐった。兄になんて言ったらいいんだ。僕の何の気なしにしたはずの質問が僕たちをこんな変な気持ちに? いや、違う。兄はまだ…傷が癒えてない…? それでは僕は…? 黙っていたほうがいいんだろうな。兄を信じて。
それでも間違っているとは思えない。だって今の僕には空虚感がない。確認するように手首を握りしめる。あの夜気づいたことは僕を変えた。あの空虚は僕が望んだものの代償。僕が心の底から望んだこと。だから嘆くことは一切ないのだ、一切。今日の兄が何かを隠していたとしても、なぜか僕にはそれを問い詰める気持ちがない。確かに何かあるのはわかる。それについて僕が役に立つことはない。兄を信じるしかない。ただ今は聞かない方がよい。わかるのはそれだけ。
散乱した兄の服とシーツやらバスタオルやらを集めて、二人でコインランドリーに向かった。洗濯機に洗剤を放り込み、コインを兄に入れてもらう。水の入り始めた洗濯機の中をじっと見ているうちに、少し切なくなった。
「兄貴の嫁に…なりたい」
兄が微笑んだ。僕は少し心が楽になった。
「俺の嫁は大変だぞ」
「うん…多分僕しか務まらない」
僕は水の中で回る洗濯物をじっと見詰めていた。
「兄貴を独りにしたくないんだ」
「ありがと…な」
そう言って兄が僕の肩に手を置いた。
「幸せだよ…」
「ホントに?」
「ああ。こんなこと一緒に出来るのが、最高に幸せだ」
ほんとだね。僕もそう思う。
そして一学期も終わりに近いある日、とうとうアレが来た。
「…誰が開ける?」
大きな茶封筒を手に、マニア顧問は僕たちメンバーを前に聞いてきた。そうだ。一次審査の通過通知だ。これに通れば地区大会の出場権が手に入る。『第5回 闘え!バンド・バトル高校大会』は今年から『第1回 闘え!バンド甲子園!』に名前が変わったそうだ。出場校が去年辺りから飛躍的に増え、全国で200校以上が参加したらしい。今年はまた2~3割は増えるだろうと予想された。増えるに従って地区予選が各県予選となった。我が県は参加校はそこそこ多い。一次予選を通るのはかなり難関と言えた。
「はっきり言って」
顧問は言った。
「ある意味、東大より難関ですよ…君たち」
「むむむ…」
ヤツがうなっている。
「ほら言い出しっぺはお前だろ? 早く開けなよ」
先輩がヤツに茶封筒を押し付けた。
「あードキドキデス!」
パンダ後輩がテンションを上げる。
「わかった…やはりこれを開けるのはこの俺様の役目だ、諸君」
ヤツがそう言うと先輩が嬉しそうな顔をした。
「ようやく脳に入った大腸菌が消毒されたみたいだな」
「だから…もう何度も謝ってるじゃないすかぁ」
「あの…中見たいんだけど」
漫才が果てしなく続く予感がしたので、僕は率直な意見を言ってみた。
「うむ。致し方ない。では開ける」
全員が固唾を飲んで封筒を見つめる。ヤツが封を切った。中からおぼつかない手でB5くらいのペラい書類を引っ張りだした。書類でヤツの顔が隠れてる。早く読め! それとも残念なお知らせで読めないのか…? 皆んなも焦れていのがわかった。その時、ヤツの声が書類の陰から聞こえてきた。
「…つ…つうか…だ」
呆然としたようなヤツのかすれた声が響いた。
「つうか? つうかって、通過?! 一次予選の通過!?」
興奮した先輩が声を張り上げてヤツに駆け寄る。それを見てヤツが通知の紙と一緒に拳を高く突き上げて叫んだ。
「通過だ! 一次予選通過ー!!」
「よっしゃー!!」
僕も思わず両手の拳を握りしめて同時に叫んでいた 。
「信じられまセーン!! スゴイスゴイawesome! アメイジング!!」
先輩とパンダ後輩が何度も両手でハイタッチしながら飛び上がる。
「マジかっ!マジでかっ!」
ヤツは書面を見つめながらまだ信じられない顔で何度も叫んだ。
「やったやったぁ!! お前らスゴいぞ!」
顧問も興奮してる。
「次はっ?」
気の早い先輩がヤツに聞く。
「県大会は7月28日っすよ!」
「あと…2週間?!」
「その次っ!」
「全国大会…8月20日21日決勝!」
「その日! 待ってろよ!」
「やったーっ!」
先輩がヤツの背中をバシバシ叩いている。この時ばかりはヤツも痛いと言わず嬉しさだけが満面の笑みとなった。
「さあ! 練習デス! 先輩! 2週間はスグ来マス!」
「おーっ! 頼りにしてるぜ後輩!」
真面目な後輩にまたもや感動しつつ僕たちはこの結果に舞い上がった。みんなまさか通過するとは思ってなかったし、それに、いろいろあったから。とてもいろいろあったから。今日は喜んでいい。これは始まりに過ぎないけど、始まれるんだここから。部室が沸いている。僕はヤツの顔を見た。ヤツも同時に僕を見ていた。お互い言葉にならない思いを確認しあうかのように。
「イケる」
「ああ…ほんとだ」
ヤツは一瞬切なげな顔をして視線を落とした。よくこんなに立ち直ったな…と、声を掛けたい。頑張ったよな、本当に…辛い中でここまで。
前奏のギターのリフ、なんだかたまらなくて狂ったようにピックで弦を削った。それは少し、イク時の感じにさえ似ていて。
空虚。僕はいつもそうして自分にだまされる。
(成果って…甘い罠みたいだな)
部活の帰り道、信号待ちの独りの僕は唐突に虚空を落下していた。
何か積み上げられると思いたいんだ。まだ…この世界に居られると思ってるの? それはクセみたいに僕を期待させ、虚空へ放り出す仕組みだった。どうすれば僕はその期待から逃れられるだろうか。バンドの達成感はいつも僕を高揚させ、そして唐突に空虚感に連れて行く。僕には何かを達成して積み上げられるものはない。ただひたすら流れに従うだけ。ただ出来事を見守る。良いことも悪いことも、僕の心を揺らして通り過ぎる。そこに求めて満足するものはない…のか…な…
僕は脱力したままベッドに転がっていた。両親にバンド甲子園の一次予選通過を告げる気もなく、部活から帰ってその足でシャワーを浴び、ベッドにもぐり込む。そしてそのまま寝た。夕飯も疲れてるから食べずに寝ると母に告げ、キャンセルした。兄はバイトで今日も遅い。暗闇で手首を握った。盛り上がった傷痕を指で確かめる。少し深く息が出来るようになった。この前よりはずっとマシ。だけど… なぜ…だろう…あのバンドのみんなが僕は大好きなのに。一緒に創りあげていきたいのに…空しさのわけを、どうか僕に教えて…理由がわからないんだ。
兄貴の帰りを待っていた。待つのは長い。10時を回った頃玄関で音がした。帰ってきた。それだけで心臓が早くなる。空虚の中でもなんだか笑えてきた。ある一人の人間がこんなにも必要なのってあるのかな。生きていくのにこの人がいなければ生きていけないなんて。兄が部屋に上がって来るまで考えた。夫婦だってもっと自立してる。親子…とか? 親子だって親離れしていく。人は成長する。それなら僕は…一体…?
しばらくして兄が部屋に上がってきた。兄は僕に気づかれないようにか、真っ暗な部屋の明かりも点けず、手探りで自分の机のスタンドを小さくつけた。寝ていると思ってるようだった。
「大丈夫だよ、兄貴…お帰り…起きてる」
「起きてたのか。真っ暗で?」
「うん。なんか…疲れてる」
「ああ…お前、メシ食わなかったんだって?」
「う…ん」
兄は机のライトをMaxにした。間接照明みたいに部屋がぼんやりと浮かび上がった。
「兄貴…今日さ…バンド甲子園の一次予選通ったんだ」
僕がボソッと告げると、兄貴はすぐに上のベッドに上って来て、僕の顔を見た。
「…そうか…良かったな。でも…」
沈んでる僕の顔を見て兄は首をかしげて切なく微笑んだ。
「また手のひらからこぼれてった」
兄はそう言って僕の頭を撫でた。僕の目から涙が落ちた。黙ったまま僕は目を閉じてうなずいた。
「なにも積まれないよ。俺もそう。研究が上手くいっても…教授から認められても…論文が雑誌に載っても…表彰されても、ね」
僕は目を開けて兄を見た。
「あ…兄貴も…なの…?」
「ああ…そうだ」
「ずっと?」
「ん…ずっとだ」
兄は目を細めて僕の涙を指先でぬぐってくれた。
「なん…で…かな?」
僕は、さっきから答えの出ない問いを兄に尋ねた。
「お前だって…もうわかってるだろう? 生きてる振りじゃ…何も積まれない」
わかってる。そう…もう結論は出てるんだ。なのに…兄貴しかいないのはわかってるのに。わかっててもまだ苦しいのは、なぜなんだろう…? 僕は兄にそう尋ね直した。
「知ってるんだよ…この空虚は兄貴にしか埋められないんだってこと……だけど僕は…あのバンドの連中のこと…好きなんだ…ほんと…良い仲間でさ…僕はとっても感謝してる。なのに…なんで…」 兄は僕の隣にゴロンと横になった。
「満足出来ないんだろう…って?」
「…そ…う」
「まだ…ひとつじゃないから」
兄は静かに答えた。
「成果や他人の評価や社会的な実績なんて…本当に欲しいものじゃない。わかってるけど、つい忘れかける。それがなければそこに居られないことがバレる…それを怖れてるから普通の人の振りをする…だから忘れる。世間に触れているとまるで自分がもう一度ここでやって行けるような気になる…俺たちにとって失ったものは大きすぎるから、まだ前の感覚が残ってるんだ。慣性の法則みたいにね」
兄はいつものように腕枕をしてくれた。
「でも、ひとつになれるくらい…融け合えたら…」
兄は僕にキスした。
「その時だけ虚しさは消えて無くなる…お前が今までしてくれたようにさ」
いつものように優しい目をして、兄は微笑んだ。
「俺はあの日まで…ずっと届かない夢だって思ってた」
「あの日…って?」
「お前に…告白された日」
兄はそう言うと、あの時のことを反芻しているかのようだった。
「ずっと…独りで良いって思っていた。あいつが死ぬまでただ弄ばれて、本当に欲しいものはもう諦めてしまおうって」
兄はそっと僕を抱き寄せた。
「お前に愛されたことを知って…俺は気が狂うんじゃないかって思った。歓びと罪とで引き裂かれてしまいそうで…」
「その時からやめようって…思ってたの?」
「うん…そうだよ。お前が拒まないのが俺には不思議で…怖くて」
僕を抱く兄の指に少し力が籠った。
「だって僕は…大好きだったから」
「俺は親父の行為が…苦痛だったよ。言葉には出来ないけど…小さい頃も違和感が快感と同居してて…」
兄の身体が少し身震いした。
「あぁ…思い出したく…ないな」
兄は辛そうに顔をそむけた。
「だから…お前に受け入れられてるなんて思いもしなかった…」
「僕も怖いくらいだった…どんどん好きになっちゃって…一緒に居れるだけでたまらなく幸せで…」 「信じられなかったよ。お前に想われているなんて」
兄はフッと笑った。
「こんなに融け合ったら…他のものなんて…本当に虚しい。ただ…」
「ただ…?」
「一度だけ、同じような感覚を研究中の観察実験でしたことがある」
兄は少し遠い目をした。
「あれは一体なんだったんだろうな。電子顕微鏡で金属の表面を観察してた…原子の規則正しい配列をずっと追って。それを見続けていたら…その原子の中にすべて宇宙があるのが見えたんだ…いやわかったんだ。理由もなく…唐突にわかった。その宇宙の中に自分もいて…この身体の中の原子にも同じ宇宙があって…その中にも自分がいて…そうしたら宇宙が俺で俺が宇宙で…精密で狂いのない美しい宇宙と俺が融合したような感覚が一瞬あって…しばらく俺は頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった…口もきけなかった」
あの時、クリスマスに兄が話してくれた話しだった。宇宙は美しい。完璧で正確だってことを。
「あの感覚はお前を抱くときに感じる…最近特にね。罪の意識があるとそれは消えるけど」
兄は微笑んで言った。
「だから…融けちゃえよ…みんなと。お前は音楽の中なら出来る…きっと」
兄は楽しそうに笑った。
「でも成果はそれだけだ…後にも先にもそれだけ…虚しさは大抵のものじゃ埋まらない…融け合うことを知ったあとなら…なおさらだ」
「んっ…」
兄がいきなり足を絡ませてくる。それだけでたまらない気持ちになる。
「お前なら…ギター弾きながらイくかもな」
「それは…困るかな」
今日の練習のこと思い出した。もうかいま見たのかな。
「でも…否定はしない」
「そうだろ…お前なら」
「ん…」
そう…あのクリスマスもそうだった。
「理由はないんだ…でも…わかってる…かな」
「そう…そうだ」
深くて熱いキス。
「あ…」
思わず声が漏れる。
「離さない」
兄のその言葉で全身が痺れた。