でももう、そんなひどい男無しにもいられないようになってきてる。逢いたいなんて思っていない。抱かれなきゃいられないだけだ。クスリと酒がなければすべてはゴミ溜めの汚物。自分が腐っていってもその中では臭わない。好きなんじゃない。慣れたんだ。そいつと居ることに、優しいフリと軽薄な言葉に。
最初は酒に混ぜていたクスリもいまはカプセルで飲んでる。なんのクスリかは知らない。もっとイイのがあるっていつも言われる。僕はそれは無視する。そいつは僕だけと居る訳じゃない。“仕事だ”とか、“今日はダメ”とか。何をしているのかは知らない。でも人の身体を狂わせてもてあそぶ才能はすごいと思う。あの人とは違う種類の才能。野生の本能ってヤツかも知れない。少しずつクスリに蝕まれていくのが最近わかる。男に会えない日が辛い。クスリが切れても会えないとき僕は具合が悪くなる。アルコールでまぎらわせるけど、違う焦燥がどこかでうごめいて苦しい。それでも正気の方がもっと辛い。
教会から逃げてきたあとの僕は、抜け殻の白痴の人の形をした何かになり果てた。その苦痛から逃れるためなら、僕はあの男と寝る。自分を信じること。それが手の中で崩れた。いまそれをどうやってもつなぎ合わせることができなかった。その苦しさを本当の地獄というのかも知れないと、僕は身をもって確かめさせられていった。
そんなある日、授業が終わると珍しく駄天使が僕のクラスの前で待っていた。
「よぉ~」
浮かない顔つき。僕もおなじだけど。
「あ…なに?」
「ちょっと」
ヤツは「付き合え」みたいな手つきをした。それが思ったより有無を言わさない感じだったので、なにも言わず黙って付いて行った。
たまに一緒に入るチェーンのカフェ。二階がボックスになっていて話しやすかった。ヤツは黙って僕の少し先を歩き、そこに入った。
「たまたまさ、先輩の友達のライブに誘われて行ったんだよな…それがたまたまお前の勤め先でさ」
「なんだ。僕のいない時に?」
ヤツは急に機嫌の悪そうな顔になり吐き捨てるように言った。
「いたよ」
「え…声かけろよ」
「男と一緒だったろ」
あれを見られた…のか? 機嫌の悪そうな顔がなぜか真面目な顔に変わった。
「あいつは、やめろ」
「なんでお前…知ってんの?」
「オレじゃない。先輩だ」
「先輩…?」
「あいつはな、あそこらへんが縄張りのプッシャーだって」
「プッシャー…って」
「ヤクの売人だよ」
…ああ、やっぱそうなんだ。それでか。
「そう…か」
僕があまりにも気のない返事をしたのでヤツは声を荒げた。
「まさかおまえ知ってたのかよ!」
「知るかよ…」
「あのハコに出る奴らがたまにあいつからクスリ買ってるんだよ…オレの先輩の友達が教えてくれなかったら、お前シャブ漬けだぞ? わかってんのかよ」
シャブ…覚醒剤なんだ。
「お前…なんでそいつといるんだ」
ヤツは今までにない口調で僕に詰問した。
「あんなあぶねーヤツに腰なんか抱かれて」
僕はヤツに説明する気力はなかった。
「ごめん…いま説明する気力がない。気を付けるよ」
「付き合ってんのか?」
ヤツは食い下がってきた。
「ごめん…マジでキツイ」
「オレに話せないのか?」
「…違うよ…僕は今、誰にも話す気力なんかない」
「なんだそれ?」
その時ふと気づいた。コイツに僕は現状を話しただろうか? 兄が失踪したことを。覚えて…ない。マジか…? 自分の記憶が飛んでる。自分でも信じられなかった。一体僕は誰にこの状況を話しているんだろう?
「…あの…さ」
「なんだよ」
「記憶が曖昧で…わからないんだけど…お前に話してる?」
ヤツはイライラしていた。
「なに?」
「兄貴が…失踪した…こと」
「え…? いま…なんて?」
「兄貴が…失踪したんだ…半年前」
僕はヤツに、何一つ話していなかったようだった。兄が失踪した、その状況をもう話したくはなかった。だけどヤツをなだめて納得してもらうためには、それを話す以外なかった。
苦痛を苦痛で洗って、なんか意味あるのかな…目の前にいるから意味があると思いたいな…とてもゆっくりと僕は話し始めた。
ヤツは僕のとてもかいつまんだ話を黙って聞いていた。聞くうちにさっきの勢いがヤツの中で冷えていくのを感じた。
「…だからさ、家の中…めちゃくちゃなんだ。僕は実家が耐えらんなくなって今は兄貴のアパートにいる。ごめん…話したつもりでいた…でも誰に話したかわかんなくなっちゃって…説明が苦痛で…」
ヤツはしばらく黙っていたが、僕に目を合わせずに一言「ごめん」と言った。
「いいよ。僕が話さないのが悪い」
コイツに謝られる理由はない。わざわざ心配して忠告してくれようとして。
「ここ…しばらく…お前があんまり連絡くれないから、なんかあったかとは思ってたけど…まさか…そんなことに…」
ヤツは組んでいた足を組み替えてため息をついた。
「でも…な…オレは話くらいは聞いてやれるぞ」
ヤツは下を向いて笑った。
「そんな程度も役に立たないのか。おまえのピンチにオレは」
友達なのに…。僕の胸が疼いた。無視したのと変わらない。でもどう言っていいのかわからない。兄と僕の関係を話すわけにはいかない。僕の気持ちをさらすことは出来ない。ヤツには僕がゲイだと告白した、それで精一杯だ。
「ウチって…さ…家庭が複雑だからすんなり事情を説明…しにくいんだ。親から口止めされてることもあるし、だから…頼れなくて…ごめん」
最後は少し嘘をついた。親からじゃない、兄からだ。ヤツはすまなさそうな顔で僕から視線を外した。
「お前がいま、すごく辛いのは解った。お前が誰と付き合おうと好きにしたらいい。だけどよ、あの男は…クスリだけはやめてくれ。やめてくれ…っていうかお前…やってないよ…な?」
ヤツの問いに僕がウソをつけばそれで済んだ。やってないよ、心配するな…と。でもなぜか僕はそれが出来なかった。僕はヤツの問いに黙りこんでいた。
「…なに…黙ってんだよ」
ヤツの声から余裕が消えた。
「やってないんだろ?」
問い詰められた僕はなんの言葉も出せなかった。急に今までのすべての心の重荷が頭の中でフラッシュバックした。罪悪感…怒り…悲しみ…秘密…絶望…そしてあの神父の顔。それがなぜか父親の顔と重なった。なぜ…僕たちに普通の暮らしを神様はくれなかったんだ。こんな大事な友達にすら、打ち明けられない十字架を背負ってこれからも耐えて生きるのか? あの男…クスリ…わかってる。お前が正しいんだ。僕は腐り始めてる。それでもこの地獄の中で、生きているだけでいいって、僕を許してはくれないのか? そう思ったとき、あまりの辛さにいつの間にか僕の目から涙が溢れていた。
「…やってるのか…お前」
ヤツは愕然としたように呟いた。
「答えろ」
ヤツの声は少し震えていた。
「…答えたら…僕を許してくれるのか…?」
僕は絞り出すように答えた。
「クスリなんて…あってもなくてももう…地獄なんだよ…」
胸が張り裂けそうな悲しみが襲ってきた。いまお前に正しいことを言われても、僕は救われることがないんだ。
「じゃあ…さ」
僕は引きつるように息を吸った。
「やめたら…死なせてくれるの? 僕の替わりに兄貴を探してくれるの? 兄貴の居場所になってくれるの? うちの親を一生慰めてくれるの?」
「…お…おまえ」
それを聞いたヤツの声がうわずっていた。
「生きてるだけで…もう…精一杯なんだよ…でも…死ぬわけに…いかないんだよ…」
僕はテーブルの上で両手の拳を震えるほど握りしめていた。沈黙の中でヤツが口を開いた。
「ごめん…オレわかってなかった…おまえの苦しさもなにもかも…おまえが…どんだけ重いモノ背負ってるか…こんな苦しんで…壊れかけてんじゃねぇかよ! オレが全然知らないうちに…壊れかけてんじゃねぇか…オレは何やってたんだって…」
僕はハッとした。僕は何を口走った? コイツは僕を心配して説得して、それを僕は自分のことばかりで…
「ごめん。聞かなかったことにして、頼む…ごめん…僕が弱いから…弱いから…いつも限界がすぐ来ちゃうんだ…兄貴みたいに忍耐力がないから。だからこんな…おまえに心配させてごめん」
「違うんだよ…楽になって欲しいんだよ…もうぼろぼろじゃねぇか」
もうダメだ。これ以上楽になる余地がない。僕は最後の気力を振り絞って、少しだけ正直に言った。
「ごめん…あんな男でも…今の僕には救いなんだ。クスリ…シャブじゃないよ。弱いやつみたいだから…パニックの薬と同じぐらいだって。もっといいのがあるって言ってるのが多分それ。まだ僕は手を出してない。金も払ってないんだ…くれるんだ。好かれちゃったんだよね。彼氏じゃないけど…慰めてくれる。それにもうとっくに僕、アル中なんだ…ずっと前から…ごめん…」
僕は黙ったヤツをおいてそのままカフェをあとにした。そういえばヤツが先生を亡くした時、あんな風に僕もテーブルに取り残されたな。大事な人を喪う苦しさをヤツはわかってるから、あんな風に…ごめんな。僕のこと思ってくれてるのに、僕には応えるすべがないんだ。カフェの自動ドアを抜けて駅に向かった。これからバイトだ。そのあと…あいつと。
その時後ろから声がした。
「待てよ…待てって…」
ヤツが僕のあとを追ってこちらに走ってくるのが見えた。僕は立ち止まった。
(あのとき自分はこんな風にヤツを追いかけなかった…)
人気のない夕方、路地を蹴るスニーカーの音が響いた。ヤツは息を切らして僕の前に立った。そして僕の目を見ながら決心したように言った。
「オレが抱く。オレがお前を抱くから…だから…もう…あの男のところに、行くな!」
それはヤツの真剣な、捨て身の取り引きだった。乾いていた涙が再び溢れてきた。
「…ごめん…ごめん…お前に…こんな無理言わせて」
僕は両手でヤツの肩をつかんだ。一瞬ヤツの身体に緊張が走った。ゲイでもバイでもない、ただのノーマルのヤツが僕を救うために僕を抱いてくれると言った。見てわかる。抱けるわけないのに。無理して…こんな…
「でも…僕のこと抱けないよ…お前は普通だから…」
「そんなことないぞ! オレには不可能なんて概念はないんだ。愛が全てなんだぞ! わかってんだろ?」
ヤツは意地になって僕の腕を掴んだ。僕はその手をゆっくり外した。
「ごめん。友達でいてくれよ…お前とはそんな風になりたくない。頼む。友情のありがたさと恋人のありがたさって…全然違う。僕もお前抱けないと思うし…でも」
僕は泣きながら笑った。
「ありがとう…愛はもらった。ありがたくて胸がいっぱいだ」
ヤツはがっくり肩を落とし下を向いた。
「ダメ…か」
「ああ。ダメだよ」
「じゃあ…どうすればいい?」
「壊れるの…黙って見ていてよ」
ヤツは叫んだ。
「そんなことできっかよ!」
僕はどうすることも出来ずに泣きながら道にしゃがみ込んだ。
「わからない…自分でもわからないんだ…」
「わかるよそれ…わかるけど…よ…」
ヤツはそんな僕を途方に暮れて見下ろしていた。
でも結局僕は、その夜も男に抱かれた。身体の中に巣喰ってる焦燥が僕を勝手に連れて行った。仕事ってクスリ売ってたんだ。なんでそんなことしてんだろ。こいつも普通には暮らせないんだな。僕のことも好きとか言って、結局カモなんだ。最初は弱いのでガードを下げて、離れなくなってきたところでスピードかなんかで完全に抜けられないようにされて…
「ああっ! ああっ! だめっ!」
「もっと狂ってよぉ…もっとさ」
「してよ…してって…ねぇ…じらさないで!」
「それがいいんだろ? エロい顔してるなおまえ…たまんないよ…もっと声出して」
もともと狂った身体だから、自分でも驚くほどこの男に踊らされていく。あの人の責めが静だとしたらこの男は動。知的なんじゃない。動物みたいな本能で僕の快楽を探し当てる。だから“ニオイ”なんだ。犬みたいな嗅覚で。クスリの入り込む余地までも、きっと心の隙もニオイでわかるんだ。僕をあの雑踏で見つけたように。でもその金も、自分の薬代に消えちゃうんだろうな。
「今日は特別にいいこと…いいの…してやるよ。お前…今日はほんとかわいいよ…もっと気持ちよくしてやるよ」
そういうとそいつは僕の足を広げた。モウロウとした意識の中で何かが粘膜の中に押し込まれるのを感じた。
「な…に…?」
「融けるよ…これやると…」
「ああっ…ん…あ…」
すぐに男のモノでそこをふさがれた。少し経つと僕は初めて、この男への嫌悪感がなくなってることに気づいた。もっと抱きしめられたい。夢中で男にすがりついた。
「ほら…いいだろ?」
「いい…もっと抱いて…抱きしめて…」
自分から初めてそいつにキスした。それだけで頭の中が白くなった。
僕の内臓の中に挿入された《エクスタシー》と呼ばれるそれは、小さな錠剤だった。MDMA。メチレンジオキシメタンフェタミン。薬理効果で脳の科学伝達物質を操り、僕の中の愛情や共感さえねつ造する“それ”。だけどそれが、今の僕にとって『孤独』という枯渇を潤す幻想を与えることになった。
(融けるよ…)
その意味がすぐにわかった。まるで二人の身体が融合したような一体感。それは兄としか味わったことのない、存在の共有という感覚に似ていた。
僕は初めて明け方去っていく男を追いかけ、追いすがった。行かないで…と言った。あまりの淋しさに気が狂いそうになった。男は薄笑いで僕を抱きしめてすぐに突き放した。またな、欲しくなったら連絡しなよ。僕は暗い部屋に独り取り残され、泣いた。なぜこんなになったのか、その時はわからなかった。
友達の忠告は正解だった。タイミングもなにもかもが正解だった。その日から僕の墜落は完全に加速していった。だけど僕は友達のくれたそのシグナルに従うことができなかった。