なにもない
なにもないから
ふたりでいよう
朝の光が差す部屋
なにを求めたの?
キミの幸せ
なにを願ったの?
キミの笑顔
朝の光の中の
微かな
永遠
1.崩れ堕ちる
だがあなたはロープを蛇と
見間違えだのだ
(アシュターヴァクラ・ギーター)
ポタン…ポタン…
どこかで水滴の落ちる音がしてる
冷たくて湿ったコンクリートの床。薄暗い地下室の隅に敷かれた薄汚れたマット。弱い蛍光灯が遠くでまたたいている。
意識がはっきりしない。思考が際限なく緩くほどけていく。視界がぼんやりしていて、焦点が定まらない。
誰かが戻ってくる。
「…効いてきたか?」
「…あぁ…う…ん」
「くく…可愛いな…クスリ効いてる時のお前って」
言われてることの意味を頭で理解出来ない。でも、それでいい。
「…して…よ」
「欲しいか」
「早…く」
「いやらしいな…欲しがって」
「はやく…して…」
早く埋めて欲しい。なんでもいい、早く、もっと。意識を失うまで。
「俺が見えるか? 焦点あってねぇぞ。もう…たまらないだろ?」
「うん…はや…く」
「…くわえろよ」
ようやく始まる。もうこれなしで生きていけない。こんな…こんな拷問みたいな毎日。
「……ん」
「良い…お前の…いいな」
「ん…ぐ」
「しろよ…もっと…ほら…あああいい…いいぞぉ」
こいつももうクスリが効いてる。だんだんロレツが回らなくなって、もうすぐお互い痛みも感じにくくなって。
「ああ…出る…」
口いっぱいになる。
「飲めよ…欲しいんだろ?」
その感触に自分が出そうになる。
「俺のもんになれよ。もっとかわいがってやるからよぉ…もっと良いクスリでさ」
「う…ぐふ…」
「俺のペットになれよ…あ…いいっ」
出したばかりなのに、また固くなる。
「こっちが我慢できねーよ。してやるよ…お前の好きなの…」
解放された口にキス。
「ん…ん…」
「お前がこんなになるなんてな…」
こんなになるなんて…もう…耐えられなかったから。
「ほら…早く」
押し倒されて身体を裏返される。なんで、まだ生きてなくちゃならないの?
「早く四つん這いになれよ」
駄目なんだ。まだ、まだ生きてなければ。兄が戻ってくるまで…兄の消息がわかるまで。でも、もう苦し過ぎて、どうしたら良いのか僕にはもう…
兄が消えた。
それは全く唐突に、まるで風にさらわれたように、忽然と消え去った。僕を残して。
その日珍しく、兄から昼にメールが入った。
『出張が急に決まったので、何日か泊まりがけになる。詳しいことは後で話す。携帯繋がらないかも。親父たちにも伝えておいて』
兄の、アパートのPCから発信されていた。
僕が高校3年になると同時に、大学院を卒業した兄は希望通りにそこの研究所の助手になっていた。研究を続けながら、いずれ講師から準教授そして教授にと。
「すんなり行ければ良いけどね…」
そんな風に兄が話していた通りの順調なスタート。学会なんかで出張することもたまにあったし、僕との間も仕事が忙しくなっても大事にしてくれていて。
その翌年僕は高校を卒業して、音響の専門学校に入学した。ヤツも同じ専門学校に入学。作詞・作曲やアレンジの学科を専攻していた。その学校にも慣れ、夜にライブハウスでバイトも始め、数ヶ月が過ぎようとしていた夏の始まりの頃だった。
終わったはずの悪夢が、唐突に再び始まった。もっと残酷な形で。
その時いつもは放任な親父が、珍しく兄を心配し始めた。兄が出張に出掛けたであろう日から1週間くらいした日のことだった。兄の携帯に電話したがメールの通り繋がらない。兄が僕にすら途中でメールもよこさないことを知ると、父は本能的になにか感じたらしく、母に研究所に連絡を入れさせた。いつ頃出張が終わるのか? どこに出掛けたのか? すると研究所のスタッフは驚いて、事情を母に逆に尋ねた。出張なんて予定ありませんよ。まさか…だって具合が悪いのでしばらく休むと息子さんから研究所にメールが来てますよ?
そのメールも、兄のアパートのパソコンからの送信だった。兄が出すはずのないメール。母は電話口で震えが止まらず、その場に座りこんでしまったという。母は大学院にすぐに駆け込み、担当の教授に詳しく事情を聞いたが、スタッフの誰も兄の消息を知らなかった。母は合鍵を持ってその足で兄のアパートに向かった。
だが兄は、そこには居なかった。
学校にいた僕に珍しく母から電話がかかって来たのは、その日の夕方だった。兄のアパートからの電話だった。母の電話を受け、僕がほとんどパニックになりながら兄のアパートに駆け込んだ時、母は薄暗い部屋に立ちつくし、その手紙を震える手で僕に手渡した。いつものように乱雑な散らかしっぱなしの部屋のパソコンデスクの上に、その書き置きはあった。
『色々あって、ここには居られません。探さないで下さい。それがお互いのためだと思う。ごめんなさい。』
パソコンでタイプされたA4の再生紙。たった、たったそれだけの書き置き。
「…ねぇ…お兄ちゃん…こんなに苦しんでたの…?」
母は抑揚のない口調で、呆然としたまま僕に尋ねた。
「…ウ…ソだ」
僕はまるで悪い冗談を見せられてるような気分だった。
「ねぇ…何か…知ってるの?」
母は消え入りそうな声で僕に再び尋ねた。
「こんなの…ウソだ…こんなこと兄貴が書くわけ…ない」
「じゃあ! どうして!?」
母の声が突然高くなった。僕も母も混乱していた。違う…おかしい。こんなことあるわけないじゃないか。それほど今起きていることは僕たちの理解を超えていた。でもこれだけは言える。
「母さん…変だよこれ…兄貴は僕達に黙って居なくなったりしないよ…」
そう。兄は僕に約束した。僕を支えるって。
「母さんだって…兄貴が思い詰めているように…感じてた?」
母は黙って首を横に振った。そう、いなくなる前の兄に僕は何か異変を感じていた? 何もない。平穏な大事な日常を二人でかみしめていたんだ。あるわけがない。こんなこと兄貴がするわけない。だって僕たちは…!
「母さん…親父に連絡して。それから警察に行く」
母はハッと僕を見た。
「そうね。お兄ちゃん…こんなこと絶対しない」
母は少し正気に戻った顔になり、急いで携帯をかけ始めた。その時、全身に鳥肌が立った。じゃあなんでこんな手紙があるんだ? それ以前に出張に行くと書いてあったあの時のメールは? そして研究所に送られたメールも……メールだけ。そしてここにはパソコンで打った書き置きだけ。誰も実在の兄を見ていない。では兄でなければ、一体誰が? 一体なんのために?
凍りつくような恐怖が襲ってきた。黒い深い闇が見え、僕は3年ぶりにパニックの発作を起こしていた。
警察からの帰り道、僕たち家族は深い疲労と徒労感を抱いて、物も言えず歩いていた。
《一般家出人》。それが兄の状況を示す、警察のくれた言葉だった。家出人には2つの種類がある。特異家出人と一般家出人だ。特異家出人は事件性のある、失踪も含む家出。何らかの事件に巻き込まれた…とか、書き置きも動機もない行方不明や、自殺の危険性があるものなどで、日本では毎年9万人の家出人が警察に新たに登録される。
ただ捜査はその中の一部にしか手が及ばない。一般家出人は、自分の意志で出ていったことから捜査の対象にすらならない。ただ《生存確認》というのだけあり、何らかの関係でその失踪者が警察の知るところとなった場合は、家族に知らせてくれるという。してくれることはそれだけだった。あの書き置きが兄を《一般家出人》にし、それは決定的な証拠となった。
最初に担当官から、状況や動機などをいろいろ訊かれた。家族構成、家出の動機、部屋の様子や持ち物について。特に所持金の有る無し。兄のいつも持っているカバンはどこにも見当たらなかった。携帯も財布もその中にいつも入れて出勤していた。当然僕たちはその携帯に何度も電話した。だが兄の携帯はすでに充電が切れているのか、『電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため掛かりません』のメッセージが流れるだけだった。
「再婚ですね、奥さんは」
「え…ええ」
「家庭内でトラブルはなかったんですか?」
母は一瞬凍り付いたような目で、質問した担当官を見つめた。
「…うちはとても…仲の良い家族です…」
「離婚された時は? 息子さんはまだ小さかったみたいですね」
担当官は届出書類の中の戸籍謄本を眺めてそう言った。
「…は…はい…5歳でした」
「失礼ですが前の旦那さんと息子さんは…」
「前の夫は亡くなりました」
「今の旦那さんと息子さんの関係はどうでしたかね」
母はとても険しい顔になっていた。世間から見れば“兄の居場所がない家”という風に思う人も多いだろう。再婚した夫婦の連れ子への虐待もよくニュースになる。一般的にはそういう眼で見られているのも仕方ないとは思ってはいた。血のつながりのない父と子だ。だが血の繋がった親子ですら殺しあう世の中でもある。そして兄は実の父に虐待され続けていたのに。
「そんな上っ面の家族じゃない」
それまで親父が不意に話し始めた。
「ちゃんと、心が通ってるんですよ。俺たちは」
「でもご本人がどう考えていたかは、ご本人しか知りませんからね」
担当官は冷静な口調で親父に答えた。
「届けを出される方はだいたいそうおっしゃいます。家出をするほどのトラブルはなかった、とね」
担当官はそこで言葉を切った。そしてもう一度資料を見た。
「息子さんはいつもパソコンで手紙を書きますか?」
兄は理系男子にありがちな字の下手な人だった。高校生の頃から大概文書はパソコンを使っていた。母が呟いた。
「…パソコンです…ですが」
「なにか…?」
「これはあの子の書いたものではありません」
「というと?」
「息子はこんなことしません」
僕は母の言葉を継いだ。
「誰かがやったんです。兄に見せ掛けて」
担当官はまるで説教のように僕に向かって語りかけた。
「現実を受け入れないとね。お兄さんの心はお兄さんにしか分からないでしょ。ショックが大きいのは良くわかるけれど」
「だけど…それは」
(僕らには通用しないんだ。だって愛し合っているんだから)
あまりにも通り一辺な解釈をされ、僕は思わずそう言ってしまいそうになった。だめだ。こんな重大な場面ですらこの秘密が足かせとなって、状況を正しく伝えることさえ出来ない。胸の中を掻きむしられるような煩悶が僕を襲った。
再び毎日が悪夢のような拷問となった。苦しくて何も手につかなかった。ただ学校とバイトには休まず行った。なにかに気を取られていなければ一日を過ごせなかった。じっとしていたら、気が狂いそうだったから。
警察に頼れないことを知った両親は、すぐに興信所に捜索を依頼した。父も母もじっとしていられなかった。母はまた不眠症になった。父も酒の量が増えていた。実家は暗く沈痛な気持ちに満たされ、家の電話や互いの携帯がなるたびに異常な緊張と期待が走り、それが通話やメールであっても電話の元に飛びついて、そしてそのたびに変わらない絶望を確認した。僕はパニックの発作が完全に再発し、母の心配をただ増幅した。
少しして僕は実家を離れ、兄のアパートで過ごすようになった。どうしても手がかりを見つけたかった。きっかけは、実家の調査を終えた興信所の調査員を案内して、兄のアパートに行ったことだった。
依頼してすぐ興信所の調査員から、僕たち家族は失踪者捜索の注意を詳しく聞かされた。キャッシュカードや現金を持って行ったかどうか、部屋の中で何がなくなっていて、何が残っているか。そして手がかりになるのでゴミは絶対に捨てないこと。
「そしてこれは大事なことですが、パソコンは絶対に触らないで下さい。特にお宅の息子さんはパソコンから家出の連絡情報を2件も送ってられます。もしもご家族が疑っていらっしゃる通りなんらかの犯罪性があるとしたら、パソコンに指紋や不自然なファイルの削除など、痕跡が残ってい可能性もあります…」
そうして僕たちは再び兄のアパートのドアを開いた。
《ごあいさつ》
第2章、始まりました。ここからが本番です(マジか)。ワタクシ架空線の妄想内の病的な嗜癖と趣味を目一杯盛り込んで、目も当てられない緻密に鬼畜な仕様になっておりますが、まぁそれは賢明な読者様方にはもうすっかりおわかり(お馴染み)だと思いますので、今更言い訳なんぞいたしませんよええ(キリッ
今後も長い道中よろしくお願い致します。ご閲覧感謝です!