兄が失踪する少し前に、ここで一晩二人で過ごした。僕がゴミだけ片づけていたが、それでもいつもの通り部屋の中は雑然としていた。中年より少し若いかな、と思われるくらいの男の調査員は、部屋を見回しながら僕に訊いた。
「いつもこんな感じなのかな?」
「あ…いつもより…片づいてます」
「君は良くこの部屋に来るの?」
「え…たまに…ですけど」
話をしながら彼はパソコンの前に座った。
「ここに書き置きがあった?」
「はい…見つけたのは母ですが」
調査員はパソコンのキーに粉をはたいた。指紋を採る。僕の分も含めて家族の指紋はすでに採取してあった。
「お兄さんの友達とかはこの部屋に来たりする? 職場の人とか」
「いえ…それは知りません」
本当に知らない。兄に友人と言える人はいるんだろうか? この部屋に来た兄と僕以外の誰かは母と、あの人。それしか、知らない。
調査員は手際よく作業しながら、僕に質問を続けた。
「君のお兄さんは交友範囲が狭かったのかな? 写真だけで判断するのは失礼だけど…モテたんじゃない?」
「いえ…兄は無口で…人付き合いは苦手でしたから…」
これ以上答えたくない。でも捜索に必要なら言わないと…心が引き裂かれる。
「彼女がいたってことは?」
心臓がドキッと音を立てて打った。
「…聞いてない…ですね」
「…この前もお話ししたと思うんだけど」
彼は作業の手を止め僕の顔をまじまじと見た。
「守秘義務というものがあるからね。君の言ったことは絶対に外部にもらすことはない。だから手がかりになるようなことがあったら言って貰わなければ。こちらも的確な調査のチャンスを失うことになる」
彼は少し表情を緩めた。
「無理に…というのはお願いできないけど、こちらは少なくともプロだ。仕事柄、みんな人には言えないような秘密もあるのはよくわかってるし、そんな秘密に驚くような世間知らずでもなし、驚くような歳でもないしね」
彼はまたパソコンに向き直り作業を再開した。
「ああ、ハードディスクがはずされてる」
「えっ?」
「困ったな。お兄さんが持って行ったのか…それとも他の誰かが外したのか…」
「そんなことあるんですか?」
「ハードを持ち出す家出人は多い」
「復元ってできるんですか」
「ほぼ無理だね。とりあえずここはダメもとで業者に出すしかない。あとは職場のパソコン頼みだね。君の実家のパソコンは情報が少ない…少な過ぎるくらいだ」
そして僕に訊いた。
「梱包して車に積んでおきたいが良いかな」
「お願いします」
また手がかりが消えた。僕は脱力してベッドの上に座り込んだ。彼は僕が激しく落胆したのを感じとったらしかった。
「君は…お兄さんととても仲が良かったみたいだね」
僕は無言でうなずいた。
「辛いだろうけど、だけど諦めちゃだめだ…絶対に」
その時なぜか、深い知り合いでもないその人のその言葉で僕は、兄が消えてから初めて泣いた。あまり知らない人だったからかもしれない。様々な失踪のケースを知った、その道のプロだということもあるかも知れない。涙が堰を切ったようにあふれ出し、それは止められなかった。彼はそばに落ちていたティッシュの箱を黙って僕に渡してくれた。
「…すみません」
「良い弟をもって君のお兄さんは幸せだな」
そして彼はパソコン以外の部屋の調査を始めた。僕は彼に断って部屋を出た。ユニットバスの洗面台の前で、僕は声を殺して泣き続けた。
真夜中。兄のベッドでフッと目が覚める。もし、もし兄が、もう生きていなかった…ら…
一番あって欲しくない、でも考えずにはいられないその最悪の事態が、発作のように頭をよぎる。考えちゃダメだ…! なにも根拠なんかない。だけど、そうでない保証は一切ない。思考が止まってくれない。地獄の責め苦のように僕の心を突き刺す刃。何度も、何度も。頭の中を巡り…終わらない。追い払うことが出来ない。次第に恐怖で歯の根が噛み合わなくなる。身体がガタガタ震え出す。そして怖さが慟哭に変わっていく。いかないで! いかないで! お願いだから帰って…帰って来てよ…かえって…きて…
だんだん確信がなくなってくる。兄は本当に自分を許していたの? 僕の危機が一時だけ兄の罪悪感を麻痺させていただけに過ぎなかったんじゃないの? だからしばらく続いた平穏な時や、僕の進路が決まったことで、兄は僕の危機が去ったと思った…としたら? この部屋で兄があの時決めたことを実行できるくらいもう僕が独りでもやっていけるって、もしかして…思ったの…?
「うあああぁぁぁ!!」
悲鳴のような声が喉からほとばしった。口を押さえた両手は震えたまま。
(早く…早く起こして…!)
(夢なんだろ? 夢なんだよね?)
(いやだ)
(いやだ)
(兄貴…なんで?なんで?)
(なんでだよ…)
僕は、本当に愛されてたの? 僕は捨てられた…のかな? そして兄は、新しい恋人と一緒に、いま…新しい…人生…を…
だが、そのほうが100倍も1000倍もマシだ。兄がもう、この世にはいないかも知れないという凍りつくような、気が狂うような恐怖と比べたら。
バイトから帰ると、僕は兄の部屋を手掛かりを捜して調べ回った。何でもいい。なにか少しでも不審に感じるモノ、違和感の匂い、それを。ゴミ箱の中、ベランダ、クローゼットの中、積み上げられた本と書類の山を、部屋の隅から順にひとつづつ調べていった。真夜中までやって、取り憑かれたように目を皿のように見開いて、狂ったように。
だけどもう眠ることが出来ない。頭の中を回る恐怖に支配されてる。部屋を調べていられるうちはマシ。意識を何かに取られていれば、一時の忘却が訪れる。でも、手を休めたら…地獄の中にいることを思い知らされるだけ。
眠れない。眠れないだけじゃない。苦しくて壊れそうなんだ。一瞬、死が頭の中をかすめる。でもその選択はできない。できっこない。兄が帰ってくるから。気が狂えれば本当に狂ってしまえればいいのに。狂ったら苦しくなくなる。いや…わからないよ。狂った方がいまより苦しくないなんて、誰にもわかりはしない。
兄の匂いのするシャツ。思わず抱きしめていると、その抜け殻で発狂しそうになる。
いつも通っている心療内科に受診した。パニック障害の再発で、中学高校の頃通っていた心療内科への道をまた歩いている。眠れないことを訴えた。怖くて眠れません。死んだように眠れる薬を、下さい。
睡眠導入剤と、鬱病の薬が増えた。僕は鬱なんだ…否定はしない。医師は兄の失踪のことを知っている。だから今、うちの家族はみんな鬱だ。
結局僕が心療内科に通うのは、兄が死んでしまうという怖れ、それ以外にはない。中学の頃から全然変わらないその理由。可能性が高まれば正確に発作は復活する。そうだ。生きる意味が失われたらどうやって耐えればいい?
驚くほど進展しない調査に、父は業を煮やしていた。依頼の7割は1週間以内に見つかる。そのホームページの内容に父は期待していた。1ヶ月は仕方ない。では3ヶ月は? それが5ヶ月になったら?
(おれのせいだ)
父の背中からそんな声が聞こえてくるようで、僕はそれを否定できるのに父に話しかけられない。たぶん全員が自分のせいだと思っている。その幻の罪の重さが、互いを引き離す。母を慰める言葉も父を励ます言葉も、自分を許す言葉もなにも見つからない日々が、ただ無為に重なっていく。睡眠薬はもう効かない。医師に増やして貰っても効かない。
心を壊さないで自分を保つために、人はそれぞれ自分のやり方をする。前から良く知ってる。僕には忍耐ということが続かない。いつもどこかで破綻する。過度な電流が流れるとぶちきれるヒューズとか、バチンと落ちるブレーカーみたいに。そのブレーカーが一瞬で落ちたのは、心を壊さないためのギリギリの選択が、家族のひとりひとりで異なっていた、というそのことだった。
仕事で忙しい父親とあまり体調の良くない母の代わりに、興信所と連絡したり情報のやり取りをするのは、だいたい僕の役目だった。兄の部屋を調べながら、あの日一緒にパソコンを運んだ例の調査員は兄の事件のメインの担当だったので、兄の仕事場である大学の研究室や、兄が通勤にいつも使っていた最寄り駅の周辺の目撃者捜しとか、僕は時間があるときには連絡をもらい同行することを希望していた。彼も僕も手掛かりを渇望していたし、僕がじっとしていることが一切できなかったから。兄の行動範囲をわかって案内出来るのも、家族の中では僕しかいない。調査には当然ながら料金も経費もかなり掛かる。出来ることは僕がやらないと、興信所の料金だけでみるみるうちに家の蓄えが取り崩されていった。その経費も父は一切糸目をつけず、それは血のつながらない息子に対する父の思いを、僕と母に確認させるための父のひとつの表現のように僕には見えることもあった。そんなことがなくても、母も僕も父が兄を本当に大事だということを疑う気持ちもありはしなかっただろうけど…
でも兄に対する父の罪悪感は、失踪の理由が不明であればあるほど、妄想のように父の心を蝕んでいくのが僕にはわかった。兄を救えなければ家族もいずれ壊れてしまう。事態は残酷に、僕たち家族の弱点を正確に追い撃ちした。早くしなければ。一刻も待てないくらい、この苦境を早く打破しなければ…
だから僕にとって、その調査員の彼に会う時だけが唯一の希望の時間であり、彼はプロとして僕の良き理解者でもあった。僕はかなり色々と捜索のコツを教えてもらったり、話を聞いてもらったりしていた。その時間に僕は息をしていた。窒息しそうなそれ以外の時間をやり過ごすための、兄のいない世界で僕が生きていくための、酸素、だった。その彼がある日いきなり、父に解雇された。僕たちに一切の相談もなく。
それは父の気持ちのエア・ポケットというしかない。普段は無口だが気性の荒い父の激情が、耐えきれずに噴出するのは確かに時間の問題ではあった。だが僕のたったひとつの安住の場は、一方的に奪われたのだった。
学校に着くと例の調査員の人から簡単なメールが来ていた。
『本日付けで調査の契約が打ち切りになりましたので、明日の調査の同行のお約束はキャンセルさせて頂きます。今までご協力ありがとうございました。一日でも早い解決をお祈り致しております。』
耐え難い怒りが襲ってきた。滅多に言い争いもしない父と僕がその夜衝突した。僕は帰ると上着も脱がずに父の前に立った。父はすでに酔っていた。
「興信所…なんでやめたの?」
「あそこはダメだ。新しいところに変えた。今日契約してきた」
僕はキレた。
「僕になんの相談してくれないわけ!? 勝手に打ち切るって、何考えてんの!?」
「お前だって分かるだろ? なんの成果もないなんて、どうかしてるぜ。最初に調子の良いこと言いやがって。まあ…俺たちは初めてだから仕方ねぇとは思うけど…」
「僕は! 僕は一人で積み上げてきたんだ! 担当の人はいい人だったし、成果がないって…分かるよ…でも手掛かりがほんとにないんだよ! プロの意見でも『これは忍耐が要るかもしれない』って…」
「あのなぁ! おまえさ、向こうはこっちが素人だって思ってんだよ!お前には俺の替わりに動いてもらってて悪いって思ってるよ! だけどな…これはひどいだろーがよ!」
怒鳴った父の目は、なぜか僕ではなく遠くを見ていた。その目が今まで見たこともないほど虚ろだったので、僕はゾッとした。確かに父は酔っていた。どれだけ飲んだかはよくわからない。ただその目の虚ろさは酒のせいではないと思った。僕は怒りのやり場を失った。だがこの矛先を失った怒りが収まる様子は全くなかった。
「もう…いい…わかった」
「おい…」
父の制止を無視して、僕はその足で実家を飛び出した。玄関に置いてあった段ボールの中の、ダース買いしてある焼酎を怒りにまかせて一瓶抜き出した。カバンに無理矢理押し込んでると母が追いかけてきた。
「ちょっと待って!」
振り返る気はない。
「アパートに帰るの?」
「そこしか…行くとこないよ」
「ちゃんとご飯食べてるの?」
僕は母の顔を見た。目の下に黒いクマ。寝てないんだな。僕と同じだ。
「なんとかして…生きてるから…それで許してよ」
ごめん…母さん、とてもじゃないけどいまは優しい言葉なんか、出てこないから。母を振り切って歩き出した。悔しくて悔しくて泣けてくる。
アパートに戻ると、着替えもせずに焼酎をそのままラッパ飲みした。喉を焼くような液体が内臓を犯していく。3、4口飲んで案の定むせた。瓶を掴んだままゲホゲホ咳き込んで床に座り込む。明日からどうしよう。新しい興信所の調査員なんか会いたくもない。こんな気持ちでどうしろっていうんだ僕に…勝手に…勝手に替えやがって! くそっ!くそっ!くそっ!! 床を拳で殴る。痛くて腹が立つ。
アパートの前の自販機で缶コーラを3本買った。のろのろとスウェットに着替え、コップにものすごい濃さの焼酎のコーラ割りを作って飲む。そのコーラ割りで眠剤と鬱の薬を流し込んだ。やっちゃいけないらしいけど…もういいや。どうせ効かない。最初にラッパ飲みした分がもう効いてきた。少しフラフラしてる。なんか…感覚が鈍い。思考が緩くなってる。兄がいなくなって初めて、思考の堂々巡りが緩慢になったみたいだった。酒…すげぇな。みんながこれを有史以前から愛好してやまないのをいま理解した。なんか笑えてくる。
「クックック…」
独りで笑ってる…
「あっは…」
床に倒れて笑った。なんで笑ってるんだろ。こんなに簡単に頭が飛んで? あれ、目が回ってる。
「あははは…あは…あはは…」
不意に悲しくなった。声を上げて泣いた。
「兄貴…あ…にき…どこ…いるんだよ…どこに…どこ…に…」
独りでにつぶやいていた。だれもいない部屋で。朦朧とした頭で手にしたコップの中身を一気に飲み干す。そうやって、やっちゃいけないことをやるようになる。ジャンキーにまっしぐらに。