※この作品はR-18です。

失われた物語   作:架空線

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3.ペイン・コントロール

 新しい興信所のことは父が対応するようになった。仕事の合間や帰宅後に連絡を取っているらしい。僕に黙って替えたのが後ろめたかったのか、意地か。それとも僕に信用がないのか、今度はほとんどこっちには話はなく、でも前の興信所が調査した資料はそのまま引き継ぎで使っている。それが僕には唯一の救いだ。気分的にすこしマシ。それでも父親の横暴さがまだ頭に来る。喧嘩してる場合じゃないことはお互い分かってるはずなのに、顔を合わせたくない。母が心配して時々電話してくる。

「お父さんだって神様じゃないんだから…間違いもあるわよ」

「僕だって…神様じゃない。我慢できないことはある…よ」

 まだ許せない。一緒に頑張ってくれた調査員の彼のことも無能呼ばわりした。そのことも僕の怒りの原因だった。

 今夜も兄のアパートで飲みつぶれる。父親に似たのか、結局飲んだくれてる。ただ父親ほど僕はアルコールに強いわけじゃなく、それが反って薬物としての酒の効力を発揮してくれることとなった。親父のせいで建設的な安住の場は消えてなくなった。そのかわりの退廃的な麻痺。皮肉なことに父の酒の量は減った。僕が替わりに飲んでるからかな。酒量保存の法則ってあるのかな? 少し痩せてきたような気がする。食べてないからかな。

 秋が深まっていく。心の空虚が疼いて苦しい。空っぽだ。なにもかも、兄がいなければ。

 

 バイト先のライブハウスは都心にある中堅どころで、席数はスタンディングで300。広くもないが狭くもない。でもここからメジャーに行くバンドもそれなりに多く、ライブハウスとしたらそれなりの位置付けにある、そんなハコだった。音響学校で知り合った3コ年上のクラスメートが、学校に入る前から勤めてる店で、一人やめちゃったから来ない? 週3以上で特に金・土が出来たら、と言われて面白そうだから二つ返事で応募して、その人の押しで入れた。そんな経緯。

 バイトは初めてだったので、とりあえずウェイターでもなんでもするつもりで入ったが、皿洗いもメインではあるがステージの設営なんかも手伝わせてもらえたし、いきなりのアクシデントでライブ中に切れたギターの弦を取り替えるはめになったり、それはほんとにたまたまなんだけど、あわてた。そういう生のステージ裏と、プロのPAの仕事も間近で見られ、学校とここの両輪はスタッフもクセはあるがいい人が多くて、いい緊張感で充実していた。

 どちらかと言うと店の色はハードロックやパンク系とかメタル系が主だったので、僕はステージを見てるだけでもギターとか楽曲の参考になるし、さすがに聴くに耐えないような出演者は(この店では)あまりなく、好き嫌いすら勉強の対象だった。でも兄の消えたあの日からこの職場は勉強の場ではなくなり、日々の焦躁と空虚を忙しさで埋める場所、となった。

 店長と店を紹介してくれた同級生にだけ状況を伝えた。それ以後は僕の方から厨房とウェイターだけの仕事にしてもらった。思考や機転を使うような仕事はもう無理だった。学ぼうというような前向きな気持ちの余裕は、1ミリもなくなった。

 酒を飲むようになり、僕は店の残り物やオーダーミスの酒をこっそりもらって飲むようになった。さほど酒は強くはないのに、家で無茶な飲み方をしていたら、店の薄いジンライムくらいでは酔わなくなり、それでも思考が鈍くなるのがよくて、気持ちのつらい日にはつい手が出るようになった。自分がこんなになるってそんな事にも気づかない。ちょっとずつ汚れていくから自分でも気がつけないんだ。だって感覚を麻痺させるためのそれ。そのためなら…僕はもう手段を選べないくらいに。

 

 アルコールをコップにつぐ瞬間は何かを壊したい衝動に似てる。喉をそれが滑り落ちていくときは、涙が身体の中に帰っていく気さえする。自暴自棄が増幅していく。夏の暑さが嘘のように、季節が一日で変わったようなそんな時間の感覚。いまが秋だって事を忘れる。僕には夏なんて無かった…今年は時間すらなかったんじゃないかな。冬がちかづいてくる。兄のいない冬はあまりの寒さに凍えるんじゃないかな。凍えて死ねればいいのに。もうじき半年になる。

 

 いない

 いない

 いない…

 

 泣きながら酔いつぶれて、いつの間にか眠っている。ベッドで寝ることが少なくなって、朝は床の上で目が覚める。熱いシャワー、スポーツドリンク、もう行かなくちゃ。昨日は吐いたから胃が痛い。アルコールが抜けきってない。だからいい。

 それでも朝起きられた頃はまだよかった。初冬に差し掛かると、明け方床の上で寒さで目が覚める。風邪を引きそうなので寝ぼけながらベッドに転がり込み、そのまま布団をかぶって寝た。起きたら昼だった。目覚ましかけたのに。枕元の目覚ましを物凄い勢いでつかんだ。確認する…掛けてある……ということは、目覚ましが聞こえなかったんだ。兄貴の目覚ましは音が優しすぎる。この目覚ましを眠そげに探ってる兄貴の長い指を不意に思い出した。

 ダメだな…ああ…ダメだな。ベッドの上で立て膝をして考えた。酒…やめなきゃ。こんなんじゃ……やめたら…どうなる…? また寝られない夜が来るの? ゾッとした。頭の中を戦慄と苦痛に支配されて、一晩中ベッドの中で悶え苦しむ。それだけは絶対にもういやだ。実家に帰って自分の目覚ましを取ってこなきゃ。

 違う…違う! そんなんじゃない! なんで僕は地を這いずりまわって兄を世界の果てまで探しに行かない…? なぜ? なぜここで目覚まし時計の心配をしてるんだ? 彼と、あの担当の調査員と一緒にこの街を兄の大学から職場を、兄の写真を持ってかけずりまわって、親戚はもちろん兄の職場、兄の父親の姉にも協力を求めて、初めて会いに行って…そんな3ヶ月が、なんで…途切れて……僕は止まっている。脳裏にフラッシュバックする、激痛の中で希望を探して掴みたいと渇望していた日々、それを、なんで?

 そうだ。あれは全否定だったんだ。僕にとってそれは、父親からの全否定。僕が傷だらけになって歩いた道を無駄骨だと一蹴した。わかっている。父親の焦躁も苦しみも。でも父はわかってくれているのか? 僕の苦しみを…

 そこで僕の思考は止まった。なぜなら、僕の苦しみを父に理解されてはならないからだ。理解されてはならない。知られてはならない。その中で僕はずっと戦ってきた。僕にはいつも限界があった。自分の能力…心の限界。今回の限界の壁は絶望的だ。ではあの時は絶望的ではなかったのか? 帰宅した兄が血まみれでベッドで震えていたあの日、二人して悪魔に鎖でつながれて、絶望の闇をさまよっていた日々も。

 僕はハッとした。そうだ、毎回同じようにギリギリの限界で、同じように絶望的だったはずだ。こんなとき、僕はどんな風に事態を収束したのだろうか? 奇跡みたいな事態の変化突発的な予想外の展開、それらすべてを僕は…

 

 祈っていた。

 

 僕はその時思わず息を飲んだ。

(祈って…な…い…)

 なぜだ…? 僕はいったい今まで何をしてたんだろう? 雷に打たれたように唐突に全ての記憶が回帰する。そのことにショックをうけた。あのことを僕は記憶から消し去ろうとしていた。ほんとに…無意識に。自分が怖くなった。まだたったの3年じゃないか? 兄貴…! ごめん。僕は大事なことを、大事なことを…まだ…間に合うだろうか? まだ?

 

 肌寒い昼下がりの、抜けるように乾いた空と透明な空気の中、見慣れた道を歩いていた。通っていた高校が遠くに見える道。そして、久しぶりにこの厚い扉を開ける。教会の扉を。兄と二人で来たあの冬の日以来のこの場所。

 なぜだろうか? 僕は忘却を願うかのようにこの場所に背を向けていた。その気持ちは僕にも、再びここを訪れた今もはっきりとはわからなかった。無意識…というほかない。それはなんの意識なのか僕自身にもわからないけど。少なくともここしばらく…ヤツとバンドをつくり、あの大会で賞を取り、高校を卒業し、兄が失踪するまでの2年ほどの間、僕と兄は本当に穏やかな日々を送っていた。

 ひんやりとした礼拝堂に入り、扉をそっと閉める。振り向いた僕は対峙する。礼拝堂の正面、十字架のイエスの像を。

 額に突き刺さるイバラの冠、手足を貫く太く長い釘、それらから流れる…血。その姿はどうしても、兄の姿にしか僕には見えない。あの日も、今も。そうなんだ。僕にとって祈ることは、悪夢の中の血を吐くような儀式なんだ。その瞬間、僕の頭の中に思い出したくない光景が、まるでスライドのようにフラッシュバックし始めた。ベッドの中で震えて悶える兄、病院のベッドに座る兄の父親の、兄に似た顔。嫉妬でおかしくなりそうな夕暮れに見た赤い空。ろうそくの揺れる火の中であの人に嬲られうめく兄の顔、輪姦されて狂う僕、血まみれの手首、兄に送りつけられた画像の映るパソコンのモニター…みぞおちをえぐられるような耐えがたい感覚が甦り、僕の足からスッと力が抜けていった。

 消えろ。消えろ! 来るな…! 僕にあれを見せるな…見せないで…お願いだから。

 思い出したくない、決して忘れられないから、だから、もう…許してよ。そう、祈りすらその恐怖の記憶にまみれていた。そのことを僕はいま、吐き気と震えの中で悟った。

 その次に、僕の脳裏に玉久司島の光景が広がった。そしてあの日の顧問の言葉、倍音の意味、いなかった5人目、科学に凌駕された信仰。それを越えて自分の中に見つけた答え…そして奇妙な罪悪感。

(違う神に祈る罪…?)

(裏切り…)

 まさ…か。あの時僕はどの神様もひとつ、そんな風に思っていたはずだ。それなのに?

 猛スピードであの日の記憶が巻き戻される。木立の中の赤い社の前、みんなの横顔。フッと心に何かがよぎった。

(良いのかな…)

 それを瞬時に押し込んだ。心の底に。

 トラウマと、失望と、罪悪感と。これらが僕の忘却を促し、祈りを閉じ込めたのだろうか。

「おぉ…誰かと思えば久しぶりじゃないか! パンク少年!」

 突然のその声に僕は驚いて、飛び上がりそうになった。声のする方に目をこらす。奥のドアから僕に手を振る人がいた。不良神父だった。

「す…すいません。勝手に入りました」

「良いんだよ! 言っただろ?」

「あ…はい…そうです」

 神父はこちらに歩いて来た。

「だから来たんだろ?」

「ええ…はい」

「そういう場所だ。そうじゃなければ意味がないからな」

 3年前とあまり変わりない不良神父の雰囲気に、僕は少し楽になった。

「ずいぶん大人になったなあ。でも、痩せて…顔色が良くないかな。具合でも悪いのかい?」

「…え…あ」

 僕は神父から目を反らした。神父は近づくと僕の隣に立った。

「なんにもなくて此処に来る人はあまりいない」

 神父はいつものように僕の心を見透かしたように話した。

「何かあれば聞くよ。他の人には秘密だから安心して相談すればいい」

 不良神父はそう言うと、にっこり笑った。

「あの…」

 僕は床を見つめたまま尋ねた。

「…懺悔…って…できますか? あの…僕みたいに…信者じゃなくても?」

 なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。だが僕は求めていた。誰にも知られてならないそれを、もう見せてしまいたい。抱えた重さが僕たちを圧し殺して、すべてが取り返しのつかない残酷な血まみれの惨劇と化すその前に、その前にどうしても僕は言わなければならない。誰もが目を背けたくなる異常な僕たちの現実について…言わなければ、先に、進め…な…い。

 罪。僕が一番認めたくない言葉。兄のイバラの冠。なぜなら僕は兄が血を流して悪夢の中で崩壊しかけていたのを知っているからだ。僕は兄を傷つけるものを認めはしない。それがたとえ《法》と呼ばれようとも《世の摂理》と言われても、僕は誰かの言葉を信じない。信じたくなかった。僕は、そうだ、祈りに答えた何かだけを信じていた。それは正確無比で魂を裏切らない。全ての思惑を裏切りながら、正確に愛だけを射抜く矢なんだ。

 だけど僕はもう限界だ。ここに祈りに来た。だけど初めて僕は、自分から彼の助けを請う。いまどれだけ僕が混乱し全ての支えが幻のように見えるか、誰にもわかりはしないだろう。だが、この人だけは…

 この重荷を背負ったまま、祈る気力が今の僕にはなかった。懺悔。僕は何を悔い改めるつもりなんだろうか?

 

 

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