淋しい。淋しい…
吐き捨てたいはずの男が恋しい。今まで封印していた兄のいない心の虚ろな穴に、風が吹き抜けるような耐えきれない淋しさ。男と会えない日には、兄のアパートの部屋で独り身体の震えを両手で押さえながら、酒をミネラルウォーターみたいに喉に流し込む。そのビンを持つ手が震える。食欲が本当になくなりかけていく。すべてがなし崩し。砂の山…みたいに。足を取られたらどんなに踏ん張って進もうとしても、足元からなすすべなく崩れていく。それをどうすることも出来ない。ただ砂流に押し流されて埋もれていくだけ。もがけばもがくほど、砂に絡めとられて引き摺り下ろされていく。もうどうすればいいのかわからない。苦しさになぶられてなすがまま。蟻地獄みたいに最後にはあの男に喰われて…もう…喰われてる。喰われてるんだ。じらさないで…早く全部食べ尽くしてよ。跡形も残らないように。苦しい…苦しいんだ…
動悸が激しくて横になっていることすら苦しい。ひとりでに胸を押さえている。
誰か抱いて。独りにしないで。張り詰めて自爆しそうな孤独。
(お前のせいだ)
神父が現れて僕を責める。
(お前が祈り)
違う…
(神が応えた)
ちが…う! 本当に、ちがう…のか…?
「いやだ…もういやだ…やめて!」
僕は神父を黙らせようとした。
(君が救われるんだ)
「違うっ! 黙れ…」
(罪人は裁かれ業火で焼かれる)
「罪人じゃない! 兄貴は天使なんだ…あの悪魔を救いに来たんだ! 父親の顔をした悪魔を!」
(君をいけにえにして? 悪魔の祭壇に君という子羊をほふって?)
「やめろーっ!!」
僕は神父に酒ビンを投げつけた。神父はフッと消えた。酒ビンが壁に当たって割れた。
「どこだ? 出てこい!」
僕はよろけながら立ち上がり、消えた神父を追った。
「隠れても無駄だぞ!」
僕は壁にぶつかりながら消えた神父を探して廊下に出た。
「ここか?」
真っ暗なバスルームのスイッチを拳で殴って点け、ものすごい勢いでドアを開け浴槽を覗きこんだ。
浴槽の中は真っ黒な闇だった。底のない黒い虚空がぱっくりと口を開けて僕を招いていた。僕は驚いて後ずさった。その時、闇の中から低い声がした。
(こっちに来い)
神父の声なのか、それとも? 声は静かに僕を誘った。
(ここから入れば帰れるぞ)
僕は帰れるのか? どこに? そこに僕の帰る場所があるの? 帰る場所。それは僕にとって、最も甘美な誘惑の言葉だった。帰りた…い。ここは…いやだ。居場所もない愛してくれる人もいない。
(ではこちらへ来るんだ)
そっちの方が、闇の中のほうが、僕を受け…とめて…
僕は浴槽の闇の中に片足を入れた。足が暗黒に吸い込まれていく。消えてしまえばいい。このままこちら側から消えてしまえば…僕は残った足をゆっくり闇に入れた。
「うわあっ!」
僕は浴槽の中で足を滑らせていた。あわてて浴槽の縁を掴む。ジャバッと派手な水音がして残り湯が飛沫を上げた。いつの間にか僕は服のまま風呂水に浸かっていた。浴槽の中の闇は消えていた。ずぶ濡れのまま僕は茫然と辺りを見回した。ぬるま湯に落ちたショックで、少しだけ正気になっていた。神父の姿…あのリアルな闇…あれはマボロシ? どういうことなんだ? 今までに味わったことのない異常な感覚に、僕はこれが現実か夢かの区別がわからなくなる怖さを感じた。
幻覚。それがあの“もっといい”クスリのせいだとはまだ気がついていなかった。そしてこの淋しさすらあのクスリの引き起こしたもので、あれが“ラブドラッグ”と言われ、人恋しさや「好き」という感情さえ脳内で合成する薬物で、女を落とすのに使われたりするものだと言うことを僕は知らずにあの男に抱かれていた。あの男がそれを僕に教えるわけはないけれど。そして僕にはそんな知識はなかった。
じらされて待たされて、あの浴室でずぶ濡れになった日の2日後にそいつは連絡してきた。僕は犬みたいにそれに飛びつき、そんな自分をもう情けないとは思わなくなっていた。ただ身体を合わせて抱かれたくて、電話口で必死で約束を交わした。次の日、男に逢えたとき僕は泣いた。
「おいおい、泣いてんのかよ? お前」
僕は男にしがみついて嗚咽を漏らした。男は、すぐにうっすら笑いを浮かべ、僕を壁に押し付け部屋の中で立ったまま弄んだ。僕は泣きながら男に犯されて、立ったまま何度も絶頂を迎えた。腰や膝が砕けて力が抜けて倒れそうになるのを、男のモノで壁にはりつけにされて無理やり腰を支えられ、寝かせてくれない。内股を自分の精液が伝っていく。
「また…もっと気持ち良くしてやろうか…?」
男はそのまま首筋に舌を這わせて囁く。あれを。あの頭の中が白くなるみたいな、ひとつに溶け合うたまらない感覚を、あれをまたしてくれるの?
「…して…お願い…あれを…して」
男はクックッと笑って僕にキスした。
「ああ…たまらないよなぁ…あれ。俺も大好きだ…」
男は僕の耳に口をつけて、舌で責めながら囁いた。
「んあ…あ…な…んで…あんな風に…なっちゃう…の…?」
僕はなぶられてる半身に広がる痺れに意識を取られながら男に尋ねた。
「良いだろう? 溶け合うだろ? お前が俺のこと大好きだからあんなにエロく腰振ってイキまくるんだぞ。可愛いお前にいいこと教えてやる。お前が俺のペットになれば、もう一度あれをしてやれる…どうする?」
僕はペットという言葉に喘いだ。首輪と鎖。拘束具の感触が身体に染み付いている。
「…ペットに…ペットになればいいの?」
男は僕を後ろ抱きにしたままようやく床に押し倒した。
「そうだよ…俺に飼われるんだよ。可愛いから飼ってやりたいんだよ…いつでも抱けるようにさぁ」
「いつでも…いつも抱いて…抱いてくれるの? 一緒に居られるの?」
「ああ。飼われて俺の言う通りに抱かれてくれたら、それで良い。どうだ? え? お前どうしたいんだ?」
打ち上げられた魚が水を求めるように、男に背後から乗られたまま僕はその言葉に同意しながら何度もうなづいた。
「良い子だ。お前は良い犬だなぁ…ほら…犬なら犬みたいに四つん這いになれよ」
僕は痺れる身体を震えながら起こし、膝をついて犬みたいに前足で疼く身体を支えた。男は僕の後ろの孔を指で広げた。一瞬なにか挿入された違和感を感じたそこに、すぐにもっと太い男の固い肉が僕の内臓を突き上げてきた。
「うぐっ…くううっ!」
男は僕を後ろから犬みたいに犯した。また軽く射精していた。
「今からお前は俺の犬だ。かわいいなぁ、お前…こんなに腰振って…ケツの穴もチンポもドロドロにしてメスみたいに悶えやがってよぉ」
しばらくすると、あのときと同じえもいわれない気持ち良さと切なさが僕の身体と心に広がっていった。僕はもうろうとしながら口走った。
「あ…いい…好き…好き…ね…抱きしめてよ…ねぇ、僕のこと抱きしめて…」
「好きかぁ? ほらほら、そんならしてやるよ…もう…溶けてるだろ…お前…俺も…俺もダメだわ…たまんねぇよお前の中」
それから狂ったように抱きしめ合った。時間すら忘れて二人で求めあった。舌を絡ませて唇を貪って、お互いの身体を絡ませて腕で掻き抱いた。
「今日は途中で帰らないで…一緒に眠って…一緒に…隣に居て」
それを聞いて男は僕の中で弾けた。しばらく僕の身体の上で荒く息をついて、そして急に僕から離れて仰向けに転がり、舌打ちをして言った。
「お前の身体…たまんねぇなぁ。淫売の身体だな…くそ…ハマっちまう」
そして僕の髪をつかみ、自分の方を向かせられた。焦点の合わない目で僕をジロジロ眺める。
「誰から仕込まれたんだよ。こんな歳でこんな身体してよぉ! お前さ…売ってたんだろ? 正直に吐けよ…売ってたんだろ?」
「して…ないよ…」
僕は唐突な男の疑心暗鬼に戸惑いながら答えた。
「じゃあなんなんだよ。誰から仕込まれたらこうなるんだよ」
さっきまでの共鳴があっけなく冷めていく。
「なんで? なんで…そんなこと聞くの?」
男は変な顔になっていた。目の奥にとてつもない恐怖が宿っているようなおかしな目付き。焦点が合ってないだけじゃない。怖い…どうかしてる。
「お前…俺をハメに来たのか? 誰に頼まれたんだよ…俺が破滅するのを見たいのかよ?」
「どうしたの? 変だ…よ? 疑われるようなこと…なにもしてないよ。いきなりこんな…今までこんなこと言わなかったじゃない」
僕はわけがわからなくて泣きそうになりながら、必死に男をなだめた。だが男の妄想はだんだんひどく非現実的になり、破綻してきてさえいた。
「お前…お前…あいつの…あいつの復讐に…俺を落としに来たのか…? 俺のせいじゃねぇ…あいつが自分で死んだんだよ!」
「どうしたの? 意味わかんないよ! 変だよ? 目が怖いよ…大丈夫?」
「俺のせいじゃねえ! 俺はたっぷりしてやっただろ!? あ…あああいつのためだったんだよぉ…俺は悪くねぇんだよ!」
どんどん後ろに後ずさっていく男を追いながら僕はハッとした。もしかして、これがクスリの禁断症状?
「クスリ…切れたの?」
僕は男の服をつかんで揺さぶった。男はハッとしてあわててそばに落ちている上着のポケットをあさった。そばに置いてあったミネラルウォーターのボトルを取り、なにかを飲み下した。そして膝を抱えて座り込みガタガタ震え出した。
「お前は俺のもんだよなぁ? おい、お前はなんで俺に抱かれてるんだよ。クスリが欲しいのかよ? それが欲しいだけなのかよぉ?」
僕は男の背中をさすりながらいたたまれないような気持ちで答えた。
「抱いて欲しいんだ。あんたに抱いて欲しいんだ…淋しくて死にそうなんだ…他に何も要らないんだよ。わかってるんでしょ?」
男の意識がだんだんモウロウとしてきたみたいだった。
「もう…立たねぇぞ…」
そしてそのままグタっと横になった。僕も男の隣に横たわり、身体を絡ませて毛布をかぶった。
「これでいいよ…寝よう」
「ああ…寝…よう…」
僕たちはそこで朝まで眠った。朝目が覚めるとやっぱり男はいなかった。僕は泣きながら部屋を出て、そのまま兄のアパートに戻った。明るい日曜日だった。
支えも、希望も、信念すら失って、兄という生きる意味が消えて、いや、消えたのか消えていないのかさえ不確かで。その亀裂にクスリ。空虚をオーガズムで埋めて。
本当に失いたいのは意識。この人生。確かなものが何もない、この世界。だが、死ぬことも奪われてる。兄のために僕は生きなくてはならない。兄の帰る場所は僕…だか…ら。初めのころは疑いのなかったそのことが、長引けば長引けくほど次第に壊れてくる。僕以外に…誰か…兄と…兄は本当は…僕なんか…そうしたら、生きていくことすら意味がないんだ。でも意味がないかあるかそれすら不確かで、それはまるで自己不信と疑心暗鬼の深い暗い樹海のようだ。磁針は乱れ、行く先も帰る道もない。絶望も希望も道連れにはならない。あの男の妄想のように。
なのに僕は、弱すぎる…クスリがキレた。もうだめ。戻れない。朝からアルコールを飲む。飲みながら泣いて、意識がなくなる。明るく晴れた日曜日に。そして僕は、男のペットになることの意味を知る。
アルコールで酔いつぶれた僕の耳元で携帯が鳴った。モウロウとした頭がうっすらとそれを認識した時には、既に切れていた。僕は手探りで携帯を握り、着信履歴を開けた。男からの電話…すぐに折り返す。呼び出し音が耳に響く。男はすぐに出た。
「ごめん。電話…くれたんだ」
「いたのか。これからお前来れる?」
期待してなかった呼び出しの電話。思いがけない男の誘いに勝手に身体がはやる。男の気持ちが変わらないように精一杯のなついた声で答える。
「うん! すぐ、すぐ行けるよ」
「来いよ…してやるから。早く来いよ。いいベッドだぜぇ…グチャグチャに可愛がってやるよぉ」
珍しくホテルに呼び出された。1時間後、僕はその部屋にいた。いつになく綺麗な部屋だった。そこで待っていた男にすぐに何か飲まされた。ジュースに混ぜられたなにか。
「欲しかったんだろ?」
「うん…」
その間にも後ろから身体中触られて。誘われてからすぐに疼いていた身体の歯止めなんか利かない。
「あっあっ…」
口の端からジュースが流れて。
「もうダメなのかよぉ。かわいいなぁ、お前って。敏感過ぎんのがたまんねぇよ」
そのままいきなりベッドに押し倒される。男が手からジュースの空ビンを取り上げてベッドの下に置く。その間もキス。唇を割って舌が奥に入ってくる。いつもより激しい男の愛撫に全身がすぐに熱くなる。
「なん…で…すごい…今日…」
「え? ああ…昨日やり足りなかったからなぁ。逢いたかったんだぜ。気持ちいいか?」
「あ…あ…いい…すごくいい」
「またあとで…あれをやる。あれを…溶けるヤツをしてやる。今日も狂わせてやるよ」
それを聞いただけでイキそうになる。
「んふぅ…あう」
「だから…もっと狂えよぉ…」
「めちゃくちゃに…して…よ」
僕はもう耐えきれず、男の腰に自分の硬さをこすりつけて男を求めてはしたない声で喘いでいた。
「さかりのついた犬みたいだな」
「だって…ペットに…してくれるんでしょ? 犬みたいに、僕をつないで…いつも抱いてくれるんでしょ?」
それを聞くと男は薄ら笑いを浮かべ、僕の腰を両手で鷲掴みにして自分の腰にぐりぐりと押し付けた。
「んんっ!」
「良いのか?」
「いい…いい…もっとぉ…もっと…」
「犬はさ、飼い主の言うこと聞けよ」
「うん…聞くか…ら…挿れ…て」
男はまたニヤッと笑った。
「まぁだ。まだだって。待て、も出来ない犬はペット失格だぞぉ」
「いや…! いや! もう焦らさないでっ! してっ!」
これ以上待たされたら気が狂いそうだ。
「ダメだよぉ。だってお前は本当に俺の言うことちゃんと聞けるのかぁ?」
「聞くよ…なんでもするから…お願いだから…してよぉ!」
「逆らうと…もう逢わねぇぞ?」
「いやだ…逢ってよ…離れないでよ。するから…ちゃんと言うこと聞くからぁ…」
「よぉし。いい子だ」
男は待ってたようにそこで僕の脚を開いた。自分から腰を浮かせて待てないくらい疼いて火照る粘膜に、またあれが押し込まれた。
「はうっ!」
だが男は僕の悶えるのを満足そうにニヤついて眺めたままで、いつものようにすぐに後ろの孔を塞いでは来なかった。また焦らされるのかと焦燥感が膨らみかけると、少し経ってまたあのたまらない感覚が来た。
「あはあ…あ…あ…」
僕が変わるのを確かめたように、男は笑いながら眼を細め、そしてガチガチに張り詰めた僕の性器を指でなぞった。
「んはぁ」
「エロい声だな。これからもっと気持ちよくなるからなぁ。だから少し待ってろよ」
そう言って内股にキスするとスッと身体を起こした。またたく間に自分の服の乱れを直し、男はなぜか悶えたままの僕を置いて部屋を出て行った。
そのあと、焦らされきって狂ったようになった僕を知らない男が犯していた。僕はあいつに売られた。驚いて抵抗しかけた僕にあいつは囁いた。拒否したら別れる、クスリもくれないと。僕は抵抗をやめた。そして客である知らない男に身体を預けた。それを確かめてそいつは部屋を出て行った。知らない男の身体の下で僕はよがり、何度もイッた。僕はあいつのいいなりの持ち物になった。それが“ペット”。でももう逆らえない。客が帰った後、恨み言を言うと、頬を平手で打たれ、脅された。
「どうせ売ってたんだろ? そんな身体のくせによ…俺じゃなくても狂うんじゃねぇかよ! なにが俺に抱かれたいだよ! つべこべ言うなら捨てるぞ。わかってんのかよ。なあ? お前がなんでもするって言ったんだよなぁ!?」
捨て…ないで。僕が…間違って…た。捨てないで…死んじゃう…よ…
「お前には高いクスリを山ほど使ってやったんだ。好きだからだよ…今、金がないんだよ…助けてくれよ。俺はよ、お前しか頼めるヤツいねぇんだって」
そして男は人が変わったように優しく僕を抱きしめた。客と交渉しただろう同じその口で僕にキスした。ごめん…辛かったろ? と慰められ、僕のドロドロの身体をシャワーで丁寧に洗ってくれた。シャワーの中でいじくられて僕はまた勃起していた。その身体を可愛いと言われて僕はその嘘にまみれた愛撫に悶えた。わかっていても泣きながらこの男をまた求めてしまう。自分から男を拒むことはもう出来なかった。
悪魔に魂を売った罰、だ。そうだよね…神父さん…あなたの言う通り。もう…どうにもならない。
それから僕はあいつのいいなりで客を取らされるようになった。魂を人質にされて、身体は鎖でつながれて、獄から抜けられなくなった。クスリに操られて、見知らぬ男に嬲られてもよがり狂う犬だ。兄貴がさせられたこと、僕も…してる。一晩中乱暴に犯されて、血まみれになって、廃墟みたいに心が風化して死んでも終わりがない。無間地獄。兄貴、あれが地獄の始まりだったね。でも僕はここで、もう終わってしまうかも知れない。もう…終わっても…いいのか…な…。どうせそのうち身体がダメになる。死神に刈られるのも時間の問題かな。せめてアレの最中に、あっちの世界に連れていって。
僕はバイトを辞めた。身体を壊したと言った。店長は一瞬なにか言いかけ、残念だね…と言ってくれた。電話を切ったあと僕は頭を抱えて布団の中で震えた。知ってるんだ、店長は。あの男と僕のこと。